その10
「へびさん!」
「はい」
彼はまだ私の手を握っていた。
「ああ、びっくりした。いなくなっちゃったかと思った」
「大丈夫。ここにいますよ」
「一緒にいようっていったの、私だったんだね」
「はい」
「それなのに引っ越しちゃって……ずっと待ってくれてたんだ」
「はい」
「ごめんね」
「菊子さんが謝ることではありませんよ」
「へびさんって本当に蛇なんだ」
「はい。 へびですよ」
何もかもが非現実的なのに、ありえない事ばかり起こってるのに……それなのに、街に住んでいた時よりもずっと現実味を帯びて感じられるのはなんでだろう。
顔に当たる風が冷たくなってきた。でもへびさんの手は暖かい。
「今日は菊子さんとここに来られてよかったです。あなたとこの景色を見たいと思っていたんです」
彼は乗ってきた車を振り返った。
「あの車、ハンドルが左側ですが運転できますよね?」
「一緒に帰らないの?」
「ここでお別れしましょう」
「次はいつ会える?」
「もう会えません」
「どうして?」
「私たちが会えるのは今日だけだからです」
「どういうこと?」
「この里では私は色々な制約に縛られています。私がこの姿であなたと会うのを許されるのは、あの山に夕日が沈むまでなんです。それまでに夫婦としての契約が結ばれなければ、その機会は失われてしまいます」
「誰がそんなことを決めたの?」
「岩たちですよ。私といれば菊子さんにも見えるはずです」
岩たちって『キバ岩』のこと? 見えるって何が? 私は里を囲む『キバ岩』の列を見ようと後ろを振り返り、そして声を上げた。
「何なの、これ!?」
里は目まぐるしく変化する無数の光の格子で覆われていたのだ。私は思わずへびさんの腕を掴んだ。
「遠い昔の人達の遺物なんです。でもまだ動いてるんですよ。凄いですね」
へびさんに言われて、私は漠然と理解した。
あの岩たちは巨大な装置の部品なんだ。まるで電子機器の基盤のように、岩と岩の間を強い力が駆け巡っている。大地から導かれた力は光を放ち、様々なパターンを描いて岩の間を行き来している。
周囲に並んだ岩だけではなく、里のいたるところにも岩が置かれ、それらを繋ぐように次々と幾何学的な模様が浮かび上がる。私は崎山さんから聞いた結界の話を思い出した。
「里に災厄が入ってこないようにしてるんでしょう?」
「ええ、そういう役目も果たしています」
彼の視線を追うと、岩の向こうをおかしな影がよぎるのが見えた。人の目には見えない異形のものたち。人に不幸をもたらす悪いものたち。光の格子に阻まれて里には入って来れないのだろう。
「でもね、それは本来の目的ではありません」
その声の寂しそうな響きに、私は思わず彼の顔を見上げた。
「岩たちの本当の役割は……私をここから出さないことなんですよ」
「へびさんを? どうしてなの?」
「私に里を守り続けてほしいと願ったのでしょうね」
「だから、だからっておとなしく守ってきたの?」
「はい、私はここが好きですから」
「そんなの酷いよ」
彼は里に向かって両腕を広げた。
「あの岩たちは共鳴しあいながら時計のように時を刻んでいます。里の中には外とは違う時間が流れているんです。約七十年に一度だけ小さな窓が開きます。人の姿で伴侶と巡り合う機会が与えられるんです」
「今日だけって知ってたのに、どうしてデートになんてついて来ちゃったの? のんきにお付き合いしてる時間なんてないでしょ? 村長さんの所で無理やり結婚させればよかったのに」
「菊子さんにはやりたい事があるのでしょう? こんな小さな里に引き留めるわけにはいきません。あなたと結婚するつもりは初めからありませんでした」
彼はあの優しい笑顔で私を見つめた。
「ただ、もう一度だけ会いたかったんです」
私は彼の身体にもたれかかった。彼の体がこわばるのが感じられる。
へびさんが私を見てる。夕日の照り返しで何かもオレンジ色だから真っ赤になってるのには気づかれないと思うけど。彼の腕が私の肩を抱いた。
そのまま長い間黙って水面を眺めていた。池の中央、ゆらゆらと水面が揺れているのは泉が湧き出ているところだ。へびさんが身体をこちらに向けた。私の顔に自分の顔を近づけ、首をかしげるように私の目を覗き込んだ。いつの間にか泣いてたみたい。また涙をなめられてしまう。
へびさんはそのまま私にキスをした。
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「お別れですね」
長い長いキスの後、へびさんが寂しそうに言った。
「お別れじゃないよ」
私は答えた。
「嫁にしてください」
「はい?」
「だって嫁にしてくれるって言ったでしょう? 約束は守ってよ」
「だ、だけど、夫婦の契約を結ぶには……」
「意味はわかってるから。急がないと太陽が沈んじゃうよ」
「は、はい」
へびさんはおずおずと私を毛布の上に座らせた。
「本当にいいんですか? ずっとこの里で暮らすことになるんですよ」
「うん、それも分かってる」
「大切な面接なんでしょう? 私のために仕事を諦めてほしくはないんです」
「ここでも仕事は続けられるから気にしないで」
それでも私を見降ろす彼の瞳から不安の色は消えない。この人はずっとこうやって生きて来たんだろう。自分の事はいつだって後回しで、他人の事ばかり心配して。
「ねえ、私、へびさんと一緒になれなかったら、ずっと一人で生きてかなきゃならないんだよ。こんなに好きにさせておいて、二度と会わないだなんてひど過ぎると思わないの?」
彼が目を見開いた。長いまつげを震わせて私を見つめている。言い方が強すぎたかな? ここまで動揺させるつもりじゃなかったんだけど。
「菊子さんは私が好きなんですか?」
「はあ?」
「だってそんな事、一言もおっしゃらなかったでしょう?」
「もしかして、気づいてなかったの?」
「はい。優しい菊子さんの事ですから、私に同情されているのだとばかり……」
彼の目に涙が浮かんだ。ああ、私って馬鹿だな。もっとはっきりと伝えてあげれば良かったんだ。彼は最初から何一つ期待してなかったんだから。
「同情で蛇と結婚するほど物好きじゃないよ」
私は彼の涙をペロッと舐めた。彼は驚いた顔をしたけれど、やがて笑顔を浮かべた。
「どんな味がしましたか?」
「へびじゃないから分からないけど、嬉しい涙だといいな」
彼は私の身体を毛布の上に横たえ、自分の体を重ねてきた。正解を教えるつもりはないらしい。唇と唇が触れそうになったその時、私はある事を思い出した。
「ああ、しまった!」
思わず叫ぶと彼が慌てて身を起こした。
「菊子さん?」
「私……あの……初めてじゃないの」
「それはなんとなく察してましたが……」
「で、でも、結婚できないんだよ。おばあちゃんが生娘じゃないと神様の嫁にはなれないって……」
照れたようにへびさんは笑った。
「そんなの気にしませんよ。私はただのへびですから」
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池の上を渡ってくる風は冷たい。毛布の下で私を抱きしめたまま、へびさんは西の空に目をやった。
「太陽、沈んだね」
「はい。沈みましたね」
「もうへびさんと別れなくてもいいの?」
「はい。ずっと一緒です」
「日が暮れたら蛇になっちゃうのかと思った」
「え?」
「人の姿で会えるのは今日だけだって言ってたから」
「それは夫婦になれなかった時の話ですよ。もしかして、へびに戻ると思ったのに結婚してくれたんですか?」
「とりあえずへびさんとあそこで別れたくなかったから、細かいことは後で考えようと思ったの。
「菊子さん、案外いい加減なんですね」
彼は幸せそうに笑った。
「ねえ、私がへびさんや里の事を覚えてなかったのは、へびさんが忘れろって言ったから?」
「ええ、そうだと思います」
「どうして?」
「東京になんて行きたくないって何日も泣いてたからです。菊子さんには狭い里の事は忘れて幸せになって欲しかったんですよ」
「私の事、好きだったのに?」
「好きな人が遠くで泣いてる方がずっと辛いでしょう?」
「私が誰も好きになれなかったのは、へびさんと約束したからなのかな?」
「そうみたいですね。菊子さんにはつらい思いをさせてしまいました」
「ううん。約束を守れてよかったよ」
彼は私をぎゅうっと抱きしめた。足と足を絡め、私の頬に自分の頬を押し付ける。動きがなんだか蛇っぽい。
「それにしても面接の事まで知ってたんだね。誰にも話してないと思ったのに」
「はあ、あの……直之さんとの会話を聞いてしまいましたから……」
「聞いてたの?」
「ええと、草むらに隠れて菊子さんを見てたんです」
あの気配はへびさんだったのか。ああ、もしかして……
「よっちゃんとの会話も聞いてたでしょ?」
へびさんの首がきゅっと縮こまった。
「はい、そうなんです。すみません」
だから私が誰も好きになれないって知ってたんだ。
「へびさんってストーカーだったんだね」
「す、すみません。菊子さんが里にいると思うと我慢できなかったんですよ」
セクハラはするしストーカーだし、神様の品位なんてあったもんじゃない。困り切った顔がかわいくて、私は思い切り強く彼を抱きしめた。
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私たちは境内の古民家に戻って来た。道中、私が隣にいるのを確認するように運転中のへびさんが何度もこちらを見るものだから、大きな車が田んぼに落っこちないかと心配になった。
へびさんが車をとめると、私は助手席に座ったまま携帯電話を取り出した。父に連絡を入れないと心配してるだろう。でも、なんて言おうかな。結婚したので今夜から新居で暮らします、なんてどうも言いにくい。着替えも歯ブラシも持ってないし、後で一度家に戻って事情を説明した方がよさそうだ。
「後ろの荷物、下ろしますね」
へびさんが外から私に声をかけた。荷物なんて持ってきたっけ? 後ろの座席を振り返って思い出した。お父さんに渡されたバッグ。危ない時に使えって……。
「へびさん、触っちゃダメ!」
嫌な予感に叫んだ瞬間、彼が慌ててて飛びのいた。数歩、後ろに下がってそのままふらふらと地面に膝をつく。
「どうしたの?」
彼の身体は震えていた。
「車に乗っててください」
慌てて降りようとした私を彼が制止する。私は後部座席のバッグに目をやった。これに触ったから? 何が入ってるの?
へびさんはまた車に乗り込みアクセルを踏み込んだ。車は境内を出て私の家の方向へ向かう。
「何があったの?」
彼はちらりと私を見ただけで、何も言わずに視線を道路に戻した。明らかに具合が悪そうだ。助けてあげたくてもどうしていいのかわからない。私はおそるおそるハンドルを握る彼の腕に触れた。とたんに立ち眩みのような感覚に飲み込まれた。
「触っちゃだめです」
へびさんが私の手を払いのけた。彼らしからぬ激しい口調に不安が膨れ上がる。何か怖ろしいことが起こってる。
彼は私の自宅の少し手前の道路わきに車をとめ、ドアを開けて車の外に転がり出た。私も慌てて飛び出したのに、彼の姿はもうどこにもなかった。
私は彼を探しまわった。田んぼの中に消えたのかと思い、スマホのライトをたよりに暗闇の中、泥にまみれて彼の名前を呼んだ。冷たい水に手足の感覚がなくなった。どこかで倒れてるんじゃないかと心配でたまらないのに、彼の姿は見つからない。
スマホの電池が切れて、私は暗闇の中に取り残された。泥の中に座り込んで大声で泣いた。




