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その1

 ほかの人なんか好きにならない。絶対に好きにならない。だから私を待っててね。



        *****************************************



 また一つ、廃墟のような家が並ぶ小さな集落を通り過ぎた。


 前を走るのは、荷台いっぱいに荷物の積まれた父の小型トラック。私の小さな車にも、父の引っ越し荷物が限界まで積み込まれている。なんでこんなド田舎までくっついてきちゃったんだろう。私は憂鬱な気持ちで、険しい崖と深い沢に挟まれた細い山道に注意を戻した。ホリデー気分でついてきたけど、ここまでの僻地だとは思ってもいなかった。父の引っ越しが終わったら、さっさと東京に引き上げよう。


 父がトラックの窓から手を突き出して合図した。手元の地図を見ると、目的地はもうすぐだ。村境の大きなS字のカーブに差し掛かる。曲がり終わった道路脇には、苔や羊歯に覆われた巨大な岩がそびえたっていた。とぐろを巻いた大きな蛇が鎮座しているように見える。


 カーブを過ぎると急に走りやすくなった。道路は狭いながらも滑らかに舗装され、沢の上にかけられた橋も立派なものだ。V字型の谷を抜けると、突然に目の前に里の風景が広がった。山の緑と空の青さが鮮やか過ぎて目がちかちかする。なんだろう、この感じ? 突然に五感が研ぎ澄まされたような不思議な感覚だ。


 父の車が突き当りのT字路を左に曲がった。地図で見るとこの里は、周囲を山に囲まれた楕円形のお盆の形をしている。この道は里をぐるりと大きく巡り、またこのT字路に戻ってくるようだ。


 最初の民家の前を通り過ぎた。垣根はきれいに揃えられ、庭先を雛を連れたニワトリが散策している。車庫の前のトラックはまだ新しい。進むにつれ家が増えてきたが、古いのも新築に近いのも、手入れが行き届いている。道中で見かけた集落のような寂れた村を想像していたのに、完全に予想を裏切られた。


 道端に咲き乱れる春の花の間に、道祖神のような蛇の彫像をちらほら見かけた。白く塗られているのもあるけど白蛇の神様なのかな?


 私たちが目指すのは里の北側にある小さな家だった。環状道路の山側に田んぼと畑に囲まれてぽつんと建っている。父方の祖父が建てた家だというけど、周りの古民家に比べると質素で味気なく見えた。


「鍵は村長んとこに預けてあるんだ。挨拶ついでに行ってくる」


 到着したとたんに父は私を残していなくなった。荷物を下ろすのは後でいいや。運転でこわばった足を延ばそうと、私は家の周囲を回ってみることにした。



        *****************************************



 この小さな里は私の生まれ故郷だ。小学校へ上がってすぐに母が亡くなり、父は私を連れて東京へ引っ越した。私が成人して家を出てからは父はずっと一人暮らしだ。


 最近、農村に移り住んだ人達のドキュメンタリーを見たらしく、Uターンすると言い出した。珍しい野菜を育てて出荷しながら悠々自適に暮らすという計画らしい。


「もう若くないんだよ。農業が嫌で都会に出て来たんでしょう? そんなに簡単に田舎の生活に戻れるものなの? 憧れだけで行っても、村に馴染めなかったり村八分になったりトラブルも多いんだってよ」


 父はすぐに思い付きで物事を始めてしまうので、私は止めようとしたが、全く聞く耳を持たない。


「俺は故郷に戻るだけだろ。みんないい人だから大丈夫だよ。軌道に乗るまで協力してくれるって言ってくれてるしさ」


 そんな甘い話、信じていいのかなあ? 若い人に戻ってきてほしくて、口先だけの約束してるんかもしれないし。まあ、里には家も土地も売らずに残してあるようだから、失敗したらまた東京で借家暮らしに戻ればいいだけの話なんだけど。


 私もちょうど仕事を辞めたところだった。次の面接まで一か月ほど余裕があったのでついてくる事にしたのだ。父が生活を始めるのを見届けてから、東京に戻るつもりだった。



        *****************************************



 ここには小学一年生の終わりまではいたはずなんだけど、里の景色がこんなにきれいだったなんて忘れていた。家の周囲はなんとなく覚えてるんだけど、子供の記憶ってここまでいい加減なものなのかな? 急に都会の大きな学校に編入させられて、慣れるのに苦労したのは覚えてる。刺激が強すぎてそれまでの事を忘れてしまったのかも。


 小さな庭は借りていた人が手入れをしていてくれたようで、庭木もすっきりと刈りこまれている。庭先には井戸があった。板で蓋がされ、古びたポンプが取り付けられている。私は井戸の周りをぐるりと回ってみた。昔、ここで誰かと遊んだ覚えがある。


「おい、菊子」


 威勢のいい声に振り返ると、日に焼けた人懐こい笑顔が私を迎えた。


「よっちゃん?」


「おう、覚えてたか」


 よっちゃんは村長さんのとこの三男坊だ。歳も同じで家も近いので毎日のように遊んでいた。もう二十年近くたつけど、やんちゃそうな面影は残ってる。


「里にいたんだね。今はなにしてるの?」


「畑仕事をやらされてるよ。まだ親父の家で厄介になってるからな」


 茶髪に派手な赤いトレーナー。この様子だとまだ結婚はしてないようだ。


「菊子ちゃん、よく戻ってきたなあ」


 後ろから父よりも年配のがっちりとした体型の男性が現れた。この人は村長さんだ。よっちゃんとは親子にしては歳は離れて見える。


 その後に満面の笑顔を浮かべて現れたのは、よっちゃんのおばあちゃん。ずいぶん縮んじゃったみたい。孫が男ばかりのせいもあってか、私をかわいがってくれた。父の両親は早くに亡くなったので、昔はずいぶんとここの家族にお世話になったらしい。年賀状のやり取りはしていたし、父もよく電話を入れていたので疎遠になっていたわけではないのだけど、父が田舎には戻りたがらなかったので、里を出てからは一度も会ってはいなかった。


 おばあちゃんが笑顔を崩さずに私の周りを回る。なんだか品定めされてる気がしないでもない。よっちゃんの嫁にでもって思ってるのかな。お父さん、私が長居しないって、ちゃんと言ってくれたんだろうか?


「菊子ちゃんは街でなにしてたんだい?」


 村長さんが尋ねた。


「絵を描いてたんだ」


 私の代わりに父が答えた。


「絵描きさんなのかい?」


「いえ、イラストレーターです。雑誌とか本の挿絵を描くの」


 私は慌てて口をはさんだ。父は情報を正確に伝えるのが苦手なのだ。おかしな誤解をされてはたまらない。


「なんだか格好いいな」


よっちゃんはいたく感心したようだ。


「あんまり儲からないけどね」


 今まではほんとに儲からなかったけど、今回ある人のコネで、ちょこちょこ出入りしていた出版社で雇ってもらえることになった。一応、面接は受けるんだけど、ほぼ百パーセント、入社は決まってる。


「菊子ちゃん、やはり嫁にはいかんかったか」


 おばあちゃんが唐突に言った。


「ばあちゃん、失礼だろ?」


 よっちゃんが慌てておばあちゃんをたしなめる。やはりってどういう意味なんだろ?


「いやいや、しっかりした娘に育ったと思うてな」


 おばあちゃんは悪びれる様子もなくそう言い残すと、かくしゃくとした足取りで家の方に戻っていった。


 荷物を運びこむのはよっちゃんが手伝ってくれた。箪笥やテーブルなどの家具はまだ家に残ってたので父一人で暮らすには問題はなさそうだ。


「さっきはばあちゃんがごめんな。あんなボケ老人みたいな事、いつもは言わないんだけどなあ」


 よっちゃんが気まずそうに頭を掻く。


「気にしてないよ。ここの人は結婚するのが早いの?」


「そんなことないよ。俺だって独身だしさ。一応付き合ってる奴はいるけどな」


「へえ、誰なの? 私の知ってる人?」


「まあ、いいじゃねえか。また今度紹介するよ」


 彼は柄になく照れて、着ているトレーナーと同じくらい赤くなった。かなり惚れ込んでいるらしい。誰かをそこまで好きになるのってどんな感じなんだろう。私は少し羨ましく思った。



        *****************************************



 この日は村長さんの家で夕食に呼ばれたので、数百メートル離れた大きな藁ぶきの民家に父と向かった。中に入ると人がたくさん集まっていた。


「集会でもあるの?」


 間違ったところに来てしまった気がして、お膳を運ぶよっちゃんを慌てて捕まえた。


「菊子たちが戻ってくるっていうから集まってるんだよ」


「わざわざ?」


 村長さんにつれられて挨拶して回ったけど、集まっているのは皆、里の重鎮的な人達らしい。里の様子は思い出せなかったのに、昔見た顔はかなり覚えているようでほっとした。それにしてもお父さんってここまでの需要人物だったの? お膳を並べての食事なんて旅館以外では初めてだ。お父さんが主役らしいし、疲れてるのに緊張するなあ。


「菊子ちゃんはこれからどうするんだい? 仕事なら紹介するよ」


 工務店をやってるという初老のおじさんが声をかけた。


「いえ、私はもうちょっとしたら東京に戻ります」


「ええっ! 帰るのかい?」


「はい、引っ越しの手伝いに来てるだけですから」


 おじさんの顔からは血の気が引いていた。そんなにびっくりしなくてもいいのに。気づけばにぎやかだった部屋が静まり返っている。皆が私に注目していた。


 私、おかしな事、言ったかな?


「そうか、でももうしばらくは里にいるんだろう?」


 父の反対側に座っていた村長さんが確認するように尋ねた。


「二週間ぐらいはのんびりしていこうと思ってますけど」


「そうかそうか、ほら、もっとお食べ」


 どこからともなく現れたおばあちゃんが、大盛りの煮つけの椀を私の前に置いた。


「ねえ、私、何かまずい事言った?」


 気になったので、食事が終わってからよっちゃんに聞いてみた。


「いや、菊子も一緒に越してくると思ってたから驚いたんだろ? ほら、里じゃ若い人は貴重だからさ」


 そうなのかなあ。そんな驚き方じゃなかったけどな。


「俺だってお前が戻って来るんだと思ってたんだぜ」


「ごめん。お父さんが伝えてくれてると思ってたの」


 あの父に任せた私も悪かったんだけどね。


「残念だな」


 よっちゃんが心底残念そうな顔をしたので、私は申し訳なく思った。



        *****************************************



 父の家は少々痛んではいたけれど、借りていた人がこまめに修理してくれていたようで、住むには問題ないようだ。せっかくだからと昔使ってた二階の部屋で寝泊まりすることにした。


 寝る前にメールを確認しようと思ったのに、インターネット回線どころか電話の契約もこれからだし、携帯はアンテナが一本立つか立たないかで全然繋がらない。便利なネット環境に慣れた身にはストレスだ。メールは諦めて私は布団にもぐりこんだ。


 さわさわと風が渡っていく。田舎の夜は怖いんじゃないかと思ってたけど、木々の揺れる音を聞いていると不思議に安心できた。


 布団に入って目を閉じたその時、窓の辺りからカタカタと音が聞こえてきた。見上げるとカーテンに一瞬生き物のような影が映った。野生動物かな? イタチやネズミなら二階の窓まで登って来れそうだけど。


 それからは静かになったので、疲れていたせいもあって私はすぐに眠りについた。



        *****************************************



 里の中にはこわいものなんてひとつもないよ。私が守ってあげるから。


 誰かがそう約束してくれた。それはいつのことだったろうか?

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