黄色いドレスの少女
今から60年前の私小説に近い作品です。
内容は大方事実に基づいたものですが、架空を交えて、作りました。
現代の若者たちには想像がつかないかも知れませんが、こんな時代もありました。
《黄色いドレスの少女》
戦後十数年…
昭和の20年代の終わりとともに…
戦後は終わった…
そんな世間の風潮の中…
ここは…いまもなお…戦後の真っ只中…
それも…戦後の日本屈指の闇の地区でもあった。
ここ数年…地域の向こう側…いわゆる表側は急激に発展を遂げ始めた…。
そのせいもあり…ここ裏の闇側も…表からのすきま風が吹いて…活気を増していた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
夜が白々と明け始めたころ…
トオルはこっそりと家を出た。
腕にはまだ2ヶ月の柴犬ケンが…眠そうにしていた。
昨夜はケンといっしょに店の本束の上で寝た。
店で寝ていれば…必ず…新聞や牛乳配達の音で目覚めることができる…
トオルにはそれだけ朝早く起きなければならないわけがあったのだ。
今日こそは…
トオルはまだひと気の少ない街を…駅に向かって歩いた。
小学校入学早々…病気で1年間休み…二年の2学期から通いはじめたものの…
トオルには面白いことひとつなかった。
今はまだ病室の仲間と語り合っていたころが…トオルには懐かしくてしかたなかった。
駅に近づくにつれ人通りが増していき…早朝だというのに構内はすでに人波ができていた。
腕の中のケンがさっきまでの落ち着きをなくしていた。
トオルは駅の構内を抜けずに…外のガード下の連絡通路を使うことにした。
ガード下の…捨て去られたゴミのように…うずくまって眠るルンペンたちの群れを尻目に…駅の…〈表側〉に出た。
トオルは知らず知らず…息を切らすほどに気持ちを逸らせていた。
駅のロータリー…自動車乗り場が見えてきて…やっと…歩をゆるめる。
間に合った…
心の中でつぶやく…
その直後…トオルの脇を…一台のミゼットが通り過ぎた…
荷台に子供が何人か乗っていた。
あっ…来た…!
トオルは思わず叫んだ…
ケン…来たよ…!
トオルは…腕のケンをぎゅっと抱き締めると…急ぎ足でミゼットのあとを追った。
ミゼットは駅の近くまで来ると…小さなスペースを見つけて…停まった。
荷台から子供たちが飛び降りてくる…
5人だ…
そして…運転席からは…布カバンを下げた中年の男が…
そして…最後に助手席から…落ち着いた仕草で少女がひとり降りてきた。
少女は…荷台に乗っていた女の子二人とは違い…綺麗な黄色いドレスを着ていた。
トオルの目当てはそのドレスの女の子だった。
何年生なんだろう…
トオルは朝日を浴びて輝く黄色いドレスに…まぶしげに見とれた。
子供たちは手慣れた様子で荷台から箱のようなものを取るとそれを抱えながら行進をするように整列をして…駅の方へ歩き出した。
中年の男とドレスの少女が続く…
駅前の歩道のある場所までくると…先頭の年長の子が止まり…そのあとに続いて…四人が並んで止まった。
男…女…男…女…男
礼…!
中年の男の号令で…5人が頭を下げた。
始め…!
続く号令で…子供たちは…手にしていた箱のようなものを地面に置いて…自分も地面に座り込んだ。
それぞれ…腰に下げていた手拭いを手にする。
すると…待っていたかのように…背広姿の大人たちが…子供たちの箱の上に…革靴の足を乗せていく…
子供たちは慣れた仕草で手際よく靴にクリームを塗ると…手拭いで手早く磨き始めた。
あっという間に…二、三人の行列ができた。
すると…やや遅れて…少し離れた歩道にも…別の靴磨きの子供が並びだし…そこにも…待ちかねた客たちが次々と足を乗せていく…
トオルがこの光景を見たのは1週間前…
新しくできた大学病院へ検査をしにいくために…祖母と朝…バス乗り場へ行くときだった。
通りすぎざま…少女の宝石のような瞳と目が合った…
それからというもの…トオルの頭からは少女の瞳が消えることがなかった。
それから2度…少女に会おうと決心したものの…2度ともその決心が実ることはなかった。
しばらくして…少し離れたところで…中年男と立っていた少女が動きだして…お客から料金を集めはじめた。
少女の持つ大きめの缶に…お客が硬貨を投げ入れていくと…カランカラン…という音が鳴った。
料金は5分ほどで…50円…
当時発行されたばかりの50円硬貨も…ときどき…混ざる…
百円札が入ると…少女は缶の中からお釣りを返した。
トオルは少女の落ち着いたそのそぶりから…片時も視線を外すことなく…見とれながら近づいていった。
すると…ひとりのお客の投げた硬貨が…少女の持つ缶の底で跳ねて…チャリン…と地面に落ち…うまい具合にコロコロと転がってトオルの足下で倒れて止まった。
それは当時のまだ穴の開いていないピカピカの50円硬貨だった…
反射的にトオルは50円玉を拾い上げた。
顔を上げると…目の前に少女の顔があった。
少女は無言でトオルに向かって缶を差し出した。
トオルは思わず目を伏せてしまい…それから…うつむいたまま…少女の差し出す缶に拾った50円玉を落とした。
カラン…と小気味の良い音がした…
それから…そっと…顔を見上げると…そこには少女の笑顔があった…
今のトオルには眩しすぎるほどの輝いた微笑みを浮かべながら…
少女はいきなり…トオルが腕に抱いたケンに手を伸ばそうとした…
ケンがトオルの腕の中でブルッと緊張した。
ケン…!…おとなしくしてろ…
トオルはそうつぶやきながらケンの背中を優しく撫でた。
少女の手が怖々とケンの頭に触れると…反射的にケンがペロペロと少女の手を舐めた。
ちょっとびっくりして…手を引っ込めたものの…すぐに…少女はケンの背中に手を伸ばして撫ではじめた。
ケンが応えるように少女の手を舐めようとする…
あうう…あうう…
満面の笑みで…少女は喉から絞り出すような声で笑った。
サヨ…!
中年男の声がした。
少女ははっとしたような表情で…我に返ると…少し名残惜しそうにケンを撫でてから…自分の持ち場に戻っていった。
その場に取り残されたトオルは…急に…恥ずかしさと不安感に襲われて…わき目もふらずに通り過ぎようとした。
そのさなか…
や~い…
とひとりの少年がトオルに言った。
おしがうつるぞ…
少年はゲラゲラ笑った。
トオルは…ただ…無我夢中で…一目散に歩いた。
気がつくと…いつの間にか…駅の裏側に来ていて…
いつもの見慣れた…表側とは月とすっぽんのみすぼらしい風景があった。
しかし…トオルは…なぜか…ほっとするその眺めに…やっと肩の力が抜けるのを感じた。
と…同時に…ケンを抱いた胸のあたりが…生暖かく濡れだした…
あわわわ…
トオルは慌ててケンを離そうとしたが…逆に勢いよくケンのオシッコが顔にかかった。
うわわわ…
やったな…ケン…
トオルはちょっびり酸っぱいケンのオシッコを舌の先で味わってから…笑いながら…ケンに頬擦りをした。
次の日の朝も…好奇心には逆らえず…トオルは少女に会いにいった。
とは言っても…少し離れた目立たないところから…眺めているだけだった。
少女は…やはり…誰とも話をすることはなかった。
1週間ほど通ったある日…少女たちは来なかった。
次の日も…そして次の日も…
トオルは…勇気を振り絞り…別の靴磨き少年に…少女たちのことを尋ねてみた。
ああ…あのおし女たち…お巡りが来て…全員連れて行かれたわ…
お巡りさん…?
ああ…ようわからんけど…もうここでは靴磨きできんようだわ…
その帰り道…トオルは自然に涙が溢れてきて…そのあと…無性に悲しい気分に襲われ…悔しくもあった…
ちくしょう…!
トオルは…道ばたにうずくまるルンペンを足で蹴った。
やりきれない気持ちで…トオルはさらに何人かのルンペンを蹴りながら…最後は…大声で泣きながら…走って…帰った。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆
河原にケンを埋め終えると…トオルは簡単に手を合わせた。
ケンを埋める穴を掘っている間じゅう…10年前のあの出来事が…まざまざと甦ってきた。
おしがうつるぞ~
あの時の少年の声が…耳にこびりついて…消えなかった。
今の俺だったら…そいつは病院行きだったな…
トオルは…拳を握りしめて…ちょっとニヤリとした。
お兄ちゃん…ケンはもう起きてこないの…
妹のリエがおぼつかない足取りで…トオルにすがりついた。
ケンはもう起きない…疲れたから長いおやすみだよ…
トオルはそう言いながら…リエを抱き上げて…歩きだした。
酸っぺえ…
トオルはあの時のケンのオシッコの味を思いだして…ひとり…微笑んだ。
さようなら…ケン…
終わり
一気に書き上げてしまいました。
誤字以外は直しはありませんでした。
最後まで読んでいただければ幸いです。