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旋灯奇談

旋灯奇談  第五話  空想圏

作者: 東陣正則


  第五話  空想圏

 

 夏休みの最後の日、太市は団地脇の公園にあるジャージーベンチに腰掛け、ビールを飲みながら、高校に入学して以来の忙しい日々を振り返っていた。なおビールは、第四話で登場したジンさんの店、桝清で貰った試供品である。

 高校での学業と、バイトの新聞配達、怪異譚の取材執筆、それに三人娘に命じられた家事雑用という、四本立ての生活が始まって五カ月。なんとか夏を乗り切り、心にも少し余裕ができた。次女の百会には毛嫌いされたままだし、四六時中何かに追い立てられるような忙しない毎日だが、とにかく朝三時起きの朝刊の配達を続けていれば、たまにビールを飲むくらいの生活を維持できる目処はついた。そのうち行方の分からなくなっているオヤジが姿を見せれば、今の生活から抜け出す道も開けるかもしれない。それを期待しつつ、夏明けのシーズンに向けて、気合を入れ直すようにビールをグイッ。

 そう、なぜジャージーベンチで飲んでいるかだが、家で飲んでいた日には、千晶と百会にビールを奪われること必至。クソ暑い夏場、雨さえ降っていなければ、ビールを飲むのは家から歩いて二分、ジンさんの店から三十秒のココと決めていた。

 試供品、すなわち只の缶ビールを四本空け、アルコールが体に回り始める。

 心地良くなって、うつらうつらと首を揺らし始めた太市の耳を、「兎狩沢くんですね」という、少しハスキーで温かみのある声がくすぐる。薄目を開けると、隣に白系のシャツ&スキニーできっちりコーデした女性が座っていた。身長は太市とほぼ同じ、ただし細身だ。軽くねじ込みながら髪を後でまとめているため、顔全体が木漏れ日を受けて陽光に輝いている。いや日差しだけではない、モデル雑誌から抜け出たような均整のとれた顔そのものが眩しい。その聡明そうな面立ちのなかの、人懐っこい目が太市を覗き込んでいた。

「彼女は確か……」と想いを廻らせつつビールの缶を体の後ろに回す太市の目が、彼女の膝に置かれたトートバッグを捕えた。脇のポケットに無造作に差した赤ペン。それにバッグから覗く茶封筒に記された、プレスのロゴ。

「そうか」と心の中で手を打つ太市に、「私、こういうものです」と、彼女が名刺を差し出す。『冥星学園新聞部』という文字が、ほろ酔い気分の眼に飛び込んできた。

 

 明けて九月一日、何事もなく二学期が始まる。

 午後、太市は校舎の屋上で友人の甲斐と待ち合わせた。

 東京での唯一の友人といえる甲斐は、貯水槽の作る日陰に寝転がっていた。

 この甲斐、身長は太市と同じなのに横幅は倍あろうかという太っちょである。お決まりの格好、黒のカットソーに、ちょい太デニム、そしてモコモコとした天然パーマの黒髪をヘアバンドで上に持ち上げた姿で昼寝をしている。いつもと違う点があるとするなら、ブロッコリー頭の上にヘッドフォンを付けていることだ。おそらくは耳栓もしているはず。音楽家の甲斐にとって、ヘッドフォンは音を聞く道具ではない、外の音を遮断する耳休めの道具だ。その防音スタイルで気持ち良さげに惰眠を貪る友人に、太市が忍び足で歩み寄る。と寝ていると思われた甲斐が、腹の上に組んでいた腕を崩し、挨拶でもするように手の平を振った。太市は慢性寝不足の目をひと擦りすると、チェッと舌打ちして、甲斐の横に腰を下した。

「耳栓をしてるんだろう、よく気がついたね」

「震動だよ、階段を上がる震動が背中に伝わってきた」

 音楽家の甲斐は、音感だけでなく五感全体が鋭い。中年太りの熊のような体型からは想像しにくいが、過敏体質といっても良いデリケートな男なだ。

 ヘッドフォンに続いて耳栓を抜いた甲斐に、太市が聞いた。

「メール、読んだ?」

「ああ、それでお前、その依頼とやらを受けたのか」

「仕方ないだろ、アイドルばりの美女がボクの膝に手を置いて、潤んだ目でお願いって言ってんだぜ。相手の顔が二十センチの距離にあるんだもんな」

 昨日、太市の横に座ったのは新聞部の部長、小野寺美香だった。

 太市の通う冥星学園でも様々なクラブ活動が行われている。太市自身は日々の生活に追われる身なので、課外活動にかまける暇はないし、当人にもサラサラその気はない。太市としては、居候の条件として突きつけられたミニコミの仕事が、クラブ活動の代わりだと考えていた。ところが、その太市の生活優先の安定指向に揺さぶりがかかった。

 太市が情報誌の雑文書きをやっていることを、新聞部が察知したのだ。

 若者の活字離れが常態化し、本の売り上げが右肩下がりに減っているご時勢で、他聞に漏れず新聞部も慢性的な部員不足に陥っている。今年の新入部員はたったの一人、末期的な体たらくである。上級生が抜けた後のことを考えると、学園創立以来の伝統ある新聞部としては鳥肌もので、現役並びにOBともに危機感を募らせている。とにかく部員を増やすこと、正規の部員が駄目なら、嘱託もしくは部外協力者という立場でもいいから、新聞の発行に協力してくれるメンバーをリクルートすること、それが九月で部の活動の一線を退く三年生に、最後の仕事として課せられた。

 そして勧誘候補をリストアップするなかで、太市の名が浮上したのである。

 

 学内でも一二を争う容姿の才女、小野寺美香に、こぼれる笑顔と知的な眼差しで言い寄られ、おまけにビール券の束を握らされた。どうせ部の卒業生辺りから調達した只券だろうが、出先はどうでもいい、とにかくビール券。他人の家に間借りして肩身の狭い思いで暮らす太市にとって、唯一の息抜きのビールだ。ほとんど無意識、条件反射のように、太市は部外協力者という立場で週一回の編集会議に顔を出し、かつ隔月で掲載する特集記事に記者として協力することを受諾。誓約の文書にサインしていた。

 甲斐が哀れむような目を太市に向けた。

「おまえ、酒と女で人生を誤りそうだな」

「女はさておき、酒のことをお前に言われたかないや」

 太市の皮肉を受け流し、甲斐が腑に落ちない点でもあるのだろう首を捻った。

「それはそうと、おまえ、ミニコミの記事は匿名で書いてたはずだろう、新聞部のやつ良く嗅ぎ付けたな」

「そこなんだよ」 

 新聞部の部長と交わした誓約書を取り出すと、太市が二枚目の中ほどを指で押さえた。目の潰れそうな細かい文章の中に一行、「連絡員として朋来百会を選任する」と明記してある。サインをした時には気づかなかった一項だ。

 甲斐が先ほどとは逆方向にゴキッと首を捻った。

「百会って、おまえと同じ屋根の下で暮らしている、三人娘の一人じゃねえか」

「そう、同い歳、同じクラスの空手狂い」

「新聞部の活動とは関係ない人物の名が、何でこんなところに出てくるんだ」

 首を傾げながら甲斐が貫禄あるビール腹の上に手を置く。かねがね甲斐は、自分の太鼓腹には脳みその出先機関が詰っていると吹聴している。ふつう人は考え事をする際、頭に手を当てるが、甲斐の場合は、なぜかそれが腹になる。

 甲斐がその太っ腹をポンと叩いた。

「連絡員という言葉がミソ。一見すると仕事の仲立ち役のような言い回しだが、こりゃ、原稿の取立て役だな」

 おそらくはそうだろうと太市も感じていた。

「それで読めたんだ」と、太市が苦々しげに鼻の付け根にシワを寄せた。

 太市が思うに今回の勧誘の裏はこうだ。太市がミニコミの仕事をしていることを新聞部に垂れ込んだのは百会だ。なぜか。太市を新聞部の激務に巻き込こませ、怪異譚の仕事と合わせてヘロヘロにしてやろう、さらには、そこに自分も首を突っ込み、原稿の取立てで、いたぶってやろうという魂胆に違いない。

「しかし前に聞いた話では、百会は、そんな策を弄するタイプじゃなかったが」

「悪知恵なら脳みそが働くのさ」

 考えるだけでも胸が悪くなるとばかりに首筋を指で掻く太市に、「なら契約を破棄すればいいじゃないか」と、甲斐が突き放す。

「そんなことができるか」

 琴線に触れられたように太市が声を高めた。

「ここで解約したら、百会が怖くて逃げ出したように見えるじゃないか」

 変なところで意地を張る太市に、甲斐が鼻白んだ。

 太市から毎度聞かされている話では、百会は男を毛嫌いしている。憎悪していると言ってもよい。男が一つ屋根の下で同じ空気を吸っているだけで、不愉快千万。だから事あるごとに太市を家から追い出そうと突っかかる。それを太市は柳に風と受け流すのだが、そののらりくらりとした態度が、逆に百会の怒りを煽り立て、今や太市を見る時の百会の顔は般若の形相。太市からすれば、美里家は長い漂流生活の末に流れ着いた安息の地だが、百絵はそこに巣食う手に負えない毒蛇だった。居候の身だから衝突は避けたい。だから喧嘩を仕掛けられても相手にしないことにしている。しかし、果たしてそれがいつまで持つか。怪異譚の締め切りと合わせて、それが太市のもっか最大の悩みとなっていた。

 むろん甲斐もそのことは承知している。が、それよりもと腹に手を当てた。

 切れ者でなる小野寺女史のこと、百会が策を巡らせたとして、低級な企みに安易に乗るとは思えない。もしかしたら太市の百会に対する反発も計算づく、百会を利用して太市のやる気を引き出そうという高等戦術ではないか。そもそも女史の美貌と手練手管をもってすれば、新聞部に部員を引っ張ることは難しくない。なのに新入部員が一人の状態を夏明けまで我慢してきたのは、結局人材がいなかったからだ。それがミニコミの太市の文章を読んで、こいつは使えると判断した。だからこそ自身が出向いてまで勧誘に及んだのだ。そう考えるのが自然だろう。

 しかし甲斐は、その見立てを太市に伝えなかった。昔のスポコンマンガのように拳を握り締め、「任された仕事を軽くこなして、百会に一泡噴かせてやる」と意気込む単純細胞の太市を見て、このやる気を削ぐ必要はないと考えたのだ。

 それに甲斐自身、太市が新聞部でどういう記事をまとめるか、興味が湧いていた。

 友人のよしみもあって甲斐は太市の執筆した怪異譚に目を通している。初めて読んだ時は驚いた。メールで送られてくるタメ口調の細切れの文章からは想像もできない、全うな文章なのだ。押し付けられた家事も卒なくこなしているというから、元来が器用なタチなのだろう。その器用さが新聞部の仕事でも通用するかどうか、その結果を見てみたくなったのだ。

「それで、最初の特集は何になるんだ」

 甲斐が話題の矛先を変えた。

 太市がケータイを取り出し「今朝、部長から届いた最初のミッションだけど」と、注釈を入れたうえで、画面を甲斐に向けた。表示された文面にはこうある。

『兎狩沢様、正式にはあさっての編集会議を経てになりますが、百パーセント昨日お話した「高校生の依存症、その傾向と対策」というテーマで決まりです。ついてはお願いした担当部分の基本的な情報をチェック、読者が関心を持ちそうな要素を三つピックアップしておいて下さい。参考になりそうなホームページの情報を送ります』

「さすがに敏腕部長、抜かりがないな」

 画面をスクロールしながら面白そうに腹を撫でる甲斐だったが、羅列された依存症の項目、『スマホ、ゲーム、喫煙、ジャンクフード』に続いて、『アルコール』の後に、担当、兎狩沢とあるのを見て、ナヌッと顎を突き出した。

「おまえさ、アルコールの依存症をやるのか?」

 言って窺うように太市を眺める甲斐に、太市がエヘッと頭を掻いた。

「いやあ、今日、甲斐を呼び出したのは、このことについてなんだけどね」


 話を進める前に、少しだけ甲斐と太市の関係を説明しておきたい。

 太市と甲斐の出会いは冥星学園に入学する前に遡る。

 居候とはいえホームレス予備軍の太市が、金のかかる私学の冥星学園を選んだのには理由がある。冥星学園の入学規定のある一項、「一芸奨学金」と名付けられた制度がソレだ。特別の才能や技能を有すると認定された人物は、入学金と毎月の月謝を卒業後に分割で支払うことが可能になるのだ。学年ごとに六名の枠があり、その選考会が三月の本試験に先立って一月に行われる。金銭面に余裕のない太市は、総額では公立校よりも割高になる学費に不安は残るものの、高校進学の望みを一芸奨学金に託すことにした。

 実は太市は大道芸人の父から教わったジャグリングの技を持っている。人前で演じることはないが、暇な時は息抜きがてら、二時間でも三時間でも、ボールや、ボウリングのピンのようなクラブを回して飽きない。

 冥星学園の掲げる一芸に大道芸的な技が入るかどうか不安を抱きつつも願書を提出、幸いにも太市は一次選考を通過した。明けて面接、太市は居並ぶ学園関係者の前でジャグリングの芸を披露した。ところが面接官ならびに学園重鎮の反応は鈍い。とっさの判断で太市は、これは余技ですがと、最後にジャグリングではない別の技を追加で演じた。それがなんであったかは、また別の機会に述べるとして、その面接会場で知り合ったのが甲斐である。フルネームでいえば甲斐弦一郎。

 面接を終えた太市と入れ替わるように名を呼ばれて、肩幅の広いのっそりとした生徒、甲斐が面談室に入った。その泰然とした物腰は大人びて、大学受験の浪人生のように見える。後に知るが、甲斐は中学を休学しており、年齢は太市よりも二つ上だった。彼が面接のトリで、待機室にはもう誰も残っていない。太市は彼が楽器のケースを抱えていたことを思い起こすと、面接を終えた虚脱感でボーッとする体を休めるように、待機室の椅子に腰を落とした。そして聞き耳をたてた。

 甲斐の一芸は十弦ギターの演奏である。

 面接が始まり弦の響きが待機室にも漏れ伝わってくる。音楽に不案内な太市にも、それが半端な素人芸ではないことが知れた。どう指を動かせば、あのような音が弦の震動から生み出されるのか。思わず雑念を忘れて聞き惚れてしまう。

 甲斐が面接室に入って二十分は過ぎていた。我に返った太市の前に、甲斐がドアを開けて出てきた。面接官の割れるような拍手が甲斐を送る。

 釣られて太市も拍手をしようとしてオヤッと思った。肩太りの甲斐の顔が、苦虫を潰したように強張っているのだ。鳴り止まない先生方の拍手からすれば、演奏が評価されたことは疑いない。自分の場合など拍手の一つもなかったのだから。

 なら、なぜ?

 小首を傾げる太市に、甲斐はつかつかと歩み寄ると、「よかったら、これを付き合わないか」と、ジェスチャーで杯を持つ仕草をした。

 突然の申し出にあっけに取られるも、太市は小学生のようにコクンと頷いた。甲斐の手が小刻みに震えていることに気付いたのだ。行方不明の母のソレとそっくりの震え、アル中の人間が禁断状態に陥った時の震えだ。

 学園を出ると、裏通りの自販機でカップ酒を調達。脇の児童遊園のベンチに座を占めるなり、甲斐はカップの蓋を引き剥がした。互いに無言である。

 一本飲み乾し甲斐の手から震えが消えた。しかし怒りの表情は変わらない。

 遠慮がちに、でも単刀直入に太市が聞く。すると甲斐が憮然とした顔で口を開いた。あのような演奏に拍手を送る審査員たちの耳が許せなかったのだと。

 太市も芸事に足を突っ込んでいるから、なんとなく甲斐の気持ちが理解できた。芸術家には二つのタイプがある。百点の技が披露できなくとも観客の拍手があれば満足できるタイプと、いくら拍手されようが自分の納得行く芸が出来ないと満足できないタイプがだ。甲斐は明らかに後者のタイプだった。

 それでもカップ酒を二本飲み乾す頃には緊張も緩んできた。

 太市は甲斐がなぜ初対面の自分に、酒を飲もうと声を掛けてきたのかが不思議だった。太市の疑問を察した甲斐が、さも当然そうに鼻をひくつかせた。

「鈍いな、君の体にはアルコールの臭いが染み付いている」

 聞くと、甲斐は嗅覚も含め五感が普通の人よりも鋭敏で、中でも音感は突出しており、そのこともあって楽器をやるようになったのだという。

 話すうちに共に無類の酒好きであることが判明。意気投合した二人は、更に酒を調達して話を続けた。そして驚く。境遇が似ているのだ。二人とも母が失踪、その後父に見捨てられたことまで同じ。違いは、甲斐が十分すぎるほどの資産を父親から受け継いでいるのに対して、太市はほぼ一文無しということだ。しかし金がたっぷりあるのに、なぜ甲斐が一芸推薦を受ける必要があるのか。笑える答えが返ってきた。甲斐は勉強がまるで駄目、頭が悪いのではなく興味がないのだ。だから通常の試験を受けての進学は不可能。そこで学科の試験が免除される推薦を目指した。それ故の一芸枠への応募だった。入れてもらえるなら高校はどこでも良かったという。

 一週間後に面接の結果が出た。まぐれにしか思えないが、太市は一芸入学を許された。

 むろん甲斐は文句なくパス。

 クラスは別だが交友が始まる。もちろん飲み友だちとしてだ。

 懐の潤沢な甲斐が酒代を負担する形で、二人は週に一度は会って飲むようになった。そして分かったのは、甲斐は酒好きを通り越して依存症に陥っているということ。太市も置かれた境遇からして甲斐と同じく酒浸りになる素質は十分すぎるほど持っていたが、幸か不幸か懐事情がそれを許さなかった。どちらにせよ今現在、甲斐は酒が切れると禁断症状が出る状態にある。そう、それでなのだ。太市は新聞部の部長から送られてきた特集のテーマを見た時、まず真っ先に甲斐にアプローチしてみようと考えた。


 新しい学期が始まって一週間が過ぎた。暦ではすでに秋に入って久しいが、実際はまだ連日の炎暑である。早く誰かが夏の扉を閉めてくれないかと、切に思う。

 その日、太市は甲斐と連れ立って冥星学園の裏、寺の境内にあるケアハウスに足を運んだ。仏教系の寺院が母体となって発祥した冥星グループは、教育と福祉の二本柱で事業を展開している。その福祉関連の諸施設、特養や障害者の授産施設、内科の診療所などが、冥星学園の西隣、寺の本堂に隣接するかたちで軒を連ねる。ケアハウスはその一番端にあった。この一室で、今日、アルコール依存症の人たちの交流会が行われる予定になっていた。

 ちょうど一年前のこと、甲斐は若年のアルコール依存症の患者として、ケアハウスの診療内科に通っていた。その際に医師から、患者同士の更正グループ、断酒会を紹介された。結局甲斐は参加しなかったそうだが、甲斐の話で断酒会の存在を知ると、太市は高校生の飲酒癖の特集に絡めて、この断酒会を取材してみることにした。

 甲斐を通じて診療所の先生に連絡を入れると、冥星学園の生徒ならいいでしょうと、承諾が得られた。甲斐が患者で、太市は依存症一歩手前の予備軍、二人ともオブザーバーとしての参加である。

 スマホやゲームへの依存が取り立たされる今どきの高校生だが、酒や薬物への依存症も表に出ない形で確実にその裾野を広げている。実際この断酒会にも、未成年者が数名登録しているという。

 それはそうと、二人とも学園の反対側に足を運ぶのは今回が初めて。無粋な鉄筋箱型の諸施設の中で、小ぶりの講堂を思わせる木造のケアハウスは、落ち着いた佇まいを境内の緑の中に横たえていた。廊下の先、突き当たりの指定の部屋へ。

 ドアを開けると、左右の窓から外の緑が目に飛び込んできた。日差しの溢れる明るい部屋だ。花壇があるのだろう東側の窓の外には夏の花が咲き乱れ、西側の窓の外では鬱蒼とした木立ちが晩夏の微風に揺れている。その西側の濃い緑の合間から、時おり鏡の反射のように眩しい光が目を射り抜く。林を抜けた先にある寺院の池が、午後の陽光を反射しているのだ。

 すでに九名ほどのメンバーが集まって雑談に興じていた。みな一見して社会人と判る人たちで、未成年らしき若手の姿はない。なお女性の患者には、女性だけの会が用意されているとのこと。オーク調の木製のテーブルを囲んで着席。全員が断酒会との付き合いも長い人たちで、初めてのメンバーはいないという。なお参加者は、断酒会用のニックネームを書き込んだネームプレートを胸に着けている。本名を明かさない習わしなのだ。

 事前の指示に従い、甲斐と太市はテーブルから一歩下がった位置、窓際に並べられた椅子に腰を下ろした。状況次第で甲斐も話の輪に加わる予定である。

 サポート役の事務服姿の女性が、お茶とお菓子を配って会がスタート。

 メガネの似合うサポート役の女性は、最初に挨拶の言葉を述べただけで、基本的には口を挟まない。会の進行は出席者の中の年配の男性が担っている。年齢も服装も異なる男たちが少し緊張した面持ちでテーブルを囲んだ様子は、往年の名画『怒れる十二人の男』のような雰囲気である。みな淡々と自分の体験や、最近の状況を口にしていく。特に他人の話に口を挟む人もいない。時間は一人十分前後。

 断酒中にも関わらず我慢できずに酒に手を出してしまった人は、率直にそのことを告白、話に耳を傾ける他のメンバーもみな穏やかな顔で頷いている。人は喋ることで胸の内に溜まったもやもやを吐き出すことができる。自分の話に耳を傾け、理解を示してくれる人がいることで心が救われ、次のステップへの気力を取り戻せるのだ。

 重苦しい話になるのではと肩に力の入っていた太市には予想外、拍子抜けするほど平穏な空気がそこには流れていた。いや、同じ境遇、同じ苦しみを共有する人の輪の中でしか生まれない穏やかさを求めて、この人たちは断酒会に足を運んでいるのだろう。

 ただ、しばらくするうちに、あることに気づいた。

 参加者のなかに一人だけ、俯き加減で落ち着きのない人がいる。人の話に反応していない。その剃り残しのひげの目立つ初老の男性は、心ここに在らずといった表情で、ちょっとした物音にも体がビクンと反応する。サポート役の女性も、気になるのかチラチラと様子を窺い、やがてテーブルの下でスマホにメールを打ち込み始めた。

 横にいる甲斐が独り言のようにつぶやいた。

「あの無精ひげのおっさん、何か飲んでるな」

「何かって、何さ?」

 聞き留めた太市が、小声で質す。

 断酒会に参加する際の大原則に、アルコールを抜いた状態で参加することがある。しかし夏というのにウインドブレーカーを着込み、コンドルと書かれたネームプレートを胸に着けた男性、名前はコンドルだが、もちろん日本人の彼は明らかに異常だった。

「アルコールじゃない、何かさ」と、甲斐が囁いた時、そのMrコンドルが奇声を上げた。

「霊が来た、霊がこちらに向かって飛んでくる、あーっ、ぶつかる」

 その瞬間、やや濁ったカツンという音が窓の外で鳴った。ガラスの表面を爪先で弾いたような音だ。テーブルの窓側に着席していた数人が、ギョッとして後ろを振り向く。

 椅子を倒して立ち上がったMrコンドルが、窓を指差しながら「見たろ、霊だ、霊が!」と、唇を震わせながら呻く。硬直したように窓の一点を見据える氏を、両隣に座っていた二人が、「大丈夫ですか」と抱き抱えた。

 テーブルを回ってサポート役の女性が駆け寄るのと、ドアを開けて白衣の男性が顔を見せたのが同時だった。さきほどサポート役の女性がメールを送っていたのは、この医師に宛ててだろう。参加者に問題を起こしそうな人物がいることを伝えたのだ。

 温厚そうな中年の医師が、氏の顔を覗き込むようにして話しかけた。

「酒井さん、今日はもう終わりにしましょう」

 どうやらMrコンドルの本名は酒井というらしい。

 脇から女性も手を添え諭すように酒井氏に耳打ちする。

「霊なんていませんよ、木漏れ日が揺れているだけ、ね」

 酒井氏が嫌々をするように体を振った。

「あんたらは直ぐにそう言う。違う、確かに俺には見えた。あれは人の霊だ」

 抱きかかえようとする医師の腕を振り解くと、酒井氏はヨロヨロと窓に歩み寄り、窓ガラスに両手を張り付けた。

「ほらここ。いま、霊がぶつかった場所だ、跡が残っている」

 顔を赤らめた氏の指先が、ガラスの一点を押さえた。

「また、そういうことを」

 相手にせず氏の袖を引くサポート役の女性とは別に、窓際にいた男性陣が、彼の指先に顔を寄せ、目を見開いた。

「本当だ、何か、ガラスにぶつかった跡があるぞ」

 白っぽい小さな玉を二つ並べたような跡が、ガラスの表面に付いていた。

 酒井氏が体を揺らせながら吼えた。

「言っただろう、だからそれが、霊がぶつかった跡なんだ」

 勝ち誇ったような酒井氏を、「違いますよ」とサポート役の女性が、いらつく口調で遮った。そして早口でまくしたてた。

 その小さな油染みのような跡は、トンボがぶつかった跡なのだと。鬱蒼とした林の中に寺の池はある。その池の上を飛ぶトンボから薄暗い林越しにこちらの部屋を望むと、建物の反対側にある明るい庭が、部屋の南北のガラス窓を透かして見える。トンボはガラスのあることが分からない。だから通り抜けようと池の上から一直線に飛んで、ガラスに顔面から衝突、その痕跡が二つの並んだ丸い形となって残る。つまり、いま皆が見ている白っぽい跡は、トンボの顔面、二つの目玉の跡で、人なら指紋と同じようなものだ。

「霊などでは絶対にありません」

 サポート役の女性は毅然と言い切った。

 理路整然とした彼女の解説に、酒井氏は物言いたげな表情のまま押し黙った。

「さ、酒井さん、そういうことだから、向こうの部屋に行って休みましょう」

 医師の男性が、労わるように酒井氏の肩を抱く。

 項垂れたまま酒井氏が医師に付き添われて部屋から退出、沈黙がその場に残された。

  

 その日の集まりは、参加者が一通り近況を報告したところで、気まずい空気を残してお開きとなった。最後にサポート役の女性が、断酒会に参加するときのルールを念を押すように説明していたが、それは今ここに残っている人たちに告げるべきことではないだろう。今日の会が尻すぼみになったのは、明らかに彼女の酒井氏への居丈高な対応にある。それをサポート役の女性は理解していないようだった。

 当初の予定では、会の終了後、参加者に話を聞かせてもらおうと考えていたが、とてもそんな雰囲気ではなくなってしまった。ただ帰りがけに、先ほどの医師を休憩室に見つけ、あいさつがてらに話を聞かせてもらうことができた。

「失敗だったなあ、彼女に頼んで」と、先生がバツの悪そうな顔で頭をかいた。いつものサポート役の男性が急用で顔を出せず、急遽カウンセラーの資格をもつ看護師さんに代役を頼んだのだそうな。

「ニコニコした顔で皆の横に座っているだけで良かったんだが」

 真面目すぎる若い女性には、向かない仕事だったらしい。

「酒井さんはお酒が入っていたようですね」

 太市が話の矛先をそこに向けると、「いや、まあ、それはね」と、先生はあいまいな返事で答えを濁した。

 アルコール以外の何かドラッグに類するものを服用していたのだろうか。

 それが彼に妄想を見させた……と。

 先生のスマホが着信音を響かせたのを機に、礼を言ってケア・ハウスを後にした。

 何か釈然としない想いが胸にわだかまっていた。こういう時、いつもなら「さあ、一杯やるか」と、こちらの背中を叩く甲斐の足取りまでが重い。

 そういえば甲斐が妙に考え込んでいる。断酒会のあった部屋を出る際にも、立ち止まって窓の方をじっと見ていた。

「どうしたんだよ、さっきから黙って」

「あ、いや、ちょっとな」

 甲斐は腕の時計で日付を確認すると、「週末、俺の本宅に遊びにこないか」と、唐突に誘いをかけてきた。甲斐の本宅とは、豊洲の高層マンションで、太市も前から一度覗いてみたいと思っていた。ワインのストックもたんまりあると聞かされ、太市は一もなくオーケーと首を縦に振った。


 週末の土曜、太市は甲斐の本宅に足を運んだ。

 美術館のアプローチのような表庭から、ホテルと見紛うロビーを抜けて、エレベーターでマンションの最上階、四十二階の甲斐の本宅へ。このマンションは地上百四十メートル。東京タワーの半分近い高さがある。甲斐は普段は学校の近くにある音大生用の防音付きのワンルームマンションで寝起きし、こちらの本宅に戻るのは休みや暇な時だけ。そのどちらも一人住まいという、何とも贅沢な暮らしぶりだ。

 九十平米と言われてもピンとこないが、朋来家での太市の部屋が屋根裏を改造した三畳間であるのとは、ネズミ小屋と王宮ほども違いがある。着いたら勝手に鍵を開けて入ってくれと合鍵を渡されていた。いいのかなと想いつつドアを開けて部屋の中へ。床という床に落ち着いた萌黄色の絨毯が敷き詰められている。自分が寝起きする部屋の剥げたタタミと何たる違い。本当にゴルフの練習をしたくなるような空間で、ゴミ一つ落ちてない。定期的に家政婦が来て掃除をしているのだと後からその理由を知るが、とにかくズック靴の臭いのしみ込んだ穴開きの靴下で歩くと、気が引けて仕方がない。ロビーの横にあったペットの足洗い場、あそこで足を洗ってくるんだったと、後悔すること頻りだ。

 廊下の先、人の気配のする海側の部屋へと歩を進める。絨毯の短くも柔らかい毛先が足の裏に優しい。雲の上を歩くような通路を抜けると、目の前に本当の雲が浮いていた。リビングの海側は全面窓。四十二階の高さからだと、前方の上半分が空だ。

 まるで部屋が宙に浮かんでいるように見える。

 思わず足を止めて外に景色に眺め入る太市の耳に、リビングの隣、対面式のキッチンの向こう側から、囁くような音が聞こえてきた。ギターの音だ。繊細なタッチから爪弾かれる音が、眼前の風景に重なり環境映像のBGMのように部屋を満たしている。

 太市は演奏の邪魔をしないように、そっとリビングのソファーに腰を下ろした。

 しばし弦の響きに身を委ねる。

 練習用の楽曲ではなく即興の演奏らしい。やがて抑えた低い音が、膨らみと起伏をもって耳に飛び込んでくるようになった。無数の雲母が輝きながら空から落ちてくるような煌びやかな音。耳を澄ませても澄ませても、重層的に重なり合った音の先に別の音が見え隠れする。張り巡らされた音のカーテンが波打つようにそよぎ合う。指先が触れただけでも、全てが瓦解してしまいそうな、繊細で複雑で精緻な音の王宮だ。

 その神が舞い降りたような演奏に、全身の肌が粟立つ。

 と、唐突に音が止み、音の王宮が幻のように姿を消した。

「何やってんだ、こっちに来いよ」

 甲斐のぶっきらぼうな声に、肩の力が抜け、詰めていた呼気が肺に流れ込んできた。

 見るとキッチンの向こう側にもリビングが続いている。三十畳はあるリビングの中央に、キッチンを配した構造なのだ。家というよりもまるでパーティー会場だ。その出島のようなキッチンの向こう側へ回る。モデルルームのように一通りの家具調度類は揃っているが、人の息遣いを感じさせるのは、昨夜甲斐が寝たであろうソファーに引っ掛けた毛布と、床に転がるワインの空き瓶だけだ。ワンルームマンションの方がいつもゴミ屋敷なので、余りの違いに唖然とする。

 甲斐は木目調の太い柱にギターを抱えて寄りかかっていた。

「エスプレッソ、入れるわ」

 甲斐がギターを置いて立ち上がった。

 意外そうな表情を浮かべた太市に、甲斐が皮肉めいて言った。

「俺だってたまには酒以外のものを飲む。アルコールがいいんなら、左の小さい方のワインセラーにあるボトルを適当に抜いてくれ。

 キッチンの奥に、ワインの収納器が、冷蔵庫を押しのけるように置いてあった。甲斐のいう小さい方のセラーでも、ガラスの扉の内側に百本近いボトルが並んでいる。ただ太市はワインに関しては全く不案内。なにせ貧乏所帯で、オシャレにワインを傾ける余裕などあるはずもない。

「ビール代わりに呑むなら、ドイツ産のカビネットの白ってとこかな」

 甲斐は気軽に銘柄を口にするが、さすがの太市も気遅れして頭をかいた。実のところワインの栓を抜いたこともないのだ。それに、駅の反対側に出たおかげで歩き回り、乾いた喉が我慢できずに、自販機のビールを一本飲んだばかりだった。

「いいよ、ぼくもたまには、エス……、えーと、なんて言ったっけ」

「エスプレッソ、イタリアじゃこれをバルでクイッとやるんだ」

 そういえば甲斐は、子供時代に一時イタリアに住んでいたと話していた。

 

 眠気覚ましの気付けに使えそうな濃いエスプレッソを二杯飲み干し、ひとしきり先日の施設訪問のことを話題にする。こういう時に音楽の話ができればいいのだが、残念ながら貧乏人は芸術に縁が薄い。基礎知識が無さ過ぎて、会話の糸口が見つからないし、見つかっても続かない。芸術にしろ豪勢な食文化にしろ、王朝のある土地で発達するというが、こういう時は、さすがに金持ちの連中が羨ましくなる。

 無駄話で一息入れると、甲斐が窓の外に目を向けた。先ほどからチラチラと外に目を向けているのに気づいていたので、「何を見ていたの」と尋ねる。

「風向きが変わるのを待ってる」

 低気圧が近づいているのだろうか、天気の崩れを予感させるように低い雲が西から東に蠢き、暑苦しい陰を湾岸のビル群の上に落としている。

「風向きと、ボクを家に呼んだのと、何か関係があるの?」

 何気なく口にした質問だったが、的を得ていたらしい、ご明察とばかりに甲斐は片目を瞑ってみせると、腰を上げ、廊下を挟んだ和室に太市を誘った。こちらは嵌めこみの腰高窓である。壁面まであるガラス張りのリビングのように世界を見下ろす開放感はないが、それでも隙間無く並んだビルの織りなす都会的な美の世界に目を見張る。

 甲斐は窓に耳を押し当てると、太市に合図を送った。

 おまえもやれということらしい。

 真似をして窓のガラスに耳を寄せると、冷やかな感触と共にガラスが頬に吸い付く。

 耳を当てれば外の風の音が聞こえるかと思ったが、下の街路を行き交う車の音がかすかに耳の奥に沁み込んでくるくらいだ。

「この風向きなら、十分に一回くらいの割で聞こえるんだが」

 話す甲斐の頬がピクンと震えた。そして太市に目配せを送った。

「今の音、分かったか」

 太市は首を振った。どんな音か知らないのでは、音が鳴ったとしても聞こえたかどうかが分からない。そう思って「どんな音なのさ」と問う太市に、甲斐がガラスに耳を押し当てたまま、脳ミソの分室の詰まったビール腹を軽く叩いた。

「説明が難しいんだ、木魚を叩く音があるだろ、あのポクのポを、三度ほど低くして余韻に短くビブラートをかけた感じかな」

 説明を受けても、さっぱりイメージが掴めない。甲斐の聴力は度を越して鋭い。その雑踏で針の落ちる音を聞き取るという高性能の耳を、さらに窓に押しつけているのだ。きっと目的の音はかなりの小ささだろう。そんな音が自分に聞き取れるだろうか。

 それでも何かを期待して耳を澄ます。集中するために目も閉じる。

 十分経過、サイドボードの置き時計の音が耳障りだ。

 十五分。この間にも甲斐は二度、「いま窓の左上で鳴った」などと実況放送を続ける。

 しかしこちらは、相変わらずノーキャッチだ。

 二十分ほど粘って、自分の耳では無理と諦めかけた時、ガラスの向こう側で音が鳴った。何かがぶつかったような音で、木魚というよりも、ペットボトルを膨らましたり凹ませた時のペコパコという、軽くて響きのない音だ。しかし甲斐のいうビブラートの部分までは聞き取れなかった。

 一度聞き取ると聴覚が反応するようになるのか、数分後に同じ音。

 続けてもう一度。

 何が窓ガラスに当たったのだろうと思い、素早く外に目を走らせるが、鳥や虫はもとより、視線を下方に逸らせても、落ちていくものは何も見当たらない。しかし空耳で無いことには自信がある。ガラスを挟んで耳のすぐ向こう側で鳴ったのだ。

「やっと、聞こえるようになったな」

 窓を睨みつけている太市に、甲斐が待ちかねたように指摘した。

「その音が、ケアハウスのガラス窓でも鳴ったんだ」

「それって、先日の?」

 甲斐の言葉が何を意味するのか、とっさに頭が働かない。

 しばらく考え、太市は目の前のガラスに目を落とすと、「トンボの姿は見えなかったけど」と言い返す。すかさず甲斐が大きく首を左右に振った。

「違う、あの日、確かにトンボは窓にぶつかったさ、ガツンという酷い音でな。それが窓際にいた連中に聞こえた音だ。しかしそのガツンという音のすぐ後に、もう一つ別の音が鳴ったんだ。それが、いま太市が聞いた音だ」

「え、でも、ということは」

 顔をしかめる太市に、甲斐が窓の外の風景に視線を投げた。

 ウォーターフロントと呼ばれる水とビルの織りなすパノラマの上を、低層に浮かぶ雲の底が扇型に広がりながら左右に抜けて行く。ガラスで仕切られているために外の風を頬に受けることはできない。しかし今、風は真っ直ぐこちらに吹き付けている。

「あの髭のおっさん、酒井さんて言ったな、彼には後の音は聞こえなかった。だからトンボの衝突した音を霊がぶつかった音と勘違いしたんだ」

 嘘だろうと首を振る太市の横で、

「もし、あのおっさんが目撃したものが本当に霊なら、今そこで鳴った音は……」

 問い掛けるように言って、甲斐が中指の節で窓をコツンと叩いた。


 甲斐が高層マンションの部屋を父親から譲られて丸三年。

 時たま帰るに過ぎない本宅だが、ある日、甲斐は気づいた。それは聴覚の優れた甲斐だからこそ聞き取ることのできたことだが、時おり窓の向こう側で、ガラスに物がぶつかったような音が鳴るのだ。ほんの小さな音である。最初は鳥か虫、あるいはマンションの屋上から転げ落ちた砂か小石辺りがガラスに当たっているのだろうと考えた。しかし音が鳴る度に目を凝らせど、該当するようなものは見当たらない。なら建材や配管が気温の変化につれて伸び縮みをして立てる物理的な音だろうか。しかし不思議に音が聞こえるのはマンションの南東側、それも風向きが正面からの時だけだ。そのことからすると、やはり何かが風に乗ってガラスに衝突、音をたてていると見なすしかない。

 しかし甲斐はそれ以上突っ込んでは考えなかった。

 考えるための素材がなかったのだ。

 ただ原因が分からないということは、腰がモゾモゾして落ち着かない。そこで甲斐は機会を見ては都心の高いビルに上がり、窓に耳を寄せた。カレッタ汐留に、シビックセンターに、都庁に、もちろん東京スカイツリーにも。ランドマークとなる高層ビルやタワーは、どこも展望室を設けている。中学を休学中で暇だったこともあり、二十カ所ほどに足を運んだ。その結果、二カ所で似たような音を聞き取ることができた。

 冗談で考えたのは、目に見えない空飛ぶクラゲのようなものが宙を漂い、それが風に乗って窓ガラスに衝突、音を立てているのではないかということだ。しかし妄想もそこまで。不思議な現象ではあったが、現実に支障のある問題ではない、そのうち慣れて気に留めなくなってしまった。それが、あの酒井氏の一言で疑問が蘇り、もしかしたらと思ったのだ。

「霊が飛んでくるという、あの一言」

「そうだ」と、甲斐が顎を引いた。

 本当だろうか、霊が実在し空を飛んでいる、あるいは、漂っているというのは……。

 あの日、甲斐が考え込む顔をしていた理由がこれだった。

 

 一週間後、太市と甲斐は、環八沿いの公営団地に足を運んだ。

 十階建ての平たい衝立のようなビルが、敷地内にドミノ倒しの駒のように立ち並んでいる。一昔前なら、ここも高層団地と呼ばれたことだろう。エレベーターで九階へ。タワーマンションの通路が建物の内側にあるのと比べ、ここは外。吹き付ける風が直接、建物の高さを感じさせてくれる。

 酒井という表札の前で足を止め呼び鈴を押す。奥さんが出てきた。

 玄関に線香の臭いが漂っていた。

 あのエスプレッソの杯を重ねた日、甲斐と太市は酒井氏を訪問することで頷きあった。ケアハウスで酒井氏に見えていたものがどのようなものか、それを彼に確かめてみることにしたのだ。手を回して酒井氏の連絡先を調べ、電話を入れる。そして驚いた。なんと酒井氏は亡くなっていた。断酒会のあった翌日の夜、酒井氏は酔って足元もおぼつかないまま、高架橋から道路に落ちて自動車に跳ねられた。

 まだ初七日を過ぎたばかりだが、これも縁と考え、線香をあげるべく自宅を弔問に訪れる。そして奥の座敷に通され、仏壇に飾られた遺影を見て驚いた。

 なんともりりしい制服姿なのだ。あの無精ひげを生やした生気のない顔からは想像も付かない、引き締まった顔の酒井氏がそこにいた。氏はパイロットだった。乗務していたのは国際線のジャンボ。根っからの飛行機乗りで、とにかく空が好き、非番の時も客として飛行機に乗り、窓の外の景色にカメラを向けていたという。部屋の書棚には航空関係の書籍やDVDがぎっしりと詰め込まれ、壁面には趣味で撮影した写真のパネルが隙間なく飾られている。そのほとんどは、地上一万メートルからの空の風景だ。

 その大小含めて四十点は下らないだろう壁面の写真のなかに、一点だけ色あせた薄茶色のモノクロ写真が混じっている。戦闘機とその横でポーズを取る飛行服姿の青年の写真で、「ラバウル沖の海戦で戦死した夫の祖父です」と、奥さんが教えてくれた。

 酒井氏の父親も同業だったそうで、ということは親子三代続いた飛行気乗りということになる。ただ飛行機だけでなく親子共々酒をたしなみ、その酒が祟って内臓を悪くし、早期の引退、地上勤務を余儀なくされた。そのストレスがさらにアルコールへの依存を高めた。最後は事故で亡くなったが、結果としては酒が夫の命を奪ったのだと、奥さんは諦め半分の面持ちで溜め息をついた。

 線香を立て、奥さんには内緒でこっそり洋酒のミニボトルを遺影の前に添える。

 とくに話すこともなかったので直ぐに辞去しようとする二人に、奥さんがデスクの横に積み上げてあった真新しい本の山を示した。夫が自費出版した空の写真集で、よければ一冊貰ってくれないかという。印刷が遅れ、葬儀の日に縁のある方々に進呈できなかったことを、奥さんはしきりに残念がっていた。

 知人という訳ではないので、二人で一冊をいただくことに。

「お酒に呑まれないようにね」との奥さんの言葉に送られ、酒井家を後にする。

 

 奥さんの忠告には背くが、その足で二人はリーママ、李さんの琴音に足を運んだ。夏前から、二人は時々ママのお店で夕食を取るようになっていた。外食する際、高校生然とした二人の風貌では、アルコールを注文するのは憚られる。そんな話をママにしたところ、なら私の店にいらっしゃいと誘ってくれたのだ。開店前のほかにお客がいない時間なら、うちで食事を出してあげる、もちろんアルコール付きでねと。実はママさんは、甲斐の演奏を聞いて痛く感動、私は甲斐君の後援会の会長、谷町なの。だから食事はサービスよと言ってくれる。ただそれでは余りにおんぶに抱っこなので、お酒は持ち込むことにした。もちろん酒代は甲斐持ちだ。

 酒井氏のお宅からの帰途、デパ地下の酒コーナーで、「天青」なる清酒を入手。実は写真集のタイトルが同じ「天青」、名前に惹かれての購入である。その夏向きの吟醸酒をキリッと冷やで呷りながら、酒井氏の写真集をめくる。

 様々な雲の写真や上空から見た下界の風景が、次々と四角い画面に切り取られて登場する。丸く円を描いた虹の写真があった。虹は上空から見ると円形に見えるのだそうな。科学にうとい太市は、甲斐の解説でそのことを知った。

 カラーページの最後は、青一色の写真だ。

 雲も地上も他の飛行機も何も写ってない。青一色の空なので、カメラのレンズを空のどちらに向けたのかも分からない。レンズで四角く切り取られた青空の一部だけが、そこに印刷されていた。空というよりも色紙を切り抜いて貼ったようなページだ。

 じっと見ていると、空というよりも、これは虚空ではないかとさえ思えてくる。

 写真が終わり、最後が「空想」と題されたあとがき。

 先にその一文に目を通した甲斐が、ンーッと唸ったまま太市に本を手渡す。太市もそれを読んで額に手を当てた。そこに酒井さんの独白が書き記されていた。

 酒井さんのパイロットとしての搭乗時間は、積算で一万四千時間を数える。自腹で客として乗っていた時間も加えれば、人生の意味ある時間の大半を空の上で過ごした人だ。遺影を見ながら奥さんが語った、「空のこと以外は宙に浮いたような人だったの」という言葉が思い起こされる。あとがきの内容を引く。


「私は様々な空を見てきた。

 迷ったが、やはりこのことは書き記しておこう。

 それを目撃したのはシアトルに向かう便でだ。日付変更線を越えた辺り、高度は三万五千フィートの巡航高度。安定した計器飛行の最中に、淡い虹のようなものが縦に渦を巻きながら上空に流れていくのを目撃した。様々な色彩を帯びていることから、最初はオーロラかと思ったが、オーロラはそれまでに何度も見ている。それにこの緯度。この竜巻のような形状がオーロラであるはずがなかった。こちらは時速九百キロメートル。あっという間に虹色の渦は後方に過ぎ去った。ただ、その虹色の渦が左翼の先端を掠める刹那、虹の粒子の一粒一粒が私の網膜に焼き付いた。それは頭と手足を持つ形、人の輪郭をしたものだった。副操縦士の様子を窺う。彼は何も気づいていないように見えた。

 それが初めての遭遇だった。

 二度目に目撃したのはバンコック経由のムンバイ行きの便、インド洋の上空でだ。高度は前回とほぼ同じ、ただしその時見たのは、渦状ではなく、空を漂う虹色の薄い膜のようなものだ。数分の間、機はその虹の膜を背に飛行を続けた。この時は副操縦士に何か見えるかと尋ねた。しかしオーストラリア人の彼は、怪訝な顔をしてノーと答えた。

 誰にでも見えるものではないらしい。

 ほかに言葉が見つからないので、形の定まらない光彩に彩られた現象を、虹と形容しているが、例えればそれは、シャボン玉の薄い皮膜に日の光が当たると現れる、色彩の渦のようなものだ。私の飛行人生のなかで、目撃は都合七回。形状は毎回異なるが、概ね上昇していく渦か薄い皮膜状のものとして、それは認められた。うち二回は細部に人の形をした斑紋が見て取れた。

 酒に溺れたドラッカーの脳に浮かんだ妄想だろうか。しかしこれは誓って言うが、不可解な虹を目撃したのは、すべてシラフの時だ。

 この虹に関して自分はある仮説を立てていた。

 しかし残念なことに、それを検証する前に、自分は飛行気乗りとしての生命を絶たれた。定期健診で重度のアルコール依存症と診断されたのだ。

 地上勤務になり二年が過ぎる。

 自分が目撃したものが何であったか。空を飛んでいた時よりも疑問は強まる。

 昨年のこと、外国の科学番組をネット上で検索、宇宙空間に増え続けるスペースデブリ、宇宙ゴミの問題を特集した番組を自分は見ていた。実際の宇宙ゴミは、字義どおりの宇宙空間というよりも、宇宙の手前、地球の大気圏の上部に漂っているものを指している。番組では、大型の宇宙ゴミを追尾する国際的な機関とそのシステムの紹介に続いて、様々な宇宙ゴミの映像を紹介していた。

 画像はシャトルやISS・国際宇宙ステーションから撮ったものだ。

 ある画像に目が釘付けとなった。シャトルが地球の夜の側から昼の側に出て行こうとする際に、ソレが見えた。ダイヤモンドリングのように太陽が地球の陰から顔を覗かせようとした瞬間、シャトルの眼前を塞ぐように、真っ暗な宇宙の闇のなかに虹が現れた。薄い皮膜の虹が遥か彼方、宇宙の地平に向かって延びている。それは緩やかな曲面を描いて地球を覆うように広がっていた。

 シャトルは、その薄い皮膜の面を突き抜け、地上へと降下していった。

 見た、と思うにはあまりに短い時間だったが、シャトルが虹の皮膜を抜ける瞬間、窓の外に無数の人の顔、いや人だけではない、ありとあらゆる生命の様相が垣間見えた。

 球体である地球を遥か上空で覆う虹の皮膜。それはほんの一瞬、綺羅星ような輝きを見せると太陽の僥倖に融けた。

 目の錯覚だろうか。

 違う、コピーした画像を繰り返し再生して確認、確かに虹の皮膜は広がっていた。被膜があるのは、地上七十六キロメートル、電離層の最下層にあたる。オーロラの輝く高度のやや下といってもいい。その位置で虹の被膜は地球をすっぽりと覆っていた。

 成層圏の遥か上に、今までの認識の外にあった層が存在するのでは……。

 妄想と取られることを承知で自身の考えを述べるなら、あの地球を覆う薄い虹色の皮膜は、地球の生きと生ける生命から生み出された霊が上空に昇り、薄膜の層となって漂っているものではないか。

 人は他人の目に何がどう映っているかを知ることが出来ない。極端に言えば、自分が感じる赤い色と、他人が感じる赤が、同じである保障はどこにもないのだ。

 あれがアルコールに毒された私の脳が見させた幻影に過ぎなかった可能性はある。

 しかし断じていう、私には見えた。

 最後の一枚の青空の写真、あれは上昇する虹の渦をコクピットから撮ったものだ。

 あなたに聞きたい。ここに何か見えますか、と。 

 太市と甲斐は今一度、あの青一色のページに目を凝らした。

 ただのペンキを塗ったような青空。この青い空間に、自分たちには感じ取ることのできない何かがあるのだろうか……」


 少し早い夕食を終え、外の空気を吸いにママさんの店を出る。

 長窪団地から駅に向かう道を、甲斐と並んで歩く。肉屋の店先から流れ出るコロッケの匂いに釣られるように、買い物客の足が止まる。その卑近な生活臭さが、今読んだ酒井氏のあまりに現実離れした回想とアンバランスで、笑いが喉の奥からこみ上げてくる。

 歩きながら太市は考えていた。もし今の氏の話を今回の依存症特集の記事に載せたとしたら、どういう反応が返ってくるだろう。おそらく誰もが酔っ払いの妄想と考え、記事を書いた自分は、強制的に断酒会行きを命じられるかもしれない。

 降るようなヒグラシの声のなか、夏の最後の陽光を惜しむように、半袖姿の子供たちがシャボン玉に興じている。宙に浮くシャボンの薄い皮膜が夕日を浴びていつも以上に虹色に輝く。そのシャボンの一つが、割れずにふわふわと宙を漂い目の前を横切る。

 甲斐がフッと息を吹きかけ、それを割る。

 弾けた飛沫に顔を背けつつ、二人は都会の鈍い夕景の空を仰ぎ見た。

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