第2章【貧乏姉妹の自宅トイレ◆2】
ヘンタイ嗜好に準ずるならば、それはさぞかし霊験灼な喜ぶべき船出となろう。ベンチ入りから代打の切り札として馳せ参じた晴れ舞台。学校の男子トイレとは違って迸る高揚感。これは男としての本望か、はたまたトイレットペーパーとしての宿願か。水に溶けて紙は消え失せ、厚紙の芯もまた燃えるゴミとなって焼却炉へと誘われるのが運命だと知っているというのにだ。≪未熟な人間の特徴は、理想高き死を選ぼうとする。それに反して、成熟した人間は卑小な死を選ぼうとする≫精神分析医ミルヘルム・シュテーケンの言葉が脳裏を過ぎる。我ながら困った知識のひけらかしに、苦笑せずにはいられない。この期に及んでも、僕はいったい何者なのか?どこの何様なのか?名前も誕生日も何ひとつ、未熟だろうが矮小だろうがどんな大人物なのか満足に判断できずにいた。記憶喪失者の自分探しほど滑稽なものはなかろう。
≪毎度ありがとうございます。この商品は100%再生紙です≫
交換される直前、それは先代のトイレットペーパーの芯に刻まれていた。死して屍拾う者なし、同属同種の成れの果て。同業界ではトイレットペーパーはこれ以上再生できないリサイクル最期の形と謂われている。もしかすると、僕自身に記憶がないのも、そして意味記憶だけは確かに残っているのも、すべての記憶は再生紙として構成されたニュース記録なのではないのか?新聞紙から転生しただけの存在。尤も、記憶より記録に残る存在だったら、こうして嬉しいも哀しいも感じないかもしれないけれど。
(ほんと哀しい)
(笑えん冗談だ)
「もう、お姉ちゃんったらまた無駄に使っちゃって」
家庭には、家庭のルールがある。当然。
交換直後、身をもって思い知らされた。
ホルダーに収まった感触、明らかな違和感の正体はすぐ判明した。
マオの家は『裏向き』だった。
「……ふう」
(声は間近で聞こえるようになったのに)
吐息が尻を撫でるぐらいに、至近距離。
(それがどうだ、僕から彼女の表情を窺うことができないなんて)
トイレットペーパーの取り付け法には、上から引っ張る表向きと、下からまわす裏向きの主に2種類があるというのは、知識としては確かにあった。アメリカでは3割ほどが裏向き支持者だったような気がする。マオのことだから、節約的な狙いで意図的にやっているのかもしれないが、残念ながら僕には到底理解できない。紙の端を壁側にかけるのは、僕にとって壁に頭を突っ込んでいると同義なのだ。恐らく一番最初に目覚めた中学校での表向き生活が長かったから、そっちに慣れてしまったのだろう。未分化のIPS細胞がようやくその役目を分化したそばから拒絶反応が起きたみたいな。利き手が変わるとハサミすら持てない。それでいて、左利きを右利きに矯正させるのはよくないのが定説になっている。野球選手の松井秀喜は少年野球時代にわざと左打ちに変えたようだけど、僕にそんなメジャー級の素養が備わっているはずもなかろう。焦って裏向きに慣れようとした途端、せっかく会得した大回転や自切術、紙登りの秘儀を失ってしまうに違いない。脱出の機会がいつ訪れるやもしれない状況において、それこそ自殺行為ではないか。
「……うんしょっ、はあ」
長めの吐息を漏らして。
マオの柔らかな指先が忍び寄り、控えめに何度か巻きながら切り取った僕の視点は、その直後、反転して彼女の手の中に収斂されて気がつけば温かな渓谷を滑っていた。鼻唄に乗って間断なくそっとシーケンシャルな揺らぎに包まれて。官能小説の知識は持っていないことに安堵しつつ、僕は精一杯の慈しみを込めて、健やかに煌く明けの明星を見送っていた。ジャジャジャジャアアアアア!風呂の残り湯で溜めたタンクの水を流し、閉まるドアと、換気扇の止まるファン、室内がひっそりと沈黙に満たされるまで。
(これが女の子か)
「お姉ちゃん早く起きてね。先行ってるよ」
男子トイレでは見掛けなかった汚物入れ《サニタリーBOX》。
上空から明瞭にわからなかったスリッパの絵柄はホルスタインではなくパンダだった。
ちなみにスカートの下は無地のハーフパンツで、どうやら今日の1限目は体育なのかもしれない。公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操服としてブルマーを指定する学校は日本から消滅したという話。代わりに採用したのが太股を覆ったハーフパンツだったと記憶している。新聞か何かでブルマーが消えた、なんて記事を読んで「ノーパン」になったのではと糠喜びした記憶はないけれど。さておき、いってらっしゃいマオ。なんとなく落ち込んだのは気のせいに決まっている。
今は何時だろう。午前7時半あたりか。
僕の天気予報ではしばらく快晴が続く。
テストが終わって、次の行事は春休み。
(まずいな、非常事態すぎる)
(その前に決着をつけないと)
単純に、マオ姉妹が家にいる時間が長いほど僕の寿命も尽きるのが早まる。このままこうして、この待遇に甘んじ、腹上死こそ男の夢と願うつもりは毛ほどもないが、夏樹静子著『Wの悲劇』ならぬ『W・Cの悲劇』になりかねない。一般的なトイレットペーパーについて僕が知る限りの雑学が警鐘を鳴らしていた。
(僕だってわかっていたさ、それでも、ほんとに)
女の子のほうが1回の使用量が多い。今回の初体験でもって否が応にも理解できた。例えばこれが空路の場合なら、運送距離が短いほど航空機による輸送コストは高くなろう。そのぶん男子には常に墜落リスクがつきまとうものの、しかし、レディの露払いにおける出費はデート以上のものがある。
(いくら節約生活とは言っても)
何かの調査で、次のような平均値が出ていた。
一度に使う長さは男性で1メートル18センチ、女性は1メートル43センチ。姉妹2人だけで2メートル86センチ。仮に1日1回限定にしたところで、約30メートル残量の僕を使い果たすまで、10日とかからない計算。
(嬉しい悲鳴だって、所詮は悲鳴でしかない)
改めて思い知ったのは、ここは風俗のトルコ椅子ではなく死刑を宣告された斬首台にも等しい安楽椅子だった。電気椅子でないだけ痛みはないとはいえ絶望的な境地に変わりはない。いつかの乱暴な不良少年が留具を外してくれる僥倖は期待できず、壁の小窓は嵌め殺し、おまけに唯一の出入口であるドアは常に固く閉ざされているときた。
(そう)
不意に前のめりになっていた頭を下げてみる。壁に面して、少々回転しにくいが、振り向けばちょうど、たった今マオが出て行ったドアが立ち塞がっているはず。ドアが。
この家のトイレは、不自然なほど閉め忘れがなかった。
トイレの臭いを(見えない菌類も含めて)居室に持ち込みたくない気持ちもわかるけど。下水処理のインフラが普及し、衛生面での配慮が行き届いた現代日本において、例えば洋式便器のフタについて、TOTOのホームページ等では必ずしも閉めることを厳守とは謳っておらず、今となっては開閉問題も終焉にきている。特にあの元気100倍なお姉さんなら、1度や2度うっかり開けっぱなしで出掛けても良さそうなものを。それを期待して今日まで様子見していた僕に、結局脱出の機会は一度たりとも巡ってこなかった。
(しかも、よりによって裏向きにされちゃあ)
ドアが閉まっているのか?開いているのか?厳密には判断できなくなった。天井桟敷で控えているうちはまだ、それこそ姉妹どちらでもいい。一時便座に座って、携帯電話や何かで余所見をしている隙に、こっそり手提げ鞄に潜り込めただろうに。
「ふわーあ。もう、……眠い」
閑話休題。
妹の登校からしばらく、寝惚け眼でドアを開けた姉君は夜更かしでもしたのか、大きな欠伸で涙しながら足許をふらつかせて便器の前に立ちはだかった。「あらら、そっか昨日、ドリンクバー飲みすぎたかな」三大名瀑に数えられる那智の滝を髣髴とさせる高低差の水音から察すると、なるほど姉君はスカートをたくし上げて堂々と仁王立ちで御小水をなさっているらしい。女の子はエレガントにと窘める妹がいないとわかった途端、無邪気に自由奔放な神業であらせられる。豪快というか、破廉恥というか、男らしい。それでいてトイレットペーパーの世話にはなるわけで、大なり小なり僕の寿命が縮まるのに変わりはない。
「遅刻かな……ま、いっか」
(そういえば)
なぜか、こんな自堕落な姉君に引け目を感じている様子のマオは、男子の宝物よろしく菓子の隠し場所にトイレットペーパーを使っていた。咄嗟の緊急避難とはいえ、ホルダーから外れる機会が訪れるなら何でもいい。また僕自身を隠し金庫に借りようものなら、強行突破してやるか。いざとなったら。いつか紙切れで事切れるよりは男らしく。最終手段に訴え、僕の存在がバレようとも、万策尽きたそのときには堂々と立ち振る舞ってみるのも悪くない。ヘンタイ紳士も立派な男なのだ。
(記憶が戻るまで諦めないぞ)
(……僕が、僕である限りは)
漠然とした不安。
(違う)
確信。
背後に姉を感じながら、僕は足許に目を落とした。
新しく敷かれた古新聞は1月、2月の日付だった。
2012年。つまり昨年発行。
というのも、すでに判明しているのは2013年の3月頃だということである。予期せぬ超次元的な局面に続いて後回しになってしまったが、何を隠そう、先ほどマオが僕を掴んだとき、同じく手にしていた携帯電話が見切れたのである。あれは確かに、繋ぎ目から切断し、視点がスイッチした紙片以降、明けの明星とその軌道上に急接近した邂逅だった。焦点を結んだ2013の4桁。西暦のほうは確定していいだろう。
そう、西暦はわかってしまった。
僕の心を惹起する不確かな不安。
それは新聞記事を検分するにつれ一層強まっていった。
(これも違う。僕は知らない)
(本当に僕は僕なのだろうか)
テセウスの船。個別の集合体。モーニング娘。
僕はもはや、完全な僕じゃないという可能性。
第一印象にしても暫定的な、僕に思いついたのはこれぐらいだ。
つまり紙の消費に伴い、僕の記憶も少しずつ削られているのではないかと。手始めに1月、2月、新しいものから順に。主軸の大部分は『芯』が占めているのかもしれないし、単に今年になって毎日新聞をチェックする余裕がなかったり、忘れているだけかもしれないけれど。でも。どうだろう。福岡県倉敷市で与謝野晶子の直筆原稿が発見された1月9日、ソロモン諸島近海でマグニチュード8.0の大地震が起きた2月6日、ローマ法王ベネディクト16世が退位を表明した2月11日など僕は憶えがない。特に記憶に新しい新宿の銀行強盗、通称新3億円事件は未解決だったはずが、1月30日の全国紙の三面記事に大きく犯人逮捕が報じられていた。
「……もしもし、うへ、おはよ」
同級生の着信らしき物憂い声。
携帯電話のバイブ機能が震えたのは僕にもわかった。片手で切り取った僕を神聖な滝口にあてがい、滝壺へと放り投げる一連がスローモーションのように敏感に、そして儚く散る。「はいはい、わかったわ、代わりに予習のノートよろしくにゃん」
電気が消え、室内は再び薄闇に包まれていく。
(まいったな)
美酒の余韻に浸っている場合ではない。一刻も早く脱出策を講じなくては。男にはない露払いの運転経費を考えると、1日1回では済みそうもないだろう。10日どころかへたすると1週間、おまけに妹にしろ姉にしろ、学校の友達の1人や2人でも連れてきた日には倍率ドン。僕がどこの誰であろうと、僕が僕であるうちに手を打たなければならない。
(……僕は、まだ)
学校から帰ってきた姉妹が1回ずつ小用を済ませ夜を迎える頃になって、僕は視覚範囲に映る古新聞やスポーツ紙、スーパーのチラシを読み尽くし、うつらうつらと眠りこけていた。今まで夢らしい夢を視るには及ばず、過去の記憶映像を繋ぎ合わせて投影される神経生理学的な睡眠とは程遠い、無機質で一時的な微睡みで、今回も同じように静けさの大海原に朦朧と意識を漂わせていると、しかし姉妹の声を感知しているのがわかった。「あ、そうだ」明晰夢とも明らかに異なる現在進行形の現実。椅子をくるっと回して軋むスプリングの音を立て「ねえねえ、忘れてたよマオ」
それは、空耳ではなかった。
近くにテレビらしき華やかな音源と、そして壁越しに聞こえるほど大声で怒鳴っているわけではないものの、衣擦れのノイズが混じりつつ、若干くぐもった音質で響いてきた。目を瞑るように神経を注力してみると、何やら柔らかな布地の肌触りが感じられ、幽かに蘇る視覚の源は、下から、恐らく畳が反射した蛍光灯が射し込んでいるようで、なるほど果せるかな合点がいった。
「今いいとこなのに、どうしたの?お姉ちゃん。テストの点が悪くて無駄に赤点だったのかしら」
「失礼しちゃうな。全然違う」
「じゃあ転校して周りと馴染めなかったりしたとか?」
「うっさい。だから、そういうんじゃなくてー」
距離的に姉のほう、壁に耳あり障子に目あり、縞柄パンツにトイレットペーパーの紙片あり。否、正確には水に溶けることを免れた僕の一部分が密林の生い茂る渓谷に挟まっているからか?分離したその体外感覚を微量ながら共有していたとは、我ながら強い生命力を持ったものだ。
「あ、それより電子レンジ使用中だから気をつけてね」
「わかってるわよ。いや、今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだから。ほんとに困った非常事態よ。あのねマオ、光熱費を口座引き落としにしてるのなぜだと思う?」
「割引50円安くなるからでしょ」
「それもある。郵便局やコンビニ払いだと忘れるかもだしね」
「何それ、だったら引き落としだって毎月何日って決まってるはずだけど」
「そう、そこが盲点だった」
「お風呂入ってきていい?」
「待ちなさい」
どうも歯切れの悪い姉は、何かを言い淀んでいる様子。貧乏揺すりとして伝わってきた。険悪な諍いの雰囲気というより謝罪会見を想像してしまうような。
「一箇所忘れてたのよ」
「はい?一箇所?」
「うん……だからね例えば、電気ガス水道のうち、止まったら一番困るのはどれだと思う?」
「何が言いたいのかわかんないけど、水道じゃないの?最低限水が飲めれば死なないよ。トイレもできるし」
「違うわ。電気代に決まってるじゃない」
「ああ、そか」
察しの良いマオはそこで一言、ひょっとしてお姉ちゃん、東電に入れ忘れたのね、と溜息を吐く。
「そう、えっと、つまりね、ほら時計をご覧。もうすぐ午前零時を回っちゃうのよ」
「そんな急に止まんないでしょ」
心配性だなあ、もう、とマオ。
姉妹の間に沈黙ができて、時計の秒針が刻む音が聞こえるぐらいの長く、ゆっくりとした時間の流れを経て、トイレは元々月明かりのみの暗闇だったから、僕が新たに『異変』を覚えたのはテレビの音が消えたときだった。「うそ……停電?」
「おかしいな、隣の家は電気ついてるかしら」
「悠長に構えてる余裕はないわよマオ、ほらあたしの予感的中じゃないの。冷凍室のガリガリくんは融けちゃうし、ドライヤーで髪も乾かせないし、ケータイも充電できなくなるし、コンポのラジオだって録音できないじゃない!」
「お姉ちゃんの本音が怖い。コンポだって壊れてるじゃない」
「うっさいわね。生で聴くからいいんだよう」
女子高生にとっての夜はこれからが本番と。なるほど自業自得とはいえ、姉君の悲痛な逆ギレには微笑ましいものがあった。スカートから射す光源が途絶え、畳から合板の床を蹴る歩幅の振動に身を委ねて数分後、懐中電灯を手にブレーカーを確認しに赴き、彼女の落胆した溜息が漏れる。「お姉ちゃん、私は別に気にしてないから。疲れたから早めに寝ようよ」
「暗くてあんた平気なの?」
「普通」
マオは至って唯我独尊を貫いていた。内心、発汗作用が高まってきた姉とは対照的に。尤も、闇に対する恐怖は本能的な防衛反応であり、暗所恐怖症でもない限り、気に病むこともあるまい。霊的に感受性の強い少女であれば、僕のような超常的な存在も認識できただろうし。この家に魔女や霊能者はいない。むしろ、こんな卑猥な状況下でバレたら僕自身の進退にも関わってこよう。「やっぱり待って、今なんか音がした」
さておき、早鐘のごとく高鳴る胸の鼓動。
「そうかしら、だとしたらすごい嗅覚だね」
「鼻じゃないわよ。そこらの犬と一緒にしないでくれる? なんかトイレから物音がしたのは確かだわ」
「……ふうん」
(なんだと?)
なぜ今更、ここで僕が矢面に立たされる。
僕は何も動いてない、はずだ。まだ今は。
ふいに足音が近づき、おそるおそるドアが開かれた。僕に心臓があったら飛び出していたかもしれない。(どういうことだ?)僕の声ならぬ声が姉妹どちらかの耳朶を刺激していたら、とっくに別の反応になっていたはず。
「怖がりさんだな、大家さんには訳アリの告知物件だって説明されたでしょ。事件性はなかったと思うし、前の住民はお年寄りで病死だったんじゃなかったの」
「し、……静かに」
問答無用の静謐。
「でもほら、今、何か動かなかった?」
姉の懐中電灯があたりを照らす。姉妹2人の視線が苦しい。息を止めるように気配を窺う。「脅かさないでよね、お姉ちゃん」何より意外だったのは、冷静沈着に対応していたマオ自身が一番警戒していたことだろう。冷ややかに振る舞っていたのは己を自制するためで、声だけではわからないものだ。カッターナイフがギチギチと鳴る。
「ちょっと塩持って来て」
「ダメだよ。貴重な調味料なんだから」
「あ」
「何」
「なーんだ、びっくりしたなもう。お騒がせなお客様、茶羽のゴキちゃんじゃない」
新聞紙の上を、カサカサと蠢く物体を指差して姉は笑った。
「え?」
息を呑んで振り返るマオ。
「……ご、ご、ゴキちゃんって、あの網翅目ゴキブリ科の」
途端、攻守逆転の展開。
顔色がみるみる変わるや否や、マオは台所に取って返し食器用の洗剤でもって上空から散布、壁の隅に逃げ延びた対象目掛け、一心不乱に振りかけていた。皮膚呼吸のゴキブリは分泌油脂で覆われた体毛で守られており常にテカテカと輝いている。即ち洗剤に入っている界面活性剤によってその油分を分解、窒息死を起こそうというのだ。いつ汚れてもいいように床を古新聞紙で敷き詰めていたのはこのためだったと言わんばかりの殺陣劇。
「あらら、一寸の虫にも何とやらなのに」
「いいから、お姉ちゃんはどいて!」
すかさず僕の出番。
藁をも掴む思いといえば語弊があろうが、軍手やトングの代わりに、トイレットペーパーの僕を引っ掴むと、無我夢中でぐるぐると巻き取っては骸の捕縛に掛かった。(うわあ、気持ち悪っ!)半ば過剰防衛なマオに、僕は唖然とする。倹約家の女児にしては珍しく浪費上等。僕は仄白く泡だった闖入者の屍骸に包まれながら、なんとも複雑な思いに浸っていた。本来なら白馬の騎士として身を挺して姫君をお守りするのは厭わないのだけれど、力強く握り締められた圧力で四肢が折れ、腹部が潰れて臓腑、灰黒く濁った体液が滲み出てくる不快感は大便の比でない。無益で無駄な殺生など彼女には似つかわしくないのだけれど。
(こんな一面もあったんだな)
と、続けざまの刹那。それは震えるマオの手から放れて、便器の底に落ちていく前の決定的瞬間だった。
(おいおい、まさか正気か?これって、これじゃ)
屍骸から目を背けようと外側に注力した、最中。
軟らかな肌を交錯する無秩序な線と線の直線系。
無数に織り成す躊躇いの切傷が、彼女の手首に。
僕の見間違えでなければ、いわゆる自傷行為の痕ではないか。
常に大人びた風格の少女。
中学1年生の妹、マオが。
(ほんと)
世の中、一筋縄ではいかないものだ。
それから電気が復旧したのは≪電柱の移設工事に伴う停電のお知らせハガキ≫が見つかって2時間後だった。姉が風呂に入ると雑音も消えていた。もちろん僕には関係のない。想定量を大幅に前倒し、秒読みに入った今の僕には。