第2章【貧乏姉妹の自宅トイレ】
遥か昔、すでに日本では弥生時代に、排泄専用の便所は存在していたとされる一方、千年未来の中世ヨーロッパでは、彼のヴェルサイユ宮殿にさえトイレは設置していなかった。糞尿などの衛生面や農業利用しかり、総じてトイレは世界に誇れる文化であり最先端の技術なのだと、僕の知る一般常識は訴えていた。
家庭内における洋式便器のシェアは圧倒的だ。
多機能化、利便性、デザイン、おおいに結構。
メリットは様々あろう。
しかし僕は嘆かわしい。
誤解を恐れずにいえば、和式便器と比べて洋式便器とは、なんと目視確認するには不便なことよ。
否、さすがにこれは説明不備。
僕はそう、相手が男子から女子に代わったから宗旨替えしたいわけではない。排泄時の健康チェックという意味合い以外に悲観的な感想を持つはずがなかろう。海外では化粧室やバスルームの名称のほうが知られているそれは、風呂や洗面台とセットで付いてまわる代物と聞いていた。そうであればバスとトイレが個別に設置されていたほうの『現状』に不満を爆発させてストライキのひとつも起こしていたに違いない。
「お姉ちゃん、まーだー?」
「何よう、まだ入ったばっかだって」
「あなたは完全に包囲されています、無駄な抵抗はやめて早く出てきてください」
「無駄じゃないわ。努力は必ず報われるんだから」
「お姉ちゃん、大人なんだから外でしてきたらいいじゃない。下水道代だってばかにならないんだぞ?」
「高校生をオバさん呼ばわりしない」
「お金稼げる年齢じゃない」
「いいじゃん、ケチくさい」
「今月のバイト代、まだ戴いておりませんのよ?お姉さま」
「そうだったっけ」
「またそうやって誤魔化してるう。だったら私が負担してる家事分担も考えてくださいませんかしら」
「だからマオには感謝してるって。ただほら、お風呂とトイレぐらいゆっくりさせてよね。減るもんじゃあるまいし。……って、そか減るから怒ってるのね。わたしって名探偵」
「滅多に使わないくせに、使うと無駄に長いんだからもう」
「バスの時間まで余裕あるんでしょ、マオ」
「ギリギリで走って登校するくらいなら1時限目サボって自習してたほうがマシです」
「ま、それは賛成。わたしも」
「お姉ちゃんは自習しないで遊ぶんでしょ」
「……あはは、ほんとマオには敵わないわ」
中学1年生の少女はマオと呼ばれていた。
本名は不明。高校生の「お姉ちゃん」と2人暮らし。否、姉妹の存在を知ったきりで、深夜勤務や単身赴任の両親がいる確率は高いので保留としようか。とにかく家庭の事情で転校してきた姉妹宅に転がり込んだのが今の僕。
当初の計画では男子トイレから女子トイレに移るはずだった。
そこで僕を知覚できる霊感少女と接触して打開策を模索する。それがどうだろう。まさか学校を飛び出し、期せずして個人宅に舞い降りる結果になろうとは。
なぜ急にこんな展開に。
(いや、そいつは愚問か)
マオ家は、貧乏だった。
これだけの基礎情報でも察して余りあろう。
僕を拾った貧乏娘、マオに霊感はなかった。
ちなみに、今妹のマオと入れ替わりでトイレを出た高校生の姉も霊感は愚か、鈍感で大雑把な傾向が目立った。運動不足や寝不足に悩まされている性格には窺えない。機能性便秘のうち急性便秘ならダイエットや水分不足、慢性便秘なら日頃から便意を我慢する癖がついているとかストレスとか色々考えられる。むろん便秘の原因は多岐に渡り、これと決めて掛かるのは危険だけれど。
「そんじゃ行ってきまーす」
「お姉ちゃん、帰るときメールしてよう」
「覚えてたら」
「今晩のおかず1品減るからね!」
洋式便器から外へ声がよく通る。
きっと和式より、背筋が伸びているからだろう。
ショートカットの楚々とした妹、ロングヘアの粗野な姉はたまに黒縁眼鏡を掛けているが似合っていない。妹は財務省で国土交通省、姉は防衛省で厚生労働省か。チョコレートに水羊羹な妹、便秘時々ウサギちゃんな姉。総じて、2人は転校生にして学園のマドンナとなってもおかしくない可憐な美人姉妹だった。
(マドンナって死語だな)
僕について推理する際、毎回悩む。死語という自覚があるだけでも若い青年なのか、それとも歳相応の中年なり老人なのか考えものだから。年齢格差の表れは根深い。
「はあ」
まったくもう、とマオは軽く嘆息した。
胸もとに深紅のスカーフが映える紺色、典型的なセーラー服はスカートが若干長め。転校前の制服をそのまま使っているのか、新しく新調したのかは不明。下着は見えなかった。
(……む、無念すぎる)
正確には一瞬だけ垣間見えたのだけど、限りなく見えなかったと断言できる。むろん0と1では雲泥の差、そこにはアンドロメダより大きな銀河が広がっているとはいえだ。これだけは譲れない僕の律儀で几帳面な性格なのである。そして付け加えると、今現在はホルダーの中にはいません。マオ氏が蓋をした便座に乗って届く凡そ2メートル上空の収納棚、鞄置き程度に狭き省スペースに収まっていた。
(うむむ)
ゆえに、スカートの下から脱ぎ脱ぎしたときの色が、水玉模様とわかっただけでも稀な奇蹟に近い。
遥か彼方、天井桟敷からの眺望。
漆喰の白壁に囲まれた個室に照らされる白熱電球が少し暑いかなと感じる以外は快適だった。
単語帳を捲る中学生マオ。
こうしていると凛々しく聡明な子だとつくづく思う。大きい幼稚園児を送り出したあとの主婦然とした優美高妙な貫禄も伴っており、去年までランドセルを背負って小学校に通っていたなんて、トイレットペーパーの僕が驚嘆するのも変だけど、海外旅行で日本を空けているうちに総理大臣が交代していたなんてニュースより信じられなかった。
学業と両立しつつ、家計を預かる節約少女。
ちなみに着古した靴下を左右のUの字にあてがって便座カバーに転用していた。正面、すなわちトイレの向かいに二層式の洗濯機を挟んで風呂と洗面台。トイレの水に関しては、給水タンクに風呂の残り湯を溜めては再転換するという徹底ぶりは流石、なかなか堂に入っている。
水を流してトイレを出て数秒、ノイズがぴたりと止まった。
換気扇がうるさいのが唯一不満らしい不満かもしれない。ドアがぴったり閉められると、それから外界の、例えば玄関の閉まる音も一切聞こえなくなるが、鉄錆びた急階段を下りていくと若干家屋が軋んで振動するのでそれとわかる。
(いってらっしゃい、気をつけて)
中高生の朝は早い。
(さて、どうするか)
片方の安定を失って宙ぶらりの先週、微妙に30度ほど傾いたトロンプ・ルイユ的な錯視気分とは異なり、竹を割ったようにスパッと棚上に立てられた今の心境として、これはこれで安定感があるだけ不快ではなかった。僕の奥儀『大回転』は封印され、陸に上がった河童、ひっくり返された亀といったところで良くいえば温存状態というか。
(まあ)
今度は10分の休み時間もランチタイムもない。昼寝モードに切り替え、夕方まで惰眠を貪っても構わなかったが。
衣食足りて好奇心を知る。
好奇心にして『自分探し』
僕の場合、僕とは誰か?大言壮語な命題を抱える僕には、ここで緩やかに朽ちるつもりはなかった。中学校舎と違って安普請なのか 地震で揺れやすいアパート物件のここでは、実をいえば昨日、一度倒されていた。
ガタンッと一瞬。
ちょうど昨日の深夜だったか、緊急地震速報が流れてもおかしくない縦揺れの衝撃は、されどほんのコンマ1秒強のP波に過ぎず、実質損害はなかった。尤も地震が起きたらトイレに逃げ込めというのは安全神話に他ならないにしても。
まさか、僕が横に倒されようとは。
そのまま転がって、床に落下しても死にはしないだろうし、これが地上200メートルの高層ビルから飛び降りる生の人間ならまだしも、僕は弾力性に富んだ紙媒体であり、棚から落ちまいと必死に抵抗したのは本能的な危機感だったに違いない。それが結果、功を奏して新たに発覚して……
ぐるぐるぐる、ぐるぐるぐる、ぐるぐるぐる。
人間の腸の長さは10メートル、毛細血管も含めたすべての血管を繋ぎ合せると地球を2周半すると謂われる。トイレットペーパーの場合、JIS規格に定められた標準サイズはシングルで60メートル、ダブルなら30メートルとなる。
(よし、やっぱり実験成功だ)
紙を、触手のように伸ばして掴み取る腕力。
すでに半分が消費されたシングルな僕でも、まだまだ30メートルあれば余裕だった。
(封印の一時解除)
まず芯を基点に、ゆっくり回って紙を排出、収納棚と壁の支えに巻きついて先端となり、次に回転を掛けて棚から落下、そこから僕自身を命綱のように張り直し、逆回転しながら腹筋力の合わせ技で浮上すれば成功。これで天井からいつでも上下移動ができるようになった。秘儀『紙登り』とでも命名しようか。もっと早く会得していれば男子トイレの脱出も楽勝だったろうに。新調した登山靴には履き慣らしが肝心で、きっと自分の器に慣れる通過儀礼だったのかもしれないが。ちなみに力点の配分を考え、ロール本体の重みで切らさないコツは息を止めること。いみじくも水深2000メートルを探索する深海潜水艇のように。
そんな苦労の果てに、壁や床に触れ、情報を入手できた。
(ふむふむ)
嵌め殺しのモザイク窓から僅かな採光。
壁にはテスト勉強と思しき英単語や数式のメモが貼られ、特売を記されたスーパーのチラシ。床面はフローリングで新聞紙が敷かれており、全国紙の主なニュースが読み込め、それは残念ながら昨日一読したのとまったく同じ内容だった。コネチカット州の小学校に銃を乱射、児童20人を含む26人を殺害。自民党の安部晋三が第96代内閣総理大臣に就任。新語・流行語大賞の発表。今年の検索ワードランキング1位は2月に急逝した「ホイットニー・ヒューストン」で以下「湖南スタイル」など。すなわち極めつけは日付、去年12月のもので、明らかに春麗らかな現在とはかけ離れていたのだ。僕に関わる何か手掛かりがあるとしたら、トイレで意識不明の男が発見されたとか、トイレットペーパーが人を襲った怪奇事件とか最近の話題として注目を集めているかもしれないのに。ありきたりな通り魔殺人だの銀行強盗だのばかり。せめて地方紙ならば場所の特定も捗ったはずだ。マオに捕まった鞄の中では、振動やプシューという空圧制御音からバスに揺られたのは今朝の会話から裏付けが取れているが、十円玉らしき小銭にぶつかったり、梅か酢酸らしき甘酸っぱい香りがしたぐらいで気がついたら収納棚である。進化はしても、進展らしい進展は未だ見込めず。≪私は決して失望などしない。どんな失敗も新たな一歩になるからだ≫とは発明王トーマス・エジソンの偉大な言葉だったようだけども。
(まだまだ、これからか)
朝刊とは別に、具に検分していくと、中にはスポーツ新聞も含まれている。しかも虫食いの紙面も多く散見されたので、切り抜きの収集癖があるのかもしれない。マオかお姉ちゃんか?
ガチャ……
(うわっと)
突然ドアが開いたのには、死ぬほど焦った。
冷や汗が出るなら、滝のように出ただろう。
まさかの父親登場。幸い、電気を付けずに入ってきたから何事かと身構えた僕を素通りするように、どうやらゴミを回収するだけですぐに退散してくれた。ぱっと見、宙吊りになった僕の姿も逆光によって死角を突いた形になったと思われる。桑原桑原。学問の神として名高い彼の菅原道真が避雷針を発明したという史実でもあれば少しは説得力も増すというのに。
気が動転してしまった。猛省。
(ひとまず戻って対策を練ろう)
心のどこかで姉妹2人暮らしだという妄想に耽っていた。父親が極貧生活の元凶なのか、それとも母親(片親の可能性も)にあるのかはわからない。マグロ漁船よろしく月に1度か2度の日常だとしたら、しかも平時学校やバイトがあればすれ違いの連続で、思春期真っ只中の姉妹は受験も控えている。どんな思いで日々を過ごしているか想像に難くない。(いや、まあうん)他人の家庭事情に首を突っ込むのも野暮。これも野次馬根性のせいなるかな。流されやすい性格とは自覚しつつも、男子トイレの弁当少年や上履き少女とは違い、どうにも気になる。
(結局、僕も男なんだな)
(美少女だから贔屓って)
(でも何か、惹きつけられる魅力を感じるんだよな)
昨日の今日居候した身分で短い付き合いとはいえ、僕の欲目から鑑みてもレ・ミゼラブルには程遠い。衣食足りて礼節を知るの諺もしかり、花摘み作法ひとつで充分わかるものだ。2人は過酷な貧困生活を悲観しておらず、むしろ蛍雪の功に忍び、ファイト一発リポビタンDよろしく強く逞しく元気に溌剌に乗り切ろうとする天性のポジティブ思考の片鱗がひしひしと伝わってきたのだから。
「ちょっとマオ」
数日後の夕刻。
取り立てて成果が上がらないまま、時が過ぎて。
期末テストを終えて土曜日の午後になっていた。早朝どこかに出掛けたきり久し振りの声は、トイレのドアを開けたマオの背中から追いかけてきた姉君の声だ。「今何時だと思ってんの?もう9時よ9時」
母親代わりのように、少々ご立腹な口調。
「遅くなるなら、植木に水やっといてよね」
「無駄に元気だね、お姉ちゃん」
「あたしの取り柄を教えましょうか?」
「いいよ別に」
「あんたねえ」
「メールしてくれなかったお姉ちゃんが悪いんだよう」
一方のマオはというと、狐色の焼き魚ストラップを揺らしながら、携帯電話を傾けた。
「……だってあたしのケータイすぐ電池切れるんだもん。機種変したいの我慢してんだから仕方ないじゃない。2年契約憎いわ。マオみたいに最初からガラケー卒業してたらな」
「お姉ちゃん、何でも古いせいにするの悪い癖だよ。携帯電話って圏外だと無駄に電池食うからマメに切らなきゃダメだって言ってるじゃない」
「うるさいわね」
溜息混じりに。
心なし語気を和らげ、姉はそっぽを向いた。
「あたしは、マオのこと心配して言ってんの」
「……うん、わかってる」
「ほんとにほんとにわかってる?」
「おなかが空いて苛々してるのね。待っててください、今から豪華絢爛もやしソテーとパンの耳ふりかけスペシャル春の陣を披露してさしあげましょう」
「何よそれ。てか、また見切り品じゃん」
「八百屋のおじさんから戴いたものです」
「……あのさ、マオのその頼もしさは尊敬するわ。でも、なんでも拾ってくるのはどうかと思うの」
僕が今日こうしているように、拾い癖のある妹君。
置き場がないのか、トイレの片隅に積んだそれは古新聞紙の束だった。この数日、節約家の彼女を眺めて学んだのは、新聞紙というのは使い勝手がいいこと。床に敷き詰めた新聞紙しかり、トイレの小さなガラス窓とて蜘蛛の巣ひとつ張ってないのも、新聞紙を濡らして固く絞り、インクの油分によって汚れを拭き取る効果があったからだし、僕の知っている通説にも、生野菜の保存には湿らせた新聞紙に包むと良いなど応用幅が広い。よもや拾ってきたとは思いもよらなんだが。
「ねえ、マオ」
「別にいいじゃない」
私が好きでやってるんだから、一言。
暖簾に腕押しのマオはそこで俯いて。
刹那の所作に、僕は完全に戸惑った。
後ろの姉を気にするように、ふと何かをポケットから抜き取るや否や、(こっち見てる?)それを頭上の棚、この僕自身の、筒状になった芯の中にさりげなく(え?)押し込んだではないか。今のはラムネかチューインガムの箱だったような。
姉に隠れてこっそり食べるためだろうか。
家計に厳しいのは姉よりも妹であろうに。
しかし疑問に思うそばから、ドアは閉められ再び暗闇に包まれて。
それとこれとが連動していたかは定かではないけれど。それでも。
翌朝の月曜日。
いつかはくると思っていた。
僕からお菓子を回収しつつ、マオの登校前。平常通り用を済ませると、ちょうどそのタイミングで、カランと不穏な紙切れサインを打ち鳴らし、待ち焦がれていた(恐れていた)天井桟敷の収納棚の待機命令が解かれた。いよいよ今度こそ、僕はホルダーに装填されてしまったのである。