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第1章【学校のトイレ◆4】

 代わり映えしない日常に終止符を打つために。


 目前に映るトイレの和式便器は、いつまで経っても殺風景な白き長物である。これが古代ローマの皇帝が築いた円形闘技場コロッセウムだったら、剣闘士たちの演舞が踊っていたことだろう。閑さや便器に染み入る排便の音。松尾芭蕉のような俳人には住み心地が良いかもしれないけれども。思い立ったが吉日。運命は己の意志で切り拓く。そんな気恥ずかしい常套句ですら臆しない。胸を張って宣言できるようになったのは嬉しい誤算だ。感謝する。


 ここしばらく晴れ間が覗いていた。


 穏やかな春の日差しが、むしろ暑いほどに。

 僕の直近天気予報では、持って今日か明日。つまり2~3日のうちに雨を齎すだろう。その前に決着をつけなくてはならない。例の計画を遂行しなくては男が廃る。


 自動車の排気音や野球部のカッキーンと打ちあがる物音から、校舎の3階か4階のトイレに位置している。僕の計画がうまく運び、記憶が戻った暁には、最終的に校舎脱出も視野に入れているけれど、まずは第1段階の成功なくしては何も始まらない。焦らず、奢らず、気負わずに。これ以上、粗野で乱暴な男子中学生どもに振り回されないために。迷わず進めよ。一度『崖っぷちの死』を体験すると変わるものだ、我ながら流されやすい性格だが役に立つ日が来ようとは。覆轍を踏まぬ人生、石橋を叩いて渡る人生では、この尋常ならざる前代未聞の紙芝居ペーパーワークを立ち振る舞っては行けまい。


(気負わない、気負わない)


(出たとこ勝負)


 期待すれば裏切られる。希望と絶望も表裏一体なのだから、諦めの美学は大事だと思う。過度な期待こそやめて、確率50%の精神でリラックスして臨んだほうがいい。誤解を恐れずにいえば、未必の故意。偶然そうなったら序でに便乗しよう。


 くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる……


 ただし、チャンスが来てから、では遅い。

 最低限のチャンスに応えられるだけの精進は必要だ。

 あの感覚を忘れないように自主トレを欠かさず行い、好機を逃さじと備える。まさか、あんなに嫌悪していた不良少年の手腕に頼るはめになるとは皮肉だけど。

 これだから人生は面白い。


 くるくるくるくるくるくるくる……


 放課後のチャイム。

 ドヴォルザークの家路が流れる夕暮れの校舎。

 下校時間を過ぎ、校門が閉まる頃合になると、くるくるくるくるくるくるくるくる、僕は決まって紙を巻いては解き巻いては解くという『筋トレ』に励んでいた。


 夜な夜な、人目を惜しんで。


 誰もいないトイレの個室内。くるくるくるくる、と風もないのに烏が悪戯しているわけでもないのに、トイレットペーパーが独りで回っている姿を誰かに目撃されたら、さぞかし滑稽で、且つ恐ろしいだろう。噂になりそうだ。学校の七不思議によく登場する怪談に『トイレの花子さん』が挙げられる。


 3番目の花子さん。

 赤いスカートを履いたおかっぱ頭の女の子。

 その噂、都市伝説が好きな酔狂なオカルト部員を誘き寄せるのもアリといえばアリだろう。僕自身がトイレの花子さんと同業者かもしれないし、僕がこのトイレに巣食う地縛霊の亜種で、トイレットペーパーに魂が封じ込められているだけかもしれない。誰か霊感の強い霊能者が1人でも現われれば解決しよう。


 そのときは、それでも構わない。


 ただ、全面的に期待しないだけ。

 雨が降る前。せめてこの2日間、あるいは不良少年が用を足すまでが最大上限。

 玉砕するなら一興、男だったら賭けてみせろ。


 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


(ふう)


 バタンッと扉の閉まる音が木霊する。

 2日後の放課後。


 結論からいうと、僕の望みは叶わなかった。

 例によって奇抜な花柄のトランクスを下し、気怠げに欠伸を漏らしながら音楽プレイヤーを聴く粗暴な男子生徒、村田くん。無駄に大量の僕を引き千切っては、捨て。神経質な仕草で深窓の顎に僕を擦り付けては捨てる。そして再びダメ押しでロールを巻き取ろうとしたタイミングで綱引き開始のGOサイン。先週の『感じ』を再現するのに、大した手間は掛からなかった。


「ちっ……んだよ、またか」


 視界が微妙に持ち上がる。

 彼は気にも留めず、切れ端でささっと拭き取ると、足でレバーを操作して帰っていった。それでこそ僕の見込んだ甲斐性なしのろくでなしだ。


 準備、完了。


 これより花子さん作戦=オカルト部員の介入を諦め、第1計画の初陣を敢行する。湿気と気圧の肌触り。雨は近い。急がねばならない。幸か不幸か、すでに4分の1ほど消費してしまった己が肉体ロールは身軽になっていた。筋トレ、もとい『回転』のイメージも板についてきて、いつでも飛び出せるだろう。テスト勉強期間中は生徒らも下校するのが早い。夜の帳が下りるのを律儀に待たなくてもいいだろう。


≪ガラゴロゴロゴロ≫


 万が一窓が開いて、廊下が濡れたら困る。

 男子トイレを脱出してからが本番なのに、それでは女子トイレに辿り着けない。目標は女子トイレに潜伏し、翌朝誰かに発見されることなのだ。望みとしては、どこか紙切れの個室に招かれれば御の字。男なら迷わず進むべし。このままトイレの水に流され、芯まで朽ちていくなら女子トイレに行くしかないのだから。これは決して、誰がなんと言おうとヘンタイ最上級の悪手ではない。


 悩みを解決する最終手段とは、環境を変えること。

 この中学校の男女比率が50%とは限らないけども、これだけ1年男子に声を掛けて返答がなければ、女子に望みを託すのは必然ではないか。それでダメなら2学年3学年と階を下りていくだけ。全校生徒の次は職員トイレでも良いし、その間に僕を知覚できる霊能者と出会えずとも、記憶復活さえ成し遂げれば、自力で家に帰るなり犯人と対峙するなり自由度は無限に広がろう。


 ドヴォルザークの家路。


(いよいよだ)


≪ガラゴロロ≫


 掃除の放水によって濡れたプラスチック系のビニル床材が乾いてきたのを、30度傾きながら目算で即時査定。いつぞやの雷光に照らされて薄暗がりのPタイルが浮き上がる。今日は扉も全開になっており、小便ゾーンも見渡せた。なるほど。濡れ具合は紙媒体の僕が転げ回っても大丈夫そうだ。


 深呼吸をひとつ、大きく。


(ふう)


 深く。


 全精力を注いで、高速回転の舞。(えい、ままよ!)左の留具から解放された瞬間、上部のフードが持ち上がり反動でふわりと宙に浮いた。レバーペダルのバルブ先端にぶつかり軽い衝撃を受けたが必死に舵を取る。一歩着地を誤れば最期、大便器の底にダイブするところを紙一重で縁を転がった。(よし)回転移動中は僕にとって視界が閉ざされた状態。最初からクライマックスの難所を突破したことで少し息が漏れた。


(落ち着け、落ち着け)


 そのまま扉の向こうに転がる。

 僅かに風を感じると、窓が少し開いていた。

 やはり学校というのは無用心にできている。

 雨や泥棒が侵入しても、高が知れているから良いのだろう。


 新大陸アトランティスに足を踏み入れ、ローマ神話に登場する神殿風景を髣髴とさせる小便ゾーンに進む。しかし出入口までのストロークは仄暗く薄闇に包まれていた。月の恩恵はなく、雷神ゼウスの気まぐれで辛うじて形を判別できる程度。(くそ、まずいな)否応もなく緊張が漲ってきた。これではどこで水溜りに嵌るかわかったものではない。ひとまず進行方向を調整しながら右に個室、左に小便器、細心の注意を払って数センチずつ前進していかなければならない。


(でも)


 未知なる恐怖に慄く僕。

 なかなか先に進めない。 


(なんだろう、この感じ) 


 それにしても不可解だ。ポセイドンの逆鱗に触れたわけでもあるまいに、並々ならぬ磁場を感じる。硬く、冷たい地面。今までホルダー越しに吊るされていたので重力には慣れていない。腹這いになって匍匐前進よろしく全身に重みを享受して、僕自身、その圧迫に戸惑っているのだろうけれど、それにしても、踏ん張っていないと闇に引き摺り込まれそうなこの違和感。僕の自由意思に反して転がって行きそうな引力の正体は。


(ああ、そうか)


 闇に光る鈍色の網目。

 タイル全体が中心の排水口に向かって傾斜しているのだ。


(落ち着け、落ち着け)


 ここはただの中学校の男子トイレ。

 ガリヴァー旅行記の世界ではない。

 冷静に、且つ現実的に状況判断を。

 僕は、僕に残った知識の泉水を総動員して分析に努めた。


 左手の壁、荘厳と屹立する壁掛け型の小便器は、奈良の大仏よりずっとずっと小さい。下部に露出した排水トラップから、時折滴る結露に当たらないよう気をつければいい。赤外線やマイクロ波の感知機能は付いておらず、上部にはフラッシュバルブと水道管が伸びていた。総じて、床置き型よりは旧式か。芳香剤や洗浄作用のある蛍光薬剤は入ってなかったが、それでも塩素系のつんとした洗剤の匂いが僅かに漂っていた。必要以上に警戒する物はない。基本的には左寄りの排水トラップと中央の排水口を避けるように、右寄りの個室に沿って前進すべし。


(おや)


 かくして3番目の個室手前まで来て、ふと後ろを振り返ったとき。

 気を取り直したそばから失笑ものだ。途中、回転を誤ったらしく白いカーペットが伸びていた。ナメクジかよ。取り急ぎ逆回転して巻き戻って溜息を吐く。


(我ながら抜けてんな)


 と、ここまでは笑い話にちょうどいいだろう。

 問題は、小便ゾーンと手洗い場を通った地点。

 完全に失念していた。

 出入口の扉が閉まっているなんて!


(うわ、やっちまった)


 結局、体力と気力だけが奪われて、何の成果も上げられず双六のように振り出しに戻る人生。確かに、端から期待していたわけではない。むしろ、最終ステージまで進んだ自分を褒めてやりたいとも思う。ここまでよくできました。明日また頑張りましょう。(何か情けないな)これが密室事件なら犯人はどうする。どうやって逃げ遂せるか。窓も扉も閉まっていたとする。世紀の脱出王ハリー・フーディーニなら、たとえ鎖で手足を縛られていても易々と出られるだろう。僕には彼のような奇術は使えない。しがないただのトイレットペーパーには。


 背中に気配を感じて、その場に固まる。


 新参者を睨むように、1匹の虫が佇んでいた。


 カマドウマ、通称便所コオロギ。その厚かましいほど長い四肢と不衛生な生活史から人間には嫌われている。不快害虫扱いの傾向がある。この部屋から出られないという意味では僕と同じ。やれやれお互いの立場や境遇は違えど、親近感のひとつも湧こう。


(というか、寒いな)


 さておき前言撤回。

 捨てる紙あれば拾う紙ありとは。

 極々僅かながらに、風を感じた。


(もしかして、ちょっと開いてるのか)


 短い隙間でも、0と1では雲泥の差。横から体当たりをかませばいける。何度も何十回も繰り返していけば、何とかなりそうだった。数ミリ、数センチずつ広げていく単調で地味な重労働。塵も積もれば山となるとは先人の言葉である。


(……はあ、はあ)


(う、嘘だろ。糞)


(ここまでやって)


 残念だったのは、最終関門はその奥にあった。 


 またもや僕を嘲笑うかのように。一難去ってこれでもう何難だろう。『難』とは貴重で尊いもので、だからこそ人生には『難』があったほうが『有り難い』とおっしゃったのは孔子だったか三蔵法師だったか。いい加減にしてほしい。


 何の悪意もない。

 何の変哲もない。

 外の共用廊下と、トイレの床タイルを跨ぐ敷居。

 今の僕にとってそれは、絶対に超えられない壁、2センチほどの段差だった。


(おいおい……バリアフリーしとけよ)


 いかな高速の回転力を持ってしても、直線的で一様の角度からでは後ろに弾け飛んでしまう。相性の悪い弾力性と応力。(懲りずにもう一度だ、まだ一度!)今度ばかりは独立事象の反復ではどうしようもない確率の低さに喘ぎ、体力だけが奪われていく。あと少しあと1センチ、斜めに跳べば、スタートダッシュの超回転を今一度駆使してでも強引に力でねじ伏せられるのに。


 そうこうしている間に、カマドウマが優雅な貴婦人よろしく飛び跳ねていった。笑えない。


 自然界とて諸行無常か。

 僕は天井を仰いでいた。

 給水タンクの、ぽたん、ぽたん、と時折落ちる雫は風呂場のようにエコーが掛かって反響している。

 最初、それはヤモリかと勘ぐったら積年の汚れ《シミ》だった。

 ゲシュタルト崩壊しかけるまで、ぼんやり眺めていた。ヤモリか。

 脱出王のように奇術を使えなくても、便所虫のように高らかに跳躍できなくても。そして爬虫類のヤモリのように壁を登る四肢を持っていなくても。試してみる価値はあるかもしれない。こんな土壇場でやれることなんてもう思いつかないし、畢竟、ダメモトに決まっていても。


(……痛っ)


 原材料は切腹の一語で十分だった。

 なるほど、僕はまだ、進化できる。 

 さっきのは前哨戦に過ぎなかった。塵も積もれば山となる。

 ミルフィーユ大作戦。

 理想としては回収したかったけど。

 ベストを尽くしてベターを得るのも悪くない。

 ぐるぐるぐるぐるぐる、プチ。

 ぐるぐるぐるぐるぐる、プチ。

 ぐるぐるぐるぐるぐる、プチ。

 高さ2センチの敷居にアプローチすること数分、あるいは数時間。

 自力で全部、つまり切らずに生地を往復するのは物理的に困難を極めた。結果、約10センチ伸ばしたら繋ぎ目《ミシン線》から自切し、再び折り返して重ねていき1センチほど底上げする。要は、僕に残されたのは4分の1から2分の1にまで減らす覚悟だった。


 痛みはほんの少し、鼻毛を抜いた程度。

 切断した僕のほうから、意識をロール本体に集中するまで時間が掛かったが。『芯』に向かって必死に自制心を保つ。多少なりとも意識のリバウンドをしながら、どうにか僕は最大多数の僕のために、最小倍数の僕を踏み台にして、男子トイレ脱出計画を成功に導いたのだった。


(ありがとな)


 トカゲの尻尾切りとは、斯くも名誉な自死かな。

 尊い犠牲の上に成り立った、今日の奇蹟に乾杯。

 窓の外では雷は途絶え、小雨がぱらついていた。

 静かな。

 実に静かな宵口。

 ペタン、ペタン、スリッパが鳴る。

 女子トイレに向かおうとしたとき、不意に何者かの気配がしたので僕は慌ててしまった。また、あのいじめられっ子が上履きを捜しにきたのか?とにかく身を固くしつつ廊下の端で縮こまっていると、そんな僕の目の前で、突如足音は止まって。


(もしもし、キミは)


「こんなところに落し物かしら」


(僕の声が聞こえてるわけじゃ)

 せっかくだから、そんな口調で体を掴まれて、そして僕の視界は閉ざされた。鞄の中に入れられたと気付いた頃にはチャックを締められていて。


 ……あれ。


(うおーい)


 それは忘れ物を取りにきた女子生徒。

 転校生と知ったのは、30分後になる。






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