第1章【学校のトイレ◆3】
右に30度傾げた新視界。
憐れみよ、こんにちは。
放課後の清掃活動は3日に1度の割合でサボられる運命にあると学んでいた。生徒ら、特に男子たちに美化意識は低く、月1の清掃業者に甘えている節が窺えた。小便ゾーンはまだしも、大便器には利用頻度が少ないという先入観もあって尚更加速する悪循環。実は結構みんな使ってるんだぞ。少年よ、便器を磨け。クラーク博士もきっと草葉の陰で嘆いているに違いない。
放課後は望み薄。
従って、過度な期待は昼休みに持ち越された。
「……もしもし、俺だけど」
首を長くして待ち人を冀っていると、誰かが小便ゾーンを小走りで横断し、接近してくるのがわかった。僕の白い耳朶を震わせるその存在感。聞き覚えのある声。
「今日学校休んだって聞いたけど、大丈夫?」
(はて)
ちょっと待てよ。
僕の真横に並んで壁に凭れ、携帯電話。
初日に顔を合わせた弁当少年だったが、独り言を呟かない限りは基本的にどんな声や喋り方をするのか想像するしかなかった。こうしてまともに話声を耳にした拍子に、なるほど僕にとって初耳ではなかった。要するに彼氏、眼鏡の委員長と付き合っている通称リアジュウだったか。恐らく仲間内には知られているとはいえ、本人に公認カップルの自覚はないらしい。
「なんだ、……そっか。んじゃ帰りに寄っていい?」
やや緊張した声音。
口許に手を添えて少年は囁いた。短い休み時間中、小便ゾーンで交わされる雑談とは違い、通話相手と2人きりで繋がる密談はどうしようもなく甘酸っぱい。ひょっとすると、リアジュウとはお互いの現実が重さなる、もしくは他人よりも加重が乗っかるという風刺の、リア重と表記すべき和製略語なのかもしれない。
「大丈夫だってば。伝染っても気にしないよ。うん。そう。テスト勉強なんかいつでもできる」
今日は弁当持参ではなく、逢引のような真似をするぐらいだから先刻の上履き少女のように村八分にされているわけでもなし。別に羨ましいとは思わないけれど。
「うん、じゃまたね」
(……ごちそうさま)
僕の恨みがましい視線を躱して、ついぞ弁当少年は鼻水ひとつも噛まずに、我が聖域をそそくさと辞去した。5限目の授業を告げる予鈴が鳴るのと同時に。あとは急遽便意を催して駆け込んでくるのを待つしかない。
(……まずいな)
この日は、それきり利用者が来なかった。
放課後も、テスト勉強を背景に、一部の図書室を利用する生徒を除いてはみんな帰宅していく。
僕の視線は右にズレたまま、週末を迎えてしまった。
花の金曜日なぞ死語だろうが、しかし休日は地獄だ。
友人は愚か、話し相手ひとりいない地獄の自由時間。
生徒たちは現われず、普通の教室棟は閑古鳥に喘ぐ。部活に励む生徒は登校してきているに違いないが、文化部にしろ体育部にしろ、各々活動拠点に近いトイレを使うはず。
加えて、今は期末テストの勉強期間に突入していた。
テスト、トイレ、レトルト、トランジスタラジオ、オストメイト。
渦中の僕はといえば、不本意にも斜に構えて偶然の出会いを求める以外、たまに乾いたプラスチックの床タイルを見つめては『しりとり』で無聊を慰め、あとは徒々惰眠を貪るしかない。三半規管の敏感な幼い子供ほど車や船酔いになりやすいというが、平衡感覚が研ぎ澄まされているのは僕も同じ。傾いた視界に慣れることはなく不安定な不安感は継続中。困った。
ピンチは最大のチャンスとは誰の名言だったか。
(どうしよう。もう、死にたい)
孤独死すら許されない孤独生。
このまま一生牢獄に幽閉され、そして誰も気付かれず無為に生きていくだけならば。『タイル』という表題の小説を柳美里が著していた。≪頽廃は行為からではなく無為から生まれるのだが、意味のない行為のために神経を磨り減らすことが滅びに抗うことになるのか。老人は見るたびに老人になっていく≫確か、そんな一文だけが憶えている。
無関心とは苦痛なるかな。
無関心では殺せないのは人間もトイレットペーパーも同じ。僕をこんな生き地獄に追いやった犯人がいても、今なら寛大に慈しみをもって許せそうな気がする。僕のそばには死天使もパトラッシュもいない。無人島に1つ持って行くなら何?という問いにはこう答えるだろう。飲料水でもマッチやライターでもサバイバルナイフでもなく、月差+15秒のクォーツ時計だと。
今は何月何日何時何分何秒?地球が何回まわった日?
最初に目覚めてどのくらい経ったかを考えるときは、逆にいえば四六時中といっても過言ではない。休み時間の何倍ものラグを授業時間に充てられ、放課後になれば翌朝まで生徒は寄り付かないのが日常だ。仮に2週間は経っても2ヵ月は経っていない、ぐらいしか自信を持って答えられない。今頃、いじめられっ子のメガサリナは自宅で養生しているだろう。リア重の弁当少年は勉強中に逢引して委員長とデート三昧、ヤンキー少年は万引きで得た文庫本やゲームソフトを悪友たちと山分けしていると想像するのは難くない。僕の平凡な日常と比べたら、すべてが眩しく燦々と輝ける太陽のようではないか。
案の定。
期待に応えて予想を裏切ることなく、土日は暮れた。
烏や雀の囀りを聴きながら、何度となく繰り返される新しい朝を迎えようとしていた。≪今では、そうやって階段を昇ってくるあなたの足音を聞いた瞬間が、私の生涯で一番幸せなときだったように思います≫カーレン・ブリクセン著『運命綺譚』の何気ない一文が心に沁みてくる。
(……あ、やっと、来たか)
週明けの早朝。テスト勉強期間中は部活も一斉に休みになるにも関わらず、朝練だけは欠かさずやっている運動部もある。部室から教室に戻ってから来るのだが、今日はひとまず、学生鞄を持参しているということは直行したらしい。朝1時間ほど汗を流したあとにやってくる常連の快便くん。ブリーフ派の彼は、筋骨隆々な太股や脹脛を曲げてベストポジションに収まっていた。
「やっぱまだまだ、だなあ」
朝から、自己反省に余念がない暑苦しさは相変わらず。
これまでに何度か天井から声が掛かり、周囲から「リクロウ」と呼ばれていた。6人兄弟の大家族なのか、毎朝のトイレ渋滞を避けるべく遥々学校にて用を足さんとする皮算用と、神経の図太さには見習うべきものがあるかもしれない。
「……ったく、誰だよ直してけよな」
ともあれ閑話休題。さすが僕が認めたエリート優良児、快便くん。いち早くホルダーの不具合を修復してくれた。水平になった視界の快適さといったら格別もの。
(助かった)
一件落着して気が抜けた。お礼でもしよう。
(この感じはふむふむ健康的だが、なるほど)
ひょっとして昨晩は誰か親族の誕生日だったのではないか。絢爛豪華で酒池肉林な焼肉をたらふく摂取したのか。全体的に黒っぽい印象も受けた。動物性タンパク質の摂り過ぎは一目瞭然。やれやれ大便の色は、内臓で造られる胆汁と脂肪の消化酵素などが帰依しているという。肉ばかり食べていると悪玉菌が増え、臭いはきつくなる。ビフィズス菌を摂取せよ。
「ふう」
そして僕の出番。快便くんにセパレートされた僕2号が黄門様と謁見しているあいだに、時同じくして異変は起きていた。
「やべ、やっちまった」
僕なりに収穫物を吟味し終えて。その刹那。
手でレバーを押したが、微動だに流れない。
手では飽き足らず、やがて乱暴に足でもって何度も繰り返したが水面は上昇するばかりなのだ。
「ど、どうしよ」
本来は配水管の詰まりを直す器具、正式名称ラバーカップで吸い上げるべきだろうに。他の連中がやってくることに怖気づいて正常な思考が止ったのか。
さらに運の悪いことに、慌てて脱出しようとした拍子に鞄のストラップが引っ掛かり、鎧袖一触、後ろ髪を引かれるように僕本体のトイレットペーパーがずり下げられた。
だらしなく垂れ下がった僕の『下半身』がタイルの地表に接していた。
「ま、いっか」
(待て待て良いわけないだろオイ)
人生、諦めが肝心。万策尽きた、後は野となれ山となれ。それが快便くんのポリシーと言わんばかりの潔さに、(待ってよ!)僕は叫ぶだけ叫んで見送るしかなかった。
(糞っ)
過去に数回、他の大便ブースで起こった事件が蘇る。
通称【流してない事件】について反芻してみると合点がいくではないか。最初は入口側から順に、窓際の僕のほうまで拠点を変えてきた移り気の真意は、元々詰まらせた罪悪感が一度犯した大便器を遠ざけていたのだとしたら。
(今までの称賛を返せ!)
決壊したダムよろしく迫り来る洪水の恐怖。
ゴボゴボゴボゴボゴボ……近い、近すぎる。洋式便所よりも低いトイレットペーパーの標高差を呪う。
(やめ、ろ)
青ざめる、というより顔面蒼白。
今までの経験則から、切断された僕の一部は、水に溶けることで消滅した。絶対的な死。(やめろ)毛細現象現象という単語が脳裏を掠める。(こっち来るな)僕というロール全体の紙が水に浸されたらどうなるのかは火を見るよりも明らかだった。(イヤだ、死にたくない!)僕は人間だ。紛れもなく生きている。逆行性健忘だとしてもいつかは解けるし、最悪、自分の記憶なんぞ生きてるうちに幾らでも紡げる。(死にたくない!)どんなに見苦しかろうと惨めだろうときっと。
(まだ、こんな)
しかし刹那、
絶望的な視界が反転して……
気がつくと、だらしなく垂れ下がった『下半身』すべてを巻き取っているのだった。
僕自身の力でやったのか?
それは間一髪、まさに紙一重での超高速回転。
(……嘘だろ)
奇蹟か。否、これは奇蹟的にして未知の必然に他ならない。原子炉で核分裂したエネルギーがタービンを回す。まさに僕もそうして宿った命懸けの熱意が『芯』に火をつけてくれた。
そうとしか、そうとしか考えられない超常現象。
こんなところで死んで堪るか!その強い意志が、最大の意思表示となり、火事場の馬鹿力よろしく生命力を爆発させたとしか考えられなかった。
そう、だから。
この力を利用すれば
僕は、ある計画を閃いた。