第1章【学校のトイレ◆2】
きゅっきゅっとゴムの靴底が床タイルを踏みしめる摩擦音、軽快なスキップ音、平坦なステップ音、未成年者の足音は大人と違ってフレキシブルで情緒に富んでいる。
記憶がない以上、この僕も同年代という可能性はあるとはいえだ、壁越しに観察していると上から目線になってしまう。蛇口を捻って石鹸をつけて黙々と洗浄する者もいれば、小便器や手洗い場に入り浸って挨拶や愚痴を交わしたり、クラスは違えど小学校からの旧友が顔を合わせたり。情報収集には打ってつけの共用空間。僕に関わる何か手掛かりが出やしないかと聞き耳を立てるデスパレートな毎日を送っていた。
「琴浦さん見た?糞笑ったわ」
「相変わらずキモいやつだな」
「ちょ、やめい」
「つか咲は阿知賀編もいいけど三期早よ」
「はいはい。プライドの高い萌豚は俺修羅で抜いてろ」
「2人とも何の覇権争いしてんの?マジありえねーし、男は黙ってラブライブっしょ」
「帰りどうする?」
「悪い、今日ちょっとチャリで来てねーんだ」
「BD貸してやろうと思ったのに」
「どうでもいいが、お前ら教室でそんな話すんなよ。オタクと思われっから」
「劇場版のコナンは見続けてるくせに?」
「委員長と付き合ってるリア充は違うな」
「……はは、闇の炎に抱かれて死んどけ」
以下省略。
開口一番アニメの話をしているらしいが、意味記憶の健在な僕にもわからなかった。コナンといえば名探偵の少年漫画という記憶があるにはあったけれど、同時に、未来少年も思い浮かんでいたのは懐古趣味の一端か、はたまた年齢格差のギャップか。仄聞による評価を絶対視するのは禁物とした上で、少なくとも僕は現役の中学生ではないかもしれない。
時間経過(体感)は驚くほど遅かった。
時計のないトイレの個室では、土日のウィークデイを挟むことで辛うじて1週間を知ることができる程度。初日の弁当少年こそ見かけなくなったとはいえ、総じて単調な日々の繰り返しによって平均化すれば、僕を訪れる常連客は3つに集約された。テニス部の朝練終わりに用を足す快便君、休み時間を避けるように授業を抜け出す勇者たち、それと一部の闖入者である。いや常連というよりは、部外者というべきか。
≪ピンポンパンポン≫
≪まもなく部活動終了時刻になります。生徒の皆さんは、速やかに帰宅しましょう≫
黄昏の夕暮れ。
「ねえ、どう?」
「見つかった?」
「早くしないと男子来ちゃうわよう」
クスクスとせせら嗤うノイズ付き。
その生徒は、周囲から「メガサリナ」と呼ばれていた。サリナというから女子なのだろう。恰幅のいい豊満な、お世辞にも成長期を言い訳にはできない体形をしていた。
いじめの標的にされるには格好の。
ご多分にもれず、小中学生の狭い共同体が考えることなのだから残酷なものだ。誰もが認める美少女がいじめられるのは、アニメや漫画の中だけ。現実には、こうしてメガサリナのような肥満少女が靴を隠されたり体操服を汚されたり罰ゲームで告白されたりするのだろう。
「ごっ、ごめんなさい」
失礼します、と律儀に頭を垂れて這入ってきた。男子用トイレに足を踏み入れるだけでも拷問なのに、彼女は裸足だった。正確にはその足の片方、西洋国旗の刺繍がワンポイント付いた白いソックスを履いており、ケン、ケン、パッの要領で跳び跳びジャンプしながらの単独歩行だったけれど、持ち前の皮下脂肪がそれを思うように維持できなくて、終始ふらついていた。
半開きの扉から首を覗かせ、つい数分前、天井から投げ込まれた自身の上履きを発見するや否やホッと吐息を漏らす。≪こいつヤリマン09045358912≫の落書きに手をつき、不衛生な床タイルに足を着けないミッションを完遂すべく細心の注意を払いながらにじり寄る。
便器の中で、半ば水浸しの上履きに向かって。
自然界では太っているほうが優秀で、サイズが大きい個体のほうが上位の食物連鎖に君臨しようものを、人間社会ではルールが等しいわけではない。
僕は、無力だ。
孤高の弁当少年と同じく、同情の余地なんてあるはずがない。
くだらない放課後の昼ドラマ。義務教育の他愛ない1つのイベントに介入する術を持たない。糞。糞、畜生が!遠巻きに囃し立てる入口付近の女子共が喧しい。そういうのは僕の目の届かない職員用トイレでやりやがれ!
カタンッ……
誰もいない男子トイレの個室。念願の探し物を回収して踵を返したところで、不意に物音がした。
「え?」
メガサリナが振り向くと、果たしてそこには誰もおらず。薄暗い半密室。素っ頓狂な顔つきでキョロキョロ、と一瞥。真正面の僕と目が合っても当然相手は気づかず、ずぶ濡れの出土品を改めて胸に抱きながら、徒々怯えた目をして走り去っていった。
(な、何だよ、今の)
上目遣いに天を仰ぐ。
今のは、僕がやったんだろうか。
頭上に圧し掛かる鉛色のフード。
風もないのに独りでに、まるで何かに擦れたように。
(僕が動いた、動かした?)
そういえば、人間の想像力とは偉大だった。催眠術でも人は殺せるという文献がある。自己暗示でも、強烈な思い込みが己が肉体に干渉し、外的刺激を受けたように錯覚させるという。信じる者は救われる。僕は春に芽吹く蕗の薹。顔を真っ赤に紅潮させ、地中からコンクリートを突き破らんと足掻くイメージでしばらくの間。1分、5分、10分は、そうやって根気強く気合いを入れた。カタン。また少し伝わった。……カタ、カタカタ……幽かに、小刻みに、確かに震えるホルダーの金属音。ほんの少し擦っただけのそれは間歇的に数秒続いたところで力尽きてしまう。
(ダメか)
糞、明らかに僕自身の確固たる『意思』だったのに。
それでもこれは、中学校とわかった以上の新発見だ。
僕にはまだ、知らない僕がある。
煙草があったら、吸いたい気分。たとえ禁煙中でも1本ぐらいはノーカウントだろう。
(今夜は、雨かもな)
いじめ、メメントモリ、リトマス試験紙、障子、十二指腸潰瘍。
完全下校を迎えて静謐に包まれた校舎内。さらに数時間が経った宵の口には、ズバリ予感は的中し、白と黒の停波ノイズが壁越しの僕にも伝わってきた。ざーざーざーざーざー(寒くは感じないのは不幸中の幸いだな)
新発見といえば。
やはり偶然じゃなかった。
闇に呑まれつつある室内。
ただ雨音だけが、粛々と響きあっている。
僕の予感。数日先の天気が当たるようになった。正確には雨雲が近づくと肌が総毛立つのだ。湿気に対して敏感に感じる、トイレの紙ならではの、伊達に薄く、吸収性に優れているばかりではないらしい。厚さ0.1ミリ程度の紙にとっては死活問題だからか。ともかく僕はもっと知らなくてはならない。アメダス、スカイウエイ、インドール、留守番電話、勿忘草、ワークショップ。やれやれ、ヘンタイのくせして実に繊細な体よ。
ヘンタイ。
変態とは、生物学的には幼虫が蛹から蝶へと転身するプロセスを指す。ここでじっとしていれば、僕はトイレットペーパーから人間になる日が訪れるのか。中学生男子の尻拭いに使われ、糞尿と共に下水に溶けて分解され、跡形もなく消えてなくなるまで一生を終えるのではないか。そんな不安が芽生えた頃である。一縷の希望というにはあまりにも僅少の一歩ではあったけれども。
翌日。
(誰か、僕の声が聞こえる人はいませんか!)
喉がないので嗄れる恐れはない。(誰か、おーい)それでも熱い思念を飛ばせば疲れてくる。情けないやら空しいやら哀しい。全身紙でできた僕の体力は薄っぺらで虚弱だった。
中学校のシーンは刻々と移り変わっていく。
断片的な会話から、3組のクラスに転校生がやってきたらしい。
そのニュース性は、例えば会社で途中採用の社員が出社するのとは次元が異なる。それが可愛い女子とくれば尚更。僕にはまったく関係ないけれど。転校生といえば、そうさな。階段を踏みはずして心と身体が入れ替わった映画『転校生』が連想された。かといって、トイレで用を足している途中で頭をぶつけた、なんて滑稽なシチュエーションはありえない。それなら僕の体は便器に残っているはずだろうし。
転校生でも誰でもいい。
来たれ。
僕のSOSが感知できる特異体質の持ち主よ。
≪ピンポンパンポン≫
それは数日後の午前中。
≪こちら体育の近藤です。1年2組の篠塚、5組の村田。放課後になっても帰らず、生徒指導室に来るように。今日こそばっくれるなよ。特に村田。いいな。以上≫
「うっせえな」
数分前にやってきた茶髪の少年は、便器に痰を吐き捨てた。不肖不肖といった体でズボンを下ろし、「ああ、腹痛え」頗る不機嫌に毒づくと、持込禁止になっている携帯音楽プレイヤーのイヤホンを両耳にねじ込んだ。ここは自分ん家のトイレではないぞ、と文句のひとつも言いたくなる素行不良ぶり。
(お前なんか、社会にとって害悪だ)
(便器に落ちて糞塗れになればいい)
聞こえないのをいいことに敵意を剥いて毒づく。
僕はこいつが嫌いだった。
前も訪れたことがある。荒っぽく粗雑な男で、やや濃い脛毛の生えた両足には生傷だらけ。それでいて女の尻に敷かれているのか、強面のわりに、可愛い花柄のトランクスを下ろすなり、盛大に放屁である。
(臭えなぁ)
今日も胃腸が優れず、煮えたぎるマグマ溜まり。
体温より1~2度高い、非常に緩いゲル状排便。二酸化珪素ではなく水素やメタンガスが主な揮発性成分か。タンパク質を分解した硫化水素やアンモニア、スカトールなどの悪臭も漂う。あくまで僕の見解では、と但し書きがつくけれども。季節的に冷たいアイスの食べすぎではなかろうが、どうせ早食いや暴飲暴食による消化不良が主な原因だろう。蒟蒻の砂下しや食物繊維を摂るべしと忠告したいところ。
(あーあ)
だが僕が嫌いなのは、そこではない。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……
乱暴に巻き、千切っては拭い、千切っては拭い、無駄に無遠慮にひたすら僕を消費する。ピラミッドの頂点にふんぞり返る傍若無人な態度。パルプ原料で製紙を造るのに森林伐採を繰り返し、いくつの自然が消えたと思っている。世が世なら、徳川綱吉が長ならば生類憐れみの令でもって打ち首獄門は免れぬ。
(この糞餓鬼め)
神経質で綺麗好きなヤンキーなんぞ流行らんぞ。
(もうやめろ、下衆の猿がっ)
今日という今日は許すまじ。
僕は全身全霊をかけて抵抗を試みた。(狼藉者の尻拭いなんぞに付き合ってられるか、僕だって生きてるんだぞ!)繋ぎ目から引き千切られないよう頑なに身構え、歯を食いしばりながら、ひたすら耐えに耐え忍ぶ。巨象に歯向かう蟻であろうとも、ここで引くわけにはいかない。長いようで短い刹那。
「ちっ……なんだよ硬えな」
だが対戦相手も筋金入りの潔癖症なわけで、突然の抗力に諸共せず鋭利な爪を立てた。
(くそ、やっぱ無理か)
ぐるぐるぐるぐる、がちゃん!
力尽きて玉砕したのも束の間、再び鬼門にスイッチ。もはや殆ど味気のしなくなった深窓の顎に接吻を迫られ、あまつさえ不覚にも禁断の誘惑は萎えない。「ああ、面倒臭せえ。今日はもういいからサボっかな」僕の存在など歯牙にもかけず勝者は嘆息した。悪態を吐きつつも、平然とトランクスとズボンを履き直しマグマの汚物と一緒に水を流すばかり。罪悪感は微塵もなく、欠伸ひとつ漏らして気怠るげにイヤホンをポケットに仕舞った。後ろ足で砂をかけるが如く土足でレバーを倒すとは、無念。トイレという聖域を汚されて敗者の屍は死して拾う者なし。
(嗚呼、気持ち悪い)
視点が戻った途端、さらに異変に気付いた。
これは、また、なんと不埒な悪行三昧なことだろう!高速回転で目を回して、マグマに身を委ねているあいだに。冗談だろ?勢い余ってホルダーの片ピンが外れてしまったではないか!
(おい、これ、しっかり嵌めてから行け!)
無論そんな僕の叱責は、金髪少年の歩を止めるには至らなかった。
変わり果てた驚天動地の世界に、為す術もなし。
抵抗なんてしなければ良かった。多少なりとも自力でロールを回す作法は身に着けつつあったけれど、さすがに芯を留具に掛け直すほどの要領は得ていなかった。この分では、左右のバランスが崩れて落ち着かぬまま、次に使う生徒に望みを託すしかない。