表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

第5章【捨てる紙あれば、拾う紙あり◆4】

 大野2中の校舎に着いたのは翌朝、午後2時だった。


 想定された雨の心配はない春景色。しかし長旅で失った戦友との別れは壮絶だった。踏切進入や居眠り防止の段差地獄を耐えはしたものの、後半に差し掛かって路上で干からびた烏の屍骸に巻き込まれる不運は避けようがなかった。接触して急落下、アスファルトに何度も打ちつけた衝撃でおーいお茶缶さんから零れた僕は、摩擦の抵抗も少なく踏み止まり、片やアルミ缶の彼は止まるに止まれず対向車線上に延びて重機に踏み潰された。磁石のレッド氏を伴い戦線離脱、石油王曰く(我らに構わず先に行け!)との通訳に涙しながら頷いた僕は、なんとか一時渋滞で信号待ちを食らっていた目標の車に追いついたところで、爪切り氏の助力で飛び、車体裏の配管に紙片を巻きつけて必死に縋りついた。けれど発進間もなく、磁力を持たない僕では支えきれず、窮地を知ったハリス氏が自ら結び目を解いて爪切り氏《ジャンプ台》を切り捨てる決断を取ったのだ。(会えるといいな、パルプ君)それが最期の言葉だった。さらに近郊の座間市を越境する手前で降りたあと、バス停の屋根に攀じ登って屋根伝いでバスにしがみつき、学校前を通過する路線を乗り継いだ結果、今こうして終礼の下校時刻に間に合い、5時限目の授業中、校門を見渡せる電信柱の陰から見守っている。僕と、僕の裏面に巻き取った石油王の断片、そこに巻きついているハリス氏の合計3名で。


 僕の願望わがままに応えてくれて感謝します。


 付喪神たちは人間ではないのだから。重機でペシャンコに潰されても、雨曝しの道路上に放置されても、金属が酸化して多少錆びることはあるかもしれないけれど、それが即死に結びつくようなやわな神々ではない。やり残した『大義』が果たせたら、静物園に戻って美都里の助力を請うつもりだった。


 放課後のチャイム。

 帰宅部の多摩川珠緒にしては遅く、西日で伸びきったシルエットが校門を潜る。

 華奢な体の、されど凛とした後ろ姿。

 今日は1人で帰るらしい。


(ほほう、あの娘がお主の……)

 重ね合わせで織り交ぜた石油王の断片が唸ると、骨伝導よろしく僕の脳裏をダイレクトで刺激した。ハリス氏も何かしら呟いているに違いない。状況次第によっては、彼には別件で手伝ってもらう可能性がある。マオのことを気に入ってもられば良いのだが。


(はい、今出てきたショートヘアの小柄な娘です。学生鞄から提げているのは携帯電話のストラップかな)

(秋刀魚とはまた、ふむ面白い趣向よの。あれも火事で焼け焦げたということか)

(いえ、元々ああいった焼き魚のデザインなんですよ。鞄のほうは同系色の布切れで裁縫してあって、綺麗に隠してますが所々爛れて赤茶けてますね。僕がトイレにいた頃にはありませんでした。もし分からなかったら目印にしてください)

(左様か。しかし一見すると幼い顔立ちでその実、周りの娘らより目力が秀でておる。あの眦。小生も昔、斯様なやんごとなき麗人に会ったものよ。群集に紛れても見失うことはなかろう)


 遠巻きにマオを追走し、想定通りバス停へ。

 こちらの停留所に屋根は付いていなかった。駅前のロータリーでやった技は使えない。


(本当に行けるか)

(はい)

 バスが進入して30秒、列の最後に乗り込んだところを見届けると石油王に強く頷き返す。

(さっき練習した通りにやるだけです)


 ぐるん、ぐるん、ぐるん、人間の流れが途切れた逢魔時。ぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるん!チャンスは今しかない。


 僕は重心を傾け、大回転と紙登りの連携、且つ自切を刹那のタイミングに合わせた。


 開閉ブザーが鳴った直後、バス停の時刻表、その円柱のポールに巻き付きハンマー投げの要領で正面から一気に投擲したのだ。短い階段に命中。何事もなかったように自動扉が閉まった。バス車内は比較的閑散としており、運転手や乗客たちの注意を引かずに済んでほっと息を撫で下ろす。


 それから、マオが腰を浮かせてバスを降りる頃。


 僕も彼女に合わせて通路を転がった。さすがに降車出口は前方に備えており、吊革に掴まる多少の奇異な目線はやむをない。マオに気付かれなければ御の字。旅の恥は書き捨てである。好奇な眼差しの幼稚園児や野性味の鋭い野良猫はいない、平常運転のバスを飛び降りて尾行を続けた。


(……こ、ここは)

 郷田建設の高級マンションではなかった。


 やはり、というべきか。

 木造2階建ての古アパート『あおぞら荘』と銘打たれ、どうやらマオは階段を上ってしまった。201号室。警察が現場保存に使う黄黒のトラロープは貼られていなかったが、窓付近には青いビニルシートで覆われている。多摩川姉妹の住んでいた部屋。僕が中学のトイレから連れ去られた場所。放火の遭った事件現場。


(さて、パルプ君。どうする)

(階段は厳しいですね)

(ふむ。なかなか難儀な急階段よの) 

(……でも、どうにかなりそうです)


 僕は一旦踵を返し、アパート敷地外にぽつんと生える電柱のほうへ後退した。バス停のポールより太いが、ボルトは少なめで余計な金属が張り出していない。巻き付いて回転を加え、伸ばした紙片を僅かに捻ると、徐々に遠心力とプロペラの如き浮力を得て体全体が上昇していくのが分かった。隣接する2階建て民家に焦点を絞って自切、その反動は意外なほど飛距離を稼ぎ、数秒後には切妻屋根の瓦に飛び付いていた。


(なるほど、よく目が回らぬものだ)

(はァはァ……いえ、気持ち悪いですし半分瞑ってました。でも、ほら手前に風見鶏があったでしょう。あとはスロットの目押しみたいなもんです)


 屋根伝いに201号室のべランダへ転がり込み、僕は息を整えてからブルーシートの下を覗いてみた。割れた窓ガラスには急造りのベニヤ板が宛がわれ、当座の雨露を凌いでいるものの、全面完全に塞がっている訳ではなく、痩せ細ったトイレットペーパーが這入る隙間なら十分確保できた。


 マオの気配を感じつつ火災現場に一歩、前進。

 マオは何をしているのだろう。電気が点かずとも夕焼けの残滓が焦土と化した室内を淡く照らしている。破砕した蛍光灯、部分的に熔けたカーテンレール、テーブルの脚、本棚の骨組み、何かの金属やガラス片。焼きトウモロコシのような畳敷きの和室は爛れ井草の臭いが漂う。


 マオは持参したデパートの紙袋を広げ、瓦礫の山を物色していた。

 一般的に半焼とは、被害割合の20%以上70%未満と定義付けられている。部屋は奥にもう1つ、そちらは比較的免れたようだが最低でも69%以上、限りなく全焼に近い半焼だった。


(良かったなパルプ君)

(何がですか)

(お主がいなければ、手負い猫も生きていなかっただろう)

(そうですね。やっぱりマオたちは火災幇助はしていない。不測の事態だったんです)

 マオの顔を覗き見る。悲壮感は欠片もない。

(うむ。凶事に見舞われても腐らず、事実を淡々と受け止めているようだ。強い娘よ)


 所々水気が残っていて、僕は進むに進めなかった。

 火災保険には加入していなかったのか?要らぬ詮索をしてしまう。すでに大半の大型家具は運び出してあるだろうが。恐らく業者には頼らず、まだ使えそうな品々を少しずつ回収しに来ているのかもしれない。


 マオが何かを発掘したようで、短く息を漏らした。

 シールを剥がしている。姉の目を盗んでトイレなどに隠していた菓子類は、学校の心ない誰かに命令され、万引きで手に入れた盗品ではなかった。今なら分かる。アイドル総選挙のキャンペーン用に配布された応募シール。マオはそれを集めていただけ。菓子や文房具などは、協賛各社タイアップの商品であり、提携先のコンビニで取り扱っている対象商品を買わなければ貰えないそうだ。詳しくは店頭かWEBで。


「こんなもんかな」

 マオは回収を終えると、膨らんだ紙袋を抱えて201号室を後にした。僕もべランダから飛び降りて尾行再開。そして徒歩20分ほど歩いた距離にそれはあった。


 蔦の這う古風な住宅物件。周囲の一般家屋と比べると、さながら北欧か地中海あたりの世界遺産に、文化ではなく自然名義で登録されていてもおかしくない前近代的な昭和アパートだった。辛うじて読めた看板には『コーポ漣』とあり、木造平屋の104号室に姿を消した。


(どうする?ここで夜を徹して見張るのかね?それともべランダの窓が開くのを待って侵入するか)

(いえ、……ううん)


 僕はそこで黙考する。

 セピア色に褪せたコンクリートの床。玄関前には洗濯機が出され、ナスやミニトマトなどの鉢植えが置かれていた。身を隠すにはちょうどいい環境ではあるけれど。


(いえ、それよりも簡単かもしれません)

 振り向けば、敷地を囲む鉄柵があった。

 ひとつ閃いたことがあって、その鉄錆びた柵の隙間に紙片を巻き、攀じ登ってみる。


(行きますよっ)

 そして僕は振り子の要領で呼鈴インターホンに飛び込んだ。


「はーい」

 すぐにマオが対応に現れたところで、誰もいない様子に首を傾げつつも「……気のせいか」再びドアを閉めようとして、ふと足許で転がっている僕を見止めたのだった。 


「誰よ、こんな場所にゴミ捨てて……」

 作戦成功、マオは薄汚れたトイレットペーパーを指の先で摘むと家の中に持ち去ってくれた。荒廃した種々雑多な居住スペースにおいて、それでも生活ゴミが見当たらなかったので、誰かが定期的に掃除していると踏んで正解だったようだ。


 しかも、表面の紙を剥がしたあと、なんと僕本体はトイレの収納棚に突っ込んでくれたものだから気が利く。初めて学校で拾われたあの頃が懐かしい。


(なるほど、やりおる。念願の潜入成功か)

(……はい。ここまできました)


 トイレの小窓、天井の収納棚などは同様に健在だったが、便器は昔ながらの和式になっていた。僕が目覚めた学校のPタイルに近く、目地には汚れが溜まり、壁面には疵も目立つ。欧米では休憩室レストルームとも呼ばれる洋式便器のように、便座のフタを閉めれば椅子に代わって寛げる代物ではないので、マオたちの滞在時間は若干短くなったのは少し寂しかった。


 翌日。4月9日。


「ねえマオ」

 アイドル業を終えて帰宅した珠樹は、トイレで慌しく用を済ませるとティッシュで鼻を噛んだ。ちなみに番組のノベルティと称するそれは、僕が前回延命できたポケットティッシュの正体、事務所の非売品《在庫処分》だったらしい。


「ねえマオ、引越し業者とか節約した分、浮いた予算でネット回線引くってのはどう?名案でしょ」

「パソコンはどうするの?ダンボールで自作するのと次元が違うんだよ」


 さておき、耳心地は万感交々到る。トイレ時間は減っても、紙のように薄い壁自体はあおぞら荘より壁の隔たりがなく、姉妹の日常会話もしっかり聞き取れるのはありがたい。


「あーしんど。ライブ前にスパルタするなっつうの。本番で筋肉痛なったらロボットダンスになっちゃうじゃない。代わりの会場押さえたんで来週軽く死ねるわね」

「家では仕事の話、しないんじゃなかったんですか?お姉ちゃん」

「マオだって、ほれ投票用のハガキ見つけたぞ。あたしなんかのためにお金使うんじゃないって言ってるでしょ。あ、そういや最近帰りが遅い日も多いけど、まさかマオ、あたしに隠れて金稼ぎ《アルバイト》してるんじゃないでしょうね」

「お小遣いの範囲だからご安心を。労働基準法で15歳未満の労働は禁止されてます。ちなみに運転免許とHなゲームは18歳から。お酒と煙草は20歳になってからだったよね」

「じゃあ、最近帰りが遅いのはなんで」

「私、部活を始めたの。正確には大自然同好会だけど、もっと部員増やして部にするつもりだよ」

「何それワンゲル?」

「違うってば。どっちかっていうとサバゲーに近いかもね。それもリアル志向の」

「ふうん。遅くなるなら植木に水やっといてよ」

「分かってます。そういえば母さんって今頃北海道だっけ?さっき電話あった。病み上がりで出張とか、もう何考えてんだろ」

「それは同感だわ。夜のバイトは辞めたみたいだし、多少は懲りてるっぽいけど。仕事中毒は治ってないな。今度こそ帰ったらとっちめてやらなきゃね。ふん、もうすぐあたしのほうが稼ぎ頭になるんだから」


 驚いたのは過労で倒れた多摩川ユウは3日前に退院し、現在では仕事に復帰していた。2ヵ月を越える昏睡状態だったにも関わらず経過は良好だったらしい。


 良かった。非常に喜ばしいことだ。

 これで心置きなく影に徹せられる。


 細工は流々、すでに初日の時点で、僕の任務は果たしていた。

 正確にはハリス氏に依頼して『お祭り』を敢行、あくまでも自然な造形に。


 ミシシ……


 時計がないので正確な時刻は分からない。


 薄い床板を軋ませ、不穏な足音が木霊したのは午後2時、平日の昼下がりだった。


 壁のスイッチを押したパチン、という確かな合図が聴こえ電球が灯り、換気扇が回った。そして真鍮のドアノブがゆっくり回されると、生温い風を率いて中年男は姿を現わしたのである。会社員風のスーツは着ているが、係留中の細木敦とは違うタイプの営業係長といった風貌。口を真一文字に閉ざし、警戒しながらPタイルに敷かれた古新聞の床を踏んだ。白黒のタレ目パンダのスリッパがペシャンコに潰れていく。


 今日は手提げ鞄を抱えていない。代わりに携帯掃除機ハンドクリーナーを持参しており、男はそれを天井の換気扇に向け電源を入れた。控えめな駆動音と共にノズルの先端が空の空気を吸い上げていく。


(ハリス氏、ごめん。辛抱して) 

 換気扇の周りを掃除したあと、盗撮カメラの位置を直し、蜘蛛の巣を取り払った安堵から、今度は汚物入れ《サニタリーBOX》を素手で漁った。そこで取り出したるはシケモク。つい朝方、珠樹が隠れて吸っていた短い吸殻に再びライターで火をつけ一服している。


(稀にみる数奇者よの)

(ヘンタイの風上にも置けません)

(それにしても、よく分かったものだなパルプ君)

(僕も自信はありませんでした。できれば推理なんか外れてほしかった。姉妹同士の会話で『植木に水やる』っていう合言葉を聞いてもしかしたらと思ったんです。部屋の鍵を姉妹2人で共有しているなんて)


 このご時世で無用心すぎる。

 そうでなくとも貧乏という冠こそつけ「アイドル」の自覚を持つべきだった。


(あとは、あのストラップ。調べたら警備会社が売り出している商品だったんです、しかも護身用の防犯ブザーというより撃退用の防犯グッズだとか。元々は対ストーカー対策で通信販売されてたんですけども、それをマオと沙理奈が2人とも持っていた。出会った当初からです)


 2人仲良くなったきっかけ

 2人の共通点。


 中でも『ゲキタイ』シリーズは一部の被害者に絶大な信頼を得ており、携帯用小型の合法武器として知られていた。マオの焼き魚は電撃のスタンガン、沙理奈の場合は柘榴石ではなくハバネロの実をかたどった激辛スプレーだったのである。2人の中学少女は別の理由で個々に所持していた。現役アイドルのファンから守るために持たされた妹という立場と、そして化粧品会社のヘンタイ役員に付け狙われていた郷田財閥の会長令嬢という立場と。


 つまり先日逮捕されたのは、沙理奈サイドの犯人だった。


 変質者、ストーカーの多様化とは世知辛い世の中である。


 ともあれ、

 これで僕の役回りは完了した。

 探偵にでも報告して即検挙と、再発防止を求めればもうこれで……


 しかし、閑話休題。


 男の動きが固まる。

 誰かが玄関のブザーを鳴らしたらしい。

 ほどなくしてドアを開けた気配が。


 姉妹は今頃、2人とも学校のはず。それとも急用で何か忘れ物でも取りに戻ってきたのだろうか?否、病み上がりの出張から帰還した母ユウかもしれない。


「あれ、誰かいるの?」

 換気扇の音を聞いて女の声が降ってきた。続いてノック音。

 そうこうしているうちに男は息を潜めてドアの前に立った。ドアノブに手を掛け、携帯掃除機ではなく鋭利なサバイバルナイフが握られている。


(まずいな)

(仕方ありません、僕、いきます)


 鉢合わせしたら一巻の終わりだ。

 逆上した窃盗犯が、居住者を襲って強盗殺人に発展するケースは数知れない。

 僕は決死の覚悟で清水の舞台から飛び降りた。


「……うぐ、な、なんだ」

 僕は頭上の標的目掛け、電柱よろしく紙片を伸ばしに伸ばし男の視聴覚を遮った。息を殺した呻き声。鼻と目と口と耳を塞ぎに塞ぎ、顔面中心にひたすら絡み、巻き付いていく。が、それも長くは持たず胴体を鷲掴みにされて。


(いかん!)

 最大出力の大回転、狂喜乱舞に弾けた。

 内側に巻き込んでいた石油王が諸共に。その瞬間、(仕方ないな、小生も力を貸そう)僕は彼の指示に従って床に落ち、そのまま転がってホルダーの真下に移動した。そして紙登りで一気に装填完了。


「な、ドアが開かねえ」

 男がいくら力尽くでドアノブを回そうとも、鉛色に輝くその鎹はびくともしない。


(……これって、まさか石油王が) 

(左様、今この刹那、トイレ全体が小生の力場なり)


 定置ホルダーに据える条件を満たすと、トイレという限られた特定空間を支配する。それが付喪神『石油王』の力だった。普段使わない筋肉を使っているのか、本家ではない分家の限界か、頻りに苦しそうな唸りが漏れつつも。


「……うぐ、な、なんだよ」

 ついには便器の水が独りでに流れ落ち、男の度肝をさらに削っていく。


(小生の力も長く保たぬ。さて、40秒で選択を決められよ)

 ホルダーが震える一方、吸い込まれたハリス氏が掃除機の口から這い出、男の指先に絡みついていた。が、それも窮鼠の抵抗空しくナイフで切断され、無残にも水泡に帰す。


(みんな、ごめん)

 僕も覚悟するしかなさそうだ。

 男がノブから手を離した瞬間、僕は紙片を伸ばし、ナイフの握られた腕に巻きついた。「ま、またこれかよ」男が強引に引っ張るとホルダーに収まっていた僕は引っ張られ、電光石火のカウンターをぶちかました。返す刀でナイフを制する。


(絶対、ぐふはっ……離すもんか)


 串刺しになったのは望むところ。

 トイレットペーパーの芯深くまで貫通したおかげで、僕は凶器の効力を最大限封じることができた。切っ先を腹筋で締める。執拗に抉られ、蹂躙されようとも、体は自然と痛くはない。血も涙もない紙を舐めるなよ。道連れとなった石油王にはあとで本体オリジナルに謝らなくては。帰ったら、必ず。


「ちっ」

 男は舌打ちしを漏らし、根負けしてナイフを便器に捨て去った。


(……いいんだ、これで)

 徐々に霞み遠のく視覚、聴覚、触覚、意識。

 渦中の男は四方を振り仰ぐと、窓の半円クレセント錠に手を掛けていた。

 苦しげに腕を曲げつつ、上半身を捻じ込み、無理やり脱出を試みるようだ。あと少し、もう少し、腰周りのベルトと贅肉が邪魔して苦戦しているところで試合終了のゴングが鳴った。


 ガチャガチャと回していた仮締め《ラッチボルト》が開錠される。

 ドアを開けたのは、マスクにサングラスをした女の変質者だった。


「ったく、オレ様に尻拭いさせんなよな。捜したぜパルプ君、つーか雪谷司郎博士」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ