第5章【捨てる紙あれば、拾う紙あり◆3】
捕まった放火犯は一部容疑を認めているものの黙秘を続けているという。細木敦35歳、前科前歴なし、横浜に本社を置く大手化粧品メーカーの役員を務め、現在独身という情報以外はニュースに載っていなかった。『静物園』での検索では限界がある。気懸かりな案件は半分解消され、半分は五里の霧中。安楽椅子とはつくづく不自由な座り心地なのだと痛感させられた。尤も、僕の想像が当たっていたとしても、郷田建設の高級住宅なら大団円。売名騒ぎの批判家や過保護な信者になる気もない。後始末は警察にお任せ、火災現場から逃げ出したトイレットペーパーができる後始末など、誰かの尻拭い程度にも期待されていないのだから。
(初陣おめでとう、早々に下手人を挙げ大活躍だったそうじゃないかパルプ君)
(でも、これで僕も御祓い箱になっちゃいました)
殺人鬼『切り裂きジャンプ』逮捕!話題のトッピック記事を読んでいた石油王は嬉しげに賞賛していたけれど、僕はまったく素直に喜べそうもなかった。貴方も同じパルプ繊維の塊じゃないですか!などと反論する気力もない。
(何やら落ち込んでいるな。気分が優れぬようだが如何なされた?顔面蒼白の相がそこかしこに滲んでおるぞ。数多の屍より、人死にのない火遊びのほうが気懸かりかね)
(美都里さんみたいな台詞を吐かないでください)
(これは済まぬ。何せ飼い主に似るというからの)
(それは犬とか猫でしょう)
(小生も似たような性分よ)
(全然違いますよ、だって初対面のこんな僕にも話し掛けてくれたじゃないですか)
(ならば美都里殿もそうだったであろう?)
モノは言いようである。安眠妨害の首謀者を捕まえにきた罵声が脳裏を過ぎった。
(……石油王は付き合い長いんですよね。昔からああなんですか?彼女って)
(ふむ。そうさな)
彼は電子筐体の電源をOFFにした。
触手のように器用に紙片を転がして、どこか物憂げにデスクから静物園の展示会場を一望する。
(フリードリヒ3世だったか、2世だったか、神聖ローマの皇帝が行なった人体実験をご存知か?乳母や看護婦といった世話人たちが一切口を噤んで育てた赤子はすぐに死に絶えた、という愛情の必要性とコミュニケーション論。産まれて間もない赤子の世界に言葉はなかった。ただ、それだけのこと。尤も、新約聖書を引用するのは卑怯かな。だが仮にたった独りでも生き延びたとしたら、その赤子は誰に心を開いたろうか。天井の照明、シーツ、タオルケット、囲いのベビーベッド、哺乳瓶、机、椅子、窓、カーテン……モノとの対話が子守唄になって育ったとしたら)
(……でそれが、まさか美都里さんだとおっしゃるんですか?何かの譬え話ですよね?)
(うむ。かもしれぬ)
石油王にしては歯切れの悪い物言いだ。それでも赤の他人が立ち入れない領域もあるのだろう。僕もそれ以上の詮索はやめることにした。
(それはそうと、つかぬことを伺いますが)
(小生に答えられることならば、何なりと)
(ちょっと気になったことがあって。石油王はどう思われますか?憐れみと思いやりの線引きというか……人間はどこまで善意を受け入れられるのか)
(随分哲学しているようだな。経済大国となった大日本帝国とて、世界に目を向ければ幸福度は高くないと聞くぞ)
(おっしゃるとおりで。ただやっぱりそれは宗教や価値観の違いもあるでしょう。マクロな指標では実感が湧きませんし、数字の話をしたいわけでもなくて。もっと一般的で身近なプライドとして他人の施しは受けないみたいな人間っていますよね。小さな親切、大きなお世話みたいな拒絶するパターンと、そうでなく素直に感受するのと違いはどこからくるのか)
(ふむ。十人十色と言っては卑怯かな。小生はもう耄碌して受身の一方なのでな。しかし対価によって変わってこよう?愛は無償でも、人間が執着するのはそこではない)
(ああ、金の切れ目が縁の切れ目、でしたか)
(下世話すぎるかな)
(……いえ)
分かります。痛いほどに、切ないほどに。
(確たる自論は持ち合わせておらぬが、うむ。人間が発明したのは火と貨幣よ。そして貧困はヒトを獣に還した。最低でも衣食足りるまでだろうかの。貧すれば鈍する。とまれ仮令裕福な家に買われようとも、それだけでは決して全うな人間にはならなんだ。昔々あるところに親苦子楽孫乞食なる諺があったそうな。愚者は経験でしか学べない。富や財を築き上げた者にしか分からぬ境地。時の凋落を目の当たりにして苦労も買うに値しよう。どう転がっても鶏が先では困るのだよ。辛酸を舐める者、辛苦とそして苦楽を知る者は礼節も弁えているはずだから。無論、いずれしろ紙を無為に捨てる輩でない限り案ずる必要はあるまい)
僕はずっと考えていた。
漫画喫茶のトイレで多摩川珠樹のラジオを聴いていたときも聴く以前からも。
(やっぱり)
そして聴いて以降もずっと。もっと。
美都里の邪推がなくとも確かにそう、妹のマオは中学生にしてはしっかり者で、計算高く強かな一面もあっただろう。学校の備品を持ち帰ったり、宝くじ売場の鉛筆やボールペンを拝借したり、テスト勉強と見せかけて、トイレでこっそり懸賞品狙いのハガキを書いていたこともあった。それでも……
(何をしておるのかな?)
気がつくと扉に体当たりを食らわせていた。
無駄に、闇雲に、無意識に。
いくら鉄扉を押しても、悲しいかな衝突音すら響かない無力なトイレットペーパーの我が身が呪わしい。暖簾に腕押しでもいいから確固たる腕がほしいものだ。
(……おい大丈夫か?お主)
石油王のその厚く柔らかなロール体が、ひっくり返った僕を受け止める。
(僕は)
ここから出たいです。
自分でも驚くほど、すんなり答えは出ていた。
自分の推理は半分では飽き足らず、さらに半分も当たっていたら。完璧に推理できるほど僕は名探偵でも名助手でもない。それでも自分を過小評価したことで、他人が不幸になる結果を見過ごすぐらいなら名ピエロだって演じてみせる。
僕は石油王に礼を述べ、多摩川家の事情を話した。
(しかし無謀だな、部屋を出たところで何ができる)
(マオの通う学校名は憶えています。電車やバスを乗り継いででも自力で辿り着いてみせます。きっと。僕の予想が外れていることを確かめに行くだけですから)
(本気、なのかね?)
(……はい)
そもそもオカルト探偵に会うため、電車やトラックの荒波に揉まれつつ大海を渡ってきたのに、馬鹿な奴だと自分でも思う。人間に戻るほうが先決なのに、最重要課題なのに、その選択を先延ばしにして大馬鹿だ。家庭が貧しくても少女は人間、腐ってもトイレットペーパーの僕のほうが何倍も可哀相だろうに。
(そういえば、うむ。昨日は商品が幾つか売れていたな)
壁伝いに紙片を這わせ、陳列ラックを攀じ登っていく。目指しているのは展示スペースではなく、封筒やリボン、大小の段ボールが収納された作業台のほうだった。
(その発送住所に、確か神奈川のものがあったような。すでに梱包済みゆえに混入するのは至難の業だが、微細に千切った紙片を挟み込むなら造作あるまい)
そうか、僕の分身は一定範囲で感じる。視界は塞がれても発信器のように追跡マーカーを仕込んでおけば、それを尾行して周辺まで最短ルートで道案内してくれると。
(でも、それだと移動手段がネックですね)
大回転に自切と紙登りでどこまでいけるか。タクシーを捕まえてあの車を尾行してくださいとは言えない。それができたら運転手に行き先を告げたほうが早い。
カラン、コロン、カラン、カラカラカラ……
突如室内に響き渡った軽やかな物音。
おーいお茶の空缶が万有引力を無視してゴミの山を降り、こちらに転がってくるではないか。(おお、これは)石油王が紙片を上に伸ばして手招きした。
(彼はその昔、石原裕次郎という人物がドラマ撮影の合間に飲んでいた清涼飲料水の空缶さんではないか。自ら動くとは珍しい。うむうむ、その中に入れと。考えることは皆同じだな。当時灰皿代わりに使われていた貴殿は、底にこびりついた吸殻を掻き出すため一度蓋を刳り貫かれておるゆえ潜り込むには都合良かろう。パルプ君の痩せ細った胴回りなら申し分ない。嵐のような横殴りの雨風でもない限りは、大抵の悪天候を凌げる。うむ。次に課題となるのはそうさな。その武装でもって輸送車両に貼り付くにはどうすべきか)
僕には石油王の声しか聴こえない。
次に聞こえたのは、壁に掛かったホワイトボードから何かが降ってくる鈍い音だった。
(やはり噂をすれば、流石、お主が手を挙げてくれるものと思っていた矢先だよ。夏目雅子なる人物の住んでいた生家の冷蔵庫、その側面に備忘録を留めおかれたカラーマグネットのレッド氏が今回の適任者かもしれぬ。茶缶さんの材質はスチールではなくアルミ製で磁力に無反応だが、ほう、こうして顔を合わせると、底部の凹形とレッド氏の丸みを帯びた帽子部は凸形。噛み合わせは宜しい。そこに接着剤を塗り込めば強固な鎹になり、回転移動にも支障がないだろう。念のため留意点は、待機時に無関係な鉄屑を寄せつけてトランジット中に支障がないよう配慮が要るぐらいだ。あとは飛び上がる発射口かバネ仕掛けがほしいところだな。まずは後輪に踏まれぬよう注意して目標の車体裏に転がり込んで磁石を頭に縦向きになり、そこから上昇して貼り付けば一緒に運んでくれよう)
(待ってください)
話が飛びすぎだ。
(そんな、どうして僕なんかの)
僕の声が漏れていたとしても、高々会って一週間程度の新参者に手を差し伸べようという。外界は危険で溢れている。人間の恐怖を知らない御歴々ではないだろう。状況によっては片道切符かもしれないのに。
(決まっておろう。時に付喪神が人間に恩返しする伝承もあるそうではないか。そうでなくとも、志半ばで途絶えたモノ、行き場を失ったモノにとって、それがこうして希望を持ったモノを後押しするのは願ってもない。同志が大同団結する流れは、むしろ当然といっても過言ではなかろうて。如何せん、これとて当然であって必然ではない。過ぎた施しになるなら引き下がろう)
(……いいえ。とんでもありません)
僕は精一杯の感謝を込めた。伊達に長い歳月を歩んでいるだけのことはある。
(美都里殿には小生から伝えておこう。何心配は無用だ。これしきの謀反など児戯に等しいぞ。あの方はあれで結構な慈善家でもあるのだよ)
(はい)
次に手を挙げたのはレッド氏の隣だった。
(おお、そこにいるのはマイケル・ジャクソンなる人物が自宅で子供らの家庭教師を雇った当時に使われた指示棒の数々。なるほどその3兄弟諸君がいたか。伸縮式で最大690ミリメートルの長さに達するとは立派。互いに支え合いながら鼎立の構えで持ち上げれば)
神々しく光る銀色の指示棒。
(あ、でも待ってください)
僕は3兄弟のほうに赴いて頭を垂れた。
(お気持ちは嬉しいですが、頭ひとつ出ちゃいます)
発想は重畳、僕がFAX用紙の芯かサランラップだったら採用できただろう。指示棒が伸縮自在とはいえ、ボールペン程度の短さに収まっても標準サイズでそれ、僕の芯から出してしまっては90度でロケットのように立ち上がれない。
(左様か。では、次の者)
石油王の音頭から程なく、今度はカチ、カチ、カチ、と金属質のかち合う音が近づいてきた。これがダメなら次へ次へと諸手を挙げて、なんと頼り甲斐のある人材の宝庫か。
(これはこれは。誰かと思えば、戦後初めてノーベル物理学賞を取った湯川秀樹教授なる人物が参考資料のコピーをファイルに束ねていたホッチキス卿か。いや、惜しいな。流石に今回は縁がなかったと諦められたし。そうサイズ的に容量が大きくては芯内部には到底収納できぬ。何?違うとな?他に推薦したいモノがおると?)
そこで紹介されたのは、鉄道趣味人としても有名な藤子・F・不二雄が夜行列車のシートに忘れた爪切りだった。爪の飛び散り防止カバーの外れた彼は自らの意思で梃子の原理を発動し、力点である板を押し下げることができるらしい。
(何々、実演してみせてくれるとな)
Uカット型の刃がパクパクと動く。
(どうするんですか?)
(何、ひとつ待たれよ)
油圧ジャッキも使わず斜角45度から10度まで引き寄せたところで、石油王がその鑢掛けのスチール製板に乗り、ほとんど真上に一気に飛び離した。所謂デコピン砲といった趣向。その反動たるやホッチキスの比ではなかった。石油王の白き巨体が優に5センチは飛び上がったのだ。石油王の10分の1にまで磨り減った僕なら、さらなる上昇が期待できそうなほどに。
(すごい、これなら)
(安心するのは早い)
上昇実験は成功したものの、デスクに舞い戻った石油王の表情は完全に晴れてはいなかった。画鋲や消しゴムの文房具、ハンガーや洗濯バサミの生活雑貨、枕や座椅子の家具など各種コーナーを顧みて熟考を重ね、(うむ)自ら得心して口を開いた。
(車の乗り換えは何度も行なわれる。使い捨てにはできぬとなれば回収作業は必至。さて、ここはどうだろう、ジャイアント馬場なる人物が幼いころ父親に連れられ釣りをした思い出のハリス殿に頼るしかあるまい。彼を結びつけておけば、ジャンプが成功次第、芯の筒内へその都度引っ張ってくれようぞ)
(待ってください、そのハリスさんって今ガラスケースに収められている彼ですよね?)
ハリスとは釣針を結ぶ糸の総称。古びた川釣り用のパッケージにはハリス0.4号と書かれており、海釣りより比較的細いタイプではあるけども、隙間を抜けるのは適わないだろう。
(大丈夫。案ずるなかれ、元来ここは防犯目的で施錠された代物ではないしのう)
僕の心配は杞憂だったようだ。
その口ぶりから、初めての『家出』ではなかった様子。
マネキン人形の上半身が突如、不自然に球関節を曲げ、のっそり地を這って動き出した。手に握られているのは錆び付いたカッターナイフ。ギチ、ギチ、ギチと刃先が独りでに伸び、不器用で遅々とした緩慢な動作ながらケース扉の隙間に刺し込まれた。自律可動のセルロイド人形はしかし赤子の腕力にも及ばず、固まってピクリともしない。代わりに後方からゆっくり転がってくるのは車のホイールタイヤ。(よし、そこで構えよ)石油王の号令下、阿吽の呼吸で一気呵成に加速をつけるや否や、人形の無防備な背面を押し、その衝撃で生じた僅か数ミリの隙間から、蚯蚓のように体をくねらせたハリス0.4号が見事脱出に成功したのだった。
(あとは小生を数枚、巻き添えてみよ。双方の連携強化する上で橋渡し役にはなれよう)




