第1章【学校のトイレ】
理不尽こそがリアル。
僕の記憶が確かなら、世界は理不尽に優しくできていた。例えば素行不良の輩がポイ捨てされたゴミのひとつも拾おうものなら警察から感謝状を与り、交通事故に遭い大黒柱の父親が亡くなれば生命保険金による裕福な暮らしに返り咲き、24時間マラソンで輝かしい汗水を流した芸能人には恵まれぬ人々から称賛を浴び、不治の病に冒され余命を宣告されて初めて愛を知り、無名だったピアニストは記憶を失ったおかげで世界的スターダムに踊り立ち、バス停に不法投棄された消費者金融のベンチが老人たちにとって憩いの場となるような平和な世界。理不尽に寛容なリアリティ。嗚呼、それがどうだろう。
(ふっ)
愚かな。この僕がトイレの尻拭き紙だと?
悪いのは僕じゃなくて世界のほうだ!と、自嘲気味に皮肉を込めて世界を呪ったところで、何も解決しない。それは充分わかっていた。しかし、それでも自棄にもなろう。トマス・ハリス著『ハンニバル』には確か、人間の最低な属性を愛好する【残忍な拷問】展が開催されていた。いくら僕に記憶がなくても、フェル博士の眼鏡に適うような人間だったはずがない。
徒然なるままに、日暮らし硯に向かひて、心に映りゆく由無し事を、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。
嗚呼、暇を持て余して灰色の脳細胞が変になりそうだ。
灰色、白、真っ白。
(誰か、いませんかっ!)
虫の居所が悪かった雷神様も鳴りを潜め、一過性のゲリラ豪雨と思しき深夜の嵐は朝陽が射す頃にはやんだ。どこからともなく烏や雀の囀りを聴きながら、春眠暁を覚えずとは言えぬ一夜を明かした僕は、当初の推測どおり学校であることを自覚するのだった。新しい朝、希望の朝、喜びに胸を開けることはない。錯乱も発狂もせず徒々受け入れているだけマシなのだろうけれど。
恐ろしく静かな、
何もないトイレ。
(せめて、ラジオ体操でもできればな)
寝返りが打てなくても、平気な体。
少なくとも、僕は金属アレルギーではなかったらしい。
やがて天井の隙間から射し込む曙光の明かりが映える。
錯視バイアスを挟まなければ、目算1.2×0.8M=1畳弱、なるほど1平方ヤードぐらいか。広く見積もってもJIS規格A0サイズかもしれない。
「おっはー」
正面の扉に鍵はしていなかった。前方、唯一の出入口。半開きというのには狭き隙間。声変わりの途中なそれは、僕に対して発せられた挨拶でないことは百も承知である。
「今日早いじゃん、遅刻の常習犯がよ」
「お前こそ」
「こっちは部活の朝練」
「バスケ部か」
「おいおい隣に来んなって、1コ空けるの常識だろが」
「いいじゃん、減るもんじゃあるまじろ」
「朝から寒いっつうの」
「……うぐ」
「どったの」
「くっせえ、誰だよウンコしたの」
「言っとくけど俺じゃねえ、朝便する神経の図太さあっかよ」
「あー滅入るな。せめて流して行けよ。マジありえねえから。闇の炎に焼かれて死んでほしい。昨日は昨日で夜中にカミナリ落ちたろ、一瞬停電してPC飛んじまったし」
「つか、あれって3時過ぎじゃん。そんな時間まで何起きてんだ?深夜アニメぐらい録画しときゃいいのにさ。JUMPのフラゲ待機かお前は」
「うちMX映りわりぃんだって」
「お、何だよ珍しい面子じゃん、2人して連れションか」
「ぐーてんもるげん」
「うっせ」
「お前らのクラスあれだろ、3限目って自習らしいな、理科の小林欠勤みたいでよ」
「あの先生って毎回仮病じゃね?」
「ははは、モノノフ信者だかんな。てか今朝駅前でグリーンジャンボ買ってるの目撃したばっかだし、嫌だねぇ教師がカネで夢買ってる姿ってのは。教育上よろしくないじゃないの」
「努力が必ず報われますように」
「それよか自習なら、PSP持って来てるしモンハンでもやっか」
「委員長にチクられるはマジ勘弁な」
「あの眼鏡、サッカー部の部長と別れたんだろ」
「リア充どもに同情なんかしてるだけ無駄だわ」
「んじゃお先」
「あ、あとでノート写さして」
「じゃあトリコ23巻、貸せよ」
薄板一枚を挟んで飛び交う、少年たちの日常。
他愛ない会話はその後もいくつか仄聞できた。
(……ううん、まいったな)
そう、まず残念なのは、ここは女子ではなく男子トイレだった。
たとえ声変わりしていなくても、男女の区別はつこう。
さておき興味深い。いくつか新たに判明した観測事項を挙げると、まず春季宝くじ《グリーンジャンボ》の発売時期からして現在は2月から3月、MXとは何の略称だろう。メキシコの国名コードか?磁束の単位か?大陸間弾道ミサイルにも似たような通称があった。
また彼らの会話から「理科」という単語が出てきたので中学校か小学校だろう。高校では理科とは呼ばず、物理や化学、生物などに分かれているはずだ。
≪キーンコーンカーンコーン≫
チャイムが鳴った。
文科省の学習指導要領では小学校が45分を一時間とし、中学校は50分となっているが、あいにく5分の差を感知できるほど僕の体内時計は優秀ではない。次の休み時間を見計らって理科以外、同じ必修教科の「算数」か「数学」によって小中学を絞り込むしかあるまい。ちなみに高校は必修教科ではなく必履修教科と呼ぶ。なるほど自分にまつわるエピソード記憶とは違って、意味知識だけは無駄に豊富なことよ。そういえば徒然草の序段も諳んじたのだから、僕は中学生以上の年齢なのは確定だ。
小便ゾーンから反響する声々。
(この感じはあれか)
加えて判明したのはトイレにおける位置座標だった。
声の反響、屋外の喧騒などを比較した結果、僕の大便用ブースは、最東端の窓際と思われる。思春期の多感な時期もあって、いくら早朝とはいえ大便をする生徒は少数派。先刻の「臭い臭い」と叫んでいた便器は僕のすぐ隣だったが、僕のところにまで臭いは十分届いていた。驚くべきことに、認めたくない新事実を明記しておくなら、その臭いは決して鼻をつまみたくなるような異臭ではなかったことだろう。僕にとっては生理的に好きな……というべきか。どうやら僕という人間は余程の数奇者、いわゆるヘンタイの傾向があるのかもしれない。
閑話休題。
(……か、化学変化、また「か」になったな)
(カーボンフットプリント制度、次は「ど」だから、ええっと)
授業時間というものは退屈だと思っていた。
50分にしろ45分にしろ大同小異。現に、今の今まで暇を持て余していたのも事実であり、
(土類金属元素)
(ソーシャルメディア)
(アナル)
(ルックイースト政策)
少しでも失われた潜在記憶を掘り起こそうと、『しりとり』で無聊を慰めていた僕は、しかし
(黒揚羽)
(ハイレグ)
(グラム陰性通性嫌気性生物)
のあたりで突如思考を中断させられた。
ドクンドクン……
紙ゆえに心臓など無いはずなのに、脳内に鼓動が響く。一気に緊張が走った。それもそのはず、黒板にチョークを叩く音すら届かない、静まり返ったトイレのタイルを踏みしめる跫音がするではないか。微かに衣擦れを伴って、並々ならぬ気配がまっすぐ小便ゾーンを横断してくる。
予期せぬ事態の急変。
しかし合点も行った。
そうか、授業中に抜け出して大便をしようという魂胆なのだ。
……ごくり、と生唾を飲み込む。
なぜだろう。一縷の望みといっては滑稽だが、それまで僕は心のどこかで期待していた。もしかしたら、僕がトイレットペーパーになったという現状認識は最悪のシナリオに過ぎず、実際はただ単に手足を拘束された『男』がトイレに幽閉されていただけ。そうでなくても、僕自身からにじみ出る異質な存在に気付いてくれるかもしれない。絶望的な状況が打破されるのではないか、と。そんな希望的な現実逃避を。
半開きの扉が大きく開き、入ってきた少年。
小太りの体形に、新緑色のジャージを着た。
(おーい、そこのキミ)
(ここだ、こっち見て)
「……」
変化はない。視界には僕も入っているはずなのに。下腹部を抱え一心不乱に便器に跨った少年は、意に介さず、ジャージのズボンをスパッと下ろすや否や、忌々しき雄叫びを轟かせながら恩沢洪大な怪物大王を召喚せし最大限の神秘劇でもってこれを享受し、やがてほどなくすると、魔界の恒久平和を成し遂げた勇者のように顔破したきり、長い溜息を吐くばかりだった。(嘘だろ、なあ少年、僕はここにいるぞっ!)
使命を果たした余韻の後。
少年が、ふと顔を上げる。
次の瞬間には、
(そうだ、見えるだろ?)
僕の訴えに気付いたかのような熱視線。明らかに視線が交わった。電気が走ったといっては大げさかもしれない。それでも本当に待ちわびていた。右も左もわからない不安な一夜を明かして今日ここまで、僕という不思議で不確かな存在が初めて認識されたのだから。良かった。透明人間とは違うのだよ、透明人間とは。こんな嬉しい出来事が他にあっただろうか。記念すべき未知との遭遇。
「……ふうっ」
だがしかし、差し伸ばしたその手はやや下方。
無言で無慈悲に引っ張り始め……
目的はあくまで僕のカラダだった。
くるくるくるくるくる。
お代官様、あーれーか。おやめください!
僕の一部を切り取って、それを、まだ下の毛の生え揃っていない股間にあてがい、死屍累々たる暗黒物質の残滓を拭おうという強い意思表示。手というか足というか体を引き千切らんばかりの破壊的感覚がありつつも、かといって鼻の穴からスイカが飛び出るほどの激痛には及ばない。意外や意外に、そう。せいぜい鼻毛が一本抜けたぐらいの短い衝撃に見舞われた。
(というか、あれ?)
切り替わった視点。
少年の掌、柔らかい体温に包まれているのがわかる。
分裂したもうひとりの僕が仰ぎ見る一瞬の天井と、そして鬼門への暗渠。
(待っ)
嗚呼、僕は実感する。
無言の、優しい愛撫。
強引にキスさせられた肉感的な感触。
それは元来忌避すべき芳醇で甘美な、チョコの味に似ていた。
ちょっとビターなブラックチョコレート。少年が糖分を分解できない体質だったわけではあるまい。糖尿病だったとしても。まるでこれではレクター博士だ。彼はアレクサンドル・デュマ著『料理大事典』を愛読するほどの美食家にして殺人鬼。あくまで僕の記憶は一般常識の意味記憶だと信じていたし、今でも基本的にその方針は変わらない。間違っても、マドセン著『カニバリストの告白』ではないわけで、木曜クラブだのゲルマニア友愛会だのが狂喜乱舞するような背徳感に酔いしれるつもりは毛頭ない。
(でも、それでも)
どのくらい、浸っていただろう。
水に溶けると再び視界がぼやけ、次の覚醒では元のロール本体に戻っていた。
ジャバア……
ジャバジャバジャバアアアア。
ナイアガラの大瀑布さながら、眼下の便器が勢いよく唸る。あのまま配水管に流されてしまっていれば幸せだったろうか。否、断じて違う。天井の染みを数えるには億劫なので、床タイルの目地を愚直に眺めながら沈思黙考する。
洗礼、イノセントワールド、努力家、カストロ議長。
人間の体には、100兆以上の菌が生きているという。体重50キロなら2%の1キロ。菌が最も多いのは大腸、大便は食べ物の残り滓だという認識が強いけれど高々5%に過ぎない。大便の3分の1から2分の1は大腸内などに棲む菌の屍骸であり菌そのもの。(ちなみに家庭で使用される受皿付きブラシが最も汚い。ブラシ1本あたり100万から8億個の細菌と、10万から300万個のカビが付着しているとの調査結果もあるようだ)今のジャージ少年には、何か特殊な菌を体内に宿していたのかもしれない。世の中には解明されていない細菌類のほうが多いのだから。また、未消化のB群ビタミンなどを補給するために排泄物を食す、食糞の習性がある動物だってごまんといる。仮に、仮にだ。百歩譲って千歩譲って万歩譲って、僕が正真正銘のヘンタイだったとしてもだ。人肉を好む殺人鬼よりよっぽど健全なヘンタイ紳士でなかろうか。
さらに約1時間後。
≪ピンポンパンポン≫
午前の授業が終わってしばらく。校内では何事もなく日々のルーチンが消化されていく。軽快な電子鐘を挟んで
≪生徒会執行部より業務連絡です。風紀委員のタナカさんと会長のスズキさんは生徒会室までお越しください≫
校内放送が流れると、昼休みだと考える。
学生も教師も、通常通りのランチタイム。
授業の合間にある各10分の休み時間とは異なり、職員室や進路指導相談室に呼び出すタイミング的には昼休みと放課後が適任ということなのだろう。
≪ピンポンパンポン≫
≪1年5組の村田、至急教務室の担任まで来なさい≫
尤も、僕には関係ないけれども。たとえ記憶が戻って僕の名前が呼ばれたとしても、ここから脱出できなければ死んでいるのと同じ。
(……さて、どうするか)
腐っていても仕方ない。問題は解決しないのだ。
まして、木を見て森を見ぬうちに諦めるなんて。
情緒豊かな中学生。僕の声が通じる生徒が1人ぐらい混じっているかもしれないではないか。霊感の強いオカルト部員や、信心深い神社の巫女さん、あるいは、そう。それこそ僕をこんな目に遭わせた『張本人』が何食わぬ顔でのうのうと校舎内を跋扈している可能性だってあるではないか。
室内の空気が穏やかになった頃。
今度は、学ラン姿の長身男子がやってきた。
予めトイレに誰もいないのを確かめ、周囲を警戒しながら静かに扉を閉めて。何か様子がおかしいと思ったら、制服の下に隠していたのはひょっとすると昼食の弁当ではないか。
(わざわざ、こんな不衛生な場所に?)
噂の弁当男子という言葉が浮かんだ。
意味合いは異なるけれど。
しかし同情の余地はない。
僕のこの現状と比べたら、まだ生身の人間でいられるだけ幸せではないか。
(おーい)
「………」
やはり僕の声は届かない。
和式便器の金隠しに器用に腰を据え、こちらに背を向けて弁当を貪る。その肩は気のせいか震えていた。努々勤勉な好青年タイプとお見受けするが。
同情はしない。でも彼の孤独ぐらいは共感できるか。
≪孤独とは港を離れ、海を漂うような寂しさではない。本当の己を知り、この美しい地球上に存在している間に、自分たちが何をしようとしているのか?どこに向かおうとしているかを知るための良い機会なのだ≫それはドイツの哲学者の言葉。自分の居場所は自分で探して、自分で決めるしかない。
さておき、そうか。弁当とな。
この学校は給食制度を取り入れていないのか。2009年の文部科学省の調査では、日本の完全給食実施率は小学校で約98%、中学校では約76%ほどだったと僕の記憶が訴えている。一見すると確率的には後者の可能性が高くなった。況んや少年は、学校指定の学生服を着ている。一部の私立校を除けば私服上等の小学生の可能性はちょっと低い。先刻のジャージ少年の場合、生えかけの陰毛だったのもその証左となろう。そもさん、今さっきの校内放送。僕の一般常識に狂いがなければ、生徒会なる自治組織は中学校からだったと記憶している。
(なるほどね)
ここは、小学校ではなく、どこぞの中学校。
義務教育の最終ステージ。
重箱の隅をぼんやり見つめる少年の背に、僕は神妙な眼差しで頷いた。