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第5章【捨てる紙あれば、拾う紙あり】

 多摩川珠樹はスカートの糸屑をさっと払った。


 トントン、履き潰したパンプスの踵を正すと、真新しいモザイクタイルの地面を踏みしめる。直前、正面玄関の手前に並んだ石材支柱のガラス鏡面に顔を映して寝癖を直すことも忘れない。耳にイヤホンを挿しラジオではなく新曲音源デモテープを流し、時折り黒縁眼鏡のフレームを直射日光に反射しながら、その長く流麗な黒髪を微風に靡かせ、塗りたてのアスファルトを闊歩していく。2駅隣の県立高校に合わせて新調した素朴なセーラー服を着こなす脚部のアンダーライン、活発媛麗なる太腿から踝にかけての所々にハート形を模した絆創膏が貼られている他は目立った外傷はなかった。空気より軽そうな学生鞄とは別に、肩には大きく膨れたボストンバッグが提がっており、鼠の尻尾がはみ出している。事務所のHPで告知されているドラマ出演時の自前衣装、各1話60分につき約2秒の時間に満たない端役エキストラとはいえ、主人公の友人の友人が通う学園内を神出鬼没に登場する妖怪スクールネズミ役に抜擢された、そのくねっとした黒塗りの尻尾というのは、なるほど壊れた電源ケーブルを手直しした付属部位であると気付いたときには恥ずかしげもなくファスナーを開け力任せに押し込んでしまった。


「あ」

(あ)


 閑話休題。


 電柱の陰から彼女と視線がぶつかった途端、珠樹本人がこちらに近づいてくるではないか。「ちょっと、そこの」誰何すいかするその声は間違いなく探偵へ一直線。その延長線上に、後ろで知り合いが手を振っているのだとしたら、彼女は清涼飲料水の自販機に話しかけていることになる。彼女にもオカルト気質の感応能力が具わっていたのなら、僕は疾うの昔にヘンタイストーカー罪の現行犯で捕まって在宅起訴されていたはずだ。


「すみません、あたしに何か御用ですか?」 


 僕、否、張り込み中の美都里は恐れ戦く。

 イヤホンを外し、万人受けしそうなスマイル全開の笑窪を表わしながら、牛乳瓶のフタと形容すべき度の強いレンズの奥では鋭い眼光が睨んでいた。先刻の職務質問よろしく、帽子にマスクにサングラス、そして白昼白衣を着た変質者に対する扱いは、心理学的に確証バイアスと呼ばれる典型なので弁明の余地もない。


(だから帰りましょうって言ったんですよ!)

「いや、だって、せっかく来たんだぜ?お姉ちゃんの無事も確認しとかなきゃダメだろ」


 妙なところは律儀な探偵なのだ。

 人見知り改め人間嫌いの美都里が芸能人の、それも女のアイドルに興味もなかろうに。相手が歳下の同性とあって、警官と対峙するよりは自信があるのだろうか。


「なんですか?」

「あ、いえ、……別になんでも」

「ファンの方ですよね」

「……あ、いえ、全然」


 しかし常在戦場の珠樹に一点の曇りなし。

「いつも応援ありがとうございます」

 咄嗟に、美都里の手が仰々しく両手で握られた。珠樹の髪の毛がマスク越しの僕の鼻腔を掠めそうになる。透き通る柔肌には、青筋の血管が浮き上がっていた。


「握手やサインが欲しかったら、いつでもおっしゃってくださいね。写真はちょっと遠慮したいですけど、他の住民の方に迷惑が掛からない場所だったら何なりと。こんな駆け出しの貧乏娘で宜しければ誠心誠意、全力で期待に応えようと頑張る所存です。ただ、僭越ながら最後に一言だけ」

「……え、あ、はい」

「次、ここで会ったら問答無用で110番しちゃいますから、そのおつもりで」


 蹴られた。


 と思った直後、美都里が後ろを振り返ると、自動販売機の側面が凹んでいるのが分かった。被害は極めて限定的とはいえ、その薄い鋼板に後ろ回し蹴りが衝突した音は、至近距離ということもあってなかなかの大反響だった。


 今しも渡そうとしていた探偵名義の名刺が、ひらひら地に落ちる。

 挙句サングラスが片方、まぬけにズレている始末。敷居を跨げば七人の敵がいる、とは男社会の教訓ばかりではないらしい。珠樹は眼鏡を持ち上げ、好戦的な眼光をそっと収めると、再びイヤホンを挿して泰然自若と踵を返した。


 麗しき瞳、凛とした後ろ姿。

 前を向き、颯爽と歩みゆく。


(……タマ)


 僕の役目もこれまでだ。

 僕らは保険会社の免責事項を調査するスタッフではない。

 僕自身、当初の希望は叶えられた。放火事件と多摩川家にどんな関わりがあろうと犯人は捕まり、姉妹は生きてる。美都里の推理を鵜呑みにするつもりもなかった。姉妹の無事が見届けられたら僕は満足、これで心置きなく自分自身と向き合える。


「んじゃあ、オレらも行くか」

(……え?)


 珠樹の後ろ姿を見送って10秒足らず、美都里は大仕事を成し遂げたような口調で名刺を拾い上げ、サングラスを掛け直した。


(行くってどこにですか)

「決まってんだろ、奴さんを尾行すんだよう」


 意気消沈するどころか、やる気満々の笑み。

 回復力は人一倍、その打たれ強さの半分でも本番で発揮できたらいいものを。


 美都里はスマホの待受を覗いた。午前9時。

 学校まで乗り込んで一緒に授業を受けんばかりの勢いが、しかし信号を渡って大通りに面した道すがら、スモーク張りのワゴン車が停まり、珠樹を攫って走り出した。もちろん攫うというのは比喩で予め示し合わせた事務所の車両だ。


「MG的な足だな、ありゃ」

(あ、マネージャーですか) 

「学校がフレックス制を導入してるわけねーよな。ドラマの撮影かも知れんが。とにかく車がなけりゃ話にならねえ」


 愛車を停めた空き地は大野2中。戻っている余裕はない。駅周辺だから空車のタクシーには困らなかった。


(どうしました?通り過ぎちゃいますよ)

「……いや、ちと待てよ、タクシー乗ったら運転手と何しゃべりゃいいんだよ」

(ほら早くしないと!あとサングラスも外して)


 渡りに舟のタクシーとて、尾行以前に乗車拒否されては元も子もない。「分かってら」今回は僕のアドバイスに反応してくれ、授業参観の父兄にアピールする生徒よろしく恭しく手を挙げ、どうにか個人タクシーを停める成功を収めた。


「お客さん、どちらまで?」

 サングラスを外した途端、目が泳ぎだす。車内鏡ルームミラーの視線を怖がるとは筋金入りだ。おまけにドアが閉まって早々沈黙に耐え切れなくなったのか、マスクまで取ってしまったものだから、僕の視界はポケットの中に消え暗闇に包まれた。


「前の車を追ってください」と第一声を振り絞ってからは、満を持して加速度も加わって安堵したものの「前の車ですか?」「……は、はい」車内の会話は極端に聞こえ辛くなった。白衣の裾をきつく握り締め、タイヤの振動とは別の小刻みな震えが伝わってくる。


「じゃトラックを追いますよ」

「え……あ、はい」


 なぜそこで肯定する!

 途中で割り込みされた車じゃないか。


(おーい、美都里さん)

 ハンドルを預かる年配の運転手、その背中に怯える必要がどこにあろう。挨拶程度に天気の話でもすればそれでいい。運転手は後部座席の客に対し、職業的にも倫理的にも物理的にも危害を加えることはできない安心安全な生き物。誰もがトイレで用を足す背中の次ぐらいに無防備な背中なのだ。臆するな探偵よ。


「……円になります、はい。どうもありがとうございました」


 視界が蘇ってきた。

 フリスクのミント味が包み込む。

 灰色の地平と排気音。そこは県道52号線、道路沿いのロードサイド店舗らしきコンビニの前だった。案の定、尾行は失敗に終わったのは言うまでもない。そして僕が慰めるよりも迅速に気を取り直していたのも、美都里にとっては通常営業なるかな。


「くっくっく」

(不気味に笑わないでくださいよ)  

「どうせオレを軽蔑してんだろ?トイレットペーパーの分際で10年早いぜ」

(何もそんな誤解ですって。僕はですね、ただ確かに心底呆れ果ててますけど、感謝こそすれ、軽蔑なんて絶対しません。それに美都里さんも懲りてなさそうですし)

「ったりめーだろ」


 白衣の裾を翻し、逸る歩調に期待が弾んでいる。


(やっぱり、あれで諦めたんじゃないんですよね)

「まァ探偵廃業するつってもな。首を突っ込んだからには、容赦しねえのがオレ流なの」

(でも、どうやって)

「珠樹ちゃんが近づいたとき少し触ったんだよ、年季の入った10年選手のバッグさんをな。咄嗟に一言だけ読み取ってたから」

(あの一瞬で、そんな早業を?)

「キーワードは病院」


 病院とは、ひょっとして父親だけは実害を被っていたのだろうか。

 一抹の不安が過ぎる。


 歩いて愛車に帰還後、美都里は煙草を吹かし、コンビニで大量生産された惣菜&菓子パンに舌鼓を打ちながら小腹を埋め、スマホの地図検索を済ませて準備は万全。これでハンドル捌きがうまければ申し分なかった。


(シートベルトはしないんですか)

「今からするとこだっての」

(一時停止、忘れてますよ。それとスピードも注意しないと)

「さっき職質受けたから大丈夫じゃねえの」

(地域課と交通課は別なんじゃないですか。いや、そういう問題でもないし)


 ゲーム感覚の急発進に急停止。

(うわっ)

 出発早々なかなか心臓に悪い。本来助手を首にして日が浅いとはいえども、もう辞めたいと駄々を捏ねているけれども、安楽椅子から一歩でも外に出ると、なるほど安楽死どころか悲惨な死に方しかできそうにないらしい。このオカルト探偵殿は。


(県境ですから。このあたりは相模原署や町田署とか色々厄介なので用心に越したことはないんです)

「はいはい」

 彼女は彼女で唇を窄めている。


「お前はマジ口ばっか達者だな、ナビも碌にできねーで。交換条件の助手見習いって立場を忘れんなよ。この件が片付いたら死ぬほどこき使ってやっからな」

(わ、分かってますよ)


 探偵の助手。

 そういえば彼女は僕に何を期待しているのだろう。自分の無力さは否が応にも自覚している。指先にこびり付いた米粒やパンの食べカスを拭ったり、排泄物の処理で帳尻が合うとは思えない。彼女の価値観と僕のそれは、便器のトイレと容器のトレイほどの意味合いの落差を生じ、世界最大のサハラ砂漠よりも大きくドライな開きがある。こうして病的な対人恐怖と抗ってなお、僕の希望に尽力してくれるのは嬉しいけれど。


(……って)

 考えているそばから強烈な遠心力。


(危なかった)

 カラン、コロロン、何かがぶつかって反響している。

 察するに路上の空缶を轢いたらしい。


(あのですね美都里さん、お願いですから、もう少し前方確認とか安全運転してくださいね)

「うっせーな、探偵が事故なんぞ起こすか。かもしれない運転つってな。右からボールを追っかけた糞ガキが飛び込んでくるかもしれない。チャリが信号無視してくるかもしれないとか、可能性を検討すんのはオレ様の専売特許だし」

 そこで急に反撃とばかりに熱弁を揮う探偵運転手。


「近道しようと路地裏に入ったら殺人鬼が潜んでいるかもしれないとか。あの殺人事件は冤罪だったかもしれない。犯人はまだ生きているかもしれない。被害者とグルかもしれない。被害者たちの中に犯人が紛れ混んでるかもしれない。この世のどこかに、もうひとりの自分がいるかもしれない」

(なんですか最後のそれは。いわゆる二重存在ドッペルゲンガー?)

「あ、間違えた。オレが言いたかったのは微妙に違うな。要するに、あれだあれ、1人の人間が2つに分かれるとしたらって話。ピッコロと神様みてえに」

(えっと、デカルトの心身二元論ですか)

「そうそうそれ。松果体だっけ?脳の中継点でもって精神と肉体を統制してるってやつ。階段から落ちたり雷に撃たれたり、何か突発的な衝撃で両者が分離しちまってよ、運が悪いことにIPS細胞みたいに片方だけ修復してたらどうなると思う?」

(……それって、今の僕がそうだと?)

「可能性の話な。仮にお前の本体がどこかに生きてて、記憶つーか思い出の大部分を持ってかれた人間のお前が普通に社会生活してたらって考えてみたわけよ。嫌なこと全部忘れてイチからやり直してるようなら、今さらフュージョンしても断られるんじゃね?」

(もうひとりの僕、ですか)


 美都里は煙草の灰を捨てた。

 時々意味不明な単語が入っていたが、彼女が言わんとすることは何となく分かった。もちろん、散々運転に文句をつけられた腹いせだろう魂胆も含め。


「よっと、ほら着いたぜ最寄りの病院」

 正門を潜り、広大な駐車場の隅に車を乗り入れ、エンジンを切る。

 緑豊かな樹木に囲まれたその一帯は、売店や喫茶店なども出店するかなり大きな診療施設だった。重厚感の漂う、古色蒼然とした灰色の建物が中心地。


 市内の国立病院。

「ふむふむ、こいつはすげえ偉いな。半世紀は越えてる年代物さんじゃねえか」

(ここに多摩川家の親族が?)

「ちょい黙ってろ、今それをお訊きしてんだっつーの」


 総合案内の窓口フロアを尻目に、美都里は白い壁や支柱に触って建物本体から聞き込みを続行する。ちなみに、マスクと白衣の組み合わせはまったく違和感なく溶け込めていた。サングラスを外してからは、「よし、行くぜ」足許のリノリウム床ばかりに焦点を合わる不甲斐なさを除けば問題はなかった。


(本当に、ここに入院してるんですね)

「同姓同名ってわけじゃないなら、多摩川ユウってのが入院してるってよ。もう随分前にな」

(……ユウ)

 

 お年寄りや子供たちの喧しい嬌声、外来患者の間を縫って一般病棟を探し歩く。道中、医師やナースを警戒しながら、車椅子用の手摺や配膳用の台車にナビゲートされたり、エレベータに階数ボタンを押してもらったり『お近づき』になった病院施設の助力を借りてまっすぐ病室に向かった。


 南病棟4階。脳神経外科、眼科、泌尿器科。

 一般病棟の面会時間は午後8時まで。個室ではなく大部屋だったため少々の滞在なら怪しまれず、空いているベッドを指して他人の面会者を装えばいい。


 さりげなく、ユウという人物を観察できれば。


「どうやらその必要はなさそうだな。ふん」

 開口一番、僕の思考を先回りするように、美都里はマスクの裏で独りごちた。

 多摩川ユウは眠っていた。

 仕切りカーテンの向こう、窓際の白いベッドの上。

 珠樹、珠緒、2人の面影を有する40代前後の女性が安らかに。


「こりゃ昼寝って感じでもねーよな」

(静かですね、ほんとに)  

「昨日今日っていうよか、あれだ、植物人間的な?違うか。いくらオレでも人間を触ったところで記憶は探れねーし。何か周りに思い出の私物でも置いてないかねえ」


 美都里が不躾に顔を覗き込む。

 マスクを通して、僕も急接近。

 母親は昏睡状態?

 少なくとも呼吸器系の器具や心電モニタなど、仰々しい生命維持装置は取り付けられていない。火災とは別件で、すでに床に臥していたのだ。


 御母堂のベッド脇に、据えられた小机。

 花瓶の隣に写真立てがあった。

 正面の椅子に座った母親ユウ。

 産まれたばかりの珠緒を抱え、

 3歳ぐらいの幼い珠樹、そして父親の4人家族が寄り添うように写っている。


 記念といえば記念でもあり、平和な日常を切り取っただけの何気ない一ショットかもしれない。自然に零れた子供たちの笑顔と、慈愛に溢れた両親と。質素で慎ましやかなリビングといい、普段着の地味な感じから、お世辞にも裕福な家庭ではないかもしれないけれど。紛れもなく多摩川家の家族写真といえる。


「どうかしたか?」

(……そ、そんな)


 写真の父親は僕の知らない顔だった。


 僕の記憶では一度か二度ほど、トイレを利用したのは電球を取り替えたり姉と同じく隠れ煙草を吹かしていたのを遠巻きに見ていただけだが、それでも人間の印象など7秒もあれば充分。間違えるはずがない。


「どれどれ、写真立てさんに訊いてみっかな」

 美都里が手を翳して、思い出の生き証人ともいうべき家族写真に質問を重ねた。年代物かつヒトの想いが込められたモノほど情報がたくさん蓄積されており、聞き込み調査には打ってつけの相手だった。その詳細をまとめると以下の通り。


 多摩川ユウ、38歳。

 珠樹、珠緒の母親。

 撮影されたのは15年前、西暦1998年7月18日。

 会社勤めのユウは、水商売の副業パートでも働いていた。


 勤務中に倒れて救急車に搬送されたのは2ヵ月前。ストレス性の脳血管障害、いわゆる脳出血だったという。原因は長時間労働による過労と診られ、労災認定も早くにおりて多少なりとも資金面での融通は利いていたけれど。いつ目覚めるとも知れない現状。


 そして彼女の愛した夫、多摩川拓哉は写真撮影の2週間後、不慮の交通事故で他界していた。再婚には興味を示さず、98年以降ユウは精力的に働き、女手ひとつで娘たちを育ててきた。


(やっぱり、じゃあ、あれは誰だったんだ?)

(新しい父親?浮気相手?)


「んじゃ、そろそろ行くぜ」

 美都里は写真を元に戻すと、カーテンに手を掛けた。多摩川家の家庭事情よりも、スマホの時計を気にしている。


「時間だ、駐車場は30分まで無料だから」

(ま、待ってください)

「なんだよ」

 壁に凭れて悪態の声が飛んだ。

 4階の窓から湿った微風。そろそろ雨が近いかもしれない。


「何をそんな深刻ぶってんだよ。まさかあれか?分かったぞ。昏睡状態の母親がテメエの正体だとでも考えたな。彼女の生霊がトイレットペーパーに憑依して、さっきの心身二元論みてえに心と身体が分離してよ、多摩川ユウとしての記憶は肉体に留めたまま、愛する娘たちのところに帰りたいつって『想い』だけが先走ったのがその姿みたいな」


 僕がユウ。マオの母親?


(茶化さないでください。そんな訳ないでしょう)


 牽強付会も甚だしい邪推である。確かに情況的なタイミングは合うかもしれないけれど、僕が多摩川ユウなら性別は女ということになる。あいにくトイレに対する知識は豊富でも、僕には女性特有の化粧や生理用品などに関する知識はまったくない。


「じゃあ、いったい何だよ」

(僕がトイレで見掛けた中年男が父親じゃないとすると、定期的に訪れていたのは親戚だったのか。大家や事務所の職員とか色々可能性はあるにはあります。でも、しっくりこないんです)

「なんだ、くだらねえ。簡単じゃねえかよ。要はありゃ父親と思っていたキモ男こそ今回捕まった犯人、つまりアイドル多摩川珠樹のストーカーだったんだろ」

(……やっぱり、そうなりますよね)

「当然じゃんよ」


 我ながら耄碌したものだ。なぜもっと率直に結び付けなかったのだろう。こんな無様で不甲斐ない現実を認めたくない?否、それと同時にどこか引っ掛かるポイントもあった。


「まだ納得のビーフカレーには早いってか」

(納得はしてますよ、ただ)

「隠し味を知ったところで後の祭りさ、スパイスが効いてるうちが花だと思うがな」 

(そもそも犯人の目的が分かりません)

「不法侵入してまで何をしてたか?珠樹のファンだったら盗聴器も付けてたんだろうし、趣味が趣味ならトイレにだって興味も湧いただろうよ」

(そうか、あのときトイレの電球を取り替えたんじゃなく盗聴器を仕掛けていて……いや、でも、なぜ家を燃やす必要が?ファン心理ゆえの歪んだ愛だと?そんな盲目的な推理で『動機』を一緒くたに括るにはちょっと物足りないような)

「珠樹はラジオを設置してたじゃん。電波的にバレるのが怖かったから証拠隠滅したんじゃねーの?」

(いえ、それで火をつけるなら回収したほうが早いでしょう)

「そりゃそうだ、はっは」


(あっ)

 そのとき、僕は閃いてしまった。

 敷衍して行き着いた推理の果て、恐ろしい現実を。


「どうかしたか?」

 顔が白いぜ、呑気に笑いかける美都里。白衣のポケットを弄って僕本体を覗き込んでいた。指先にこびりついた煙草のヤニ臭が僕を掴んで離さない。


(むしろ設置場所がトイレなら、盗聴器よりも盗撮カメラのほうが理に適っているんじゃないでしょうか。警官が言ったのは便宜上の意味でしかなくて、本当は)

「別にどっちでも一緒だろ」

(いいえ違います。カメラとすると盗撮、映像なんですよ。そして、犯人が室内の水回り空間を逐一チェックしていたなら容易に想像がつく。そもそもの犯行動機には、僕が関わっていたのだと。考えてもみてください。トイレットペーパーが夜な夜な独りでに動き出していたんですよ。誰だって疑うのは紙より幽霊のほうじゃないですか?平均相場より安いあの部屋アパートは、前住者が亡くなった訳アリ物件でした。不動産の告知義務が伴うので誰でも知り得た情報です。犯人は元々悪霊を退治する正義感から火をつけようと思い立った。そう、あくまでトイレの怪奇現象をどうにかしたくて……今回の放火事件は、僕のせいで起こってしまったんです!)




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