高 10
「どうして大事なものが見えないの?」
ほのかは繰り返し聞いてきた。頭を抱え涼は唸った。あの電気のようなものが見え隠れしているがやはりすぐに消えてしまう。
「わからない。わからないんだ……」
こんな状態では大学はおろか高校も卒業できないかもしれない。涼の人生が狂ってしまう。ほのかは心配する目で言った。
「病気とかじゃないよね?」
はっと顔を上げほのかの顔を見た。涼は風邪にかかったりはするがほとんど健康な毎日を送っている。誰かに病気ではないかと聞かれたことはないはずだ。しかし……以前、「病気ではないか」と言われた。いつどこで誰に言われたのか、なぜ病気なのかと心配されたのか思い出せない。それがわかればこの大事なものが何なのかはっきりと見えるような気がした。
「もう病院に行った方がいいよ。絶対おかしいよ」
ほのかに言われたが涼は迷った。ただ頭がぼんやりするだけで病院に行くのは気が引けた。これは自分一人が解決することだと思った。しかし答えは白く覆われてわからない。大事なものが何なのか考えると冷や汗が出てくる。
「病院に行ったって意味ないよ」
「だけど気持ちが落ち着くかもしれないじゃない。冷静になればわかるかもしれないよ。それに、あたし、もう……こんな涼を見たくない……」
清谷に愛想つかれるぞという田所の言葉を思い出した。確かにこんな人間がそばにいて気分がいいわけない。
「……わかった……」
そう言って涼は玄関に向かった。病院に行けば何か答えが出るかもしれないと涼は期待していた。
だが医師は何もおかしいところはないと言った。頭も正常だし体も健康そのものだという結果だった。涼は藁にもすがる思いで医師に言った。
「最近変な気持ちになるんです。すごく不安な気分に」
「不安な気分?どういう意味ですか?」
医師は真剣な眼差しで聞いた。涼は今までのことを全て話した。何か忘れている。思い出したいのに脳が拒否している。なぜか記憶がない。覚えていない……。
「俺、狂ってるんでしょうか」
その一言で終えると、医師は立ち上がり女医を連れてきた。心の病はこの女医が担当なのだろう。涼は同じように話したが、女医は目をつぶり首を傾げた。こんなことを言う患者は一人もいないからだろうと思った。
「すごく大事なものだと思うんです。でもどれだけ考えても思い出せないんです」
女医は俯きながら何か考えていた。お願いします、と涼は深く頭を下げた。もう頼れるのはここしかない。
しばらく黙っていた女医が目を開け質問してきた。
「何かショックな出来事はありませんか?」
「ショックな出来事?」
驚いて目を見開いた。こんなことを聞かれるとは思っていなかった。すぐに覚えている限りの記憶を遡ってみた。しかしそんな出来事などなかった。むしろほのかと恋人同士になれて二人暮らしも始めて結婚も誓った。幸せなことしか起きていないのだ。
「いいえ……。ありません……」
小さく答えると女医は涼の心の中を見透かすような目を向けてきた。
「よく考えてください。本当にありませんか?信じたくない、夢であってほしいと思ったことです。何でもいいので話してください」
だが涼は俯いた。そんなものはない。幸せなことばかり続いている。ほのかとの距離が離れていくという気持ちはあったがそれほど深刻ではない。
「ありません。そんな……夢であってほしいことなんか……」
女医はもうお手上げという顔で「ではまた不安な気持ちになったら来てください」と言い、そのまま帰されてしまった。
帰り道を歩きながら涼の目の前は真っ黒になっていった。結局何もわからなかった。誰も助けてくれない。いつまでもいつまでもこうして生きていかなくてはいけないのか。
部屋に入るとすぐにほのかが聞いてきた。
「どうだった?」
涼は首を横に振った。
「頭も正常だし体も健康だし、どこもおかしいところはないって」
「そうなの……」
ほのかは残念そうな顔をし、ため息を吐いた。
「……でも、体が健康だってわかってよかったね」
励ますように笑った。涼はその笑顔を見て、なぜか怖くなった。
ほのかが熱いお茶を出してくれた。まだ愛情は残っているのだと少しほっとした。
「涼は、ほうじ茶じゃなくて緑茶が好きなんだよね」
「えっ?どうして知ってるんだ?」
「前にあたしがほうじ茶出した時に言ったじゃない」
そんなことがあったのか……。何だかもう他人の話を聞いているようだった。
突然ほのかが抱きしめてきた。涼は持っていたお茶を落としてしまった。
「どうしたん……」
言い終わる前にほのかにキスをされた。えへへ、と照れたように笑いながらいたずらっぽく言った。
「この前、部屋に帰ってこなくてごめんね。冷たくしちゃって……。あたし、涼のこと大好きだからね」
どきどきした。なぜ今このタイミングでキスなどしたのだろう。
「俺もほのかのこと好きだよ」
「本当?好き?大好き?」
「大好きだよ。大好きだからこうやって恋人同士になって、一緒に暮らしてるんだから」
ふとあることに気が付いた。こんなにはっきりとほのかに好きだと言ったことがなかった。恋人同士とは何度も言ったが、「好きだ」と口に出して言ったのは初めてな気がした。こんなに永く一緒にいるのにキスをしたことだって一度もなかった。
「ありがとう。ずっとそれが聞きたかったの。涼に好きだって、大好きだって言ってほしかったの……」
ほのかはなぜか涙を流していた。
「なに泣いてるんだよ」
頭を優しく撫でると、ほのかも涼の胸に顔をうずめた。
「……大好きって言ってもらって、もうあたし……満足したよ……」
ぎくりとした。満足とはどういう意味か。
「何だよ。満足って」
「あたし、涼と一緒にいられてすっごく幸せだったよ……」
「やめろよ。幸せになるのはこれからだろ。俺たちはずっと永く生きていくんだから」
そう言ってほのかの体を抱きしめた。ほのかがどこかに行ってしまわないようにしっかりと抱きしめた。




