中 9
試験当日は曇りで、足元に雪が残っている状態だった。晴れの方がよかった。会場に行くには、古い歩道橋を渡らなくてはいけないからだ。かなり前からあり、強く風が吹くだけで柵がぐらぐら揺れる危ない橋なのだ。ほのかが先に歩き、後ろから涼が連いていった。びくびくしながら一歩一歩進んでいく。
「ほのか」
無意識に呼びかけていた。ゆっくりとほのかが振り向く。緊張しているのがはっきりとわかった。
「……なに?」
涼はなぜか嫌な気持ちになっていた。受験のことではなく、ほのかのことだ。
「いや、ちょっと呼んだだけ」
「あんまり話しかけないで。勉強したこと忘れちゃう」
そう言ってくるりと前を向いてしまった。緊張しているからだと思うが口調が固かった。嫌われているからではないと思った。
「この歩道橋、風が吹くと柵がぐらぐら揺れるから、絶対に柵には手をかけるなよ」
注意するように言うと、ほのかは面倒くさそうに息を吐いた。
「言われなくてもわかってるよ。何度も聞かされてるんだから」
涼は首を傾げた。ほのかはこの歩道橋を渡ったことがないと思っていた。ほのかは誰に柵には手をかけるなと言われたのか。涼の頭の中にもう一人のリョウが浮かび上がった。
「あたし、早くとり壊してほしいねって言ったじゃない」
前を向いたままほのかが言った。もちろん涼にはそんな記憶はない。何も答えることはできなかった。
またもう一人のリョウの話をしている。いったいどうして、ほのかはリョウのことばかり話すのか。ふと心の中に黒い鉛が生まれた。すでにほのかとリョウは恋人同士なのではないか……。
こんな暗い気持ちで受験をしたら合格なんかできない。涼は頭を振り嫌な気分を消した。
試験が終わると、涼は不安でずっと俯いていた。その姿を見たほのかは説教をするように言った。
「そうやってネガティブでいたらいけないよ。もう終わったことなんだから、心配するだけ損だよ。過去は変えられない。不安になってる暇があったら、これからどうやって生きていけばいいのか考えた方がいいよ」
ほのかはネガティブ思考が大嫌いだった。そんな人と仲良くなんかしたくないとよく言っている。
「過去は変えられない……」
涼が呟くともう一度ほのかは言った。
「そう。もう起きてしまったことは、絶対に変えられない。戻ることはできない。それがいいことであっても悪いことであっても」
涼は少し顔を上げた。その通りだ。もう起きてしまったことは受け入れなくてはいけない。それがいいことであっても悪いことであってもだ。小さく深呼吸してから上を向いた。しっかりとほのかの顔を見つめると、よし、というようにほのかは大きく頷いた。
帰る途中、ほのかがある場所に行きたいと言いだした。近くにある広い公園だ。以前よくここに来たらしい。
「そんなところに行ってどうするんだよ」
寒いし精神的に疲れているし早く帰りたかったが、どうしてもとほのかは言った。
「その公園に行くと何かいいことがあるのか?」
聞くとほのかは寂しそうな顔をした。
「でも、二人でかまくら作った場所じゃない。久しぶりに行ってみようよ」
かまくらか……。ほのかがリョウと一緒に作ったかまくらだ。あの公園で作ったのか。行ってみると確かにかまくらが作れそうな広さだった。
「ここで作ったんだな」
そう言うと、ほのかはじっと涼の顔を見つめた。
「涼ちゃんがここで作ろうって言ったんじゃない」
「えっ?」
驚いて目を見開いた。ほのかは続ける。
「かまくらの中で、あたしが言ったこと覚えてる?」
涼が何も答えられないのを見て、ほのかはため息を吐いた。
「覚えててほしかったんだけどな……」
また寂しそうな顔をしたので涼はあわてた。
「言ってくれれば思い出すよ」
そうかも、と思ったらしくほのかは目を大きくした。
「雪って不思議じゃない?って言ったの」
「不思議?」
涼の胸がなぜか速くなる。耳の奥から聞こえたような気がした。どこかでこの言葉を誰かに言われた。
「雪に囲まれていると、夢を見ているような気がするの」
「夢を見ている?」
うん、とほのかは頷いた。
「よくわからないんだけどね……。もう一人の自分がいて、もう一つの世界で生きてるんじゃないかって、そんな気持ちになるの……」
涼の体に雷が落ちた。まさかほのかの言っているリョウは涼自身のことなのか。
もう一人の涼がいて、もう一つの世界でほのかとかまくらを作ったり、リョウちゃんと呼ぶ約束をしたり、スキーの話を聞いたり、ほうじ茶が好きだと言った。リョウは涼自身だから、ほのかはリョウの話をする。そんな馬鹿な話があるわけない。もう一人の自分ももう一つの世界もただのほのかの妄想だ。
だが突然白い雪のようなものに覆われている空間に行ったりおかしな映像を見たりするのはなぜだ。もう一つの世界で起きている出来事が、この世界で生きている涼の頭の中に飛んでくるのか。
「ほのか、早く帰ろう」
すぐに涼は後ろを向いた。また目の前が白く覆われてしまいそうな気がした。
歩道橋の真ん中で、ほのかが足を滑らせた。涼が素早く手を伸ばし腕を掴んだお陰で倒れずにすんだ。そういえば前にもこうして誰かを助けた。しかしそんな気がするというだけではっきりとはわからない。
ほのかの言った言葉で何度も不安な気持ちになったが無理矢理消した。今はもう一人の自分ともう一つの世界ではなく、受験結果の方を考えることにした。受験結果の方が大切なことだと自分に言い聞かせた。