40章 彼岸と此岸の狭間で
体温計を取り出した巫女はひっ!と息を詰める。
「落ち着け、マリア……三十一度か、さっきより低下しているな。坊主は……悪い」
ベッドで昏々と眠る息子以上に死にそうな顔の奇跡使いを見、人型を借りた海神は反射的に謝った。
「いえ、私は大丈夫です。それより問題は」
治療ですっかり元通りになった胸板に手を添え、弱くなっていく鼓動を確かめる。
「どうしよう……このままでは何れ……」
昏倒してから既に七時間が経過し、窓の外はすっかり暗くなっていた。普段は心地良い波音も、今夜ばかりは酷く神経に障る。空腹なのも手伝って、椅子に座り直した人魚姫はすっかり参っていた。
バタン。「ただいまー」「くーん」
幼い女王陛下と飼い犬の挨拶に、初めて三人は彼女が外出していた事に、そして自分達が如何に追い詰められていたかに気付いた。
両手のビニール袋を掲げ、晩御飯に焼そば買って来たよ、皆お腹空いたでしょ?欠伸混じりに彼女は言う。
「ごめんなさいお嬢さん、気を遣わせて……」
「別にいいよ。でも、そろそろ一旦休憩した方がいいね。私と誠が見てるから、二人はリビングで息抜いてきたら?」
「彼女の言う通りです、マリアさん。ラベルグさんもずっと付きっ切りでしたし、一度食事を摂ってきて下さい」
「俺達はただ見ていただけだ。坊主の方がよっぽど―――分かったからそんな目で見るな。おい、行くぞマリア」
夕食を受け取り、離れたくなさそうにする異母妹を半ば強引に引っ立てる。
「……ごめんなさい、二人共。じゃあ、お先に頂かせてもらうわ」
「ごゆっくり」
パタン。「で、氣は?」「時間を追う毎に弱くなっています……このままでは、夜が明ける前に彼は……!」
自身の薄い胸を強く押さえ、溜まっていた自責の念を吐き出す。
「私が、私がいけないんです……!百年前、私は彼を救えなかった……なのに、どうしてまたこうして苦しめられなければ……!?」
「くーん」
ラフ・コリーが脚に身体を擦り寄せて慰めるも、慈悲の顕現は一層心を痛めただけだ。その様子を一瞥し、無感情な少女は胸中で嘆息した。そして、
「―――助ける方法ならあるよ」「えっ!?ほ、本当ですか!!?」
希望に目を輝かせた彼に、彼女は言葉を続ける。
「まだ死んでないのは、アスは『妄執』に抵抗しているから。誰かが精神に入って、脱出を手助けすれば或いは」
「それなら」
「いいえ、私が行く」
淡々と告げる。
「ここへ連れて来た張本人の上、セミアの話では一応夢世界での実績もあるらしいし。だから誠はこっちから私を導いて」
指示の後、眠たげな瞳に光を瞬かせる。
「それに―――あなたもその方が都合が良いでしょ?」
少女がそう問うと、今にも失神しそうだった黒い瞳が怪しい緋色へと変貌する。形の良い唇を皮肉気に歪ませ、悪魔は『万里眼』と対峙した。
「お前、“白の希望”だな。ケッ。目覚めもしていないくせに、大した直感だ」
「引き受けてくれるよね?まさかこんな所で誠を犠牲にしたくはないでしょ」
眉一つ動かさず話を進める対極者に、狂った別人格は嗤う。
「当たり前だ。“死肉喰らい”の、それもこんな死に損ないに大事な魂を盗られちゃ敵わねえ。ちょっと待ってな、説得してきてやるからよ」
静かに瞼を閉ざす魔物に、女王は静かに警告した。
「言っとくけど、今回は偶々利害が一致しただけだから。―――誠に変な事したら、メノウお姉ちゃんやウィルネスト達に代わって滅するよ?」
クックックッ……冷たい忍び嗤いが漏れた一分後、自らの危機を知らぬ聖者が再び意識を回復させた。




