36章 雌雄の蛇
意識が自分の身体に戻った瞬間の暗転。驚く僕の上半身を、氷のように冷たい腕が絡め取る。
「ね、姉さん……!?」
「私に用だったの、アス?あなたが部屋に来るなんて何年振りかしら?」
密着する姉からは、本来ある筈の体温が一切感じられなかった。まるで、さっき極寒の海から這い上がってきたかのような……まさか、
「無断で入って御免。お願いだから離して」
身を捩ろうとするとグイッ!顎を凄まじい握力で掴まれる。暗闇の中、その目は怪しげな黄色い光を帯びているように見えた。
「―――学校の植木鉢」状況証拠だけだが、確証は無い。「落としたのは、彼?」
否定の言葉は無かった。矢張り、あれは弟の仕業だったのか……。
「調べていたJさんが全部教えてくれたよ。姉さん達がやったのは明らかな犯罪だ。このパスポートが何よりの証拠」
「あら、まあ」
まるで明日の天気を教えられたかのような気の無い返事。如何にもどうでもいいと言いたげな。
「『まあ』だって!?毎晩のように他人へ怪我をさせた挙句金品を奪って、おまけに脅迫まで!酷過ぎるよ!自分達が何をしたか分かっているの?犯した罪の重さを」
「罪?―――あなたを愛してしまった事に比べたら、あれぐらい無いに等しいわ」
くすくすくす……艶っぽい含み笑いを上げた姉は、舌で僕の耳朶をくすぐる。その真っ赤な先端は、まるで爬虫類みたいに二股だった。それの意味する所を悟りゾッ、となる。
「そ、そんな……僕から離れろ、化物!!」
突き飛ばそうと腕に必死で力を籠める。が、姉の姿をした人外、封印から逃れた『邪蛇』は哀れげに唇を綻ばせただけだった。
「ねえ、あなたに変な事を吹き込んだ奴は何処?」
「言える訳無いだろう!?」
しまった。『蛇』は雌雄一対……Jさんが危ない!
「いいわ、どうせ向こうの部屋でしょ?流石にアスにだけこんな仕事を押し付ける筈無いもの」
くすくす。
「可哀相に。あいつ、今日は収穫無しでかなり気が立っているの。見つかったら今度こそタダじゃ済まないわ。折角生き延びられたのに、馬鹿な奴」
別行動が完全に仇となった。幾ら敵の正体を知らなかったとは言え、自宅故の安心感にすっかり油断してしまっていた。
「ああ、分かった。昨日のストーカー記者ね。前から私達の周りをうろちょろしていた。どう、当たりでしょ?」
「違う!」
ニヤリ。
「隠しても無駄。私達、アスの事なら何でも分かるのよ。だって宇宙で一番愛しているんですもの」
「姉さんのフリをするな!忌まわしき『雌蛇』め!!」
僕の拒絶の言葉に、私は私よ、可笑しな子ね、嗤う。
「人魚がどう言ったか知らないけれど、私達は『御蛇』と自分から同化したの。奴等は所詮爬虫類、主導権だって握っているわ。勿論今もね」
さあ。そう呼び掛け、前髪を上げられる。
「今までずっと我慢していたんですもの。いい加減いいでしょう?―――愛しているわ、アス」「っ!?」
姉の顔が凄く至近距離にあった。塞がれた唇から、舌が凍傷を起こす程冷たい何かが流れ込んでくる。頭がくらっ、と大きく傾いた瞬間、怪物の瞳孔が嬉しそうに大きくなった。
「ん……ぅ」「起きたのか、兄貴」
意識の戻った僕は、何故か弟の背に担がれて坂道を降りている最中だった。飲まされた液体のせいか、未だ意識が朦朧としている。頭もズキズキ痛い。
「姉、さんは……?」
どうにかそれだけ口にする。
「コソ泥の後始末中。けど、すぐに追い付いてくるさ。何せ今夜は、大事な大事な兄貴の『儀式』なんだからな」
振り返った『雄蛇』は本性のままに首を長く伸ばし、躊躇いも無く僕に口付けた。
「ぅえっ……!?」
違う、違う!初恋もまだ未体験だが、少なくともこれだけは分かる。愛する者同士のキスが、こんな嫌悪で思わず吐瀉しそうな物の筈が無い!!
「がはっ……!!ど、何処へ……連れて行く気だ……?」
もっと甘くて柔らかくて、胸が切なくなる……きっと、正真正銘の恋人の接吻とはそうした物なのだ。でなければ辛過ぎる。
「そんなに嫌がらなくてもいいだろ?教会さ。そこでシスターに胎内の儀式をしてもらう。―――大丈夫、苦しいのはほんの一瞬だ。俺達の時もそうだった」
訳が分からない。首を横に小刻みに振って否定する。
「あの人魚の呪いから逃れるためには仕方なかったんだ。不完全でも不死の、『御蛇』共の力を得なきゃ俺達は近い内に死んじまう。そうだろ?」
「でもマリアが現れた時、全然信じていなかったじゃないか……なのにどうして」
「あんたが毎日哀れむような目で俺達を見ててさ、気付かないとでも思ったのかよ?」
ニーッ。
「―――こっちはもう何年も我慢してるんだぜ?兄貴を滅茶苦茶に犯すのを」「っ!!?」
ヒャハハハッ!歪んだ笑顔を浮かべ、無理矢理前髪を引っ張って視線を合わせようとする。
「なあ変態だろ、俺?金持ちで面もイケてて、女にだってちゃんとモテるのによ。だってしょうがねえじゃん。あんた以外には全然感じないんだからさ」
こいつは本当に、あの可愛かった喘息持ちの弟なのか?姉はああ言っていたけれど、二人共『蛇』に精神を冒されているのでは、
「目を逸らすんじゃねえよ!!」グイッ!「っ!!?」
後ろ手で太腿を掴まれ、もがれそうな苦痛に思わず悲鳴を上げた。
「人魚の騎士はもうすぐ人間になるんだ。自由に泳げる尾をもぎ取られ、二度と海へ帰れなくなる。そうすれば、嫌でも俺達の所にいるしかない」
「こんな事をしなくても、僕は何処へも行かないよ!」
「嘘だ!」断言。「あの魚女、兄貴に一緒に来るよう誘ったんだろう!?おかしくなった俺達の中に、大事な同族を置いておける筈無えもんな!!」
「それは断ったんだ!家族を見捨てて、僕と母さんだけ逃げるなんて出来る訳―――っ!?」
しまった!弟は眉を上げ、目の色を僅かに変える。
「へえ。ま、確かに結婚したのは乱獲よりずっと後だし、汚染されてねえのも当然か」
「母さんに何をする気だ……?」
「歯向かわない限りは何も。俺って優しいだろ?」
脚に這わせていた手が、不意にその上を強く握った。瞬間的に息を詰めた僕に対し、弟はニヤニヤ嗤う。
「儀式が終わったら、得も言われぬ快楽を与えてやるよ。たっぷりとな……ヒヒヒ」
生理的嫌悪に震え上がった丁度その時、彼の足が止まる。目的地に着いたのだ。
現在は神父不在のため、礼拝の行われていない教会。代わりに警察署が管理している筈だが、扉は半開きになっていた。
キィッ……。「シスター、いるか!?」




