21章 現への侵攻
「昨日はよく眠れた、アス?」「ええ」「そう。なら良かった」
軽い朝食を終えて宮廷魔術師を自室に送り、食堂へ戻った直後の問い。平然と放った嘘を、その場にいた一名を除き誰も疑わなかった。
「そろそろ皆が来る頃ね。クラン、先生は?」
リリアさんの質問に、女王陛下は至って平常運転で答える。
「知らない。ま、約束の時間までには現れるでしょ」欠伸。「にしても昨日もよく降ったね。レイ、先に玄関の雪掻きしてきたら?このままじゃ滑って怪我人続出だよ」
「そうだな」
朝日で微妙に溶けてシャーベット状になった雪は、慣れたクオル国民であっても危険な代物だ。まして運動神経にかなり不備のある四天使ともなれば、取り除いておくに越した事は無い。
「じゃあ、僕はその間に家々を見回ってきます。多分雪下ろしの手が足りなくなっているでしょうから」
「相変わらずの働き者だ、うちの衛兵は。熱心なのはいいが、練習に遅れないようにな」
誇らしげなリオウ大臣の言葉に頷き、早速防寒着を纏って白銀の王国へ。
「―――いいの?バレたらタダじゃ済まないよ」「くーん」
サクッ、サクッ。わざと雪塊を踏みながら、クランベリー女王陛下は僕の後ろを付いて来た。
「これは僕の個人的問題ですから。それに自分の術が効かなかったと知ったら、またショックを受けさせてしまいます」
「ま、最高ランクの封印とか言ってたしね。正直な話、セミアにあれ以上打てる手は無いよ」
矢張りそうか。道理で術の最中、えらく気合が入っていた訳だ。
僕は静かに昨夜の夢を語り、嘆息。
「まるで現実味が無いですよね……化物の『蛇』に、人を生き返らせる呪術なんて」
「それを言うなら、大父神や四天使もかなり眉唾だけどね」
「女王様!?」
全く、この人はどうしてこんな荒唐無稽な話を聞いて尚こうなんだろう?ずっと悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
「さーてと。練習前に精々フラついておこうっと」
「ええ、どうぞ勝手にして下さい」
「くぅーん」
どうせ合唱中も余裕で抜け出すくせに。つくづくお守りのイスラさんの苦労が偲ばれる。
主とラフ・コリーに別れを告げ、僕はまず郊外にある母子家庭へ向かった。
半時間後。
「―――ふぅ。これでしばらくは大丈夫でしょう」
「いつもありがとうございます、衛兵さん」
一メートル近かった屋根の雪を粗方下ろし、どうにか出入口を確保して作業は終了した。
「はい、お兄ちゃん」
「あ、済みません。頂きます」
屋内から出て来た五歳の娘さんにホットココアを貰い、咽喉へ流し込んで暖を取る。
「困った事があったら、また何時でも呼んで下さい」
そう言ってカップを小さな掌へと返却し、次の目的地である独居老人の家へ。
(練習開始まで後一時間か。ここが終わったら城へ戻らないと)
この間栗花落さんの知人男性から貰った、裏側に『K・C』と刻まれた懐中時計を取り出し、時刻を確認する。骨董品らしいが防水機能付きの上に精密で、未だ一分と狂っていない。
(ああ、折角だからあのお爺さんも誘ってみるかな、合唱)
クオル国民で記録的長寿の宮廷魔術師を知らない人はいないし、これまでも勧誘すれば皆喜んで参加してくれた。長い冬の良い運動にもなるし、人数が少しでも多い方が主賓も喜んでくれるだろう。
そんな事を考えながら林道を戻る。ふと、白く化粧した樹々の向こうに池が見えた。
何故足を止め、近付いてみようと思ったかは分からない。真冬の寒気で厚く凍り付き、恐怖症が発動しなかったせいかもしれなかった。
(こうして見てみると流氷を思い出すな……)
毎年北の海からゆっくり移動してくる、巨大な氷の大陸。幼い頃両親に連れられ、姉弟揃って船で近くまで見に行ったのを思い出し、胸が温かくなった。
(そう言えば昔、あそこに乗りたいって駄々を捏ねたっけ。あ、もしかしてここなら……)
恐る恐るブーツで氷を叩き、そうっと片脚の体重を掛けてみる。―――うん、割れる気配は無い。大丈夫そうだ。
「よっ……と」
池の真ん中に直立不動の衛兵。端から見ればかなりシュールな光景だが、本人的は結構スリリングだ。
(でも僕の体重を支えられるとなるとこの池、大分底の方まで凍り付いているのかな?)
スコップを持ったまま四十五度ずつ回転しつつ、そう考察してみる。
(もっと広かったら、スケート靴を持って来て滑れるのに……ん?今、底で何か光った気が)
落とし物だろうか?僕はその場に屈み込み、土埃で曇った氷上を手袋で掃う。
―――そこにあったのはこちらをギョロリと睨む、爬虫類の四つの目玉だった。
次の瞬間、身体中を本能的な恐怖が駆け巡る。慌てて逃げようとするが、『蛇達』が頭上の間抜けな獲物を逃す筈が無かった。
―――逃がさない。
―――こっちにおいで、アス。
真っ赤な二本の舌が床を突き破り、悲鳴を上げる間も無く割れた氷ごと落下。瞬時に全身を痛みにも似た冷気が、続いて酷い息苦しさが襲う。
「がっ!?げほっ!誰か、助けて!!」
必死に水面へ顔を出し救援を求める僕を、化物達は嘲笑う。そして長い胴を両脚に絡み付け、底へ引き摺り下ろそうと力を籠め始めた。
―――もう誰にも邪魔させない。
―――だからまた一緒に暮らしましょう?今度こそ、永遠に……。
恐怖症の再発と酸素不足で、急速に意識が失われていく。
(駄目だ、このままだと溺れ死ぬ……!)
抵抗を止めた獲物を、嬉々として自分達のテリトリーに引き寄せる『蛇達』。感覚の麻痺した首筋に、鋭い牙の気配を感じた、その時!
グワンッ!!「っ!?がはっ!!げほげほっ!!」
突然空中に引き上げられた衝撃で、気管に入り込んだ冷水を残らず吐き出す。これは……猟用の投網?一体、誰が何時の間にこんな物を仕掛けて、
「アス君!!?」「まぁ、大丈夫ですか?」
城方面から現れた那美さんは吊られた僕を見上げ、すぐ後ろに寄り添っていた盲目の女中を手で制す。
「凍った池の半分近くが割れています。危険ですから、栗花落さんはそこを動かないで下さい」
「分かりました。アスさん、済みませんがもう少し辛抱して下さい」
「え、ええ……」
濡れた身体に外気が当たり、歯をガタガタ鳴らしながらどうにか応える。
政府員は罠の仕掛けられた樹を両脚で器用に登り、括り付けられた縄を解く。
「アス君、ちゃんと受け身取ってね!」「へ?わっ!」ドサッ!
“鬼憑き”の怪力で僕の体重を支えていたロープを振り、勢い良く池の外側へ放り投げた。背中に衝撃が走り、投網が解ける。ガランガランッ!一緒に救助されたスコップがあらぬ方向へ飛んで行った。
「いたた……」
「大丈夫ですか?」
あっさり約束を無視した女中がハンカチを取り出し、濡れた顔を拭う。アルバイターも三メートル近い所から飛び降り、上着の羽毛コートを掛けてくれる。
「駄目です。女性に風邪を引かせる訳には」
「伊達に毎日鍛えてませんから、これぐらいへっちゃらです。ほら、遠慮せずに着て」
女性物で少し小さめだが、肩幅以外は案外すんなりと入った。
「済みません」
せめて頭を下げる。すると、彼女は小さく肩を竦めた。
「こんな事を言うと気を悪くするかもしれないですけど、君は弟みたいな人なんです。私一人っ子だし。だから助けるぐらい当然です。にしても」
無駄な肉の一切無い顎に手をやる。
「このトラップ、まるで溺れるのを予め知っていたかのような……いえ、今はそんな事を考えている場合じゃないですね。立てますか、アス君?急いで身体を温めないと。済みませんが栗花落さん、介助無しで付いて来て下さい」
「はい」
「では、足元に充分気を付けてお願いします」
ずぶ濡れの肩を支えられ、僕は半ば引き摺られるように居城への道を戻り始めた。




