互いの思い③
「か、香純さん・・・。あの・・・。」おかみが厨房の方に行った後、しばらくして突然、トクが赤い顔をしながら襖越しに声をかけた。それに気づいた香純は、「あ、はい。何でしょうか。」と、そっと廊下へ顔を出した。すると、そこにちょこんと腰掛けているトクがいた。その姿はまるで気取らず、自然な雰囲気であったため、香純の心をさらにくすぐった。「あ、あのう・・・。」と、トクは口ごもりつつ尋ねた。すると香純は、「驚きましたか。」とだけ、ようやく伝えた。トクは顔を再び赤く染めながら、「は・・・い。」と照れくさそうに両手で顔を塞ぐようにしてやっと、答えた。「それで・・・。どうでしょうか。」と、香純は答えを求めた。それに対しトクはきっちりと、「はい。それでは次の休みは空けておきますので・・・。」と、努めて静かに答えた。その言葉を聞いた香純は、嬉しさのあまりその場で立ち上がり、声に出してそれを言いたくて仕方がなかった。しかし、そこはさすがに我慢した方がいいと咄嗟に判断し、平静を装いながらも「う、うん。じゃ、連絡するから。連絡先、いいかな。」と、震えるような小さな声ながらも必死にトクに伝えた。「それじゃ・・・。」と、トクもまた、震える両手を相手に気づかれまいとしながら、携帯電話を自分の上着のポケットを探していた。その時、おかみの声が向こうの方できゃあきゃあとしていた。「これは、間違いない。きっと、あの人が来たな。」と思った香純は、トクに「いや、後にしよう。」と、その場から席を外すように促した。それを聞いたトクも、それに気づいたのか、香純に軽く片目を瞑り、何かの合図をしてその場を後にすることにした。
やがて、「おおう。久しぶりだなあ。ははは。なんだ、元気そうだな。はははあ。」と、トクが行った数秒後にあの男が香純の前に現れた。「いやあ、久々に来たもんだからさ。おかみとか、そこのおねえちゃんに。なんだか、もてちまってっていうの。いやあ、ははは。まいったよ、まいった。」と笑いながら、香純の前にどっかりと座ると同時に、上着を部屋の隅に放り投げながら林松は言った。「林さん。本当に久しぶりねえ。私のことなんか、これっぽっちも考えてないんでしょ。」と、おかみは半分以上本気とも取れるような言い方で、林松に詰め寄った。すると林松は照れくさそうに、「い、いやあ。毎日、まいにち。朝、鏡を見るたびに、おかみのことを実は思っていたわけよ。ははは。」と笑いながら言った。
それを聞いたおかみは、「うそ、おっしゃい。」と、林松の背広の裾を軽く引っ張りつつも微笑み、嬉しそうに答えた。
「ここに、宝くじがある。」と、林松が胸ポケットから取り出し言った。」そして続けて、「もし、これが当たったら、どうする。」と、おかみや香純達の顔を見ながら言った。すると、「そんなの当たるわけないじゃない。いいから今日は朝までいられるの。」と、頬を軽く赤らめながら尋ねるおかみ。どれとは逆に、「当たったら、とにかく誰にも言わず引越しますねえ。」と、香純。トクは香純を見つめながら、俯いていた。一通り話を聞くと、林松は「そうだよなあ。いろいろ考えはあると思うんだけどよ。でもなあ。」と、煙草の火を消して言った。「ううん。これはきっと当たると思う。もし当たったら、俺達皆で生きて行かないか。」場がしばらく騒然とした後、笑い声がちらほら湧き出すように聞こえだした。「ははは。何を言っているの、林さん。当たるわけないじゃないの、たった30枚で。ははは、ああ、面白い。」久々に来て、全く何を言っているんだかと、おかみは林松の意見を軽くあしらうように言った。続けて香純も、「はははあ。林松さん。そんなに当たるもんじゃないですから。もし当たったら、林松さんの好きにしていいですよ。ははは。」と、半ば相手にしていないといった感じで答えた。
「ほほう。わかった。じゃあ、当った時が楽しみだな。」林松は、少しも身じろぎもせず、ただ皆の意見を聞きつつ言った。香純は、「ま、まあ。まず当らないですからね、ははは。」と、その場をやり過ごすように言った。しかし、その話を聞くと突然かしこまるようにして続けて言った。「あ、あのう。実は話したいことがあるんです。」当然、他の三人はそれぞれ顔を見合わせるようにして、「え、何。」と顔をそれぞれ見合わせ答えた。すると香純は静かに、「いや、実は。宝くじが当らなくても、僕達、一緒に暮らしていけないかと思いまして・・・。」突然の香純の意見に、一同は息を飲んだ。「あ、あのさ。オレが言ったのは、あくまでも例え話だからさ。あまり本気に受け取ってもらっても・・・。」と、林松は息を詰まらせ言った。「そ、そうよ。私も店、やってるし・・・。」と、おかみ。「わ、わたしは。」トクは頬を赤らめつつも、「私は、香純さんがそう思うなら。仮にもそう想うなら、私はあなたについていきたい。あなたがしたいようにすればいいと思っています、・・・。」と、そう言った自分でも驚くほど、きっぱり言った。
香純の突然の話にも、トクは素直に受け答えたが・・・。次回、サラリーマンの闘いが、いよいよ始まる。