互いの想い①
トクは、笑顔や怒るという感情を無理矢理、自らの心の奥底に閉じ込めていたことがわかった。自由とは何かを考えた時、何かから解放されたり、若しくはそれを実感することで得られるのだなと、トクは感じた。おかみと話す前と後では、トクの表情や口調や雰囲気は全く違うものになっていた。
「いらっしゃいませえ。」トクの口から、次々と明るい自然な言葉が発せられた。すると、その声に吸い寄せられるように道行く人が足を止め、やがて店内はたちまちたくさんのお客で賑わった。「おお。トクちゃんの声が聞きたくて、今日も来たよ。」客の一人が笑顔で言うと、トクは照れたように「ありがとうございます。」と少し微笑みを浮かべて言った。カウンターにいる常連客の一人が、「トクちゃん、恋人でも出来たのかい。」と、他の客の注文をとっているトクの背中に向けて言った。トクは少し照れながら振り返り、その客に軽く目配せをしてクスクスと笑った。「お。これはまんざらでもないな。たぶん、このお客の中にいるんかもしれないな。」常連の客は、一緒に来ている男と楽しそうに酒を酌み交わしながら、トクのことを話していた。
トクは、店の暖簾を潜ってくる客を見るのが楽しみになっていた。元気なく静かに入ってきた客がこの店で食事をし、帰る頃にはその顔に笑顔が見られる。今までこんなに一日の内で、たくさんの他人の顔を見ることはなかった。そして、香純のことも。このころのトクは、最近いつもその事が気になっていた。「そういえば最近、来ないな・・・。忙しいんだろうな。」と、お客を笑顔で見送った後に一言静かに言った。そのトクの様子を、おかみは注文のあった料理を運びながらも聞き逃さなかった。お客の元に料理を届けて厨房に戻る途中、おかみはトクの耳元にそっと近寄り「ははん。惚れたな。」とささやき、ケタケタ笑った。その瞬間、トクはその体をびくっとさせて小さく「きゃっ」と言った。トクが静かに振り返ると、まだ笑っているおかみがいた。それを見ていると、なんだか恥ずかしくなり「ちょっと、おかみさん。もしかして聞こえちゃったの。」と尋ねた。おかみは笑顔で、もちろんと親指を突きたてた。するとトクが、「え。うそ。本当に。」と、その気持ちを何とか落ち着かせようと、顔を両手で覆ったり、そばにあった布巾でカウンターを拭いてみたりした。しかしその時、トクは思った。「そうだった。別にもう、自分の気持ちを隠さなくていいんだ。」先日のおかみとのやりとりを思い出し、トクの気持ちをさらに開く。「ねえ・・・、おかみさん。」と、トクはその動きを止めて呟いた。おかみは、「なあに、かわいいトクちゃん、ひひひ。」と、少しからかうように言った。「私、最近気になってしかたがないの。」と、そのおかみの様子を気にするそぶりも見せず、自分の気持ちをストレートに伝えてみた。するとおかみは、そのトクの表情を見て嬉しそうに微笑みを浮かべていた。トクは、続けて「店の暖簾を潜ってくるお客さんが来ると、もしかしたらあの人かなって思ったり。こうなんていうか、胸の辺りが、ぎゅっとすることがあるんです。こんなの初めてで。」とおかみに、思ったことを素直に伝えた。おかみは、「そうなのね。うん、わかるわ。その気持ち。いいねえ、トクちゃん。青春だねえ。ひひひひ。」と、トクの背中を軽くぽんと押しながら言った。おかみは続けて、「その気持ち、伝えてみたら。」と、さらりと言った。その言葉を聞くと、顔がどんどん熱くなってくるのをトクは感じた。「べ、別に。おかみさんには伝えておこうと思っただけですから。」とトクは、さっとその場から離れ仕事に戻った。そう言ってその場を離れたトクの後姿は、どこかすがすがしさを発しているようにおかみは感じた。「恋する女の子、いいわね。かわいいわ。」軽くスキップしながら、おかみは厨房の奥へ向かった。
トクの気持ちを聞いたおかみは、密かに何気なく香純を店に来るよう誘ってみることにした。次回、互いの想い②。お楽しみに。