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それを守るために・・・。  作者: ナトラ
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感情を出さない理由。3

 世間話をしながら、いつしか時間は過ぎていった。「あの。今日は、ありがとうございました。そろそろ帰らなければならないので・・・。」と、トクは三人に静かに言った。おかみは「あ、ああ。結構いい時間になったね。おつかれさま。帰り、気をつけてね。」コップを両手に持ちながら、明るくトクに伝えた。「はい。お先に失礼します。」トクは軽く一礼して、帰宅しようとした。その時、とっさに香純が立ち上がり、「近くまで送っていきますよ。」トクに声をかけた。しかしトクは、いくらか戸惑った様子で「大丈夫です。ここから近いところですので・・・。」と答えた。「あ、近くなんですか。じゃそこまで送りますよ。」と、香純は店の勝手口の方へ歩き出した。トクは黙って、その後ろをついていった。そして出口に差し掛かった時、「あの・・・。」と、香純に問いかけた。「はい、なんでしょう。」と香純が言うと、「あ・・・。いえ、なんでもないんです。」うつむきながらトクは言った。香純は不思議に思ったが、「はあ。そうですか。」と、その先をあえて尋ねなかった。少しの間考えている様子であったトクは、やがて顔を上げ「それじゃ、失礼します。」と軽く一礼し、店を離れていった。香純は、その後ろ姿がどこか寂しげで、なんとも居た堪れない気持ちになっていたが、「気をつけて。」と、声を発することで精一杯だった。



 トクを見送った後、座敷に戻ると林松は横になっていた。「ああ、呑んだ。眠くなっちまった。おやすみ。」と、いびきを立てながら眠り始めたらしい。「はやしさんたら。よっぽど嬉しかったのね。」と、おかみはおでんをつまみながら言った。「あのね。今日うちに来た時、あいつが誘ったんだよ。なんて言って、本当に上機嫌だったのよ。」と、戻ってきた香純に言った。「そうですね。確かに、いつも林松さんに連れられて来ることが多かったですからね。」と、香純は林松のジャケットをかけながら言った。「ところでさ・・・。」と、おかみが話題を変えた。「あの娘・・・。どう思う。」突然の問いかけだったので、一瞬驚いたが「まあ、いくらか緊張していたんでしょうが、根は悪くないと思いましたよ。」と答えた。するとおかみは、「ううん、そうね。当然私が雇ったわけだから、そこは大丈夫だと自信あるんだけど、なんかね・・・。」と、言葉を濁した。香純は、ああ、おかみも何かを感づいているなと思ったので、「林松さんも緊張しているからだろうと、仰っていましたよ。」と、あえて付け足した。するとおかみは、「そうよねえ。それならいいんだけど・・・。この店は、お客さんに余計な気を使わせないことをモットーとしてやっているから、ひょっとして合わないんじゃないかなと思って・・・。ちょっと、心配だったのよ。でも、林松さんがそう言っていたなら、なんか安心した。」と、軽く胸を撫で下ろすようなそぶりをして言った。香純も「そうですよ。きっと初日だし、緊張していたんですよ。」と続けた。「そうね。ま、これから慣れてくればね。でも、これは伝えないといけないかもしれないね。」と、おかみはコップに入っているビールを静かに見つめながら言った。「なんですか、それは。」と、香純が問いかけると、「うん。ま、この店のポリシーかな。やっぱり、大切なことだからさ。ふふふ。」とおかみはそれを飲み乾し、また注ぎ足して言った。「さ、もう仕事の話は止めにしましょ。・・・。それにしても、全くはやしさんたら、かわいい寝顔してるね。ふふふ。」と、仰向けで眠っている林松の寝顔を見て呟いた。香純は、終電の時間が気になり時刻を確認した。「あれ、もうこんな時間か。」と、立ち上がり「まだ間に合うな。」と、林松を起こそうとした。するとおかみが、「あ、本当。楽しいと時間が過ぎるの早いねえ。はやしさんは、いいわ。私が面倒みるから。」「え・・・。でも・・・。」と、たじろぐ香純に「いいから、私に任せなさい。この人は何回もここに泊まったことがあるんだから。大丈夫よ。」おかみは、いくらか得意気に言った。「はあ、そうですか。それじゃ、帰りますよ。ごちそうさま。」香純は、勘定としてポケットに入っていた一万円を手渡した。するとおかみは、「いいのよ、今日は。付き合わせちゃったし。」と、香純が持っているその手を胸元にそっと返した。「いや、でも・・・。」再び手を返すが、おかみも無言で返してくる。何回かそれを繰り返したが、香純は「わかりましたよ。今日はごちそうになります。また来ますから。」おかみに手を振り、勝手口から外へ出た。「おやすみい。気をつけてねえ。」背中でおかみの声がした。あえて振り向かず軽く手を上げ答えながら、香純は駅へと足早に向かい自宅へと戻って行った。



 翌朝、香純は携帯電話が鳴り響く音で目が覚めた。布団から手だけを出してそれを探したが、なかなか見つからない。仕方ないのでもぞもぞと起き周囲を見渡したが、それらしきものはない。音の鳴る方へ耳を澄ませると、どうやら背広の辺りからのようだ。「ポケットに入れたままだったか・・・。」と、寒さで体を小さくしながら電話を取り出し確認すると、相手は林松からだった。香純は通話ボタンをそっと押した。するとすでに「・・い。おおい。」と、耳を電話に当てなくてもその声が聞こえた。「はい。おはようございます。大丈夫ですか。」香純が電話に出ると、「なにい。大丈夫かだと。ま、大丈夫だがな。しかしお前も冷たい男だよなあ。俺をここに残して一人で帰っちまうなんて。」林松は、ため息をつきながら言った。香純は「え。いやあ。一度、起こそうとしたんですけど、おかみさんがいつも泊まっているから心配するなということで・・・。お先に失礼しました。」と、昨晩の流れを説明した。それを聞き林松は、「まあ、いいや。またな。」と言うので、「はあ。失礼します。」と、香純が電話を切ろうと耳元から離したが、「・・い。おおい。」と、再び声がしている。香純は、なんだか可笑しくなり「ははは。なんですか。」と、笑いながらすぐさま問い返した。林松は、「おお。大事なことを伝えるのを忘れるところだった。あのな、俺は月曜にさっそく辞表出すからな。じゃあな。」今度はすぐに通話が切れた。「月曜か・・・。」香純は林松の提出の日時を聞き、何か楽しみな気持ちが次第に大きくなっていくのを実感した。「いよいよ、辞めるんだな。」一人呟き、口笛を吹きながら洗面所に向かった。「全く久しぶりだな。起きてからこんなに体が軽くて、すがすがしい朝は。」香純は窓を開け、大きく背伸びした。



 林松を送り出した後、おかみは一度自宅へ帰り、再び店へと戻った。掃除を済ませた後、昨夜のちょっとした片づけをし、カウンターで一人、本日のメニューを考えていた。「やっぱり寒くなってきたから、鍋物がいいわねえ。」などと言いながら、さくさくと仕上げていった。やがてメニューが決定し、仕込みに取り掛かかる。お通しはきんぴらごぼう、鍋は鮭と白菜をたくさん入れて煮込み、ダシと塩で味を調えた。そして味見をし、「ううん。おいしい。」と、一人微笑みながらそれぞれを作り終えようとしていた。その時、「こんにちは。」と、トクが店に顔を出した。おかみは、「あら。トクちゃん。随分早く来たのねえ。」と、声をかけた。トクは「はい。何かお手伝いすることはありませんか。」ピンクのエプロンをかけながら言った。おかみは、「随分張り切っているわね。でもね、まだ大丈夫よ。今のところ何もないから、まだゆっくりしてらっしゃい。」持っていたおたまで小さな皿にスープを少し入れ、トクに味見を促しながら言った。「その前に、ちょっと飲んでみて。」と、それを手渡した。トクは皿を口元に持っていき、静かに啜った。「・・・。とってもおいしいです。」その皿を返して言った。おかみはそれを見て、何も言わずに皿を受け取った。「それじゃ、もうちょっとしたらおいで。」おかみは、再び仕込みの続きに取り掛かった。そして続けて、「あ。それとね。店に来たらおはよう。ね。」と付け加えた。トクは不思議そうな顔をしていた。「その日始めて会った従業員とは、おはようって挨拶する習慣があるのよ。この店は。すぐ慣れるから大丈夫よ。お願いね。」おかみは背中を向けながら言った。「わかりました。」と言い残し、トクはその場を後にした。



 それから小一時間がたち、仕込みがようやく終った頃だった。おかみがカウンターで休憩していると、「おはようございます。」トクが入ってきた。おかみは笑顔で「おはよう。」と答え、少し座るよう促した。トクは静かに返事をし、おかみの隣に座った。「まだ開店まで少し時間があるから、必要なことを伝えておくわ。」席についたトクにおかみは、店に来るお客について話し始めた。内容は、店の雰囲気を元気よく、明るくすることが大切だということが主だった。「でね。なんでそうするかって思うかもしれないけどね。」おかみは、コップに入った水を一口飲んだ後「うちの店は、お客さんが仕事を終えてから来る人がほとんどだから、余計な気を使わずに食事してもらうことを大切にしているのよ。だから慣れてきたらでいいから、少し考えてみてね。」と、率直に伝えた。続けて、「ちょっとさ、笑ってごらんよ。」おかみは、トクの腕に軽く触れながら伝えた。トクは困ったような表情を浮かべて、「え・・・。」と声を詰まらせていた。そこへ「ねえ、ちょっとでいいからさ。トクちゃんの笑顔、見てみたいわあ。」と、おかみはさらに促した。トクは正直、困っていた。しかし、ここで働くには必要なことなのだろうと思ったので、ぎこちなく少しだけ口角を持ち上げてみた。するとおかみは、「あら。よっぽどいいじゃない。これからちょっとづつ、無理ない程度でいいから、一日一回は見せてね。これもお願いね。」と、トクの肩をぽんと軽く叩いた。トクはきっと笑顔になってないなどと、おかみの指摘を覚悟していたが、逆におかみが自分のことを褒めたことに驚いていた。そして少しだけ、嬉しさに似た気持ちが胸の奥で動き出したのを感じ取っていた。「さ、お店開ける時間よ。手伝って。」おかみは看板を外に出し始めた。続けて、「しばらく笑ってなかったの。」と聞いてみた。するとトクは、少し考えた後「・・・昔、言われたことがあったんです。」と自分でも驚くほど素直に話した。「ふうん。なんて言われたの。」と、すぐおかみが問い返すと、トクは少し緊張しながら細い声で「私が笑っていると、むかつくって・・・。」おかみは、ああ、やっぱりそういうことだったのかと、深く思った。「あらまあ。そんなこと言われたの。それから笑ってないの。」と問いかけると、トクは軽く頷き「なるべく感情を出さないようにと・・・。」と静かに答えた。おかみの顔は次第に赤くふくらんでいった。そしてついに、「そんなこと、人に言うほうがむかつくわよね。ふん。」と、力強く言った。トクの目には、うっすらと涙が浮かび始めていた。おかみは、まるで自分がそう言われたかのように、いつまでもぶつぶつと文句を言っていた。そして、いくらか落ち着いた時、こう言った。「でもね、いつまでもくよくよしていたら良くないわよ。まだトクちゃんは若いんだからこれからよ。あ、それとね。もし、お客さんに何か嫌なこと言われたら、すぐに私に言ってね。大丈夫だから。話してくれてありがとうね。さ、今日も一日頑張るぞお。」と、両手を上に突き上げて強く握った。トクは久しぶりに自分のことを話したので、まだ胸が高鳴っていて落ち着かなかった。しかし、それは決して嫌なものではなく、むしろ逆であり、どこかすがすがしくもあった。沸き起こってくるような穏やかな気持ちを静かに抑えつつ、トクは片手で涙を拭い店の暖簾を掛けた。



 

 トクは少しづつ変わっていく。香純や林松も、仕事を辞める準備に取り掛かかる。トクは香純のことが気になり始めていた。次回、互いの想い。お楽しみに。

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