感情を出さない理由。2
「なにが、ま、まあな。よっ。」おかみは、そのお客の言葉をどこか嬉しそうに真似ながら言った。きっとこういう雰囲気が、欠かせないのだろうなと香純は一人思いながら、二人で林松がいる座敷へと向かった。「今日からなんですか。」と、香純がその店員の女性に話しかけると、「はい。」と静かに答えた。会話はそれきりで、座敷の前に着いた。香純がまず、「林松さん、入りますよ。」と中へ問いかけると、返事がない。少しの間を置いて、再び「入りますよ。」と香純が襖を開けようとした瞬間、さっとほぼ同時に中の様子が見えた。一見、4畳半ほどの広さの中には誰もいないようだったが、襖の脇で林松が戸を開けていた。「ははは。勝手に開いて驚いただろう。目が点になってたぞ。ははは。」と、林松は一人で笑っていた。香純は、またやってるよと思いながらも「先ほどの女性をお連れしました。」と、ため息をつきながら伝えた。その店員は、この間も変わらず無表情だった。林松は、「お、おおう。さ、中へ。」と、二人を中へ招いた。するとその店員は部屋の前の床で正座をし、「一言ご挨拶に伺っただけですので。」と静かに言った。香純も「この方は、今仕事中ですから。」と言った。林松は、「大丈夫だろ、一杯くらい。な。」と、その店員にコップを持ってくるよう伝えた。そこへ、なかなか戻らないことを心配したのか、おかみが様子を見にやってきた。「あらまあ。はやしさん。今日はかすみくんと大事なお話があるんじゃなかったの。林松は、「ああん。話か。もう終わり。なあ。」と、香純の方にいくらか睨みをきかせて言った。香純は「え、ええ。まあ。」とあいまいな返事をした。おかみは、「ほら。まだなんでしょ。それじゃ、話が終わってからね。」と、正座をしているその店員を立ち上がらせカウンターの方へ戻るよう促した。その店員が、二人に一礼をして立ち去るとおかみが、「今日は、お店早く閉めてあの娘の歓迎会をしようと思うの。一緒に祝って下さらないかしら・・・。」と、二人に伝えた。二人は顔を見合わせ、なるほどそれでおかみは先ほどそのように言ったのかと納得した。「どうかしら・・・。」とおかみが再び口にすると、林松は「俺らは別にかまわねえよ。」と答えた。おかみは、「あ。本当。よかった。じゃあ、大体あと二時間後くらいにね。楽しみだわ。」と、おかみは軽くスキップしながら、その場を後にした。
その後、林松と香純はその新入りの店員について話をしていた。「なんだかよう。表情がなくて、もの静かな女だったよなあ。」と、林松は少し小声で香純に言った。香純も、林松と同じ意見であったのだが、「きっと初日で、いくらか緊張していたんでしょう。」と、とりあえずは伝えておくことにした。林松は、「き、ん、ちょう。ああ、緊張な。ま、それもあるかもしれないがな・・・。」と、どこか意味深に言った。香純は、続きを聞こうかと一瞬思ったがやめにした。「まあ、職場の女どもも大概似たようなもんだけどなあ。ははは。」と、林松はキープしている焼酎のボトルを部屋の隅から取り出して言った。「最近この街は特によ。色気がある女ってのはしかし、随分減ったような気がするんだよな。一昔前なら、そこら辺歩いててもいい女はたくさんいたんだがなあ・・・。」と、林松は本日一番の真剣な表情を浮かべてこう言った。香純はその間、あの店員にボトルセットを注文した後、林松に返事をした。「いい女ですか。林松さんが言ういい女は、どういう方ですか。」するとすかさず、「あれだな。気立てがよくて、冗談が通じる女・・・。だな。」「見た目より、中身重視ということですね。」「見た目か。良いにこしたことはないがな。ははは。でも、ある程度ならどうにでも出来るからな。化粧で。それに、美人は3日で飽きるとか言うしよ。ま、実際にそんなような経験もあったしなあ。遠い昔によ。」
そんな話をしているうちに、店は閉店の準備を終えようとしていた。残った客はあと数人となり、カウンターも随分空いたようだった。この店は夕方から混み始めて、7時ごろがピークを迎える。8時以降はぽつりぽつりと客が入る程度で、夕食時が一番賑わっていた。サラリーマンが多い地区のため、仕事帰りに利用しやすいよう工夫がされていた。例えば、ビール中1杯、おでん4品で600円や、本日の定食、お好きな酒1杯で1000円などと目を引く商品が多い。安くて、うまいとなれば香純達のように仕事帰りに訪れる客が当然多かった。しばらくして、二人のもとへおかみが皿を持ちながら、にこにこしてやってきた。「もうそろそろで終わるからね。お待たせしちゃって。はい、これ。」と、二人の前に持ってきた皿を差し出した。「おお。うまそうだな。」「そうですねえ。あれ、でも注文してないけど。」と香純が言うと、すでにおかみは厨房へ向かっていた。「もうちょっと待っててねえ。」と、振り向き軽く投げキスをして戻っていった。香純は、「おかみさん、若いですね。」と、早速皿の品をつまんでいる林松に言った。「ああ。」林松は笑顔だった。続けて、「いや、これはうまい。お前も食え。」と言った。その料理は豚肉の角煮であった。香純も早速食べ始めた。よく煮込んである肉は、箸で軽く掴まないとすぐに崩れそうなほど柔らかかった。そっと掴み口元に運ぶと、ほんのりとした醤油の香ばしい香りがして、食欲をさらに促す。口の中にそれを放り込むと、肉の感触を残しながらも、ふっとたちまち溶けるようにして消えた。「うまいですねえ。たまりません。」と香純は、今日もこの店に来て本当によかったと、その味の残響を感じながら思いに浸っていた。
「いつもどうも。ありがとうございましたあ。気をつけて帰ってねえ。」「ごちそうさん。うまかったよお。またくるからねえ。」どうやら最後の客が帰ったようだ。表にある看板や暖簾を店の中に片付け、シャッターをがらがらと閉める音がした。そしてしばらくして、おかみと新入りの店員が二人で香純達のいる座敷にやってきた。「はい。お待たせえ。ちょうど時間通りってところね。」時間は、21時を少し過ぎようとしていた。それぞれの手にはコップとビール瓶を持っていた。「じゃ、まずはビールで乾杯ね。」と、それぞれコップに注ぎ乾杯した。「はあ、おいしい。働いた後のビールは最高ね。」と、おかみは新入り店員に笑いかけた。やっぱりその店員は「そうですね。」と、一言返事して再び黙ってしまった。おかみは、「あれ・・・。もしビール好きじゃなかったら、今日は好きなの呑んでいいからね。トクちゃん。」と、優しく問いかけた。トク、という名前を聞いた香純達は、互いの顔を一瞬見合わせ「トクちゃんっていうのか。」と呟くと、「前咲トクです。よろしくお願いします。」トクは三人に改めて丁寧に挨拶をした。「へえ、トクちゃんか。親しみやすい名前ですね。こちらこそよろしく。」香純はトクに言った。「トクちゃん、よろしくなあ。俺達ちょいちょいここにくるからさ。あ、でもこれからは少し回数減るかもしれないけどさ。ははは。」と、いくらか呂律が回らなくなってきた林松が言った。それを聞きおかみは、「そういえばまだ名前言ってなかったわね。こちらは、林松さん。私は、はやしさんって言ってるけどね。この店が出来てからずっとの常連さん。そして、はやしさんの後輩、かすみくん。最近よく二人で来てくれるようになったの。皆さん、よろしくね。」おかみは笑顔でトクにそれぞれ紹介した。そしてすぐさま、「ところで、なんでさ。何かあったの。」とおかみは、香純達に詰め寄った。「いや、何かってわけでもないんだがなあ。そろそろあそこの会社に見切りをつけようと思っていたところ、偶然俺達意見が合ったわけよ。そんなわけでここに来る回数は減っちまうけど、たまに寄るからよろしくな。ははは。」と林松は、おかみに伝えた。「そんなあ、急に残念だわ。他に行くところあるの。」と、二人に心配そうに問いかけた。林松は「ま、大丈夫だろ。」ときっぱり言い、その後笑っていた。香純は、いざ辞めるとなるといくらか不安がよぎったがコップのビールをぐいと呑み、その不安を打ち消すかのように「もう仕事の話はやめましょう、今日は。」と、静かに呟いた。「そうね。今日は歓迎会だものね。さ、じゃんじゃんやってね。」と、ビールをそれぞれに注いだ。トクちゃんは、変わらず静かにしていた。おかみはトクを横目で見ながら、この店でやっていけるのだろうかと心配し始めていた。「感情を出さない話し方は、ただの性格なのだろうか、それとも何か理由があるのだろうか。」と一瞬感じたが、「ま、初日だから仕方ないか。」と、今日は思うことにして再びそっとコップを口にした。
トクの性格なのか。それとも・・・。その雰囲気がどこか気になるおかみは、あることを伝えることを決める。次回、トクの思いが明らかに。感情を出さない理由。3 お楽しみに。