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それを守るために・・・。  作者: ナトラ
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感情を出さない理由。1

 いきつけの居酒屋に向けて、香純は足早に店へと向かった。この時間、この通りを歩いている人は若干少なめだが、中でもコートやビジネスジャケットの中年の姿は目立つ方である。香純が入社してからこの間、定時で会社を出ることは指折り数える程度であった。久々に心躍るような気持ちを抑えつつ、晩秋の街中を背に歩いていった。店に着くと、辺りはすでに陰ろうとしていた。赤い暖簾をくぐる様にして横開きの扉をがらがらと開けると、中からおでんのいい香りがする。それと共に、早速大きな声が鳴り響いた。「いらっしゃい。待ってたよ。」いつものおかみが香純を出迎えた。「今日はいつもより随分早いねえ。明日土曜日だから今日は一杯と言わず、遠慮なく呑んでってねえ。」と、おかみは笑顔でいつもの座敷へと行く途中に言った。香純は、普段であれば「いやあ、あんまり呑まないから・・・。」などと、どこか遠慮がちにいうのが常であったが、今日は「ああ・・・。そうするよ。」と、この店に来るようになって始めてまともに返事をした。おかみは香純の言葉を聞き、今日はあの親方と何か話があるなと一人思った。「親方は、なんだか嬉しそうに店が開いたと同時に来て、先にやってるよ。」と、林松がいる座敷に近づくにつれ次第に小声にしながら香純に言った。「はあ。そうですか。」と、答えるとおかみは「はやしさーん。開けますよー。」と、襖の前で声を放った。すると中から「おおう。入って来い。」と、威勢のいい声がした。おかみは一人、ひひひとぶきみな笑みを浮かべながら「さ。どうぞ。」と、香純を案内した。



 「おお。早かったな。」と、林松はいくらか赤い顔をして、香純に声をかけた。「はあ。今日は林松さんより早く来たと思っていたのですが・・・。」と、いくらか残念そうに香純が言うと、「ははん。俺を誰だと思っているんじゃい。ここだけの話な。仕事なんぞ、15時には切り上げてきたぞい。わはは。」と、得意そうに言った。「15時ですか。」と香純が林松に問いかけると、「ああ。」と、笑顔で答えジョッキのビールをぐいと一息に飲み干した。「っはあ。ようし、今日は呑んだるか。ビール二人分、頼むわ。」と林松が、上機嫌でおかみに伝えると「はいよ。待っててねえ。」と、若い娘のような声で厨房へと勢いよく向かっていった。それを確認した林松は、「なんだい。今日はえらく早かったなあ。」と、香純に言った。すると香純は、「ええ。こっちから誘っておいて、林松さんを待たせる訳にはいきませんから。」と、照れくさそうに言った。「待ったぞ。俺は16時からずっと今まで待ってたんだ。はははは。」と言うと、手拭を香純の胸元へ軽く投げて言った。香純は心の中で、「今日は、話どころではなくなるかもな。」と、一人この時思った。やがて、先ほど注文した品が届いた。おかみがビールをそれぞれの手元に置くと二人に耳打ちするように小声で、「あのねえ。今日、新しいバイトの娘が来る日なのよ。内緒よ。」と、嬉しそうに二人に伝えた。林松と香純は、お互い顔を覗き込むようにしてお互いを見合った。「なに。新入りかい。そりゃあ、楽しみだなあ。」と一際大きな声で林松が言うと、おかみが手を横に振り、慌てた様子で「ちょ、ちょっと。声がでかいよ。しーっ。」と、林松をなだめるように言った。

「なんだよ、別にいいじゃねえか。」と林松がおかみに言うと、「他のお客には誰にも言っていないのよ。だから・・・。ねえ。それでその娘がここに来た時には、何か声をかけてやってくれないかねえ。はやしさんと、かすみくん。お願いねえ。」と、言うとまた厨房へと消えていった。



 それぞれのジョッキで乾杯後、しばらく世間話のような林松のいつもの会話が始まった。そしてひと段落した頃、そろそろ本題を話し始めようかと思い、香純は「あのう。林松さん。実は・・・。」と、改まって問いかけた。「ああ。なんだい。」と、ぶっきらぼうにいつもの調子で返事をした林松に「俺、もうあの会社を辞めようかと思っているんです。」と、直球で伝えた。すると林松は、ああ、やっぱりというような表情を浮かべながら「お前もか。実は俺もなんだよ。気が合うな。わははははは。」と、一蹴した。まじめに話そうとしていた香純は、自ら予想していた対応と全く違ったため、あっけに取られてしまった。当然、次の言葉が見当たらなかったので思わず一緒に笑ってしまった。しばらくして林松は、「ははは。笑っちまうよなあ。でもよう。今思えば、普段お前にきついことを今までに言ったりしてきたこともあったけどよ。今考えてみると、俺にとっては本当どうでもいいようなことが実に多いんだよなあ。ははは。」と、また笑いだした。それを聞き香純は、今日はもうこれ以上話さず、林松の話を聞くことにしようと決めた。ちょうどその時であった。



 「失礼してもよろしいでしょうか。」と、女性の細い声で確かに香純には聞こえた。しかし、林松は全く反応がなく、「ははは。いや、あの時はさあ。」などと、すでに一人でその話題に突き進む準備が整っていたところであった。「あの、あの。誰か来たみたいですけど・・・。」と、話に夢中になっている林松に割って入るように言った。すると林松は、「なあにい。まだ話は終わってないんじゃ。」と、その場で一喝した。すると、襖の向こうで「わかりました。失礼しました。」と言って、女性はその場を物音一つ立てず、立ち去ったようだった。香純は、少し慌てて「いや、あの。」と、とっさに襖を開けたのだが、そこにはすでに誰もいなかった。林松は、どこか開き直って「いや、俺はお前に言ったんだがな・・・。なんだかな。ははは。」と、ばつが悪そうにしていた。そして続けて、「おい、俺と一緒に会社を辞める、そこのお前。あの娘を呼び止めてこんかい。」と、香純に言い放った。香純は、「え。いやあ。別に、今のは仕方ないですよ。たぶん。」と、なだめるように言ったのだが、後の始末であった。当然香純は、そのまましぶしぶ席を立ち、カウンターのあるフロアの方へ向かっていった。



 カウンターには、すでに何人かのお客が席に着いていた。厨房では、おかみがいつものように忙しくしていた。その少し離れたところで、ジーパン姿にピンク色のエプロンをつけた、見慣れない若い女性がいた。年の頃は、20代前半。髪は後ろで一つに束ねられていたが、恐らく肩まではあるだろう。割と小柄な雰囲気だと、遠目でみて思った。香純が近づくと、カウンターのお客の大きな声がした。「いやあ、いいねえ。おかみよりも若い女が店に来て、こりゃあ酒が勧むよ。ははは。」と、その客が言うと、厨房の中にいるおかみが、「おかみよりも。じゃなくて、おかみと同じくらい若くて、でしょ。」と、声を張り上げた。するとカウンターのお客は、皆でげらげらと大声で笑い出した。その隅で、その新入りの若い女性は、静かに笑いもせず皿を拭いていた。そこへ、「あのう。」と香純が近づき声をかけた。すると、無表情で振り向き「はい。」とその女性は答えた。香純は、「あのう。先ほど、奥の座敷に来ましたか。」と、問いかけた。その女性の大きな目は、ぱっと見開いたまま「はい。行きましたが、お話中ということで、こちらへ戻ってきました。」と淡々と答えた。それを聞き香純は「あ。それなんですけど、それは会話の中での話でして。あなたに言ったことではなかったのです。ですから、一度一緒に奥に来てもらえませんか。」と、問いかけた。すると「はい。わかりました。」と、その女性が答えた。その時、カウンターで冗談を言って笑っていた客が、「おいおい、兄ちゃん。もうナンパかい。手が早いなあ。俺が目を話した隙にこれだもの。いやあ、最近の若い奴にはかなわんわ。」と、からかうように言った。すると、香純は少しむきになって、「また、そんなこと言って。おやっさんにはおかみさんがいるじゃないですか。」と言った。そのカウンターのおやっさんはそれを聞き、「ま、まあな。」と少し照れたように言って、ぐいとビールを飲み干した。

 閉店後、新入り店員とおかみ、香純と林松の4人で入店祝いを兼ねて乾杯することになる。おかみは、あることが少し気になっていた。それは、いったい何であるのだろうか。次回、感情を出さない理由。2 お楽しみに。

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