序章
「俺はそれを選ばない。選ばないことを決めたんだ・・・。」
朝、目が覚めると鳥達は窓辺に集まり鳴いていた。いったい何時になったのだろうかと香純は、ベットの端に置いてある時計を手に取り、時刻を確認して一つ大きな欠伸をした。「7時か・・・。」布団から起き出し窓を開けると、鳥達はいっせいに飛び立っていった。空は真っ青に晴れ渡っていた。「今日もいい天気だ。」季節は11月の半ば頃。吐く息も、いくらか白くなってきた。台所へ行き、香純はいつも通り適当に朝食を済ませ、出勤の準備を整え自宅を出た。最寄駅は、歩いて10分もかからない。道路を歩き出すと、いちょうの木が黄色く並んでいた。アスファルトの上にはその葉がひらひらと舞い始めていた。やがて駅に着き、改札を抜けた。すでに今日も電車を待つ大勢の人で、辺りは埋め尽くされていた。皆、片手には携帯電話や新聞を手に取り、下を向いている。香純も電車を待つ少しの間、皆と同じようにしていた。電車がホームにがたごとと音を立てて入ってきて、乗り降り口が開いた。中から人が降りてきた後、いっせいに駆け寄る。ようやく電車に乗り込むと、中は当然すでに満員だった。そのため車内では片手で鞄を抱えて、もう一方では新聞を小さく折りたたんで持つのが日課となっていた。なぜそうするのかというと、女性に対する対策だった。両手をなるべく高く上げて両手が塞がっていれば、万が一、周囲で痴漢が発生したとしても、自分はこのようにしているため間違われることはない。満員電車の中に乗る男性には、特に気をつけなければならないことだ。しばらく電車に揺られ、会社の近くの駅に着いた。改札を抜け再び歩き出すと、会社までの距離も自宅から最寄り駅までと、さほど変わらなかった。途中には、いきつけの飲み屋があり、その角を曲がりしばらくすると大きなビルが立ち並んでいる。その一本のビルが、香純の職場であった。そして今日も、無事会社に辿り着いた。地域でも有名でそれなりに大きな企業であり、香純が就職してから、すでに丸3年が過ぎようとしていた。ビルへと向かう通りは毎日きれいに整備されていて、ごみ一つ落ちていなかった。そのビルの自動ドアに近づき、中に入った後タイムカードに打刻した。そしてエレベーターに乗り、7階の職場へと向かった。
「おはようございます。」と職場のフロアに入る時、先に出勤している他の社員に一言挨拶するが、いつも通り返事がない。「またか・・・。」と、ため息をついて自分の座席へと向かった。この職場では、社員間の挨拶の習慣がまるでなかった。例えば、自分が親しい人とは朝からよく話すが、そうでない人とは丸一日会話をしない。そのようなことは、ごくごく普通の状況であった。香純は、この職場環境にほとほと嫌気が差していた。社会人となった後、現在の会社を好んで選択し就職したわけではなかったこともあるが、学生じゃあるまいし、毎日毎日、このような状況で仕事をすることに、いったい何の意味があるのだろうか、とさえ最近では思うようになっていた。当然、このような職場環境の中、仕事の能率が上がるわけもなく、毎日ただ時間が過ぎることだけを願っていた。座席に着き、書類を整理していると、「よう。今日も冴えない顔をしてるな。ははは。」と、背広を着た一人の年配の男が声をかけてきた。男は続けて、「まだいくらか時間があるから、コーヒーでも飲みにいこう。お前のおごりで。ははは。」と、香純を誘ってきた。「毎日のことですから。林松さん。」と香純は男に返事をした。香純には、入社当時から世話になっている先輩社員がいた。それがこの林松であった。歳は50代前半だが、歳の割には若く見える。役職はなく、社員の教育係りを長年受け持っていた。香純にとっては、この先輩の存在により、まだかろうじて出勤しようと思っているといっても過言ではない、そういう人物だった。
「しかしよう。最近特に、まるでやる気が消えちまったよな。」林松は、コーヒーをずずりとすすりながら香純に言った。香純は無言で、100円を自販機に入れてコーヒーが出来上がるのを待っていた。すると林松は、「まあ、言いたいこともあるんだろうけどよ。これが、ここの独特の雰囲気なんだよな。仕方ねえよ。」と、いつものように言った。香純は大概、はい、そうですね、などと調子を合わせていたのだが、こうして毎日声をかけてくる先輩には、少し話をして置いた方がいいだろうと思い、「林松さん。仕事後、一杯どうですか。」と誘ってみた。すると林松は驚いた様子で、「なに。珍しいな。お前から誘ってくるなんて。」と、香純の顔をじっと見て言った。香純も同様に、林松の顔をじっと見て「場所は、いつものところでいいですか。」と尋ねた。「ああ。何か話がありそうだな。まあ、仕事終わったら電話してみてくれよ。俺は先に一杯やってるかもしれないけどな。ははは。あ、それと、お前のおごりだぞ。わははは。」と、笑いながらその場を去っていった。
香純は、何も言わずに残っていたコーヒーを一気に飲み干し、座席へと戻った。そして今日は残業をしないために、いつもより短時間で仕事をこなし、終業の合図を待っていた。すると課長級である森上が、「輝来君、ちょっとこっちへ。」と、手招きしながら呼び寄せた。「あ、はい。」と、香純は座席を立ち上がり、森上のデスクに向かった。森上は、小指を立ててボールペンを手に取り、「輝来君、残業。大丈夫だよね。」と、言った。それを聞き、「はあ。いつもは放っておくのに、また今日に限って。」と、香純は心の中でうんざりしながらも、「あのう。今日は用事があるので、定時で上がります。急ぎの件については、明日終了の見込みがつきましたので・・・。」と伝えた。すると森上は、「あのさ。君も3年くらいになるよね、うちに来てから。毎日、皆が黙って残業しているのは知っているよね。用事があるなら、午前中の内にでも私に一言伝えておいてくれると良かったんだよね。わかるかな。」と、香純に問いかけた。香純は、そんなこと百も承知の上だった。この職場では、午前中にそうした手順を踏んだとしても、残業になる可能性がさらに高まるのを、もはや勉強済みであったからだ。「はあ。しかし、今日はどうしても都合がつかないもので・・・。」と、静かに伝えると森上は、「ちょっと湖曽君。」と、近くを通りかかった女を呼び止めた。湖曽は、「はい。なんでしょう。」と、足を止めて振り返り言った。「輝来君、今日は残業しないで帰るから、後お願いね。」と、森上が簡単に伝えると、湖層は眉をしかめて「え・・・。残業しないんですか・・・。はい・・・。わかりました。」と、さっとその場を立ち去り、湖層の周囲にいる社員に耳打ちし始めた。「さ。じゃあ、今度からはそのようにして下さいね。」と森上は、再び小指を立てながら湯のみを掴んで言った。香純はその場で一礼をして座席に戻ろうとすると、ちょうど終業の合図がフロアに鳴り響いた。それを聞きながら、「お先に失礼します。」と、周囲でまだ耳打ちしている他の社員に一声掛けながら、職場を後にした。
会社の自動ドアを抜けるとほぼ同時に、香純は携帯電話を手に取り、まずなじみの居酒屋へ予約を取るために電話をした。「・・・・。はい。」と、いつものおかみさんの声がした。「あのう、輝来ですが。」と香純が言うと同時に、「あ、はあい。あのね、もうさっきから嬉しそうにしていつもの親方が先にやってるよ。予約だって。大丈夫よ。仕事終わったらいつでもいらっしゃい。じゃあね。」と、名前しか名乗らぬ内に、用事は済んでしまった。ははは。と、一人笑いながら香純はいきつけの店に足を進めた。
「真実とは。」を書きましたトラナです。前作を読んで下さった本当に大勢の方々、ありがとうございました。さて、今回ですが、とあるサラリーマンを主人公にして、一つのフィクションドラマが執筆開始することとなりました。この小説も前作同様、連載型短編小説という構成となります。尚、更新は週2回を目標にしておりますが、あくまで目標ですのでご了承下さい。それでは、次回予告です。
香純は先輩である林松に、仕事への不満や相談を持ちかける。そこで感情を出さない不思議な女性に出会う。次回、感情を出さない理由。お楽しみに。