幸せな夜
「ご飯ですよー。」
佐和子が入院している精神科病棟の食事の時刻を、看護補助のパートさんが告げる。
「今日のお料理はお肉よ。美味しそうでしょう。」
「…えぇ、まあ、はい。」
うつ病を患って、約10数年が経つ。
入退院を繰り返している内に、周りは皆、結婚したり出産したり、はたまた離婚したりしている。
まともな社会人経験すらない。
佐和子は佐和子だけが社会から切り取られたような気持ちでいっぱいだった。
味気のない食事をして、現実逃避をするために強制的に眠るだけの夜。その繰り返しの毎日だ。
「うおっ!すげぇ〜。肉が多いじゃん。」
相部屋の龍太郎は、統合失調症の青年だ。
普通であれば同室に異性が入ることは殆どないが、病床の数に限りがある中での措置入院だったため、同室に入れられている。
「…わたしのも、要る?」
「くれくれ。少しでも多い方がいいんだよ。」
食が細い佐和子は、騒ぎ立てる龍太郎を鎮めるため、自分の肉の半分をこっそり移した。
「もう入院して5年になるなぁ。」
「飼ってた犬の写真見る?」
饒舌に語る龍太郎。多動で絶えず騒がしい、静かな佐和子と真反対な性格で同じく精神疾患持ちの患者サマ。
「…うん。」
「ほらほら!俺が撮ったんだ。」
黒い柴犬の写真を眺める。
お行儀よくお座りして、両方の口元はきゅっと上がり、目線はバッチリとカメラ目線。まるで笑っているかのようだ。
「…かわいいね。」
褒められた言葉が聞こえていないのか、また幻聴が聞こえているのか、龍太郎は独語でブツブツと唱えている。
「ペット、か。」
「…飼ってみたいな。」
こころの中で少しだけ想像してみた。柴犬とのお散歩。グイグイと引っ張られて遊んで!と甘えられる様子。
軽く顔を横に振った。
こんなわたしが、自分のことすら管理できないわたしが、ペットなんか飼える訳がない。
小さな希望を捨ててスープを飲み干して下膳した。
「はーい、食後のお薬ですよ。」
抗うつ薬を渡される。口に含んでまた口を開ける。看護補助のおばちゃんに見せる。いいよと言われてベッドに横になった。
いつまで続くのかな、この地獄。
外の世界の方が、もっと地獄なのかな。
答えは分からないや。
佐和子は早く寝たいという思い以外を蓋をした。
程なくして睡眠薬をまた同様に飲み干して、眠りについた。
朝7:30。起床して髪をとく。
何やら食堂付近が騒がしい。
少しの好奇心で食堂を見に行くことにした。
「…どうしたの?」
龍太郎に尋ねる。彼は生き生きとしながらも時折話が通じない。でも唯一話せるのが彼しかいないので、尋ねた。
「わんわん、わんわん、犬だよ!」
「犬?」
人をかき分けて前に出てみると、そこには茶色の豆柴が居た。
「どういう事?」
思わずポロリというと、普段は喋らない片麻痺の老人が言う。
「何でも、精神病の治療の一環で来たらしい。アニマルセラピー?とか言うやつ。」
「ワン!ワン!」と鳴いている。
動物に触れ合ったのは小学生以来だ。
ましてや小さいとはいえ獣。犬歯を見て、噛まれないか心配だった。でも…触れてみたい。
そっと細い手口元まで伸ばす。
犬はくんくんと匂いを嗅いで、ハッハッと息を吐き、二足歩行の体勢で甘えてきた。
「嬉しいの?」声には出さず尋ねた。
「ワン!」声に出して答えてくれた。
頭を撫でてみる。身体に触れてみる。勢い良く精一杯の距離まで近づいて甘え出す豆柴。
「あ!佐和子が笑ってる!珍しい!」
龍太郎から茶化されて初めて自分が微笑んだ事を知る。
こんなにも命って可愛いものなんだな、と、無垢な豆柴の瞳を見続けた。
またもや、睡眠薬を飲む時間だ。
飲んで横になり今日の豆柴を思い出す。
「犬、飼ってみたいな。」
初めて穏やかな眠りにつけた気がした。
同時に退院したい気持ちが強くなった。自立しないと飼えないから。
「…少しだけ、頑張ってみようかな。」
睡眠薬でうつらうつらする中、ほんのり暖かくなった胸の内でこう思った。
次の受診で主治医に退院して働くにはどうしたら良いか、尋ねてみよう。
夜が迫る。幸せな夜だ。




