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「魔手は、性質に手を加えるだけだ。事象の流れが変化するのは、定義が見直されれば当然で、それが因果を書き換えるといわれているわけだね」

 モリァスは鈍痛が続く頭で、以前、卿にいわれた魔手の概要を思い出していた。

 当初モリァスも魔手を毛嫌いしていた。彼の故郷を襲った部隊の中にも魔手がいて、その存在に与えられた被害は甚大だったと聞かされたからだった。しかし、卿はモリァスをさとしていった。

「魔手は存在をしめしている。モリァス、では君は何者だ」

 少女が泣く理由を、モリァスは探しあぐねている。

 口から声を出せば世界が変わるかもしれないとわかっていても、どのように変貌するかわからないままことばをつむぐことが、モリァスには不得手だった。変わっていったものに対して応変する才に欠けていると、彼には自覚があった。

 君は何者だ。

 卿の問いに窮したあの日から、モリァスは状況の圧力に屈し、両方の足に体重が乗らず、ふわふわと浮いているような感覚になるたびに、自分の存在に意味がないような気がしてこたえられない。

 頭に響く鈍痛のせいにするのはたやすい。しかし、それでは我慢ならないとどこかで自分のからだの一部が叫んでいるようにも思う。彼はしかし、心を落ち着けようとすればするほど、頭の中を揺らされるようで、何もする気が起きなかった。

 何も考えずに森を見遣る。ため息がモリァスの口から漏れ出た。横一字に拡がる炎の帯がしたたかに森を削っている。世界が、もしや風と炎の下に沈んだのではないかと思われるような、悪い夢の中にいるようで、焦土を踏みしめてシェドへと行軍するシルウィアの兵士に、モリァスは深い嫌悪感を抱いた。

 あれが噂に名高い法王騎士団だというのか。

「悪名だ」

 モリァスは呟く。

 モリァスはシルウィアが好きだった。もともと砂地に近い場所に興った国だから、毎日のように砂塵が舞い、布で顔を覆う人間が多く、異邦のモリァスは最初は戸惑った。誰が誰だかわからないようなこんなところで、自分が生活していけるとは思われなかった。

 だが、出会った彼らのいずれもが国に対して尊崇の念を忘れず、愛国の一存だけで命を捨てられると知った時、モリァスは心の底から感動した。

 その感動の記憶が、いま踏みにじられているように感じた。

 卿に会いたい。卿に会えば、救われる自分がいる。わだかまりの大半を消してくれるのは、モリァスにとってみれば卿しかいなかった。

 自らも、彼らと同じように戦いたい。国のために、自分の血や肉を差し出してもよいと思って、兵学校に入学し、ずば抜けた成績で卒業した後、今とは違う部隊だったが、戦地で出会ったはじめての上官が卿だった。

 卿ははじめ、捉えがたい人だと思った。

 兵学校で教授された戦術は、長いシルビアの戦いの歴史から、抽出され濃縮された要素をまとめたきわめてわかりやすい、人の動かし方だった。兵学校時代には、模擬戦闘でも、実際の戦闘でも同じように役立ち、モリァスはそれを充分にいかしきれていると感じていたが、卿を目前にすると思ったように意志が疎通できなかった。

 卿は戦闘中ほとんど指令を出さない。それでも隊員はよく動き、ときおりイリシアが卿から指図を受けたわけでもないのに、隊伍を均した。モリァスはまったくその文化になじめず、しかし生来の引っ込み思案がわざわいして何もいえなかったが、卿はよく認めてくれた。ことばに頼りすぎていることをモリァスが知ったのはずっと最近になってからで、彼は、当時の自分を思い返すと、よくもまあ懲りもせず恥ずかしげもなく弱音を口にし、そして、卿はそれに応えてくれたものだとあきれた。法王位を継承できる権利があるなど、卿は微塵もいわなかった。

 卿の側にはずっとイリシアがいる。彼の側には泣きじゃくる女の子しかいない。

 俺は女は嫌いだ。

 ツァイのことばがモリァスの脳裏に甦る。

 たしかにルーシェはしゃべらない。泣き続ける理由もあきらかにせず、ただただ嗚咽をもらす。それはとても困ったことだけれど、若い兵士は自分の手の甲を覆う布きれが彼女の衣服と同じ模様であることに気づいて、さらに当惑した。

「ルーシェ」

 モリァスはやさしくゆすり起こされた記憶を、静かに深く思い出すように、そっとことばを発したに過ぎない。

「気安く呼ばないで」

 それなのにルーシェは、目を大きく見開いてモリァスにきつくあたった。

 紺碧の瞳が、それだけで意志を持っているようにモリァスを見ていた。どうして、暗闇の中でこんなに光がそこにだけあるのか、モリァスは不思議に思った。

「そんなつもりじゃ」

 ルーシェはきつく唇をむすんで、顔を覆いまた黙ってしまった。

 モリァスはため息をついた。

 追っ手は確実に距離を縮めている。歩くこともままならず、うずくまる自分は、ただの獲物であり、人質にでも取られたら、卿の足を引っ張ってしまう。

 そんなどうしようもない状況が、若い騎士のこころを蝕んで、巡り続ける思考の迷路に誘い込んだ。

 どうして、卿が追われなければならない、というおよそただの善意から考えれば辿り着かない問いが、彼を深く深く締めつけた。卿が犯人ではないという確固たる証拠もないが、卿が狙われる理由もない。もっとも、心情の根幹が人の悪意にそれほどさらされなかったモリァスには思いつかないだけだったが、ついにシルウィアは狂いはじめてしまったのだと若い騎士は悲嘆にくれるのだった。かたわらで泣く健気なルーシェの姿を作っているのはあの王国だ、と信じ始めると、逼迫した時勢と、拙い思考、ことばにできない熱いしこりのようなものがもつれあって、モリァスのこころは、制御のきかない感情の波で泡だらけになった。

 だが、泡はすぐにはじけて消えた。

 彼は飛来する矢羽が空気を切り裂く音で、現実に戻された。

 モリァスは鈍重なからだのことさえ忘れて、ほぼ思考の範囲の外で、ルーシェに覆い被さった。少女はひぁ、と小さく悲鳴を上げた。その幼さは騎士の心音を一気に燃やすには十分だった。

 鏃が大地に突き立つ音。

 その音に、モリァスの心象が蠢く。

 追っ手、追っ手、追っ手。

 三回胸裡で復唱して。

 現実に目を凝らす。

 情報を集めろ。

 卿は、モリァスにそのことだけを教えてくれた。

 夜のくらさにすっかり目は慣れているはずなのに、相手は見えず矢の音以外に何も聞こえない。

 何人だ。

 一人か二人か。

 囲まれているのか。

 進むべきか退くべきか。

 剣に自信はないが、モリァスはもっと執念をあげて研鑽してくるべきだったという後悔の念をおさえて、鞘をはらった。 

 うずくまるルーシェの体温が、甲冑の隙間からモリァスのからだに入ってくる。

 これは。

 これだけは。

 まもらなければならないという激しいこころの声に、モリァスはうちのめされ、体面に滲み出た情を静かに消した。

 甲冑に鏃が当たる。

 顔面を守ろうとしたが、兜はなかった。

 瞬く間に、彼の足もとにいくつも鏃の列ができた。

「姿をだせ。何者か」

「貴様こそなんだ」

 闇と闇の隙間から、男の声だけがふってきた。

 遠い。思っているよりもずっと。

 見渡す限りに視界が開け、人がたてる場所は見当たらない。目を凝らすにつけ、周囲はわずかな緑さえさみしい岩肌のむきでた山道だ。片側は崖下で、もう一方も断崖であり、彼らがいる山を円錐とみれば、ちょうど錐の頂に向かってぐるりと同心の円を描いたように、岩を削りだした街道になっている。幅員は小さく、影が動けば必ず判じられる。

 目前の崖上を見遣ったが、そこに人の姿は見られない。山道は勾配があり、彼は高い方の土地を見た。が、やはり誰もいない。

 モリァスはいぶかしんで、ルーシェをかばったまま、何の気無しに上空を見上げた。

 あるはずない、選択肢として成立しないような場所に。

 影があった。

 鳥の類ではもちろんなく。

 モリァスにははじめ、とても人には思われなかったが、黒い影はゆるりと動き、その動作のあまりの自由さは、彼の思考の帰着点を決めてしまって、人間以外だという結論を許さなかった。

「なんだ」

 モリァスが応じるよりも早く、べそをかいていたはずのルーシェが動く。

「ノルト!」

 影は明るい声を返す。

「ルーシェか?」

「どうしてそんなところに」

「説明はあとだ。おいおろしてくれ」

 黒い影は二つあって、夜の合間にとけ込んで動作の詳細はわからない。モリァスが、なんとか理解を得ようと目を凝らすあいだに、二つの影がなめらかに地面へと降りてきた。

 短弓を担いだ長髪の男が、モリァスを睨む。

「貴様、シルウィアの」

「まって」

 ルーシェが距離を縮めようとする痩躯の男とモリァスの間に入って、両手を拡げた。

「この人は、ちがうの。あたしは何もされていない」

「邪魔するなルーシェ。シルウィアの甲冑を見ると虫酸が走る」

「待ってノルト、話を聞いて」

「どけ」

「あたしが、あたしが助けたの」

 そのことばに、一番驚いたのはルーシェ本人だったかもしれない。彼女はモリァスを一瞬だけ見た。

「なに」

「だからお願い。彼は追われているだけなのよ」

 ノルトと呼ばれた男は、夜の中二つの目を幾度もきらめかせて、ルーシェとモリァスを交互に見た。目前の人間に情の灯りが、淡くではあるもののゆらめいたのを見て、モリァスの心情は、湿った夜気のように弛緩した。

 しかし、

「嘘は、おいいでない」

 ノルトの後ろにおぼろげに佇んだ男の声は、冷たく、強い響きをもっていた。

 およそ、人の情を理解しないのではないかと、モリァスに剣把を持ち直させるほどの声色だった。細かに震える水面のようにモリァスの皮膚は総毛立った。

 迷いを含むノルトが、切実な表情で振り返ったのは、多大な信頼をその男が負っている証左らしい。ルーシェが小声で、だれ、とたずねてみても、ノルトは左手で制して、白銀の無精髭をなでる男のことばを待って、こたえなかった。

「長の娘ですなあ。同じ調子が基板にみえる」

「ウバール殿」

 モリァスの脳裏に、古い記憶に降りかかったほこりを舞わせる、急風が吹いた。

 カンファイら、卿の隊の魔手とはじめて会った時、卿は記憶しておくべき二人の魔手の名を教えてくれた。魔手の中でも、特に精巧に基板を操作し、一人の能力のみをもってして城を傾けるほどの伝説的な二人の名。

 一人は、魔手創世期に尋常ではない努力の末に、後世の魔手がけして追いつくことのできない境地に達したといわれる偉人、ゾル。彼はすでにこの世の人ではなかった。

 そしてもう一人。

 生まれついての傑物と呼ばれる男、ウバール。

 彼一人で、数万の軍を手玉にとることもあったという実力者が、いまモリァスの眼前にいる。

 卿は、噂に過ぎないが、と実力を懐疑して笑ったが、モリァスのからだは、どれだけ正面にいる人間が自分とは異なる存在か、つぶさに感じていた。彼らがまるで空中に静止しているように振る舞えたのも、ウバールの実力ゆえなのかもしれない。

「おやあ、珍しい。魔手を忌み嫌うシルウィアの少年よ。私をご存知か。そうか、そうか」

 高い声で突如表情を崩して笑うウバールの顔に、モリァスは狂気をみた。こころを読まれる、カンファイや他の魔手にも同じように考えていることをすくい上げられたことはあるが、そのどれとも違うはっきりとした戦慄を、若い騎士は覚えた。ウバールの手が、モリァスの頭の中に潜り込んでくる、そんな画像が彼の脳裏に浮沈した。

「ウバール殿、時間がないのだろう」

「うむ、そうでしたな」

「ノルト、父様は」

 どう見てもモリァスと年端が変わらないノルトの両腕にすがって、ルーシェは泣きながら聞いた。ノルトは首をふる。

「俺には止められなかった」

 ああ、と嗚咽を漏らして、それでもルーシェは、きつく唇を結んだ。

「さすが一族をまとめる長の娘。気丈なことだ」

 彼女はウバールの発言に不審な目を少しだけ向けて背けると、

「ノルト。いったいなぜここに」

 と、聞いた。

「シルウィア人が森を燃やしていると聞いた」

「そう」

「それに」

「それに」 

「ルーシェがまだ戻っていないと聞いた」

「それだけで」

「俺にはそれが重要なんだ」

 モリァスは、そんな二人のやりとりを微笑ましくみていた。二人の関係が男女のものか、肉親のものかはわからないが、しばらくぶりにあたたかい交流を見た気がした。

「やがてシルウィアがそれを蹂躙する」

 耳元に息がかかったようで、モリァスは鳥肌だった。

 反射的に振り返って斬りかかろうとする左腕を、伝説の魔手は動き始めを手のひらで制した。彼はいつのまにか、モリァスの背後にいた。

「どうした。それがいやかね」

「む、むろん」

「なぜだ。シルウィアはそうやって世界を均してきた。そうすることで、戦いを無用なものにしてきたのだろう。そう教わらなかったかな」

 魔手からは意外にも、こころよい香りがした。翳りを乗り切った月明かりに照らされてよくみれば、男前で、劇場にいる役者のような目鼻立ちをしていた。

「そうだとしても」

 モリァスは見かけだけでこころを許しそうになる自分を戒めるように、なるべく強いことばを向けた。

「人の営みを壊す権利は誰も持っていないものです」

「性根が曲がっていないご様子で、まことに重畳だ。親のしつけがよかったのだろう。しかしそれでは、さぞや、戦役では苦労したことだろうねえ」

「それは」

 モリァスは口ごもる。

 彼は思い返した過去の情趣の中に、うち倒してきた敵の亡骸の背後をかんがみたことが一度としてなかったので戸惑ったのだった。

「若いなあ、少年。実に若い」

 ウバールは声色をがらりと変えて、モリァスにそういった。まるで、近所に住む古なじみのようで、騎士の心中は混沌とした。魔手とはおくゆかしく、どこか女性的、あるいは幼さを維持したものであると感じていたモリァスにとって、ウバールの存在は極めて異質なものだった。恐怖を感じた彼はなんだったのか、どちらが本当のウバールか、彼にはとても掴めない。

 モリァスの困惑した顔を眺めたウバールは、満足そうに眉をひしゃげて笑った。

「ばっかじゃないの」

 遠くでおこったルーシェの怒鳴り声で、モリァスは身をすくませて、彼女らの存在を思い出した。

「あんたが、あんただけでも父様を止めてよ。あたしのことなんて放っておいて」

「ばかいうな。放っておけるわけないだろ」

「あたしはあんたのそんな優しさが嫌い。あんたはシェドとあたしとどっちが大事なの。あたしがいなくなってもシェドは保たれる。でも、シェドの頭が、父様がいなくなったら、もう何もかもおしまいだわ」

「長は止めようとするやつらに剣を向けたんだ」

「きられなさいよ、男でしょあんた」

 ノルトは口ごもるばかりのようで、ルーシェの問いに満足に応えられない。

「女はこうなると本当に強いのだ。少年、ああいうのがいいのか」

「そう思われるようなら、伝説と呼ばれたあなたの力も、大したことはありませんね」

 モリァスはルーシェの声で、すっかり何かがすとんと腹の深いところにおちてしまった。ウバールはきょとんとした顔で、彼を見て、それから短く高い声で笑った。

 ひやっひやっと下卑た笑い声で、魔手はからだをふるわせた。そして、まだわめきちらしているルーシェのそばにより、

「おじょうさん。ノルトをつれてきたのは私だ」

 と、告げる。ルーシェは深い茶色の目をにぶく輝かせて、ウバールを睨みつけた。

「あなた、だれなの」

「こわい顔だ」

 モリァスは声を張った。

「魔手ウバール。世界の頂点にたつ、唯一にして絶対の、魔手の中の魔手」

 ウバールはモリァスを振り返ってにんまりと口角をあげた。

「少年、きみにその話をした人間は、ふたつの点で優れている。一つはわたしの存在を知っていること、そしてそれを君に伝えたことだ」

「ましゅって、なに」

「長の娘よ、その話は後だ。私は森を燃やすようなふとどきものを咎めにきた。ノルトには案内を頼んだのだよ。もちろん、君を心配していたがね。さて、時間がないのはたしかだ。もはや彼らを止めうるのは、私しかおるまいよ」

 いかにもこの蒸し暑い季節に不釣り合いな黒い衣をまとって、しかし、ウバールは汗ひとつかいていなかった。そのことに気づいたモリァスの背を冷たいものが走ると、魔手はいまにも伝説になりそうな眼光を見せた。

 深く深く。

 突き刺されたらけしてもう。

 抜きとることのできないような、そんな形容をさせる目のちから。

 振り返りながらだったので、ルーシェはみなかったかもしれない。

 だが、モリァスははっきりと見た。

 視線にふれるだけで、すべてが寸断されてしまうと彼が思ったことは、いままでに一度もなかった。

「少年」

 モリァスは我にかえってうなずく。

 ウバールは、モリァスにだけ聞こえるような小さな声で、

「トーリ将軍の眷属だな」

 といった。

「何もいわなくていい」

「隠しているわけでは、ないのです」

「そうか。だが、こころの置きどころがないようだ。お前の胸中は煩雑ですくいにくいが、トーリを認めたくない気持ちだけはわかる」

「僕は」

「少年」

「は」

 息がかかりそうな距離に顔を寄せて、

「私は今から将軍の持ち駒を殺す。魔手を殺す」

 と、いった。

「トーリはいずれ私の仕業と知り、必ず私を呪うだろう」

 そして、壮年にすこしさしかかったと思われる魔手は、わずかに微笑みを暑気の中にのこして真顔になった。

「私はそれを、ながいこと望んでいたのだよ」

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