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「なによ、なによ。なんなのよ」

 高台から見渡す炎の海が、生暖かい風に煽られて蠢いている。潮が引くように炎は位置を変えているが、炎が過ぎ去ったあとは黒い焼け野原だけが残った。もっとも焼け野原だと認識するまでの時間がルーシェには必要で、はじめ彼女にはただ黒い断面にだけ見えた。断面の表層には何もなく、深い闇の底に通ずる穴のようだった。

 異常な湿気を感じて違和感だと思うまもなく、何かが燃える音が聞こえた。男を抱えて夢中で走った。森の中にいるのは危険だとルーシェの中の誰かがそういった。迷わずにシェドに向かう隘路の内、森を迂回する高所の道へと駆け上がった。たまたま、彼女がいる場所がそこに近かったのが幸いした。甲冑を着て意識を失った男を背に負ったまま、長距離を走れる体力は、今のルーシェには無く、男が途中でおぼろげながらも意識を取り戻したことも彼女を救ったといえる。気づかなかったが、目を凝らしてよく見れば森の木々は力なくしなびていた。

「魔手」

「ましゅ」

 ルーシェが若い男の呟きに顔を向ける。

「そう」

「魔手ってなに」

 といいそうになって、ルーシェは男の名前を聞きそびれていたのを思い出した。

「あなた」

 綺麗な髪。綺麗な瞳。ルーシェの視線が彼女の気持ちと絡まり合い、男の顔に落ちる。

「だれ」

 ルーシェの言葉は自分の胸を打った。もう少しましな聞き方があるはずなのに、と心が悔やみの声を出す。だが、かえって男は微笑んでくれた。

「僕は、モリァス」

「シルウィア人ね」

 モリァスは激しく咳き込みながら頷いた。そのまま地にくずおれる。ルーシェは期待通りの答えが返ってきたことに少なからず苛立ちながら、モリァスに手を差し伸べた。

「まだ無理よ」

「ありがとう。君がいなければ」

「それ以上いわないで。あたしは偶然あなたの見つけただけ。あなたの運が強かったの、あたしは何もしていない」 

「何もしていないだなんて」

「していない」

「この手の治療も?」

「知らないわ」

「どうして」

「どうして?どうしてですって?あなたはあたしの敵、あたし達の敵。そんな人間にあたしが手を貸すと思わないで。いま森が燃え上がっているのも、どうせあなたの仲間の仕業なんでしょう」

「君は」

「あたしの故郷はシェド」

「ああそういうことか」

 モリァスの言葉が、悲しみを帯びたまま夜の暑気の中に霧散していく。ルーシェはモリァスの胸中にある悲哀が、まるで彼の口を伝って這いだし、額に脇に体中にじっとりと涌きでた汗に染み込んでいくようで、急に羞恥がいきりたって、モリァスに伸ばした手をゆっくりと引き戻した。

「シェドの人に会ったのは初めてだった」

「殺されていたわ」

「殺されかけた」

「あなたが悪い。こんな時間にシルウィアの甲冑を着てウロウロしているんだもの」

 谷底から乾いた熱気が吹き上げてルーシェの顔を揺らし、時折火の粉が二人の間に走った。モリァスの顔には不安の色が無かった。血の気がないのは変わらないが、心の揺らぎもないようだった。ルーシェは視線をモリァスから逸らす。

「森が燃えるわ。信じられない」

「ああ」

「シルウィアは嘘つきよ。あたしたちの生活を守るといわれたから、祖先は彼らの法を受け入れたのに」

 こんなこといいたいわけじゃないのに。ルーシェの小さな胸は今にも張り裂けそうで、彼女にはそれが悲しいことだった。どうしてだろう。心があやふやで恐い。こんなこと今まで一度もなかった。

「どうしてあたし達はこんなに目にあわなきゃならないの?ねぇ、何とかいってよ」

「僕は何もいえない」

「どうして」

「君がシェドの人間で、僕はシルウィアの人間だ。何をいっても嘘にしかならない」

「言葉はみんな嘘みたいなものよ。あたし達の心は伝えられない」

「君の言葉は僕に届いている」

「罪悪感が沸いた?あたしに悪いと思った?だったらあなたはあたしをどうしてくれるの?あたしたちの故郷を守ってくれるの?」

「僕は追われているんだ」

「誰に」

「森を燃やした人間に」

「あなたはシルウィアの人間でしょ。どうしてシルウィアの人間に襲われるわけ。あれは」

 森は炎に侵されている。ゆっくりではあるが確実に森は陵辱され、おそらくルーシェの生きている内に元に戻りはしないだろう。彼女は幼少の頃から親しく歩き込んだ森の柔らかい土の感触を、否応なく吸い込んだ噎せ返るような生き物の息吹を、心の中に鮮やかに甦らせて描き、締めつけられる胸に手をあてた。

「シルウィアの人間じゃないの」

「いいや」

「仲間割れ」

「そんな単純なものじゃない。シルウィアの国は強大だよ。もう仲間という感覚は薄れてしまったのかもしれない」

「どうして追われているの」

「僕の隊の長が疑いをかけられる事件があった」

「あなたの上司のせい」

「僕はそんなこと思っていない」

「馬鹿げた人間の下で死んでいくわけね」

「シルウィア人の全てが君の思う悪人じゃない」

「悪人の方がましだわ。何も考えずに殺してしまえる。シルウィアはあたし達の感情を、自分たちの都合のいい法で縛ってないがしろにしてる」

「僕を帰して欲しい」

「馬鹿げた上司の下に?」

「僕にとっては父のような人だ」

 父のような、といったモリァスの強い呟きにルーシェは思い出したように焦りを憶えた。

 父様。

 森が焼失する。この事実を手中にした時、父はどんな行動に出るだろう。何もかもかなぐり捨てて、装備を調え、シルウィア兵を一人でも多く殺傷しようとして旅立つのではないか。自分の命さえ、捨てて。

 父様。そんなこと、やめて欲しい。

 周りの皆が制止することを願っているが、状況は限りなく切迫していて、若いルーシェにもシルウィアとシェドの関係がどうしようもないところまで来ていることがわかった。

 燃え続ける森が、二つの地域をおさめてきた感情の容れ物を、無限に膨張させる導火線になる。器の外縁が壊れたとき、シェドはただ民族の誇りだけを残して、夢のように砕け散るだろう。シルウィアの法に背き続けなければ、シェドは子孫を残せない民族であり、シルウィアは今度こそシェドの習慣を是正しなければならないと考えるはずで、それでもシルウィアにシェドは抵抗する。そんな人間の集まりなのだ。大国に押しつぶされて終わる。

 ただ、民族の誇りが怒号となって空間に漂っていればそれでいいのではないか、ルーシェは自分の考えの行き着く先を知って怯えた。思考の行く末が決まっている気がした。未来が思い描くとおりに進行していくような、陶酔感に似た幻影が心象にある。

「父様」 

「心配そうな顔をしているね」

「心配よ。こんなことになったんだもの。あなたさえいなければ」

「すぐにでもシェドに戻ることができたね」

「いいえ」 

 本当に申し訳なさそうに顔を歪めるモリァスに心を痛めたのも一つあるが、あの時ルーシェは変わらない未来を嘆いて踵を返した。責は自分にしか無く、モリァスに辛辣な言葉をかける自分こそが、はたして変わろうとした夢想の先の自分自身だろうか。目の前の現実こそが、ほんの数刻前に願った意識の具現したものとはどうしても思いたくなかった。

「どうして今夜なの」

 シェドにとんで帰りたい、ルーシェは思った。

「僕のことは気にしないでいいよ」 

「そんなことできるわけない。あなた達とは違うわ」

「すまない」

 足に力が入らなくなって、少女は地に座り込む。乾いた熱い風が、ルーシェの栗色の髪を夜に舞あげた。

 誰も止められない。

 誰も止まらない。

 時が動くから、人は前に進まねばならない。ルーシェは時間が進み続けることを恨んだ。自分が自分としてしか存在できないことを呪った。

 泣くつもりなど無かったのに、頬をさらりと流れる物がある。鼻の奥がかっと熱くなって、喉が絞られて声が漏れた。彼女の頭の中は次第に白濁していった。

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