1-5
「子供の頃、こんなことを考えた事があるのです」
イリシアが唐突にそう口にしたので、少し先を進む卿は手綱を引いた。同じ組の魔手であるカンファイも振り返った。彼は盲目であるので瞳が夜の中に灰色に浮かぶ。
「どういうこと?」
卿が問う。
「もう見えなくなりましたが、先程まで月が出ていました」
「そうだね」
二人は馬上でおのおのに夜空を見上げた。黒色の顔料を吸い込んだ綿のような雲が流れていくのがわかった。
「我々はなぜあれを月と呼ぶのでしょう。何の疑念もなく」
「疑念などと」
言いかけて口をつぐんだのは、全盲であるカンファイ・ラ・ファンだった。
「しかしそういえば、確かに」
「あなたは月の形を知っているの」
「生まれた頃から私は目が見えず、そのはずはないのですが、不思議なことにこれが月だと確心をもっていえる心象が胸の内にあります」
「疑問が増えた」
イリシアは自嘲気味にそう口にした。
「どうしていまそんなことをいったのかな。私にはその方が疑問だ」
「なぜでしょう。私にもわかりません」
「疑問ではあるが、わからないということでもない。予想は出来る」
「というと」
「他に根本的な疑念がある」
「根本的な」
「なぜ自分がここにいるのか、ということ」
「それは、確かにそうです」
「馬を進めよう」
三人はまた一定の速度で馬を歩かせる。シェドの領域に入る頃には、すっかりと夜があけるだろう、と卿は予測した。
イリシアの内側には追っ手として迫ってくる偉大な将軍の影がある。卿は、その影を消す光を差し込むつもりで彼女に声をかけた。
「それは私にも疑問だ。斥候といわれ出てみればこの有様で、敵か味方かもわからない将軍に間を詰められている」
しかし、この言葉にむしろイリシアの顔は曇った。
「はっきりと敵だとお認めになられているものだと思っていました」
「皆の認識がどうであるかは私には関係ないよ。もし敵でなければどうする。何かの手違いで出た将軍と我々の間に何の因果もなく、それでいて矛先を交えたとなれば、実に合法的な裁きが行先に待っている」
「よろしいのですか。認識のあやふやな部下を先に行かせて」
「基本的に私の戦術は待ち戦だ。先に攻撃をすれば余分な情報を敵に与えてしまうからね。みなもそれは理解している。それに、それほど無謀な人間は隊の中にはいないよ。あれ、もしかして皮肉だったのかな」
ついと、イリシアは卿から目線を外してそっぽを向いてしまう。卿は後ろ頭を掻こうとして、甲冑に指をぶつけた。ぶつけた指をしげしげと眺める。そこまでが卿のいつもの癖だった。
「遊興のわからぬ御方は嫌いです」
卿は困惑してカンファイを見た。彼は視線こそあやふやだが、人の意識は捉えられるので微かに頬をゆるませた。
「君の、理不尽に思う気持ちはまあ、わかるよ」
「卿、あなたはそうは思わないのですか」
「何度も自問したさ。だけど、問題点を確認してそこから答えを導き出す度に、しかし大半は現実から大きくかけ離れた成果をどこかに私は求めているのだ、と思うと考え続けることが虚しくなってくる」
「虚構ではないという前提が無いのではないのですか」
「大変痛い指摘だと思う。つまるところ根源的な問題点が私に向くんだ。私がいない、ということだけで改善される事象が無数にある」
「貴方がいたお陰で改善されたことも、これからされることもあります。そうすると、それは問題点にはならない」
「痛い、痛い。白刃で斬りつけられた気分だ。だがねイリシア。それが人間の自然な思考というものだ。一番楽な方向に流れというのは行き着く」
「流れを抑えたらよろしい」
「いい部下をもって幸せだ、私は」
卿は肩をすくめて空を仰いだ。
問われなくてもわかっていたことのはずなのに、今の今まで思考の端に除けてきた案件が、彼にはあるのだった。
郷国の宰相を務める貴人が昨年変死した。宮城内の宰相執務室で近衛の兵に発見されたとき、宰相は自分の首を自分の手で強く握り込み、絶命していた。後になってその腕を切り離さなければならぬほど深く食い込んでいたことを考えると、まさか自殺ではあるまいと誰しもが思考するのだが、そうかといって何者かの所業であると断じるには、あまりに奇怪な状況にあった。
法国の幹部たる各方面の大臣による検分の結果、まず魔手が疑われた。物事の因果を見定め、その動きを制御できるといわれる魔手にこそ、今回の悪魔のような犯罪がなされると考えられたのだった。
しかし、魔手は法国内では非常に地位の低い存在であり、宮城内には立ち入りが許されていない。宮城どころか、その近辺一切に立ち入りが許されていない上に、厳格に区画され、管理された魔手だけの町に住まねばならなかった。魔手は修行の過程で身体的な欠落を、必ずといってもいいほど、どこかに抱えていた。それがシルウィアの人間には許せなかったのである。純粋な法国の民は完全を好み、単一であるということをよしとする。過去、どれほどの功績をあげても、けして魔手の参内だけは許されなかった。
すると、必ず内通の人事がある。
「卿、貴方は人が好すぎるのです」
反論はカンファイから上がった。
「イリシア殿、しかしそれは美徳です。我々にとっては、少なくとも」
「いいんだ、カンファイ。イリシアは正しい」
卿は、前世読みの老婆の手によって宮城に入った王位の継承者だった。元々法国には世襲制はないのだが、継承権の位階は高く、すでにして法王の実子よりも上であり、そのために暗鬱な人間の歯牙に触れることがよくあった。だから卿は、非番であるときは宮城を出て、貧民街や魔手街に赴き、やはり謂われのない差別を受ける彼らと時を過ごしていた。
卿の突然の入内を看過できない一派には、それが十分な口実になった。宰相が法王の実子の教育者であったことも、卿にとっては災いになった。一切、宰相に対して恨み辛みなどない卿である。むしろ、宰相には好くしてもらった。殺意も無ければ、巡り巡って魔手たちに嫌疑がかかることに頭が回らない性質でもない。
結局、はっきりとした事は何一つわからず、卿は冤罪を被ることは無かったが、猜疑をもって見られる行為を行ったことに対して、異例の厳罰が下った。
彼の領地、故郷を召し上げられたのである。
配下の者がなぜ、卿を「卿」とのみ呼ぶか。その理由がここにある。
継承権の席次も下がり、さぞや王子側は溜飲を下げたことだろう。卿はそういった王室の一切の雑務に関心をすっかり失っていたため、むしろ喜んだ。
「常識人とは少しかけ離れた感もあります」
「いい過ぎだよ」
卿は苦笑した。
「いいえ、卿。普通ご自身の意向とは裏腹に継承権をお譲りにならなければならぬ場合は、折しも現在の殿下がそうでございましたように、肝を冷やすことはありましても、清々しい気になどならぬものです」
「私の意向とはまさにそれだった。ただ、それだけだ」
「常識と離れていれば、人は人を疑います」
「それがこの仕打ちか。なるほど、馬鹿げている」
卿には頂点に立とうとする意志はない。しかし、卿の意志とは無関係に、ただ卿という存在があるというだけで、安心できない人間がいる。
人の、存在価値というものはいったい何であろう。
イリシアが月の名称になぞらえて問うた疑念とは、きっとこのようなものであったに違いない、と卿は思った。
イリシアの憂いや怒りが卿の内側に無いわけでは、もちろんない。ただ、内面で燻り続けた体制への批判は、一度体外に放出されてしまえば、自分の与り知らぬところにまで延焼してしまいそうな気がして、卿は恐ろしかった。存在の価値はわからないが、存在そのものが持つ力は破壊を内包している。卿の思索はここにいつも端を発し、再び旅立てたとしても、異なる経路を手繰ってやはりここに帰着する。
自身の消滅。
これほど明確で単純な解決法はあるまいと思ってしまう。
きっと相手側もそう思って、今日の兵を進めている。
自身が消え入ることに対する恐怖はない。人は遅かれ早かれ死を賜る。必然の事態を深く考え込むほど愚かなことはない、と卿は思う。前世などという信仰が法国にはあるが、卿は信仰にすがって生きていく弱さを入内する自身の内に認めてから、信じるものを外に見出すことに緩やかな疑いを持っていた。
しかし、それこそが存在の消滅ということなのではないか、と卿はふと思うことがあった。誰もが共有する考え方に自分も流されてしまえば、期せずとも自分という形は無くなり、自己は埋没するのではないか。
卿はかぶりを振った。
そんな事をして何になる、と卿の中にわだかまる気持ちがいった。今の自分に、出来るはずもないことだった。
「あなたは死ぬことを許されぬ人です」
「そうだね」
抗えないことばだった。
カンファイは、虚ろな眼球の奥に確かに意志を秘めながら卿を見つめている。
私の死を恐れる人間がいる。
存在とは、単独ではけしてない。
諦念が胸に疼く。
そんなことは、わかっている。
ただ、存在と存在を紡がねばならない人間が、どうして私でなければならないのだ。
「わかっている」
卿は確かにそういった。そのことばは、カンファイにいったのでもなければ、イリシアに向けたものでもない。卿の内側に広がる、からだとは異なった内々に秘めた見えない自分に向けて発したものだった。
人の役目は存在と存在の間に浮沈する蔓草のようなものだ。今の私にはそんな言葉が似合う、卿は思った。それぞれに向けて根をはり、濃く深く葉を拡げる。卿は、垣根を作らずに数多くの事象に接したことが、己の役目をつくり、その為に自己の存在は極めて受動的に支えられていることに気づいたのだった。
「素直でありたい、よく私はそう願うのだが」
卿は相変わらず苦笑を続けたままそういった。今度は二人に。
「きわめて難しい」
「お察しします」
「認めてくれるのかい」
「とりあえず、そう申し上げておこうかと」
「カンファイ、何とかいってやてくれないか」
卿は顔を手で覆うと若い魔手に助けを求めた。
「卿は、お幸せです」
「君もそんなことをいうのか。なかなか、味方というのは見つからないものだね」
やれやれと卿が首を振ったのを見て、イリシアとカンファイは顔を見合わせた。卿はその様子を肩越しに透かし見て、彼らを含む皆の拠り所としての責任を考えた。
生きることの意味である。
しかし卿にはそれが、自分で得たものとはどうしても思えなかった。
誰のものでもない、自分が生きる意味とは何だろう。
意味は見出されてはじめて応用が利くものであるから、卿の感覚としては、意味がはっきりするまでは生きているとはいえない。だが、人は何も考えずとも確かに生きているのであって、そうするとまだ気づかない意味があるのだろうか。あるいはそんなものは何もなく、ただ生きるという現象が起こっているだけなのか。
そんなことを思う卿の耳に声が届いた。卿を呼ぶ声である。
「――ツァイ」
卿は小さく呟いた。
「何か?」
イリシアが聞きとがめる。
「いま、ツァイの声がした。間違いない」
「ツァイはキル隊とともに間道の封鎖に向かったはずです。方向がまったくといっていいほど違いますが」
しかし、いいかけてイリシアは声を潜めた。彼女もまた、何者かが近づいているのをはっきりと感じ取ったようだった。
夜風が思い出したようにはしるだけの蒸し暑い夜である。三人は汗を滴らせながら、一通り気配を探り耳を澄ませた後、街道の路肩の一点を見つめた。
雑草がそよぐ音とは明らかに違う異音が近づくと、イリシアは迷わず剣を抜いた。
確かに、卿を呼ぶ声がある。しかし、気配が一つでなく、加えて血の臭いが風に混じるとなれば、穏やかではない。
沈黙。
草木が擦れあう音。
そして、明暗がいったいとなって判然としない景色。
その一切を破ってツァイの白い顔が夜空に昇る月のように、路傍から突如、顔を出した。目が青白く輝き、充血した血管が浮かび上がる瞳を一瞥すると、イリシアはおもむろにツァイに近づき馬を割り込ませて、剣を振りかざした。
火花が散る。
二度、風を刃物がなぎ払う音がして、三度と。
視界が白転し、闇に意識が彷徨って、その後、目が慣れるとイリシアと対峙している男の姿が浮かび上がった。深い眼窩が暗い影を顔に落とした偉丈夫が、馬に乗った高みからイリシアを見下ろしていた。
「貴公は女か」
呆れるほど落ち着いた太い声だった。
「そうだが何か」
「大した膂力だ」
「お前のただの腕力とは違う。私には芯がある」
「そうか」
男は無造作に剣を横薙ぎすると、イリシアは少しだけ後ろに下がってツァイをかばった。
ツァイの右前腕は肘の辺りから力なくぶら下がって血が滴っており、ツァイは上腕を縛る布と同じほど、きつく真一文字に結んだ口をわずかにゆるめると、申し訳なさそうに卿の名を呼んだ。
卿は無言で頷く。
月が穏やかに光を降らせ始めた。
男の相貌が明らかになる。
「アルゲラ」
イリシアの呟き。
「知己か」
卿は馬上から彼女に問う。イリシアが首を横に振ると、乱れた髪がひとふさ、はらりと彼女の横顔にかかった。卿は時を顧みず、それを美しいと思う。
「シェドの反シルウィアの先鋒です」
「なるほど」
間断なくアルゲラは、イリシアを攻めたてる。
イリシアは引かない。鋼同士がぶつかり合い、残響の間を縫って男が馬を詰めると、イリシアは巧みに体をかわして、いなす。
アルゲラは苛立たしげに剣を振って仁王立ちになった。腰が落ち着く姿勢は歴戦の強者の証である。月光を背に負って、荒ぶる御魂が言霊を発するように、男は大声を張り上げるのだ。
「貴公等はわしを知っているのだな。わしは貴公等を知らぬ。なにゆえ兵を進める」
「我らとて知らぬ」
イリシアの低い声。アルゲラはたちまちに顔をくしゃくしゃに歪めて、駄々をこねる子のように、声を絞った。
「面妖な」
アルゲラはイリシアへの意識を忘れないまま、卿とカンファイの顔を盗み見た。
「主管はどちらか」
「こちらだ」
間髪を入れずに卿がカンファイを指さした。眼前の男はイリシアが首魁でないことを即座に見抜いた。その洞察力が、どれほどのものかを卿は試したかった。
「え?」
「貴公が?」
が、カンファイは芝居に耐えうるような精神力は持ち合わせていない。元来、人前に立つのが苦手だったと卿が思い返すまでもなく、月の光に照らされた彼の顔に狼狽は激しかった。
「そうではあるまい」
アルゲラはいい切った。そして卿を向き直る。
「卿と呼ばれていたようだが」
「聞こえていたのか。無駄な芝居をしたものだ」
卿は、アルゲラに微笑を返す。アルゲラにとってみれば、卿は月明かりを見上げる方向になり、逆光であるので、自分の顔がはっきりと見えているだろうかと、卿は変な疑問を持った。
「いずこの卿か」
シルウィアでは、領地を持つことを許された人間だけが、卿、と呼ばれる。当然、卿と呼ばれれば封ぜられた土地がある。が、卿はその領地を失っているので、
「いずこでもない」
と答えた。
アルゲラにとってみれば、納得がいくはずもない。
「わしは、回りくどいのは好かぬ。シルウィアの卿であるのだろう」
「そうだ。いずこであるか、ということがそれほど重要か」
「我らがシェドを蹂躙した卿の一族であれば、許さぬ」
「シェドに蹂躙された歴史などない。あなたは何かを勘違いしているようだ」
「国土を灼かれ、民が死ぬことだけが蹂躙ではない。我々の心が、歴史が寸断されようとしている」
「あなたが、ツァイを襲ったのはそういう理由か。私の隊の人間を傷つけたのはそういう理由か」
卿はカンファイに、ツァイを頼むと小さく呟くと、呆然と成り行きを眺めていた若い魔手は、卿の側に踞るツァイの側に手で道を探りながら寄った。
卿は馬を下りる。
イリシアがアルゲラに注意を払ったまま、卿に寄り添った。
「蹂躙には蹂躙で返すしかない。そうお考えか」
「そうではない。なぜ馬を下りた?」
「私はあなたとは違うからだ」
「そうではない、といったはずだ」
「なぜ、傷つけたんだい。私の隊の人間が、なにかしたのか」
「夜も更けたというのに、シェドにしか到達しない街道をシルウィアの甲冑を身に纏う兵士が行軍していた。何か変事があったとしか思われない」
「もう二人いただろう」
「一人は捕縛し、一人は森へと落ちた」
「本当なのか、ツァイ」
卿は視線は送らずに、声だけで問うと、ツァイは小さく頷いた。事実のようです、とイリシア。
「モリァスか」
卿の直感だった。まず、間違いないだろうと、卿は思っていた。ツァイの暗い顔から答えが滲み出てくるようで、今度は卿はツァイを一瞥し、アルゲラに視線を戻した。
「アルゲラ殿。あなたがたが捕まえたというシルウィアの兵士は何か、口にしたか」
「何も。いったとしてもわしにはわからぬ。その小僧を追ってここまできた」
「そうか」
卿の一言で寄り添うイリシアの瞳が冷たく沈み、やがて色を失った。
卿の情感がイリシアに伝わったのである。
イリシアの瞳の変化に、またしても月光が隠されたのか、とアルゲラがそう思って視線の先をわずかに空に向けると、濡れそぼれたような柔らかいぬめりがイリシアの剣に宿って、天空をついていた。
「ならば我らについて教えよう。だが、その前に」
剣を支えるイリシアの手首がゆるみ、からだが大きく傾くと、腕が地に向かって急速に落ちて、切っ先がわずかに地面を裂き、小石を弾いた。
つぶてがアルゲラの馬の顔面を激しく叩き、いななきが夜気を裂いたとき、卿の馬はすでに宙をはしっていた。
声を上げて馬を押さえようとしたアルゲラの片腕は、卿がまたたく間にふるった刃によって、ツァイと同じように肘から先が失われ、彼の体は大きくのけぞった。
刹那の内に、火花が頭の中で走ったように感じたアルゲラには、痛覚などなかっただろう。何が起きた、その疑問だけが先行し冷静さを失ったに違いない。
が、激しい痛みが彼の体を熱く灼いたためか、心にたった波風が穏やかになり、右手で必死に覆う顔の下にけっして野蛮ではない覇気が粛々とうずまき始めたのが、卿には理解できた。
恐ろしい男だ、率直にそう感じた卿の顔には、月明かりを照らし返す赤黒い血液がある。
「ツァイの腕は返していただく」
アルゲラは右腕だけで剣を振るった。
風が悲鳴を上げる。
卿は剣の腹でアルゲラの膂力を受け流すと、一つ息を吐いた。
激しくアルゲラの腕から血が落ちた。
「見事なもの」
イリシアの声が体温を保ったまま卿の耳に寄った。
「シルウィアの剣士ごときが」
「侮りがいまの君の姿を生んだ」
アルゲラは、下卑た言葉をいくつか飛ばして、自分の衣服を裂き、きつく上腕に口を使って器用に結びつけた。
「――カンファイ。ツァイはどうか」
卿の突然の声に、瞳を閉じたままのカンファイは身をすくませて答えた。
「大丈夫です。繋がります」
「まかせる」
カンファイはツァイの患部に手をかざしている。アルゲラは、剣を持った手をだらりと下げて、その光景を見つめはじめた。目に不思議な色がある。慈しみの感情が表層に浮かび上がって、アルゲラの口を震わせた。
「魔手か」
「非常に優秀な、な」
「ふむ」
「どうした?先程の威勢は」
「魔手には同情がある」
「彼らが虐げられてるからか」
「そうだ」
「私もそうだ、と申し上げたらアルゲラ殿はどうする」
「なに」
アルゲラは剣を持ち直した。
人の意識の圧力にさらされて、卿は思わず一歩下がった。ふざけた発言をすれば、すぐにでもまた膂力をふるう、その意思表示にちがいない。
「私は法王の継承権を持っている」
「席次は」
「今は六位だ。しかし、ほんの数ヶ月前までは一位だった」
「では貴公が」
アルゲラは目を丸くした。
「私を知っているのか」
卿の驚きの声に、アルゲラは丸めた目を細めて笑った。あまりに力強く笑うので、腕から血が滴った。
「あなたを探していた」
「どういうことだ」
イリシアの固い靴が砂利を踏みにじってこわばる音が聞こえる。今度は、イリシアが固唾を飲む番で、やはり返答次第では許さないと美しい顔がわなないている。
「貴公は必ずシェドに向かうと思っていた」
「なぜだ」
「貴公が善意の人だからだ。わしの知人がシルウィアの捕虜となり、都市部の貧民窟にいる。貴公の施しを受けて生き延びた。知人はシェドの惨状を貴公に訴えた」
「だから、シェドに向かうと?」
「そうだ。宮城内のごたごたも耳にしていた」
「私に何かを期待するなら大間違いだ。そんな力は私にはない」
「貴公の力が必要なのではなく、貴公が持つ人気が必要なのだ」
「私を利用するのか」
卿は微笑む。
また、誰かの関係に引きずり込まれようとしている。私の意志の無いままに。
卿にとってみれば自分を自嘲する悲しい微笑みだったが、アルゲラには協力的な姿勢にうつったようで、剣を鞘に収めると急に人なつこく笑い卿に近づいた。
イリシアが卿の前に馬を進めて、剣を横に構えたが、アルゲラは、もういいだろうと敵意のないことを肩をすくめて知らせた。
「卿」
イリシアの非難の目が肩越しに卿を貫く。謀れてはならない、そう告げている。
「いいよイリシア。活路だ」
「卿」
もう一度イリシアが呟く。卿はイリシアの剣の腹を上から押さえると、アルゲラと真正面から、手を伸ばせば肘を曲げても届く距離で、対峙した。
頭が二つ分、アルゲラが大きい。
「わしは貴公を利用したい」
「戦でもするつもりか、シルウィアと」
「そうだ」
「無茶だ」
「シェド一国であれば、そうに違いない」
「私を盟主に担ぎ出すのだね」
「そうだ。貴公は大変に都合がよい人物だ。もともとシルウィア人ではない、というのが我々にははずせなかった」
「条件を出そう」
「断る」
「話は最後まで聞いた方がいい。でなければ私はわがままな盟主になってやる」
「なってやるとは、それはまいったな。いくらでもわしらに手段があるはずだがなぁ」
アルゲラは卿の知己であるかのように笑った。
そして顎をしゃくる。しゃべってみな、というかのように。
「私は追われている」
「だろうな」
「知っていてキル達を襲ったのか」
将来のわがままな盟主ぶりを示唆するように、卿は意地悪く笑うと、自分の剣の切っ先をわずかに上げた。
「貴公が隊長だとは知らなかったんだ。許してくれ。それで、誰に追われている」
「将、トーリ」
「法王騎士団か」
アルゲラは大声を上げ、すぐにあわてて自分を嗜めた。
「そうだ」
切っ先を下げながら、卿が答える。
「そりゃあ、大物だ。しかしなに、貴公等を守るだけなら大したことではない。条件とはそれでおしまいか」
「いや、トーリ殿を味方につけて欲しい」
「なんだと」
「トーリ殿ももともとシルウィアの人ではない。何も問題はないだろ」
「いやしかし」
「なにがしかし、なのかな。シルウィアに反抗するなら法王騎士団を敵に回したくないだろう。なにせ法国最強の騎馬集団だ。おまけに手だれた魔手がついている。私は、こころの平静を保ったままではとても戦う気持ちにはなれない。ならば、懐柔してこちらの指揮下におきたい。いやあそんなに難しいことじゃあない。トーリ殿を説得すれば自ずと騎士団はこちらの内側に入り、シルウィアへ馬首を向ける。彼らが忠誠を誓うのは法国ではなくあの老将なのだから」
「あんた正気か」
アルゲラの語気が砕け始めた。
「私を手中に入れると追っ手を真正面から受けるぞ」
「くそ。まさかそれほどの大物とはおもわなんだ」
「どうする」
「わし一人では決められぬ。条件については後で考慮するにしても、貴公をこのまま放るのは癪だ。ついてきていただきたい」
卿はイリシアを見た。話の流れに置いていかれた副官の眉間には深いしわが寄っている。剣から手を離して優しくイリシアの肩に手を置いた卿は、今は何も考えるな、と小さな声でイリシアを諭した。
「卿、繋がりました」
「おお」
卿はアルゲラとの駆け引きの場から身を転じると、ツァイの元に走る。
アルゲラがその背に、おい、と声をかけるが、イリシアがめざとく制した。
「大丈夫か」
「卿」
ツァイの顔には血の気が戻っていた。無惨な右手の様相はない。卿は納得した顔でカンファイに微笑みかけた。
ツァイは繋がったばかりの右手を卿の顔に向かって伸ばした。
卿は掌をしっかりと握る。
「気丈に振る舞え、ツァイ。いつものように。隊の中で飛び抜けて明るいのが誰なのか思い出せ。お前にはそれしかない」
「ひどいな」
「そうかな」
「卿、モリァスが森におっこちちまった。助けてやってください」
「ああ、そうだったな。忘れていたよ」
「わ、忘れてたって。あんた、それじゃあ、隊長失格だよ」
「それはいい。じゃあ、次の隊長は誰がいいだろう」
「誰って――」
「イリシアがいいっていってごらん。ほら、イリシアだよ。さん、はい」
「もう疲れました」
「そうか、実に残念だ」
「モリァスを、卿」
「わかっている」
卿の頷きにツァイはようやく落ち着いたのか、すっと瞼を閉じた。卿はツァイを抱きかかえ、自分の馬に乗せた。反対側から駆け寄ってツァイを支えてくれたイリシアの目に批難が浮かんでいるのをいち早く悟った卿だったが、あえて気にしなかった。
が、イリシアの攻撃。
「何をいわせているのです。この非常時に」
「非常時だからこそ将来の話をしっかりとね」
「卿」
「冗談だよ」
アルゲラは無言で卿を見ていた。卿は肩越しに彼を見ると、その先に落ちている彼の腕が目に入った。
アルゲラは視線の先に気づき、
「わしの腕もつなげてくれるのか」
といった。目が笑っている。痛覚は絶対に消えていないはずで、それに、自分の腕を切り飛ばした男が目の前にいる。
卿は不思議な錯覚に陥った。彼はいったい何を思って卿に笑いかけているのだろう。激昂を通り越した先にアルゲラは何を見ているのか、よくわからなくなった。とにかく凄まじい胆力に、卿は苦笑するしかない。
「さきほどの条件次第だが、一度ここを離れたい」
「追手か」
「そうだ。もうすぐ、この森は燃える。全て灰にかわる」
「なに。どういうことだ」
「私がトーリ殿なら必ずそうする。トーリ殿は魔手の力を存分にまで引き出せる御方だからね。造作もないことだろうよ」
卿はことばをいいきらぬうちに、馬を歩かせ始めた。イリシアはカンファイを支えて馬に乗せて、自分の馬の手綱をとる。
「腕を持ってくるといい。いくら汗ばむ夜といえど、まだ腐らないさ」
アルゲラはいわれるがままに無造作に自分の腕を掴んで、肩に担いだ。
黒々とした断面をしげしげと眺めて、糸も針もなくこれが繋がるのか、とアルゲラは呟いた。