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1-4

 星が見え隠れする夜の下を一つの部隊が逍遥として進んでいる。といっても、けして私語があったり馬首が乱れるといったことはなく、傍目から柔らかさが伺えるといった程度のものだが、これを見れば自ずと指揮者の将器のかさ高さは判別できるだろうと、この隊の佐将であるベルトレは考えた。

 先程間道を歩いてきた兵卒も合流した。

 これで五百の兵が再びまとまりを得たことになる。しかし、向かう先の道は街道といえど一列に縦隊して進むほかない谷間で、しかも両脇を黒い森が覆うので、軍様を変えねばならない。

「広い森だな」

 ベルトレが、この辺りの地域に不慣れな指揮官の背中にこれからの道程を詳述しようとして口を開きかけたまさにそのとき、老人のしわがれた声が聞こえた。まるで、背中に口があるようにはっきりとベルトレを指向しており、掠れているが、なんと尊大な威儀を持ち合わせた声だろう、とベルトレは身のすくむ思いで先を行く老将を見た。

「この先にシェドがあるのか」

 老人は振り返りながらいった。よもや魔物の顔でもついてはいまいか、とベルトレは本気で心配して、質問に答えようにもうまく声を出すことができなかった

「こたえよ、佐将殿」

「はい、将軍閣下殿」

 ベルトレの応答が、周囲に驚きを伝播させるほどの大声であったのは、目前の小柄な老人がもつ威に圧倒されぬようにという強い意志があったからだった。強烈な自己主張といってもいい。というのも、ベルトレはこの老人、名将と噂されるトーリのもとに、つい先日配属されたばかりで、実は言葉を交わすのはこの日がはじめてだった。

「でかい声が誉れだと考えておるのなら、改めた方がよい」

 顔色一つ変えた様子も見せず、トーリは白く揃えた髭を撫でてそう答えた。

「失礼いたしました」

「それに敬称はいらぬ。わしのことはトーリと呼んでくれればよい」

「いったいなぜです」

 ベルトレの戸惑いをよそに、老人はしらけた声で言葉を繋いだ。

「わしは貴公の上司ではない」

「先程私を佐将とお呼びいただいたではないですか」

「部下ならそのような呼び方はせんよ。佐将殿はわしと同格なのだ。呼び捨てで一向に構わぬ」

「しかし」

「何ぞ軍規に触れる問題でもあるかな」

「将軍、これは心の問題です」

「ほう」

 トーリの眉がはじめて興味深そうに動いたのをベルトレは見逃さなかった。今の今まで、自分はこの老人の気持ちの端くれにすらいなかったのだと気付いた瞬間である。同格だなどといいながらその実、老将はベルトレを配下程度にも思っていない。つまり、それは今ここにいる自分はいないということでもあって、何としてでも、私の存在を認めてもらわねば、上官に指示された任務に支障が出る、ベルトレの心境を一言でくくるとすれば、そういうことであって、彼は必死に抗弁した。

「将軍は多くの功績をお持ちです。それらのほとんどが我々の国への貢献に役立っており、私は純粋に将軍への尊敬と畏怖を持っているのです。それが将軍を呼び捨てでなど呼べない理由です」

「功績というものは」

 トーリは、なんだそんなことか、とさもつまらなさそうな顔をして、ベルトレに言葉をかけた。

「たとえばわしであれば、過去の自分がやってきたことに対する誰彼の感慨や感想というものであって、けして今のわしのことを指しているのではない。いってみれば、昔の貴方は素晴らしかったというようなものだ。つまり、佐将殿はわしを尊敬しているのではなく、過去の業績に支えられたわしの偶像を素晴らしいといっているのだ。佐将殿、人とは今を生きるものだ。目の前にいるわしでは不満かね」

 そんなことをいっているのではない、とベルトレはふと思ったのだが、自分が礼を失してしまっているのだと思い、慌てて続きの言葉を探す。このままでは、自分の思惑とは異なった方向に将軍に記憶されてしまう。

「おっしゃるとおりです、将軍。他の者や、あるいは国民にとってみれば、私の目前にいる将軍はまさしく過去に偉大な功績を残された将軍と同一なのです。我々を取り巻く環境にいる者、つまり客観的な視点にいる者は今を見ながら同時に過去を見ています。時間というものが一つの線であれば、彼らはその線を同一の平面上に見るのです。その時に、名もほとんど知られていない私が将軍と同格だなどということになりますと、彼らはわたしをどう思うでしょうか。わたしがどう思われたいと考えているかなどに関係なく、彼らは非難を口にするでしょう」

「佐将殿の保身をわしに手伝えというわけか」

「将軍、それほどに貴方は偉大なのだということです。心の問題と申し上げましたが、心とはわたしのものだけではない、もっと国民的な道義上の問題で、わたしもシルウィアの民でありますから、将軍と同格だなどとは申し訳なく思うほかないのです」

「光栄だ、と思っておけばよろしい」

「将軍」

「見栄をはるな、佐将殿。わたしはシルウィア人ではないのだ。君たちにいわせれば、わしは蛮族と呼ばれても仕方のない国の人間だ。そのような人間に同格だなどといわれると佐将殿には立つ瀬がないのであろう」

 こいつは何をいっているのだ、とベルトレは湧き上がってくる怒りをこらえきれなくなる自分を猛烈に制した。トーリという人間が多くの人臣に畏怖の念をもって敬われていることなど関係のないことのように感じられた。老人を覆っている威厳も所詮取り繕ったものに過ぎないのではないかとさえ思われた。しかし、よく考えてみると確かに自分は保身に走っていたはずなのであり、将軍との会話を成立させるためには、自分の気持ちに妥協点を探す必要があることに気付いた。

「おっしゃるとおり、であるのかもしれません」

「認めるか、佐将殿」

 トーリはさして怒れる風もなく、いった。

「私の内側にそういった部分がないといえば、それは嘘になるでしょう。しかしだからといって、将軍を呼び捨てにできる人間が私かといえば、それも違う。要はこういうことなのです、将軍。私には確かに保身の気持ちがある。しかし、私の保身はそのまま民を守ることでもあるのです」

 老将はベルトレの言葉をただ黙って聞いている。

 ベルトレは勢いの赴くままに続けた。

「誰かを非難すること、ましてやその対象がある程度の立場の人間であるなら、一つの覚悟が必要になります。自身の立場が危うくなっても構わない、という覚悟です。しかし、そういう心の結束が為しえず、具体的な論拠もないまま他者を罵りたくなるのが人というものです。覚悟のない人間に、無駄な言いがかりを口走らせないように行動するということも、我々シルウィア軍人の大切な使命であると私は考えるのです。蛮人と刃を交え、力をもって祖国を守るという行為だけが、民を守護するわけではないのです」

「そういうことを」

 老将は笑った。

 柔らかい笑みであったと、後になってベルトレはそう述懐するのだが、この時彼はまっすぐとトーリの顔を見据えていた、まるで、剣先を押しつけるように。

「わしは佐将殿の保身だと思うのだが、しかし、貴公の怒りは本物であった」

「私の怒り?」

「その怒りをわしに向ける限り、貴公はわしを補佐することができる、ということだ」

 あ、とベルトレは小さく声を上げた。老将はなおも笑っているようだった。しかし、すでに視線の方向はベルトレにはない。森を見据えて腰を落ち着かせている。

 ベルトレは試されたのだった。トーリの腹心たりえるかということを、いままさにここで、試験されたようなものだった。ベルトレは頭の回転の早い人間であったので、トーリの思惑に程なくして辿り着いた。トーリは自身に対する諫言を許す将なのだった。 

 それが理解できたことでかえって思うところが募ったので、そうですかと易々と口に出来るほど、ベルトレは老練ではなかったわけである。

「わたしを試されたのですか」

 ベルトレの内側にはまだ怒気をまとった火種がくすぶっている。

「どう捉えるかは、佐将殿次第だが、わしは貴公が使えない能なしだなどとは毛ほども思っていない。それだけは口にしておこう」

「そういっていただけるなら、助かります」

 嫌みをいうつもりはなかったベルトレだったが、自分が口にした言葉が図らずもトーリに対する悪感情を含んでいたことに軽い焦りを覚えた。ただ、口にしたことで彼の心に余裕が浮かんだのは間違いない。せき止められていた流れが、走り始めたような心の軽さにもベルトレは驚いたのだった。

 老将はなおを微笑を携えたまま森の入り口に立つと、陣形をゆっくりと変化させ、ベルトレを振り返った。

「グリムフ殿はいい部下を持っておられる」

「わたしの上司をご存知なのですか」

「彼がいなければ、わしは今ここにはおるまいよ。特別の計らいを頂いた。貴公が今回寄こされたのにはいささか意図的なものを感じるが、まあよい、それも恩返しの一つの形だろう」

 いい部下という表現には皮肉が込められていることにベルトレは気付いていたが、それよりも、いつも指揮を仰ぐ自身の上官とトーリが知り合いであったことに、彼は戸惑った。少なくとも、彼にとってグリムフという上官は尊敬と信頼に足る上司であり、トーリのような、ベルトレの今の不快感をもっていってしまえば、「小汚い」と感じさせる老人が知己のようにいうのはいささかおかしくはないか、と思うからであった。

 醜い思考をしているな、とベルトレは自嘲し、そうすることでようやく、落ち着きを取り戻した。

 何とまあ、怒りというものは強い力を持つものだろう。こうして客観的に自分を見つめる時間さえも失ってしまうと何度も首を振りながらベルトレは考えた。

 しかし、こうも思う。

 己の怒りを知覚して状態を把握してしまえば、怒りの規模が存外に小さいことも少なくない。時にはばからしいとさえも思えるほどで、今の彼はまさしくそうだった。それがもともと小さい怒りであったかといえばそうではなく、感じ取れない時間の流れのどこかで矮小になっているとしか思えない。自身の怒りであるのにそこにはまるで私の意志がないようだと考えて、ベルトレは空恐ろしくなった。

「佐将殿は思慮に耽る癖があるのか」 

 我に返るとトーリがにやりと笑った。

「仇になりますか」

 ベルトレは思わず笑みを返す。

「ひたすらに周りを固めるなら、まあよいかもしれんな」

「ご冗談を」

「さあ佐将殿、わしはこの辺りの地形に疎い。ご教授を賜りたいのだが」

 皮肉か、それとも今度は軍略で私を試そうというのか。

 なんにせよ、くえない上司だとベルトレは思った。 

 ベルトレは一歩前に出た。せめて威厳だけは保つために。

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