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1-2

「どうした」

 と、同僚に問われてモリァスは我に返った。 

「あ、いえ。なにも」

「なんだ新入り。いいたいことがあるんだろう」 

 ツァイという名の同僚はモリァスの二つ年上だと卿に教えられた。年よりもずっと若く見える。少年といっても差し支えない。屈託のない笑顔を見るたびに、モリァスは不思議な錯覚にとらわれる。

「俺の悪口か」

 たちの悪い冗談だとモリァスは苦笑いした。

 少年の白い歯と浅黒い肌の対照は見事で、兜の端からもれた髪は獣のたてがみのような艶めかしい黄色だった。出自は皆と同じシルウィア法国、つまりこの国だといっていたが、雪の降らない南部の人間であろう。それもとりわけ南の日差しの強い地域だ。

「ツァイ殿。前を見て走らなければ」

「そんなのは馬にまかせておきゃいいんだ」

 ツァイはいいながら綱を引き絞って、モリァスと並んだ。

「それに」

 ツァイの視線に吸い寄せられるように前を見ると、背筋をしっかりと伸ばしたまま馬に跨る男の姿が見えた。

「あの人がいる」

「キル殿」 

「あの人は何たって真面目なんだ。俺のお守りにはちょうど良いって卿が」

「いいのですか。そんなこといって」

「勘違いするなよ、新入り。そりゃ、確かに息苦しいときもあるけどさ、俺はあの人が嫌いじゃないんだ。もちろん卿のことだって」

「なぜ、卿の話を」

 モリァスの質問に、ツァイは口ごもった。少しばつの悪い顔をしているところを見ると、隊内におせっかいな噂でも流れているのだろう。

「まあいいじゃないか。それより、何のことを考えていたんだ。お前こそ、前を見て走るべきじゃないか」

「そんな顔をしていましたか」

「ああ、していたね。さっきのお前とは別人。声も別人」

「さっき?」

「ほら、卿に進言したときさ。あれでもあの人、怒らせるとこえぇんだ。よくやるなって思った」

「だから私が卿の連れ子だと思った?」

「な、ばかか、お前」

 ツァイの顔色がはっきりと狼狽した。やっぱり、よこしまな噂があった。あるいは元凶はツァイか、とも思ったがモリァスはうろたえている彼を見てそれ以上はいわなかった。

 こほん、と咳払いを一つ、ツァイは言葉をその先につなげた。

「そ、そうなのか」

 モリァスは笑った。声を上げて。先頭を行くキルが少し後ろを振り返ったので自重したが、ここまで心から笑ったのは久しぶりだった。ツァイの顔のおかしさといったら、まるで好奇心の塊で、やっぱり子どもだ。

「なんだよ」

「あはは。違いますよ、ツァイ殿。私の年と卿のご年齢を考えてみてください。シルウィアの法では子が産めません」

 シルウィアの国内法では、成人に満たない者の性行為を厳格に禁じている。シルウィアはシルウィア正教の宗教観の基に社会が構成されており、二十に手の届かない人間は完成されていないという価値観が一般的で、それまでに性行為を行うことは、魂を本当に自分のものにすることを妨げるという『教え』があった。モリァスは十八歳になったばかりで、卿は二七歳とすればどう見積もっても話が合わない。仮に卿が法国にくる前に成人未満でありながら性交渉をし、子をもうけたとしても、九歳という年齢はいささか現実離れしている。

「そうか、はは、そりゃそうだわな」

 ツァイの顔からは狼狽の色は消えたが、安堵と悔悟がないまぜになったような表情が続いて浮かんだのを、夜に慣れたモリァスの目は捉えた。自分の出自が賭の対象にでもなっているのかもしれない。

「それに、郷里には母もいます」

 モリァスはツァイの希望を打ち砕くためにそういったのだが、ツァイはむしろ目のかがやきを強めてモリァスを見た。

「母?母さんだけか?」

「ツァイ殿。まさかとは思いますが」

「あ、いやいやいや、あの今のは忘れてくれ」

 まったく、下世話なことが好きな子どもだ。モリァスは自分が年下だということすら忘れて、そんなことを思った。

 しかしまあ、とモリァスは考える。

 卿が父であれば、それは素晴らしいことだ。

「てことは、モリァス。お前は父親の顔は知らないわけだ」

「モリァスと呼ばれるのは、初めてですね」 

 嫌いになれない人だ。モリァスは微笑みを返す。

 ツァイは心情を覆い隠さない。もしかすると、そういった行動は苦手であるだけなのかもしれない。しかし、いいたいことがあると顔に書いておきながら、何もいわない人間よりは遙かに居心地がよいのだった。

 ふと、モリァスは気付いた。そうか、それは自分のことでもある。ツァイはそれを見咎めているのだ。私であれば、たぶん不快気に、目を逸らすようなことであるのに。そう思うと途端に、胸の底からこみ上げてくる微かな罪悪感を敏感に感じるようになった。

「そうだったかな。お前もさ、ツァイどのなんてのはやめてくれよ。なんか、こっぱずかしいや」

「はい。ツァイ」

「へへ。なんかいいね。弟できたみたい」

 私の方が兄貴なのでは、とモリァスは密かに思ったが、口に出すのはやめておいた。

「ツァイ。父の顔は知っています」

「へぇ。じゃあ、親父さんはお前が小さい頃に死んじまったわけか」

「いえ。今も生きているんです」

「なんだか、色々とありそうだな」

「私がうかない顔をしていたのなら、それは父のことを考えていたからかもしれません」

「父親はきらいか」

「きらいとか、好きとかとは少し違う気がします」

「敬語もやめちまえ、モリァス。俺とお前は、そんなに違わない。敬われるほど俺はえらくもないんだ」

「ツァイ。あなたは、正直だ」

「よくもわるくも、さ」

 モリァスとツァイは暗闇で微笑みあった。見知らぬ兄弟の顔を初めて見たように。あるいは、過去、どこかの世界で二人は本当に兄弟であったのかもしれない。シルウィアの人間は、前世を信じる。互いを知ることで、過去の自分を見つめているのかもしれないと二人はまったくそれぞれに思った。

「それでモリァス、親父のことはどう思っているのさ」

「わからない」

「わからない?」

「簡単な感情じゃないんだ、ツァイ。それにたぶん、僕の父親は、僕を知らない」

 森がひらけてきた。三人がゆっくりと馬を走らせているのは、旧街道と呼ばれるものの内の一本である。といっても、獣道ほどの細さしかなく、かろうじて道と判別できるのは木々の生育が悪いといった程度であった。道はシェドの周囲を覆う外輪の山の一つへと昇る道程であり、ここから山道となる。

 星の揺らめきが天蓋にさえずるのを見るツァイの瞳には、妖しい燦めきがあり、モリァスはふとそれに惹かれている自分に気付いた。弟が兄の中の、自分がまだ見知らぬ領域に魅了されるように、いずれは兄に反発する体のいい口実になるような憧れだった。 

 弟は、不条理だ。

 両親からの独立とともに、兄からも自立しなければならない。 

「モリァス。星が子を産むという話は知っているか」

 兄がだだをこねる弟を諭すように、ツァイは優しい瞳をこちらに向けた。

「星が?」

「ああ。俺の婆さんに聞いた話だ。星は最後には大きな爆発をして飛び散る。その飛び散った破片が新しい星になるんだ」

「本当かい。本当なら、素敵だね」

 視線を天空へと戻すツァイにつられてモリァスも空を見上げた。

「子を産むというのはそういうことなのかもしれないぜ」

「どういうことさ?」

「親は爆発するんだ」

「何いってんだ、ツァイ、僕の親父はいるよ」

「そうさ、親父はいる。でも元になった男はもういない。男は爆発して、親父と子どもを生むのさ」

「爆発しなきゃいけないの?」

 ツァイは、口をつぐんで押し黙った。

「ねえ」

「まあ、あれだ。だから親父さんはその過程で自分の息子のことを忘れてしまったというわけだ」

「ツァイ。僕の話、真面目に聞くつもりあるかい?」

「あ、あるよ」

「君のご両親は?」

「生きてる生きてる。そりゃあもうわけわかんないくらいに生きてるさ」

「そうか。元気なんだ」

「俺に僧侶になれなんていうから逃げてきてやったよ」

「そう」

「どうしたんだ?」

「母は、目が見えないんだ」

「病か」

「いや。自分で潰したんだ」

「なに」

 ツァイはさっと自分の目を抑えた。モリァスにもその感覚はわかる。暗闇に目が慣れるのを安心できるのは、また日が昇るのを知るからであって、もう二度と何も見えないのだとしたら、私も発狂してしまうかもしれない、とモリァスは感じた。もう何物をも形として目で捉えることはできないなどとは考えたくもない。しかし、モリァスは物心ついたとき母からその経緯を聞かされたとき、そんな母の姿を見たくないと確かに感じたのだった。

「なぜだ」

「僕の郷里は、元々シルウィアの版図じゃなかった。僕が生まれる少し前にシルウィアの侵攻を、といってもほとんど抵抗もしなかったが、受けた。父はその隊の指揮官だったんだ」

「お前、望まれない子だったのか」

「ツァイ、君は本当に正直だな」

 モリァスの微笑に寒気を感じてはじめて、ツァイは自分がいかに不味いことを口走ったのか理解したようだった。

「すまん」

「いいよ。事実はそうじゃない。二人は愛しあう仲になった。だけど、そう、望まれない子どもだといわれればそうかもしれない」

「望まれていない人間などいない」

「それは、自分なら確かにそうだ。だけど、誰かにとってみれば望まれない子もいる。母は、僕らの郷里の数少ないシルウィア抵抗派の人間だった。それが、シルウィアの将校の子をもうけたなんて知れたら、いったいどんな扱いを受けるか」

「それで目を」

「片目は親父が潰した。後で叔母に聞いた話だよ。父は泣きながら母の目を抉った」

「なんてこった」

 天に向かってツァイはそう呟いた。ツァイの声には心底の悲哀が滲み出ており、モリァスにはそれは新鮮な感覚だった。彼は心情を覆い隠さないばかりでなく、他人の感情に素直に寄り添っている。モリァスに愛しさを抱かせる力を持っている。ツァイとは、入隊してからほとんど口語を交わさなかった。つまり、見た目や雰囲気で接していたわけで、もちろんその放蕩気味の楽観主義者ではないかといった印象は、むしろ確信めいて揺るぎないものになりつつあったが、言葉を交わしたことで見えてくる心の風景にモリァスは少しの間心地よく酔うことができた。

 酒の感覚は嗜まないのでなんともいえないが、モリァスの感覚ではまさしく酔うという印象であり、もし酒場で見る皆の酩酊具合の底にこのように胸裡の狭間をたゆたう快さがあるのなら、口にしてみてもいいと、モリァスは感じたのだった。

 しかし、ツァイと話していると、自分が思考していることがいったいどこまでに及んでいるのかわからなくなるときがある。悲痛に染まっているはずの自分は、すでに起こった事象として自分の過去をすこぶる冷静に見ている。ツァイは、むしろ自分になりきっている。モリァスはこの状況に反発せず、主体と客体のない交ぜになった空間をむしろ楽しもうとして、わざとツァイの感情を逆なでするように言葉を選んだ。

「二人の関係のためには、僕は望まれてはいけなかったんだ」

「モリァス、生まれたことに感謝しろ。お前はこうして生きているじゃないか」

「感謝しているよ、もちろん」

「俺に出会えたからか」

「気安い男だ、ツァイ。そういうセリフは女性にいった方が良い」 

「女は嫌いだ」 

 今度は、二人とも声を押し殺して笑った。先頭を一定の距離離れて進むキルは、それでも後ろを振り返って二人に自重をすすめたが、すっかり物見遊山な気持ちになった二人がそれを受け入れることはなかった。

 しかし、とモリァスは考える。悲痛な話題がいつのまにか転じて明るい空気を作っている、ということには不思議な感覚がある。自分は、父が憎いわけではない、とはっきりと誰かにいわれた気がする。ツァイにそう告げると彼は馬の背を撫でながらこういった。

「実際そうなのかもしれない。お前は父親が憎いんじゃなくて、ただ会いたいだけなんだ。優しく振る舞ってもらえるのを待ってるんだ」

「そうかな。僕は、父が、母が後々どうするか考えないままに母を愛したことに納得がいかない。もしかしたら、それを憎むということと勘違いしているのかもしれない」

「モリァス。お前人を愛したことがあるのか」

「実はない」

「じゃあ今のお前にはわからんさ。どうしようもないこともある」

「ツァイはあるのか」

「いっただろ、女は嫌いだ」

「じゃあ君にもわからないんじゃないか」

「どうしようもないことはわかる。お前の親父はどうしようもなくお前のお袋を好きになった。それでおしまい」

「僕の気持ちはどうなるのさ」

「生まれてないヤツの気持ちなんてわかるもんか」

「そりゃ、そうだけども」

 確かにそうだ、とモリァスは吐き出した言葉とは裏腹に納得していた。人にとっては現在というものが何よりであって、過去や未来はそこから生じる波紋のようなものに違いない。過去の父と母にとってモリァスはまさしく跳ね返ってきた波紋なのであり、しかしだからといって、動かないまま制止している過去の両親は、ある時を過ごした自分たちを未来の視点からどこか別の場所に移動させることはできない。

 だが、とモリァスはいぶかしんだ。

 あの、そうあの父が先のことなど考えずに生きただろうか。母の目のことを置いておいても、だ。自分は父を憎んでいるわけではなく、不明な謎の部分を父の口から聞きたいと思っている。モリァスはふと、おかしなことだとはわかっていながらも、自分の思考の流れに終着点を感じた。

「だけど、あの人がそうだとは思えないんだ」

「そういえば、お前は親父を知っているんだったな。シルウィアの将校だろう、俺も知っているかもしれないんだな」

「知っているよ、たぶん。有名な人だから」

「誰だよ。教えろよ。まずいか」

「いや、かまわない」

 モリァスの言葉は続かなかった。

 馬のいななきが闇と二人の会話を破った。モリァスの馬が前足を振り上げている。

 前方から、キルが大声で二人を呼んだ。ツァイは咄嗟に体をこわばらせて周囲に気を配る。モリァスは必死に馬をなだめようとするが、しかし、うまくいかず振り落とされた。落とされた足もとには、地面がなかった。

「モリァス!」

 山道のすぐ脇が崖であることに、弛緩しきった思慮が気付くまでにいったいどれほどの時間があっただろう。もう少し早くに現状を把握していれば、という後悔がモリァスの脳裏に湧き上がった。かろうじて、道ばたに手をかける。下を見ると黒い森が横たわっている。高さは目視ではよくわからない。じっとりと冷たい汗が背を流れていった。

「待ってろ。今――ちっ」

 ツァイは後ろに接近していた人影に剣を向けていた。

「てめえら。トーリの身内かよ。くそ、早すぎだろ」

「ツァイ」

「おい。しっかりしろ。なんとかはい上がれるか。ここは持たせてやる」

「やってみる」

 そのモリァスの手の甲に、矢がつきたった。激痛が通身に及んでモリァスの意志が崩れ去ったとき、彼の体は大地の上になかった。

「モリァス!」

 過ぎ去っていく山並みや、ツァイの声がもはや遠い。どこまでもどこまでも自分のからだが落ちていくようで、モリァスの意識もやがて奈落へと呑み込まれて、途切れた。

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