2-3
卿は五感の異変を感じた。
指先がはじけて、もっと何か別の微少なものに置き換わっていくような錯覚があった。
ところが身体はまったく見えない。まぶたを開けているという感覚はあるのに、光はとらえられない。
状況が把握できないうちにも、からだは馬鹿正直にぶつ切りにされていくようだった。
肘のあたりから、まずぱっくりと外れていく自分の腕を感じた。
切断面から細い線がいくつも強烈に引き延ばされる。
卿の感覚はその繊維を走る。
やがてそれぞれの繊維が剥離し、細かく砕け始めた。
まったく別の概念の単位。
バラバラな砂の粒子。
いや、砂塵よりもずっと細かく目にさえ見えない、何かに分解されていく感覚だ。
身体の部品が。
首尾良く離れていく。
臓物の一つ一つも、自分の重さに負けて墜落していく。
きらめく繊維とともに、血液も一度だけぬめって、粉末になって。
ただ落ちていくのだった。
「卿」
トーリの声が頭の中に響いた。
痛みはまったくなかった。卿は離れていても離れていくと感じるすべての事象に集中するために、目を閉じていたが、トーリの声にはっと目を見開くと、ぐちゃぐちゃに歪んだ景色が見えた。
周りにいたすべての人間の動きは静止していた。
イリシアもカンファイも、カークも、それぞれが目の前の事柄に精一杯立ち向かいながら、塑像のようにただ屹立しているのだった。
トーリといえば、アルゲラに向かっていくどか剣を振り下ろしている背中が見えた。
老将の背中だけがゆっくりと振動して息づいているのがわかる。
トーリは卿を向いた。
「何をなさったのです」
言葉はかたちになった。
ゆるゆると卿の目の前の空間に波がたって、トーリに触れた。
「わしは何もしておらん」
トーリの周りで波が押し返される。
「どうしてこんなことに。皆は無事なのですか」
「君は肝が据わっているな」
「将軍にはかないません」
「いつまでも斥候でいられては困るな。どうじゃ、法王騎士団に来ぬか」
「ご冗談を。とても責務を全うできませんよ」
「そうかな」
「私は期待されるのが苦手なのです」
ふたりの間に透明な波紋がいくつも応酬された。光を全面に反射する湖面のように、波はまわりの景色をすべて飲み込み、きれいに跳ね返した。トーリは波紋を見渡すだけで答えを返さない。
卿は大きく息を吐いて、
「アルゲラの気持ちが初めてわかりました。私と同じように、将軍、閣下のお言葉もまわりくどい」
といった。呼吸するだけでは波紋は動かず、言いたいことをため込んで息を吐くと空間が震えた。
「はは。そうかもしれん」
「ここはどこです」
「同じ場所ではある。ただ幾分実世界とは、ずれがあるようだ」
トーリのからだがことばと同じように、ふいにほどけた。老将を形作っている数々の繊維がもっとも細い糸にまでするりとこぼれて、塵芥に帰したようだった。
「君も同じように見えている」
自分の心身に起きていることは、自覚しにくい。卿は自分の手足がトーリの言うように目に映るものでなくなったのに気づいた。時折明るい黄色の光が、かつて四肢だった部分にぱちりと音を立てながら走った。
「うれしそうだな」
手足が見えず、顔もなければ表情もうかがうこともできないだろうが、トーリは卿のはにかんだ気持ちをすくい取ったようだった。トーリはこの世界に慣れているのだろう。
「わかりますか」
卿はあえてその不思議さを話題にはしなかった。美しい音曲を聞いたときなどに、いちいち感動をことばにするのを避ける卿は、説明のつかない場所にいま立っているという事実をありのままに受け入れたかった。論理的に遡及するのは後でいい。
「消えていく、ということには特別な感慨があります」
「ほう」
「戦闘でも相手と目の前で肉体的にぶつかり合うより、実際には見えず、お互いの姿を思考の中で補い合いながら駒をすすめる方が、私は好きです」
「それは、もっと大きな、たとえば政略でも同じであるかな」
「さあ、私にはわかりません。何もなければ水はうまく流れる、その程度の浅慮です」
「君は、法国の中でもっとも地位の低い魔手に自ら声をかけ、自分の隊に引き入れている。それはすでに政治と同じではないか」
「だからこうして、将軍、あなたに追われているのですか」
トーリは少し笑ったようだった。
「将軍は政務にはお就きにならないのですか」
トーリの周りに、見えるか見えないかの小さな震えが現れた。
「ずいぶんとまあ」
「うん」
「おいやなようですね」
「そう、であるな」
目では見えないが、自分の身体がある、ということを理解できていることが卿にはおかしく感じられた。ここ数年、消えていなくなることに多少の憧れを抱いてきたが、いざ実際にこうして体験してみると、考えていた以上に自分はここにいるようだった。
波紋は卿やトーリ以外にも、あちらこちらからわき出ている。景色は歪曲され、かろうじて上下左右を判別できるのは、二人の足もとに比較的大きな〈泉〉があるからだ。
水、だとしか思われないような物が、湧き水と同じようにあふれ出し、そして瞬く間に景色の一部に同化して、一カ所にたまると言うことは無かった。
「ここでは思いが見えるのですね」
「そのようだな」
「魔手のいう基板の世界ですか」
「いや、親和性は高いが、おそらく厳密に言えば違うのだろう」
トーリは歯切れの悪い声を出した。
「ここはどこか、と言われれば、卿。わしは今いた場所だとこたえねばならん。だが、我々は誰だ、という声にはおおよそこたえられる」
卿はトーリの意外な言葉を咀嚼しなければならなかった。
「我々?」
いくつか卿の存在の周りに水滴のような波紋がいくつか現れた。
ああ、私とは波そのものだ、と誰かがいった。
「我々とは、将軍。あなたと、私ということですか」
「そうだ」
「私たちと、たとえばイリシアや皆は異なる、ということですか」
「そうなる」
「人ではない何かだと」
「人ではある」
「ではなにが異なるのです」
「発生要因、とでもいうかな」
「発生?」
「卿、君は過去の記憶をどれほど持っている」
卿の周りにわずかに波紋が現れた。
「日々忘れていくことも多いですが、きっとそれなりに」
「故郷のことは」
「父の顔も思い出せます」
「自分の名は」
「それは」
「卿と呼ばれ続けている内に忘れてしまったか」
「――いえ」
「気づいているだろう卿。君は卿という記号以外で、実は誰からも呼ばれたことがない」
「私はそれを受け入れてきたつもりです」
即答した卿の波動は穏やかだった。
自覚的に生きることと、誰かに名前を呼ばれたことがないことには何ら関係はない。生きているという現実を作るのは名などではなく、自分の意識の持ち方に依るに過ぎない。
卿はずっとそのように考えてきた。
名がない、ということには最初から気づいていた。卿の記憶は、王になるといわれた占い師に出会ったところからしかない。世界が立ち上がったのは明確にあのときで、しかし、頭の中にはその時点よりも前の記憶もあった。前後の記憶には区別できる色合いの違いがあって、思い出すたびに、誰か別の人の記憶を生きてきたようだった。
それでも卿は。
過去を受け入れてきた。
占い師に出会い、宮城につれられ卿を名乗ることが許されてはじめて、自分は自分として生まれてきたのだと妙に納得したのを覚えている。
それから程なくして魔手たちに興味を持ったのは、魔手たちがとても現実とは思えない、基板という機構を見て暮らしていたからだった。さらに基板を操る能力も持っている。記号とは違う、現実に触れられるもう一つの世界に、卿は夢を見た。名前などに縛られない、本質的な存在というものを。
「我々は〈星の申し子〉だ」
トーリのかたちがまた浮かび上がった。四肢の一部はまだ透けているが、老将の威厳のある相貌が見える。
「星の」
卿の身体はまだ現れない。
「思い当たることがあるかね」
「いえ、とても。星とは、空に浮かぶあの星ですか。それとも」
「それとも?」
卿の右手の指先だけがぬるりと世界に溢れて、およそ地面の方向を指した。
「この地そのものの事ですか」
「君は、やはり無自覚に星の存在に気づいている。おそらく世界のどこを探しても、君のように地面を指さし、ここも星であるとは言わぬであろうよ」
「言わぬ、でしょうか」
「我々には父母はおらぬ。星の意志によって作られた、生命体よ」
「作られたとは、意志を以てということでしょうか?星が……なぜ」
卿の頭は混乱した。
「そう思うのはまあ仕方なかろうな。何せ我々は他人となんら変わらぬ。病もすれば、寿命もある。しかし、人とはこういうものであり、ある程度の条件が発生すれば存在を作り上げることができると、この星は知っておるのよ」
卿の全身が周囲の景色を映しながら現れた。
「狂気の沙汰と思うか、卿よ」
卿は逡巡せねばならなかった。
トーリの言葉が真実であるとすれば、卿は己の存在を真向かいに否定されたことになる。こうして自分の意志ではなく、現れては消えるという現実を体験することが何よりの証左であるには違いないのだが、卿の惑いは深まっていくばかりだった。
つまり、卿には意図がわからない。星の意志もそうだが、将軍の言動の意味も。
「星は意志をもってと将軍、あなたはおっしゃられたが、閣下はその意志をご存知なのですか」
「意志には重さがある。重さとは力の大きさであり、方向でもある。わしは自分のからだが方々から圧縮されているのを感じるよ」
「それが星の意志なのですか」
「人の言葉にはならぬものかもしれんが、わしには意図があるようにしか思えぬ」
「それが何かは」
「はて。まあ、わしの中には明確な答えがある。しかし、君には教えられぬ」
「なぜです」
「君とわしとでは、作られた目的が異なる」
「将軍は、私に会うことがわかっていたのですね」
トーリのからだはまた波の合間に埋没していたが、うなずいている姿は卿にも見えた。
「君は敵だ、卿」
「本当に教えてくださらないのですね」
皮肉をいう卿に、トーリは快活に笑った。
泉を指さした老将は、
「わき出しているのが星の意志だ。星の意志には、いくつか種類がある。わしも君もその種類の配合比率によって行動も思考も姿形も変わる」
といった。卿はできるだけ毅然とした態度で将軍に己の意志を述べた。波紋が強く波立って遠のいたが、泉の波と干渉し、合わさって消えた。
「私は。自分の考えは自分だけのものだと認識できていますが」
「わしも君のように思っていたよ」
トーリは口にしたこととはまるで逆に、他人事のように視線を逸らし、卿に言葉を返した。卿は、将軍の行動に嘘がないと思った。過ぎ去ってきた過去を、自らの視線を通して慰めているように見えたからだった。いや、感じたといった方がいいかもしれない。卿の脳裏で補完されたあやふやなものではなく、トーリの生きてきた世界を卿は五感で理解しているような気がしてきた。
ここは、そういう世界なのだろう。
若かりし日の将軍の逡巡を見た卿は、いくつもの仮説を繰り返してきたトーリの試行錯誤が、とうとうトーリという人間を正当化できなかったことに気づいて、一つの諦念に身を任せることにした。
「はあ、なんとそういうものですか」
トーリの周りの波が一瞬静止した。名将は、卿があまりに素直に自分の言葉を聞き入れ、何度か首を縦に振ったのを見て、目を丸くしたようだった。
「君は、実に、変わっているな」
「あれ、何かおかしなことがありましたか」
「およそほとんどの人間は、自分の過去を否定されたように感じる。君の考えてきたことは、すべて君以外の誰かの思考にすぎず、君のものではないと言われたのだ。当然そのように考えたとしてもおかしくはない」
「今までに我々と同じような人間がいたのですか」
「気に入らんな、なぜそんなあっけらかんとわしに問いを放てる」
「お気を悪くさせるつもりはないのです、将軍。私はただ、自分の考えではないとしても、ある現象の発現が私を経由し、この全身を思考が通り抜ける体験を得られてきただけで、深い感慨があるのです。それに――」
「それに?」
「目の前に起こっている現象は、一度そのまま受け入れるのが私の主義です」
トーリは押し黙った。歴戦の強者の姿は、風景をまったく透かして空間に水玉のように浮遊していた。輪郭だけがぼやかされずに卿の目に見えた。
目立った傷の無い人だ、と卿は肉体を持っていた頃の将軍を思い返して、そんなことを考えた。目の前でアルゲラを相手に繰り広げられた美技があれば、戦で致命傷を負うこともないのかもしれない。卿は己の甲冑の下にあまたに擦り傷もあり、比較的大きな傷もある。うらやましいと思うかどうかは、判断しかねた。姿形も変わるとわかったいま、卿の目の前にいるトーリという現象は安定しないのだ。
この思考もトーリに響くのだろうか、と卿が思えば波紋が動いた。
風景の一部には、カンファイやツァイ達が、ひどく歪に降り曲がった状態で静止していた。自分とトーリだけがこうして空間の中で話している、という現象が、卿にやはり自分たちは彼らとは異なるのだ、という感想を与えた。
感想を得る、というこの行為も誰か自分とは違う生き物、この大地を司る星の意向なのだ、とは考えにくいが、実際にそうなのだろう。しかし息づかいを感じなければ、存在しないものと同じだ、と卿は己の考えを整理した。星などいない、と考えても差し支えない。
「――君と私は――1と0なのだそうだ」
目線を逸らさないまま黙考していたらしいトーリは、気づけば上下が反転していた。卿だってトーリにずっと意識を向けてきた。しかし、本当にいつの間にかトーリの足はついさっきまで頭だった場所にあった。ここでは、時間の感覚すらもが肌で感じるものとは異なるのだと、卿は冷静に分析した。
「どういう意味かは、わしにもわからぬ」
「1と0、ですか、ふむ」
「法国の占い師にかつてそのように言われた」
「もしや、アンリ様ですか」
「そうだ」
「ああ懐かしいですね、私を法国に導いた方です」
「どう思う卿」
「いや、どう思うかと申されても」
卿は自分の考えがまとまらなかったが、トーリの目線が卿の逃亡を許さない。自分の応答に期待されている、と感じた卿は、精一杯自分の見識を精錬させた。
「水と油ではなく、1と0でしょう。数の上では続きではありますが、ううん、そうですねえ。一方は有るということであり、一方は無いわけですから、これは大きな相違があると見るべきだとは、思います。見た目はよく似ているが、全然別のものである、ということを暗に言われているのではないでしょうか」
「0と1では2が作れぬ」
「我々にできうることなどあまりないのか」
「あるいは他に誰かいるのか」
「将軍、私と一緒にシェドに行きませんか」
「君の元で働けというわけか」
「いえ、将軍が首座でも一向にかまわないのです。私にはそのあたりのこだわりはありませんから」
「首長になれば、まつりごとを執らねばならぬ。君の方が向いているであろうよ」
「ならば、それでも」
「断る」
卿には、厳しい表情で申し出を破棄するトーリの心中を察することができた。トーリの言葉がかたちになり、波を起こして卿の身体に触れる瞬間に、老将の言い分のすべてが卿にはわかったのだった。
法王騎士団の長だけでありたい、と願う老将の心の声には、確かな重量があった。自分の意識の及ぶ範囲で動かせる人間の数には限りがある。トーリには統率できない兵は必要なく、また、制御できない兵には意味がないようだった。
「そう、ですか」
老将はしばらくきつく卿を睨んでいたが、不意に表情を緩めた。
「卿、消えていくためには、まず在らねばなるまい。存在するということは、呼吸することと同じだ。何かを受け入れて何かをはき出す」
「呼吸ですか」
「この星が君とわしを使って何かをなそうとしているのは確かだ。わしはわしの思うように動く。君も君の思惑に従ってみるといい。君の中に自然と滲み出てきた思惑は、そのまま星の意志になろう。君は君自身を眺めることで、星の考えを理解できるかもしれん」
「星の意志は理解できるものである、というのが将軍のお答えなのですね」
「はは、なるほど。そのように解釈するか」
卿は戒めの言葉を冗談のように吐かねばならなかった。遊興と生死が一括してトーリにはあるのが会話を重ねるうちによくわかった。命がけで応対せねば、卿は隊員を守ることができないだろう。
「私を殺さぬのですか」
「孫息子の居場所を、そう簡単に奪うわけにはゆくまいよ」
将軍は、からりと言った。卿は驚かざるをえず、少し態勢を崩した。
「え、ああ。いや、まいったな。将軍、あなたには驚かされっぱなしです」
「モリァスは元気か」
「ええ。こうしてまみえてみてわかりましたが、将軍あなたによく似ている」
卿が口にすると、モリァスの影形がふっとあらわれてトーリの輪郭に重なった。将軍は靄のような孫のかたちを振り払わず、しばらくじっとしていた。
直接会って話したことはない、とモリァスからかつて聞いたことがある。ここでは思いが動くようなので、卿は、自分の意識の断片からモリァスの記憶が立ち上がり、ずっとトーリとモリァスの二人の邂逅を思い描いていた卿の思考が動力となって、空間を渡っていったのだと考えた。あの靄は、トーリとモリァスの時間を繋いだ。
すると、トーリの足もとから〈泉〉が景色を吹き上げて二人を覆い隠した。
再び卿の前にトーリが姿を現したとき、老将は元の肉体に戻っていた。
ああ終わってしまうのだな、と卿は思った。
「モリァスを頼むぞ、卿」
空間が。
ピシリと音を立てて思いがけない重力に突然歪んだ。
一瞬の後に外圧に耐えられず、トーリの姿も卿の姿もかがやく泉も一点に集中して凝縮した。
「けええい」
イリシアの声にはっとすると、トーリの持つ剣先が卿を指向してすさまじい速さで近づいていた。
距離を認識する頭とは別に、卿の身体がいち早く反応する。
一歩だけ左斜め後方に下がり、右手で剣を持ち上げるのと、卿の刃先とトーリの刃がぶつかりあったのはほぼ同時だった。
鍔を競り合いながら、トーリは小声で、
「わしはいったん宮城まで引く」
といった。
「なぜです、将軍」
「いったであろう、卿。わしはわしの思うとおりに動く」
卿は自分が体験したすべてのことが幻覚でもなんでもなく、ただありのままの事実であることを再認識した。
トーリはごく至近距離から卿の腹に蹴りを見舞った。剣を起点にして力の変化をわずかに感じ取った卿は、いち早く身体を移動させ、その足を抱える。卿が左腕に抱き込むより早く、トーリは卿の腕を支点にして跳躍した。
支えるはずだった重量がわずかの隙も無く倍加したので、卿は態勢を大きく崩した。
垣間見た肩越しからトーリの左足が振り下ろされる。
今度は右腕で受けることしかできず、卿は力なく吹き飛ばされた。
「甲冑をつけながら、よくも、まあ」
右腕のしびれは尋常ではなく、後を追って熱を持った痛覚も忍び寄っている。折れているのかもしれない。
膝をついて顔を上げると、トーリは肩幅ほどに足を開いて卿を見下ろしていた。
「卿、どうしてそんなところに!」
イリシアの言葉はよく通る。いっている意味も。
卿は、ツァイを背に乗せて、馬にまたがっていた。アルゲラを襲うトーリを見据え、皆を静止させるために、カンファイに加勢を頼もうとしていた。
ところが。
あの見知らぬ空間に放り出され、現実世界に戻れば馬の背にはいない。
ぎん、という甲高い音が立った。
トーリから一瞬目を離すと、イリシアと法王騎士団の兵士が交戦していた。
卿に向かって走り出そうとする副将の前に、立ちふさがった兵士の力量を正当に判断するほどには、彼女は冷静のようだった。
トーリは斬りかからない。
卿は、安心はできぬまでも、おそらく老将は約束を違わないと考えた。
「援軍だ、卿」
トーリの視線が上に伸びた。卿はトーリの側に剣を抜き伸ばしたまま、視線を移した。
右側の断崖上に、卿は知った影を見た。
「モリァス」
声を届かせるにはずいぶんと遠いが、卿には若い兵士が深刻な表情を和らげたように見えた。
いい顔だな、卿は率直に思った。
「引くぞ」
トーリの低い声を受けて、カークやイリシアや起き上がったアルゲラと、対等以上に立ち振る舞った法王騎士団の兵士は、うなずくでもなく身を翻して一刀だけ強い斬撃をそれぞれの相手に見舞ったあと、わずかな隙を見て主戦場から離れてトーリに寄った。
「ではな、卿」
まだ右手をかばう卿は、思うように力が入らない己の身体を憎んだ。
「ええ、閣下」
精一杯の強がりが、せめてトーリへの返礼、というよりも部下への礼儀だろう、と卿は思っている。モリァスの縁者を明らかにしないことも含めて。
トーリは後ろを向いて走り始めたが、一度振り仰いで断崖上の、モリァスと、彼が引き連れた数人の集団を見た。
老将もやはり人の親であるなあ、と卿は感慨深く思量する。しかし、老将の言葉は、星の申し子などと言いながらも子どもは宿し、世代をまたぐことが可能なのか、などと余計な思考演算を行い始めた卿の脳裏を裂いた。
「ウバール」
それは、聞き捨てのならない言葉だった。
卿は痛みも忘れて再び断崖上を眺めた。集団は卿たちを見下ろしながらゆっくりと移動している。モリァスの影に朝日の中に人の形をした黒い闇がうごめいているのを、卿は見た。
「伝説の、魔手」
卿は思わず口にした。
トーリは口を開けて空を見上げる卿を滑稽そうに眺めたあと、厳しい口調で忠告した。
「卿、伝説などという言葉に惑わされぬことだ」
卿はゆっくりと思案しながらトーリを振り返ると、
「まさか将軍、法王騎士団の魔手を襲ったのは、もしかして」
といった。
「で、あろうよ」
重苦しい息を吐いて、将軍は馬の腹を蹴った。三頭の馬は、戦場から瞬く間に離れていく。卿は将軍の背を目に焼き付けて一礼した。
「卿」
イリシアが駆け寄る。
「大事ないですか」
「ああ」
「いったい何があったのです」
「君にはどう見えた」
「将軍はいつのまにかアルゲラの前から消えました。周囲を案じてみれば、卿の姿もない。肝が冷えていたところ、長靴が土を蹴る音がしましたので、声を張らせていただいた次第です」
卿は、そうか、とつぶやいただけだった。
その受け答えに、当然イリシアは不服そうだ。
「どうしてトーリ殿は我々を斬らぬまま去ったのです」
「殺されたかったかい」
「ばか」
卿は、久しぶりに緊張が解けてイリシアに微笑みかけた。
ほっとしている、といえば確かにそうだ。
しかし、どうだろう。自分の感情は簡単に割り切れているかと問われれば、卿はきっと応えあぐねるのだった。
「わからない」
卿の本心が、口からこぼれおちた。
「わからない?」
「そうだ。私と将軍では役割が違う、と将軍はいっていたがね」
「はあ」
気のない返事をしたイリシアも、とりあえず脱した危機にほっとしているのかもしれない。深く思考ができないようだった。法王騎士団の力量は圧倒的で、その反応はいたって当然だと思った後に、卿はイリシアの頬に、傷が細く赤く糸を引いているのを見つけた。
「イリシア、顔に傷がついているじゃないか」
剣を投げ捨ててまで顔を近づけてきた卿を押し返して、イリシアは頬をなで、土に塗れた指先にはっきりとついた薄い紅色を眺めた。
「こんなもの、なんともありません」
「いやだめだ。カンファイ、ちょっと来てくれないか」
「ちょっと、卿、こんなところを敵に見られたらどうするのです。私が生け捕りにされれば、卿、あなたを思い通りにできると考えられてもおかしくない」
「そんなことはさせない」
「でも」
「させるものか。そのときは敵を引き裂き、二度と現世に復活できないようにしてやる」
「卿?」
いつもとは違う強い口調でたしなめた卿を、イリシアは不思議そうに眺めた。
「なにがどうなってやがる、卿、一体トーリと何の取引をしたんだ」
「カークさん」
「魔手たちはあの有様だしよ」
親指で指し示す先で、カンファイとペムペルは膝をついて頭を抱え、震えていた。ツァイが二人の顔をのぞき込んでいる。その奥では大きく肩で息をするアルゲラの姿も見えた。
「説明はおいおいする。それよりも、ほら、モリァスだ」
痛む右手で衣服を抑え、左手で懐に抱いていた塗り薬を取り出しながら、卿はいった。ツァイはモリァスということばに敏感に反応して、えっ、という高い声を上げた。
砦から集まってきた卿の隊も含めて、全員が一斉にぐるりと周囲を見わたした。卿だけはイリシアの横顔を眺めながら、薬を塗る。ひゃあ、という副官の声に今度は全員がイリシアを見た。
「卿、その薬はにおいがきつく、その、あまりわたし好きではないと、前にも申した、ではないですか」
「だって効くもの」
卿はにこりと笑ったが、心の内でトーリの言葉がいくども反芻されていた。
モリァスが伴ってくる魔手は、世界で最高峰と呼ばれる魔手のうちでも、特に影響力が強く、圧倒的な力をもった一人だった。
一体どうしてモリァスが、という思いはひとまずおさめねばなるまい。目の前に現れてくる伝説の魔手が、はたしてどういう役割をもっているか、卿は考えた。
世の中には価値のある思考とそうでない考えがあり、どちらかといえばウバールの件に関しては考えても仕方ない類いのものだとは、実は卿にはわかっている。まだ現存しているにも関わらず噂話も絶えず、戯曲にさえ登場する人物の顔を知るものは少ないのだ。姿形を想像してしまうと、入れ物の中身にさえ想到しうると感じるのは、人間そのものが本能的に持つ悪癖だ、と卿は考えている。しかし、トーリとの対話を通じて、己の役割が自分とは異なる他者によって既定されていることを思い知らされた卿は、近づいてくる魔手の存在にも、なにがしかの役割が与えられているのではないか、と自然に思うようになっていた。
伝説であり、傾城傾国の能力を持つ魔手の役割というものが、一体何であるのか。
あらゆる現象の理屈が、目にしている現実からたとえ曖昧であってもわずかな証拠を伴って、これまでの歴史から割り出されてきたことをかんがみれば、卿は思考を続けたいと思う人だった。
――自分の存在の意味合いも、やがては浮かび上がってくるといいのだが。
卿は、トーリの明快な答えそのものよりも、トーリがどういった手順を踏んで、彼なりの結論に至ったかに興味があった。一体どれほどの歳月が過ぎて、老将は老将になりきったのか、あるいはいまだなりきれていないのか。人生に輪郭が生まれるなどとは思いもしてこなかったが、世界の一部に規定される己の姿を卿はおもしろいとも思った。
光の差す方からやってくる黒服の男。
そして我が隊の兵士。
彼らの関連性に論理的なつながりを見いだせないこともおもしろい。
「キルまでいるじゃないか」
卿は声を上げて笑った。これで一人の隊士も欠落させずに、再び集合できたことになる。法王騎士団を相手にした戦であれば、もちろん奇跡に近い。
「卿、その腕は」
「ああ」
卿は無意識に抑えていた左手を離して、右腕をぐるりとねじってみせた。赤黒く変色して血がにじむ箇所が陽光の中にあらわになった。
「どうして黙っていたのです。私の傷などとは比べられぬほどひどいではないですか」
「いや、カンファイにあとで頼めばよいかと思って」
「魔手をあてにするのもいい加減になさってください。彼らとて万能ではないのです。その心がけでは、自立できません」
「厳しいね、副長は」
「さあ、先ほど私に塗ってくれた薬を貸してください」
「いや、あれは」
「なんです」
「においがきついのであまり好きじゃないんだよ」
「わたしには使ったのに」
イリシアと私。
いったいどこが異なり、何が二人を隔てているのだろう。
卿は誰かと自分を比較すること、特にイリシアとの差異を考えると、不思議な気持ちになった。
太陽が煌煌とした姿をすっかりあらわしていた。
太陽は燃えているのだろうか。
森が燃えたように、この地表がすべて業火で覆われれば、やがて太陽になるのだろうか。
卿はそんなことを思ったのだった。




