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2-2

 いち早く違和感に気づいたのは卿だった。

 ぴたりと馬の足を止めると、右手を横に伸ばして後続をとどめた。ふりそぼる小雨が卿の腕を伝って落ちるのを、後続は雷鳴がとどろき、閃光がかすめる空間の中にぼんやりと眺めた。

「どうした」

 とアルゲラが問うた瞬間に、前方の崖が勢いよく爆発し、岩肌がえぐれ飛んだ。悲鳴の中で目を見開いた卿とイリシアは、はじめ落雷したのだと思った。しかし小爆発が連続して周囲で起これば、自然に引き起こされたとは考えにくい。

 馬がいなないて暴れた。

「カンファイ」

 魔手は馬から振り落とされたらしく、どこか幼さの残る顔に土をつけたまま立ち上がる最中だった。起き上がりながら、カンファイは懸命に指先を動かした。

 風が急に重たくなる。

 炸裂音の方向が変わる。弾かれたつぶてが卿たちとは逆に飛ぶようになった。

 たてがみにからだを沈めて馬の首筋をなでさする卿の目は、爆炎の動く先を探っていた。

「親父殿だ」

「なんだとアルゲラ」

 卿よりもはやく馬を立て直したイリシアが、アルゲラに詰め寄る。

「そうか、シェドに入ったか」

 地を這うように小規模な爆発が、線となって卿の視界を横切っていく。

 ――よくぞシルウィアに気づかれずにここまで仕掛けたものだ。

 卿は感心した。

「ツァイ!だいじょうぶか」

 なんとか、とか細い声を返す少年は卿の腰にしっかり捕まっていた。

 爆発は断続する。

 卿は馬を立て直し、光の明滅の行方を追って走りはじめた。イリシアが卿を呼ぶ声を背中に受けて、そぼ降る霧雨の中を切り裂く。馬がぬかるみに態勢を大きく崩されても、卿はツァイをしっかり抱えてけして落馬などしなかった。山道が谷へと降り始めると視界が開け、うすくたなびく煙の中で、シェドとシルウィアの稜線を正確に切り取って光がほとばしるのを見た。ああこれは宣戦布告に違いないと卿は確信した。

 森に爆発が近づいている。

 木々の延焼は、ところどころで橙色がかすめるが、雨の中でくすぶっているようだ。

「卿」

 イリシアだけがようやく卿に追いついた。

「みなが無事であればよいが」

「カンファイによれば魔手たちは無事なようです」

「魔手が無事であれば、みなが息災である可能性は高いな」

 卿の隊は、最終的な戦の決定権を左右する魔手を護りながら陣形を整えるよう指揮されている。魔手はしかし、物理的な戦闘能力は身体性の問題もあり、けして高くないので、実際肌をつきあわせて行われる戦闘の中ではそれほど長く戦場に立っていられない。魔手がまだ無事であれば、護るべき兵がまだ随行していると考えていい。

 イリシアが何かいいたそうにしていると感じた卿は、彼女の目を見た。イリシアは何度か口ごもり、そしてゆっくり唇を動かした。

「今なら宮城に戻る手はずも整えられるように思うのです。愚見でしょうか」

 なるほど正しい、と卿は、副官という立場にあくまでも殉じようとする紫の髪の乙女に、目を細めた。彼女は顔にはりついた自分の髪をいとわず、卿をまっすぐにみていた。

「縦横に広がる森のほとんどが焼け落ち、夜も明けていない。そこに乗じれば、法王騎士団の視覚を惑わし、たしかにわたしたちは宮城に戻ることができるかもしれないね。向こうは魔手を痛撃されている。我々の存在をいち早く察知できる人間がいないかもしれない」

「アルゲラには悪いことをしますが」

「おや」

「な、なんです」

「いやね、意外だなと思ってさ。君の一番苦手な人間だと思っていたよ」

「き、嫌いです、あんな野蛮な男」

「どうしたイリシア。らしくもない。まるで剣など似合わない町娘のようじゃないか」

「ばか」

「わしがどうかしたか」

「うわあ、寄るな寄るな寄るなあ」

 イリシアの背後から、追いついてきたアルゲラとカンファイが顔を出した。

「なんだなんだ」

 アルゲラの困惑した表情に、卿は笑った。そしてイリシアを諭した。

「イリシア。我々にはもう戻る場所がない。それに私は森を燃やしてしまった」

「それは卿のせいではないではないですか」

「いや。トーリ殿にそうさせたのは私なのだ」

「そんな」

「勘違いしないでほしいが、私は後悔などしていない。私がただ正しいと思うことを繰り返すために、自分の意志以外の余地を残さなかったことは、どちらかといえば誇っていいと思っているんだ。いずれ考え直してみたとき、悔いがあると信じるしかない機会が来るとしても」

「あなたは人が良すぎます」

「それが美徳だ。そうだろう、カンファイ」

 若い魔手は、こくりとうなずいた。

 卿は翻って森を見やる。

 小規模な爆発はすっかり収まり、白い煙が微かに見えているのみだった。

「アルゲラ」

「なんだ、卿」

「親父殿とは、だれだ」

「シェドの長だ」

「戦になったのだな」

「そうだ。先ほどの爆発は、シルウィアと万が一戦闘になった際に、散らばった味方への連絡も兼ねている。何を伝達するか、卿にはわかるだろう」

「つまり、シェドはもはや止められない、ということだね」

「そうなる」

 せめてシェドの集落に入りたかった、と卿はおのれの足の遅さを悔やんだ。しかし考え直してみれば、シェドと最初に戦闘に入るのはおそらく法王騎士団だろう。卿の部隊はシェドを迂回する形で展開しており、シェドと直接の接触はない。もっとも、森の大半が黒くただれたいま、いずれ夜が明ければ間道は暴かれ、シェドの領民と交戦にいたる可能性は高い。シェドとの関係にまで考えを巡らせる情報をもたない隊員の多くは、衰亡の危機にあるといってもよいのだ。

「第十四演習場に向かう」

 谷川の上流域、シェドにほど近い第十四演習場には、山岳地での模擬戦闘に重点を置いたシルウィアの訓練設備がある。といっても小さな砦が一つあるだけで、あとは岩肌がむき出しの天然の石畳が、両岸に広がっているだけの空き地だった。

 卿は小さな城郭で戦闘をしようとは考えていない。

 シェドの領内ではあるが、街道からはそれていて、身を隠す場所も適度にある。万が一宮城から追っ手がかかれば、主要幹線とは離れた場所に集合するのがいいと思っていた卿は、あらかじめ作戦行動が始まる前に各班の首座に伝えてあった。イリシアには伝えていなくて、あとで文句をいわれたが。

「味方を回収したい」

 卿がそういうとアルゲラはうなずいた。

 一通り、シェドからシルウィアの領内の間道を頭に入れてきた卿は、今自分が歩いている位置を森から予測している。演習場までは遠くない。

 卿は自分の胸の鼓動に、己自身が踊らされるのをじっとこらえている。

 トーリとモリァスの邂逅を懸念しているのだった。

 ――私には隠しごとが多い。

 卿はイリシアに悟られないように、自嘲して笑った。

 隊の中で、モリァスの血縁について知っているのは卿だけだった。モリァスはかたくなに偉大な祖父については、話題を避けてきた。

 気持ちはわかる。

 卿には有名な身内はいなかったが、王の名代に近い位置に就任するおのれの立場に、ずっと振り回されてきた。

 モリァスにとって、トーリはトーリであって、祖父とは違う。自分は自分だと思い、比較の対象になりたくないと考えていたとしてもまったく不思議ではないのだ。

 実際、モリァスはそう感じているに違いない。

 雨がやみ始めている。

 向かう先からうっすらと闇が払われてきたのがわかった。

 実を言うと卿は、モリァスの存在が法王騎士団との最後の交渉手段になると踏んでいた。人間そのものを何かの交渉に使う、ということに罪悪感を感じない卿ではないのだが、いまにも崩れ去りそうな未来が卿に正義の惰性を許さないのだった。

 モリァスが見つかるとよいが、とひとりごちた卿は馬の腹を蹴った。

「親父殿、とはどのような人なんだい」

 道中、卿はアルゲラに話しかけた。

 すっかり夜に慣れた卿にとって、わずかにでも通ってくる朝日の灯火が、まるで周囲のあらゆるものを照らし出しているかのように感じられた。

「鋼のような男だ。重厚であり同時に鋭利でもある」

「私とは対局だなぁ。年は」

「わしと変わらぬ。もうすぐ三十になる」

「ならばなぜ親父殿なんだい」

「美しい娘がひとりいる。おそらくシェドの中でも頭抜けて美しい。幼なじみであったあの男が、嫁をもらい子を宿したとき、わしたちが奴を揶揄してそう呼んだのがきっかけだ」

 アルゲラは卿の横に並びかけながら少し大きな声でしゃべった。

 山道は完全に谷川に沿って走り始めていた。山麓の際に明暗が濃くなっているのを目を細めて見た卿は、馬の速度を少し上げた。成人を二人乗せた馬が要望に応えられないのを感じた卿は、すぐに手綱をゆるめた。自分の無意識を戒めたのだった。

「娘はルーシェという名でな。もう十四にもなるというのに、いっこうに身を固めようとせんのだ」

「十四」

 イリシアは目を丸くしていった。

「十四とは、その、なんと無節操な」

「これは副長殿」

 アルゲラがおどけていう。

「ずいぶんとまた、うぶな、顔をなさるのですな」

「な、なに」

 アルゲラの表情には、自領の中に返ってきたという安堵感からか、余裕がにじみ出ている。戦が始まろうとしているのに、明るい男だと卿は思った。が、アルゲラの顔は曇る。

「そうするよりほかないのだ」 

 卿はぐるりと周囲を見回した。高台が両側にひしめいている。高所にのぼる術を身につけた者がシェドにいれば、卿たちは逃げ場を容易に失う。幸い、シェドの正面からは遠ざかる方向であるので、法王騎士団が派手に立ち回るほど、卿たちは敵の視界から外れる。

「我々の多くは三十を超えると死ぬ。四十まで生きれば奇跡に近い。だから子孫を残す機会は早ければ早いほどよい」

「シルビアでは禁じられている」

「そうだ。だから我々は戦うしかない」

「魂が完成しない、と言われているね」

「すると我々はみな、未熟なまま死んでいくことになろうな」

「侮蔑されていると感じるか」

「シルウィアの法には納得がいかない。だが、早く生もうとすれば母に負担がかかるのもまた確かなことだ。その点ではシルウィアの方が一歩先をゆく解釈なのかもしれぬ」

 ――解釈、か。

 卿は、アルゲラがシルウィアを呪いながらも、教義に解釈の余地があると思っていることに、驚いていた。シルウィアの人間に同じことが出来るだろうか。卿には即答しかねた。

 生き物が焼けるにおいがした。

 逃げ遅れた森の動物たちが暗闇の中で、静かに息を引き取っているのだろう。

 卿は手綱を強く握った。

 からだがこわばったのがツァイにはわかったようで、彼は、

「卿?」

 と呼びかけた。卿は優しい目で後ろを振り返り、再び厳しい目を前方に向けた。

 許せるとか許せないとか、肯定でも否定でもない感情が卿の脳裏にありありと走った。感情の落としどころが見失われている。

 我々も。

 未熟なのだ。

「もうすぐ演習場に着く」

 空を覆っていた鏡面のような艶深い黒色は、いまやすっかり淡くなって色あせてしまった。

 道はゆっくり右に旋回していく。焼け残った森の一部が、卿たちが走る道にせり出している。断崖と断崖の間に幹線につづく林道があるようだった。

 突如、森のしげみを突き破って、軽装の馬上集団が飛び出してきた。

 ――シルウィア人ではない。

 将軍のことだから、森のすべてを焼き払い、自分たちのすべてをさらけ出したりしないと考えていた卿は、目の前に迫る森の入り口に向けて注意を払っていた。

 後続に速度を落とすように目語で伝える。

 イリシアは剣を抜いてアルゲラを追い越し、卿の横に並んだ。

 集団は卿たちの進む方角に一目散にかけだしていた。まだ、自分たちに気づいていないと判断した卿は、このまま無用な戦いはしない、という選択肢を採った。

 なぜならば、もう一団まとまったひづめの音が森の中にあったからだった。

 卿は後ろをすばやく見た。カンファイの背中の向こうにもし兵があって、森から現れる新鋭の集団がトーリの手練れであれば、生き残るのが難しい。

 幸い、後ろからはつけられていなかった。魔手の多くが犠牲になったいま、間道をしらみつぶしに改めながら行軍する余力が、法王騎士団には残されていないのかもしれない。

「卿、味方です」

 カンファイが顔を輝かせたのと同時に、森から見知った顔が出現した。

「おお、卿」

 浅黒く日焼けした顔が印象的な壮年男が、にかっと笑って馬を止めた。後ろに続く二人も口々に再会を喜んで卿の名を告げた。

「おっちゃん」

「こいつぁ、坊主、おまえもちゃあんと生き残ってたか。副長もカンファイも。しかしみんなどうした、そのなりは」 

「面目ないことだね。カークさん今の連中は?」

 カークは卿の視線を追って振り返った。先に飛び出た馬上集団はすでに見えない。  

「おそらくシェドだ。間道でばったり出くわしちまってな、お互いの数も近かったからドンパチになったんだが、さっきのほら、境界面の爆発で後ろを向いて走り出したわけさ」

「それで後先考えず追いかけてきた、と」

「あっはっは、面目ねえ」 

 卿の隊は若い。それは、隊の人選が任された卿の配慮に因るところが大きいが、シルウィアの意向で人が加えられるのが慣習になっている。カークはシルウィア兵としては古参で、平均年齢の小さい卿の隊に別部隊から参入してきた。卿はカークの参入を喜び、死線を繰り返し超えてきた彼を頼りしていたのだった。

「卿、俺たちも甲冑を捨てるべきか」

 カークはさっと笑みをなげうつと、兜に手をかけて外した。意図を察したわけではないだろうが、意味なく行動を起こすわけではないと、戦の玄人に信頼されていることに、卿はうれしくなった。

 無言でうなずいた卿は、アルゲラを紹介し、これまでの経緯を簡単に語った。

 馬上で背筋を伸ばして相対した二人の男は、軽く会釈をしあっただけだった。が、それ以上に伝わる何かがあったのだろう、カークは素早く甲冑を脱ぎ捨てた。他の隊員もそれにならった。

「キルが捕まったよ」

 白髪の多くなった頭をなでる手を一瞬止めると、カークは、

「そうかい、あいつがねえ」 

 といった。

「シェドにか。それとも卿、まさか」

「いやシェドだ」

「そいつぁ」

 手甲を最後に外して、放り投げながらカークは卿の目を見た。

「幸いといわなければなるめえ」

「シルウィアを捨てる。カークさん、未練はない?」

「俺に聞くのかい、卿。女房も子供もいねえ身だ。俺には未練なんてほんとに一切がっさいねえよ。そこんところいくとほら、後ろのこいつらの方が気にかかる。女房も、恋人もいる。だけどよ卿、俺たちはあんたについていくしかねえ。どうにかしてくれ」

「カークさんには困るなあ」

 アルゲラは、顔は見えなかったが先に逃げたのはシェドの人間に違いないと卿に告げた。

 陽光が山際に現れた。

 卿たちは光の中を分け入っていく方に動き始める。視界が遮られ、宵やみにいたときよりもはるかに緊張が高まる。ツァイが卿の背中でむくりと起き上がった。

「ツァイ、ずいぶんと髪が伸びたね」

「ほんとだなあ坊主」

 猛獣のたてがみのように美しい金髪が、ツァイの背中にまで伸びていた。カークは横に並んで、ツァイの髪をなでた。

「普段は兜のせいでわからない」

 少年は浮かない顔を消さない。

「卿、モリァスはどうなっちまったんだろう」

 自分たちがこのままシェドに向かえば、モリァスを見捨てることになる。ツァイは罪悪の一存で卿をとがめているのだった。

「モリァスが、どうした」

「森におっこちちまった」

「高ぇとこからか」

「わかんねえ。馬が暴れてさ、必死で崖に手をかけて。でもその手に矢を打ち込まれちまった」

 ツァイは自分のことのように右手の甲をさすった。

「わしの味方がやったことだ。すまん」

「おっさんには腕ちぎられたし」

「わしもちぎられた」

 ツァイもアルゲラもあまりにあっけらかんというもので、卿たちは思わず笑った。

 カークたちにあらましを語った卿は、

「ツァイ、私はモリァスはだいじょうぶだと思うよ」

 と諭した。

「なんでさ」

「なんといえばいいのかわからないけれど、モリァスと別れるときに、私は彼からいやな感じを受けなかった。もう会えないだろうってのは何となく解るものなんだよ」

「嘘だ、そんなことできっこねえもん」

「ツァイにもそのうちわかる日がくる」

 もちろん確証ではないが、と付け加えた卿は、モリァスの所在が明らかでない今、法王騎士団を仲間に引き入れるという交渉にどんな手札を用意できるか真剣に考え始めていた。

 カークを含めた卿の隊は八人になった。戦術を行うにはあまりに少なく心許ないが、できることは増える。カークの隊には魔手が一人いる。隊は、カンファイとペムペルという口数のあまりない魔手と卿を囲んで、カークが先頭に立ち、鏃のようなかたちをなした。

 鏃は進路を選び、先に駆けだした集団を追いかけた。

 演習場に着く頃にはすでに低い山嶺から日差しが見え始めていた。

 卿たちを迎える声があった。

 卿は手をかざして声のする方に目を向ける。

 兵員を数えているうちに、イリシアが何かに気づいたらしく、めざとく前に出た。

「様子が変です、卿」

 砦の前の石畳に並ぶ人数が多い。

 卿はあえてイリシアの制止を振り払って歩を進めた。目前の断崖が太陽を切り取ることができれば、はっきりと自分の目で状況を見ることができる。

「卿」

 カンファイがおびえた声を上げるのと、卿の瞳孔が明暗をかきわけ、群像の濃淡を識別するのは同時だった。 

「トーリ将軍」

 卿はさっと後ろを振り返った。カークもイリシアも剣を抜き、あたりに目を配る。トーリ将軍麾下の精鋭集団がもし、卿たちにわずかばかりも気づかれることなく付き従って、一意に摩滅する隙をうかがっているのであれば、この機会を置いて飛び出す以外にない。しかし、血の気が失せた卿たちの視線の先には、法王騎士団のきらびやかな白銀の鎧は、どこにも無かった。

「落ち着け盟主どの。他に人はない」 

 アルゲラだった。雄偉な体躯を持ったアルゲラの口から、太く長い息が卿への戒めのことばとして吐かれた。

 アルゲラは卿とは視線を合わさずに、まっすぐにトーリを見ていた。

 見つめられた先で、トーリは手綱をふるった。

 近づいてくる将軍へ意識を奪われないように、卿は思いつくかぎり目をこらして随所を見たが、彼の隊の人間が拘束されたり、虐げられている様子はないようだった。

 卿はようやくほっと息をついてトーリと正対した。

「剣を納めるんだ」

 卿はイリシアをなだめた。

「しかし」

「前にもいったはずだけど、私はまだトーリ将軍を敵だと認識していない」

 卿の耳にもはっきりと、トーリの進める馬の足音が聞こえてきた。

 やがて音が止まる。

 イリシアは剣を納めず、しかしだらりと右腕を落として敵意のないことを示した。

「君が卿か」

「はい」

「わしは法王騎士団の長、トーリである」

「お目にかかれて光栄です、閣下」

 卿は頭を垂れた。

「こんなところで何をしている。甲冑もつけずに」

「斥候を仰せつかりました」

 君が卿だな、と確認しておいて、何をしている、と問うトーリに、卿は悪意を感じた。

「はて。このあたりで戦でもあったかな」

 トーリはぐるりと首を回して卿に聞いた。

「聖族の斥候部隊にだけ伝えられたようです」

「そうか。わしが聞かなかっただけか。どうだ、敵の様子は」

「敵などおりませんでした」

「そういえば森から煙が上がっていたな。はてあれはなんだろう。斥候であればなにか掴んでいるのだろう」

 イリシア以下すべての隊員が、はっとトーリの顔を見た。

 彼らはずっと高地から谷間の森が燃え広がるのを見てきた。卿の想像に従い、森を燃やしきった張本人が、トーリだと信じて疑わない副官たちにとって、法国の英雄に敵意を臨むのは、仕方なかった。

 しかし卿の対応は違う。

「トーリ将軍はどのような御用向きでこちらへ」

「どうした、急に」

「それが明らかであれば、私は機密を閣下に申し述べましょう。まさか将軍ほどのお方が、斥候が持ち帰る情報の重みを理解なさっておらぬはずはない」

「君がわしの任務に言及する必要などない。命令に応えよ」

「指揮系統が混線すれば、情報のかたちが容易にゆがめられ、本来消費される予定のないものまで摩耗します。私はそれを避けたいと思うだけです」 

「卿は法王騎士団の特権をご存じないとみえる。わしの軍は法王麾下で唯一、公的に遊撃を許される部隊だ。指揮権が独立され、いかなる軍の上位にもわしの意志で立つことができる」

「存じません」

「貴公の部隊はたった今、わしの指揮下に入った。君の上官はわしだ。命令に応えよ」

「お答えしかねます」

 老将の後ろにはいつの間にか、白銀の甲冑を着けた法王騎士団の数人が剣を抜いて従っていた。

「なぜかね」

「あなたが本当にトーリ将軍かどうか、という問いが私の中でひっかかるのです」

 トーリは目を見張って卿を見た。

「何かあなたがトーリ殿だと証明するものはありますか」

 卿は瞬きもせずに、老将の瞳をのぞき見た。そこにはただ、澄み渡った闇があった。

 卿は冷たい汗が頬を流れているのを自覚している。

 イリシアが後ろで小さく、卿とつぶやいた。わかっている、と卿は背中で応えるしかない。

「おもしろい男だな、卿。ベルトレとはずいぶん趣が違う」

 わずかに沈黙が流れて、トーリは卿にはじめて笑いかけた。

「ベルトレ殿、とは」

「法王騎士団の佐将だ。頭の固い男だが、お国のためにはなる人間であろうよ」

 話の論点がようやく緊張から解放されたと思った卿は、自覚的にトーリに笑いかけた。

 しかし、トーリの話題は重さを保ったままだった。

「卿。わしはお主を殺しに来た」

 あ、と声を上げそうになる自分を強く戒めて、卿はなるべく話題の重さに心根を絡め取られないようにした。

「存じております」

「で、あろうな」

「私がまだ生かされている理由をうかがいたいのですが」

「君は、斥候でありながら宮城に戻らず、こうしてここまで逃げおおせている。わしは君の戦術眼に興味がある」

「運が良かっただけです」

「失望させてくれるなよ、卿。君は、法国に弓引くことができながら、自分の職務を全うしようとしているではないか」

 卿はトーリに見解を語らず、微笑を浮かべただけだった。

 負けた、という思いが卿の脳裏にある。

 森が焼かれた時点で、卿の隊にできることは少なかった。限られた間道を通り、シェドか宮城に向かうことだけだ。卿はシェドに向かう道を選んだ。二つの選択肢の一方を完全に拒絶したのだから、結果的にトーリは卿の隊を操りやすくなった。森の類焼範囲と速度を操作し、卿の隊をあぶり出したあと、逃げ場所になる道程に集中的に兵を回す。

 シェドの周りにある数少ない演習場は隠れ蓑にはちょうどよいし、心の弱い人間であれば外界と一時的にでも断絶できる建築物に入りたいというのは真理に近い。砦は使わない手はない。もっとも、卿は逆に、トーリが建築物に気を取られるのを利用したいと思っていた。

 トーリからすれば、行程も思考も、あまりに当たり前の道順を模索せずにはいられなかった時点で、神速と呼んでも構わない速度だけが卿には求められた。ところがそれすら、出し抜かれた。

 私は何をしているのだろう、と卿は謙遜を続ける自分自身を鑑みながら、

 ――私はここにきて死を甘受しようとしているのか。

と、自分でも驚くほど澄み切った思考の中で、実に簡潔な結論にいたった。

 自分の存在が引き留めている事象が多すぎる、と彼はずっと考えてきた。自分は水の流れをせき止める網のようなものに違いない。イリシアやカンファイ、アルゲラやトーリにしたところで、卿が存在しなければ、ずっと素直にどこか別の場所に流れ去っていくことができたのだ。

 卿には己の思考が、自意識を過剰なまでに優遇していると気づいている。自分だけが誰かをつなぎ止めているわけなどはもちろんなくて、それぞれの人物がそれぞれの理由で誰かにくっついているだけに過ぎない。

 しかし卿は己の死が限りなく決定的であるこの場で、自分の命を素直に差し出すことになんのためらいもなかった。

「いや、君はすでに手ぐすねを離していたのだったかな」

 自己表現を進めない卿にいらだったように、トーリが口にした。

「どういう意味です、将軍」

 卿は前に押し出て来る、副将をとどめられなかった。彼女の持つきらめく刀身は、いつの間にか刃先が将軍を指向している。

「君は誰だ」

「卿の麾下で、副将を仰せつかっております。イリシアと申します」

「いつからシルウィアは娘を隊に仕込むようになったのか」

「将軍がご存知ないだけでしょう」

「落ちたものだな、シルウィアも」

「私を罵倒したいのなら、いくらでもご随意に。しかし、手ぐすねを離したとはどういう意味です。卿がまるでなにか不敬を働いたとでもおっしゃりたいのですか」

「イリシア下がれ」

 イリシアは右肩にかけられた卿の腕を払って、馬を下りた。老将は眼下に進んできた女騎士に、冷たい視線を向けた。

「わしは卿と話がしたいのだが」

「私は副将です」

「だから」

「卿よりも先に死んでもかまわない、と申し上げているのです」

 トーリの白馬がいなないた。

 一声だけだったが、朝霧がわずかにけぶる谷間に、太い音が共鳴して空気を何度もふるわせた。 

「驚いた。卿、君の部下は秀逸だな」

 将軍の背後には二人の随行者があったが、いつの間にか卿の作った鏃が広がり、トーリたちを囲い込んでいる。トーリがイリシアの気迫に目を奪われた隙に、カークの目語でおのおのが役割を果たしていたのだった。

「卿、やはり反対だ。こんな男をシェドに引き入れるなど」

 アルゲラもすでに剣は抜ききっている。剣身は黒く汚れ、いくつか刃こぼれも見える。ツァイの腕を引きちぎり、イリシアの剣を受けた男が、いま自分に親しげに話しかけている現実を、卿は認識しなおした。

 勝ち目のない戦闘を行わねばならない現実を。

「傲慢で遠慮がない男は嫌いだ」

 それは同族嫌悪というやつだろう、と卿はいいたかったが、場面がそうはさせない。

「わしをシェドに、とはな。卿、法国に戦を仕掛けるつもりか」

「手ぐすねを、というお話でしたら、私は今めいっぱいしぼっている状態なのです」

「わしは森を焼いた。街道は拡張されておる。シルウィアの聖族は容易に通れよう」

「幸いなことに、聖族は南方に行軍しております」

「守城の兵がある」

「将軍、あなたは守られるべき国境を侵し、シェドの暴徒に大義を与えた」

「わしは殺されぬよ」 

 トーリは卿の言葉に、口角を挙げて満面の笑みを浮かべた。

 卿は内心で、自分の言葉が決定能力に欠けていることに気づいている。トーリが卿たちに従う理由がないのだ。

 トーリは剣を抜かない。随伴者は一言もしゃべらず、卿たちをにらんでいた。激昂もせず、かといって行動に熱がないわけでもない。あと半歩隊の人間が近づけば、おそらく目にもとまらぬ早さで剣を抜き打つだろう。法王騎士団の人間で、手練れでなかったものなど、かつていなかった。

「卿、君のことだ。わしの隊の人間が木々に飲み込まれたのは見ておるのだろう」

 卿はこくりとうなずいた。

「かなめに魔手を据えたわが騎士団は、創設以来の疲弊にあえいでいる」

「お察しします」

 トーリは、後ろに控えたカンファイに目をやると、

「君ならわかるであろうな」

 といった。

「将軍、シェドと戦えば法王騎士団もただではすみません」

「君の首が手中にあれば、わしらはすぐにでも宮城に戻ることができる」

「それはできぬ約束です」 

「であろうな」

「閣下、たった三人でまさかここを訪れたわけではないのでしょう」

「いや、たった三人できた」

 驚きが隊内に流れた。

「なめられたもんだな、卿」

 絞り出すようにうなったカークが剣の柄を握り直す。

「常軌を逸しています」

「君の隊はたった一二人しかおらん。わしが大軍を率いてくれば、君の部下の優秀な魔手は、基板の変化にすぐに気づくであろう。仲間ではない人間がいるという事実に」

「それは、確かにそうです」

「それにシェドの猛攻をこれから受けようという時期に来ている。目に見えて兵の数を減らすわけにはいかんしな。策もないのに人を移せば、敵軍の士気を挙げるだけであろう。結果的に敵前を惑わしたとしても、数刻後には地獄になる」

 トーリは一呼吸置いた。

「君にも会いたかったしな」

 アルゲラが不意に動いた。

 卿は目の前を恐ろしい速度で移動していった巨漢に全身の力がすべて抜かれて、からだが溶けてしまうような浮遊感に襲われた。

 一瞬後、

「アルゲラ」

 と叫んだとき、シェドの戦士は馬の背から振り落とされていた。

「何を」

 卿はしかし、トーリと自分との間の一瞬の弛緩を見逃さなかったシェドの偉丈夫に少なからず驚いたが、それにもまして、老将の身のこなしには目を見張らねばならなかった。

 アルゲラはすぐにからだを立て直し、長剣をトーリの馬に突き立てようとした。

 老将は馬首をわずかにふり、剣を抜いて馬上からほとんど直線的にアルゲラに振り下ろす。アルゲラはその膂力ゆえに盛大にいなされ、もう一度転がされた。

「手を出すな」

 卿は、騒ぎを聞きつけてこちらへ向かってくる砦側にいた隊員も含めて、部下に珍しく声を荒げた。

 トーリの随行者は、トーリを守るようには動いていない。

 たった二人で卿の隊をすべて迎え撃つように、馬の位置を動かしていた。卿が一瞥ののちにそう判断できたのは、隊の包囲の網が、騎士団に威圧されて広がっているからだった。

 アルゲラがまだ完全に立ち上がれないのを尻目に、トーリはふわりと馬を下りた。剣を引きずりながら、アルゲラに近寄ると、上段から一気に切り下ろした。

「将軍」

 アルゲラはかろうじてトーリの剣をよける。

 立ち上がろうとする偉丈夫の足に力が込められる瞬間を狙って、トーリは斬撃を与え続けた。アルゲラは防戦しかできない。

「カンファイ」

 卿は魔手を振り替える。

「加勢してほしい」 

「卿」

「どうした、カンファイ」

「将軍は、その」

「なんだはっきりいえ」

「お、恐ろしい方です」

 カンファイはよく見ると小刻みに震えていた。

「何だ、カンファイ。君らしくもない。このままではアルゲラが倒されてしまう。それは僕らの未来の摩耗でもある」

「しかし」

「おい、カンファイ」

 魔手の口は動きはすれど音を伝えない。

「カンファイ」

 と叫んだ卿の声も、実際の空気を震わせなかった。

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