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2-1

 宮城の居室がこんなに寒々しいと感じたことはなかったな、と執務机から外を眺めて、聖族と呼ばれるシルウィアの正規軍をまとめるグリムフはため息をついた。

 はるかシェドを望める東向きの窓は、夜とは思えない橙色に染まっている。

 法王の息子がグリムフだけを呼びよせて法王騎士団の派遣を伝えたとき、彼はシェドと決定的な軋轢が生じるという予想をすぐに脳裏にひらめかせた。トーリという将軍が、何を考えてどう行動するかグリムフはよく知っていた。かつてトーリをとらえ、法国の将軍に推挙したのは、他の誰でもなくグリムフ本人だったからだ。

 殿下は。

 何をおそれているのだろう。

 過激派がいるとはいえ、表面上は良好な関係を作り上げている属国との信頼関係を、回復できないまでに損傷させてまで彼を追い込む必要があるのか、と正直なところグリムフにはわからなかった。

 執拗に追い求める相手は、法王位を継承するといわれ確かに卿の地位を保持していたかもしれないがいまは一介の兵士に過ぎない。魔手を隊にいれるのは、シルウィアの伝統からいうと珍しくはあるがおびえるべき対象だとはグリムフには思われなかった。

 窓から夜風が流れ込んできた。濃度の高い湿気が肌にあたった。

 汗ばむ手のひらで、古い倒木をひろってきて特別に作らせた机をなでると、そういえばここで卿でなくなったあとも卿と呼ばれつづけるあの男と、談話をしたことをグリムフはふと思い出した。

 優男だった。

 腕っ節だけで軍の中枢にのぼりつめた、グリムフや次代の政権を担う王子と比べるとひどく細い男に見えた。しかし徒手格技の技官からの報告によると、体躯の異なる相手に対しても完全に負けるということのない男らしかったので、部下を信頼するこころの篤いグリムフは男を見下したりしなかった。

「今回の戦役ではずいぶん活躍したそうだな。君の隊の索敵能力は抜群だったと、監察がいっていた」

 当たり障りがない話題で、グリムフは男に話しかける。

「いえ、一度は敵に遭遇してしまいました。斥候としては失敗です」

「相手を全滅させたと聞いている」

「不甲斐ないことです」

「謙遜だな」

「将軍も、私を疑っておいでですか」

 確かこう切り返した男に、そんなつもりはない、などと一息はいてグリムフは弁明したなと思う。

 かたちだけのお仕着せの尋問に過ぎなかった。証拠など一つとしてなく、かといって何もしなければ、人情の拠り所が収まるわけでもないから、グリムフはお互いの立場をかんがみて、組織の末端で斥候の首座をつとめていた男を呼んだに過ぎない。

「なあ、卿」

「恐縮です」

 将軍に卿と呼ばれるなど、と男はいった。

 ——おや、この男は彼自身がことばで己をしばるほど身を縮まらせているだろうか。 

 グリムフはいくつかの疑問をすばやくしまいこんで、彼の通称をなぞって卿と呼び続けた。

 あのとき、廊下をせわしなくにぎわせていた金属の長靴の音も、今日は聞こえない。

 聖族の本隊は大陸の南部に派遣されている。シルウィアは、グリムフが物心つくずっと前から、他者の領土を侵し続けている。まさかすでにグリムフは違和感を感じることはなくなっていた。

 そんなシルウィアをどう思い何を感じていたのだろう、短い戦役から戻ってきて束の間の休息も得ないまま、卿と呼ばれる男は執務室にやってきた。戦塵が顔を覆っていたが、鼻梁がたち、なかなかの美男だと思った。戦地に赴き続けた割に髭の手入れもされていた。

「なぜ隊の中に魔手を入れる」

 卿は間髪をいれず、問い返してきた。

「なぜ隊の中に魔手をお入れにならないのです」

 それは、とグリムフは即答できないのだった。

 ことばにしようとすれば論理的な整合性を欠いてしまう。トーリの戦功を知らないグリムフではないから、魔手の有用性はわかる。しかしなにせ、魔手は法国では禁句に近い存在だった。しかし、それだけだといわれれば、それだけに違いないのだった。将の長になる自分が下士官に向かって、はくだけ無駄な理論を聞かせることは愚かだと思うほどには、グリムフは老練だった。

「卿、君は疑われているのだよ」 

「将軍ではない、誰かに?」

 つい先刻、疑っているつもりはないとこたえたばかりのグリムフは、そこでかすかに笑った。

「魔手を隊に入れれば余計な詮議をもたれる」

「戦場以外の戦いは損得を抜きにはできませんか」

「俺にはできんよ。できれば単純な思考を続けたい」

「将軍が正直なお方で、安心しました」

 卿はそれから、素直に心情を口にした。卿の論旨は一貫して、それを一言でいえば、魔手への憐情だった。だがグリムフは卿がいう憐情に強い魔手への信頼があることにすぐに気づいた。

 かつて卿と同じような出自をもつトーリが、戦に負けてなお威厳を失わずに、グリムフに語ったように。

「単純な思考を、と将軍がお考えになる理由はよくわかります」  

「そうかね」 

「はい。私は考えすぎるきらいがありますので、行動の機先がおろそかになりがちです」

 グリムフは意外なことをいいだした卿に、好感をもった。

「シルビアの兵士が自戒をするとはな」

「私は魔手を雇い入れるような男ですので」

「ふむ、そうかもしれんが。俺は卿がいう理由というものが気になる」

 卿は照れたように頭をかいたはずだ。卿の髪から、さらりと砂が舞い散ったのを思い出したグリムフは、あまりに鮮明な記憶をいぶかしんだ。

「これは私見ですが、人の思考は本来単純なものです。複雑なように見えるだけで、そうすると、目に映るままの物事を咀嚼するには時間がかかりすぎます。煩雑な思考の末に答えを導くよりは、単純な思考をいくつもお持ちになり、戦場の可能性に準じて切り替えていく方がよほど効率的であると思うのです」

「卿は、兵科を卒業されたのか」

「いえ」

 トーリならばここで卑しい出自ですので、と皮肉でもいっただろう。何しろ兵科はシルビアの精鋭を養成する法王直下の学校だった。主たる実技は法王騎士団の一部が交代で行っていることを考えれば、今のトーリはさらにひねくれた講釈を臆面もなくグリムフにいうだろう。

 卿は小さく笑っただけだった。

「そうだろうな。シルビアの兵科を出自にした人間は物事を複雑にしたがる。根拠のきわめて薄い事項まで観測範囲をひろげ、結局かなりの量の人を無駄にしてしまう。そしてここぞという時に、分厚い攻撃を行えないのだ」

「私もそうです」

「君のこともそうだ」

 グリムフは怒気をこめていった。

「俺は宰相に近い立場にいた。君の話も聞いていた。こうして直接君の声を聞いてみるとよくわかる。宰相を殺すなどと君が言い出すはずはない」

「将軍、軽々しく私を擁護してはなりません」

「なぜだ」

「私が無実だという根拠はいまだに希薄なのです。こうして言葉をかけていただいた将軍にご迷惑をおかけすることになる」

「まさか卿、宰相が亡くなられた原因を己だと思っておるのではないだろうな」

 卿は目線をそのままに押し黙った。

「いや、しかしそう感じても仕方のないことかもしれぬ。俺も身近で宰相の死に様を見たが、とても合理的な説明を思いつかないのだ。しかしだからといって、魔手を疑い、あまつさえ君をおとしめる理由にはならない」

 思えばずいぶんと熱っぽく語ったものだ、グリムフは長靴を履いた両足を執務机の上に投げ出しながら、自嘲した。

 穏やかな男だな、グリムフはいつのまにか親しみをこめて卿をそんな風に思うようになっていた。実の息子である王子と比べれば、父親である法王の面影に卿は近かった。

 魔手が疑われるのは、はがゆいものがありますがといった卿にグリムフは聞いた。

「おのれの処遇を恨むか」

「いいえ」

 卿は即答した。

「俺を信用していってくれ。けしてこの答えにしたがって君を処分したりしない」

「誓って否定を。将軍閣下」

「本心か」

「ええ」

「法王の継承権を奪われ、故郷への連絡を途絶えられてもか」

「はい」

「なぜだ卿。殿下はおそらく卿のその態度を畏れている。顔色一つ変えず君はすべての処遇を受け入れた。何が君をそのように振る舞わせているのか」

 卿は抱えていた兜をからだの横に置いた。グリムフは一瞬、卿が息をしていないようにも見えた。それほど彼の動きは静かでなめらかだった。

「私は私の存在をおそれているのです」 

「どういう意味だ」

「故郷から呼び出され、私はこの国にやってきました。法王位を継承できるといわれてにべもなく。私のこころは確かに高ぶり未来を信じてやってきましたが、旧来の人間ではないことが災いとなって不当な扱いも受けました。誰かを憎んだのは一度や二度ではないのです。そのたびに私を制してくれたのは魔手たちでした。いや正確には、魔手の教えてくれた思想のようなものですが」

「思想」

「ええ」

「それはどのような」

「怒りに身をまかせた人間を魔手は正確に把握できます。魔手たちが教えてくれたのは、人が人以外の存在にまさに踊られされている瞬間があるということです」

「なんだと」

「だから憎しみに身を委ねず、私自身をおそれなお、己は己でありたいと願うのです」

 扉が叩かれる音がして、グリムフは追憶の念を振り払った。

「これは殿下」

 グリムフは振り払おうと意識が調整した映像の先に、同じように王子が立っていたことを思い出した。投げ出した足を冷たい床におろして敬礼をする。

「ずいぶんと楽しそうだったな」

 グリムフはぞっとした。

 卿との面談をすませ彼を部屋から送り出したあのときも、王子は正確に同じことばをはいた。グリムフは記憶が震えている、と感じた。頭の中に振動する何かが埋め込まれたように視界が一瞬混濁したのだった。

「そう、みえましたか」

「シェドが明るいな。トーリからの伝令はまだか」

「ええ。まだなにも」

 王子はかつて卿が座っていた椅子に腰をおろした。

「何を考えていた」

 足を組んだ王子はずいぶんと軽装だった。寝室からそのまま抜け出してきたのだろう。

「あの男のことです」

「卿か」

「殿下も卿と」

「不思議なものでな。シルウィアには幾人も卿の称号を持つ者がいるのに、そのほとんどが名で呼ばれ、かの男だけが卿とのみ呼ばれている。これではまるで卿とはあの男のための呼称であるようだ」 

 王子はからだをきしませながら足を組んだ。かきあげた銀髪は、やわらいでいて水気をおびているようだった。

「トーリは勝てるだろうか」

「まさかあの将軍が万に一つもたった十二人の斥候集団に負けるなど、ありえぬことです」

 グリムフは魔手の強さを、意義を、心得ている。トーリが魔手の力を最大限に引き出すことも。だがあえて法国の禁忌を引き合いに出してまで、トーリの強さを法国の次代君主に諭そうとはしなかった。

「そうかな」

「殿下」

 いい機会だとグリムフを思った。

「なんだ」

「それほどまでにあの男はおそれるべき存在ですか。わたしにはとてもそうは思えん」

 王子は組んだ足の上に腕をおいて、あごをのせた。

 同じ姿勢を保ったまま、じっとグリムフを覗く。

 覇気はある、グリムフは息をのんだ。

 瞳の中にうつる自分がみえるようだ、と彼は思った。法国の嫡男だけが備える気品というものは確かに存在する。いくつもの国を戦火の末に塵に化してきたグリムフには、シルビアの王族が他国の君主とは異なる振る舞いをすることに気づいていた。

「変わらんね将軍」

 異なる振る舞いとは、なにか。

 王子はおそらく生まれてからこれまで、負けるということをしていない。敗北を経験しないものは傲慢になりやすい、と感じるのは一般的な感覚で、若い頃から王族に接してきたグリムフの感想は少し違う。

「将軍はみずから進んで魔手の町に一人でゆけるか」

「一人で」

「そうだ一人でだ」

 グリムフは答えに窮した。考えてみれば、魔手を攻防にあてがうトーリをうらやましく思いながら、魔手を目前にして何かを話してみたことはない。話そうと思ったこともない。 

「卿は、あの男は好んでそれを行った。法国では下等とみなす彼らとこころを通わせてなお、シルウィアの兵士の中でもそれなりにうまくやっていたな」

「ええそれは」

「トーリですら、多くは連れだってやってきた魔手たちだ。あの将軍には輝かしい戦功もあり、引き寄せられる魔手も多い。決定的に卿とは違う」

 若い王子はグリムフに不遜さはみせながらも、思考に権力に頼った不自然さはみせなかった。

 王子は敗北におびえているのかもしれない、いや、それだけではない、この国そのものが敗退という現象を忌避してきたのだといつしかグリムフは思うようになった。

「そりゃ俺もおびえたくもなる。シルウィアという法国の意義が彼によって失われるのかもしれないのだから」

 グリムフには王子の答えはよくわからなかった。しかしそれ以上に追随することはやめる。

「シェドは予想通りに動くでしょうか」

「動かなくてもかまわない、あの男が死ねば、あの男の意志をつなぐ者が死に絶えればよい。手引きの糸口があるだけでいいのだ」

「まるでトーリ将軍すら捨て駒にするような口ぶりですな」

「将軍は法国の英雄だぞ。簡単には死なせぬ。まあ死にもしないだろうが。それに、トーリは自分の使命を理解している」

「使命ですか」

「トーリは世界を均している。限りなく平らかに」

 王子はそういうと窓の外を眺めた。

 煌煌と燃え上がる森の光は、木々の断末魔に見えた。

「卿は」

 そう、卿のことだ、とグリムフは思った。

「どのような戦いをするのだろうな」

「一言で申せば、手堅いとなりますか」

「監察がいっていたのか」

「ええそうです」

「卿の隊は何組に当たる?」

「聖族の3番、22組目です」

「斥候の集合部隊だな。確かに妥当な名だ」

「どうしたのです、殿下、急に」

「将軍。卿の名は何だったかな」

「何を馬鹿な」

 といいかけてグリムフは、王子のことばに異様な重みがあることに気づいた。

「まさか」

「そう。我々は、つい先日まで席次の最高位で法王位を継承しようとしていた男の名を思い出せないでいる。不思議なことにな」

 グリムフは王子の小さな顔の向く方に自分の視線を重ね、聞くともなくうなずきながら必死で思い出そうとするが、けして浮かび上がってこないのだった。

「しかし、法名帳を調べれば確実にわかるはずです」

 グリムフがはっと思い至った主張を王子はむなしく受け流した。

「調べたさ。将軍。ところが彼の名前はなかった。どこにもなかった」

「馬鹿な」

 シルビアの戸籍管理は常軌を逸している。国から離れることは、命を差し出すことと等価だ。一度シルビアの民になれば、二度と法国の肩書きから逃れられない。ゆえに、管理は徹底していた。

「国民は膨大な数になり、いつしか個人の名前は存在感を薄れさせている。彼は卿としてだけ生きていける。誰にも知られることなくひっそりと。私が彼をおそれる理由がわかってもらえただろうか」

 卿。

 卿。

 卿。

 グリムフは何度となくそう叫んだ。心の中で何度も反芻して、彼の立場のあやふやさを嘆いた。

 卿、お主の名はなんだ。

 それがわかれば、万に一つも助かる見込みはあるというのに。

 卿、君は誰だ。

 グリムフは目を見開いて窓の外を向いた。

 空がかっと光った。

 まもなく、夜も明ける。

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