1-12
ウバールの指の動きは、モリァスには見えなかった。
魔手には随分親しんできたつもりだった。だが、モリァスのような素人の目にも、ウバールの技量はぬきんでていることがわかる。並の魔手から見れば遙か地平の彼方にいるようにも感じられるのではないか。
「名将は名将だなあ。あのじいさん、びくともしやしない」
モリァスたちには老将の姿は見えていない。ウバールは高い声で笑ったが、モリァスには壮年の魔手が何をいいたいのか、まったく理解できなかった。
ただ、眼下に瞠目するほど鮮やかにあらわれた木々には驚愕した。
もちろんモリァスだけではなくて、ルーシェやノルトにしてみても同じはずで、振り返ってみれば、とても恐ろしいものをみる目つきで、二人は魔手と尋常ではない速さで成長していった木々を見比べていた。
「想像を超えられることは楽しい」
魔手は仕事を終えたのか、両腕をおろした。肩の筋肉が不自然に盛り上がって、両翼の骨が黒い顔料のような服を張り出させた。
「それだけが生き甲斐だ、そうだろう少年」
背中がしぼられて声が出ているようだ、とモリァスは思った。即答できなかったのは、奇異なものに突如出くわした反射だったが、ウバールは気に障ったのか、
「違うか」
と、語気を荒げて騎士を見た。ルーシェが息をのむ音が、モリァスにも聞こえた。
少年の面影が色濃く残るモリァスには、すべてがすでに予想外で、とても何か興の乗るものを探すことなどできないと思った。彼はただ、わからないと応えた。一城ではなく、一国を傾けられる魔手とは、こういうものか、という感慨がモリァスの通身を貫いていたのだった。
魔手はつまらなさそうに息をはく。
ノルトが声をかけた。
「シルウィアの兵士は止まったのか」
「いいや」
「あなたは、止められるといった」
「トーリの手となり足となる魔手は、一人残らず、すべて森と同化させた。血肉を根こそぎ奪われたトーリが、もはや健全に立ち上がれるとは思わないがねえ」
眼孔にたたえた光が闇の中で薄らいでいくように、ウバールの気色は柔らかくなった。
変化の兆しを知っているのはモリァスだけだったが、ウバールだけがまた、モリァスの心象を汲んでいた。二人は言外に契約したようなもので、お互いの顔を見合わせると、微かに笑いあっていた。モリァスの笑いは多分に引きつっていたかもしれないが。
「とはいっても」
ウバールは黒い手袋のしわを伸ばしながら、ノルトを見た。
「このままあのじいさんがくれば、シェドは苦労する」
「どうして。魔手はトーリの手足なのだろう。手足がなくて、何ができる」
「手足などなくても何かを為すことができる人間が、この世の中には確実にいるのだよ」
ウバールはおそらく、魔手のことをいったのだろう。カンファイたちに身近に接してきたモリァスにはわかる。
だけれども、モリァスは、卿のことも思った。
トーリやウバールに及ばずとも。
卿にはその力があるような気がする。
「トーリ将軍が追っているのは、僕の上官です。シェドをどうにかすることが本当の狙いじゃない」
彼にしてみれば、モリァスの発言にノルトが驚いて顔をしかめても、争点はずっとそこだった。
「だが、トーリは森を焼いた」
ルーシェやノルトと出会い、シェドの領域に住む人々の息づかいがシルウィア人としてのモリァスの心象と交雑をはじめると、周縁地域の均衡がいくつにも折り重なりながら、実にあやうく保たれていることに彼は気づいた。
しかし、ウバールの一言に集約されるように、もはや人々は平静ではいられなくなってしまった。魔手のことばに反応を示したのは、ノルトではなく、ルーシェだった。
「早く父様の元へ。話はそれから。誤解を解くのはきっと、難しいけれど」
少女の視線はまっすぐに魔手を射抜く。
「ウバール、さん。ましゅのことをきちんと教えて」
「おやすいごよう」
モリァスはただ、ことの推移に付き従うしかない。
ふと、いつのまにか自分のからだが軽くなっていることにモリァスは気づいた。はっと脳裏に閃くものがあったので、ウバールを見る。彼は薄く笑ってこたえると、ルーシェに続いて歩き始めてしまった。
ウバールは一族の長の娘に、魔手の概略を伝えはじめた。伝説と呼ばれる魔手の応答は的確な、というよりも、経験からくる洞察に満ちていて、モリァスはおそらく卿も知り得ていない魔手の原理に触れた。
「甲冑は脱いだ方がいいわ」
ルーシェは途中、モリァスを振り返って忠告した。
長の娘のいいたいことがわからないモリァスではないので、甲冑の大半を道沿いに落とした。シルウィアへの思い入れがわずかに勝って、手甲だけは残した。
今まで気にもとめなかった重みを両手に感じながら前を向くと、彼女は泣きやむどころかすでに指導者としてふさわしいような威圧感を持ち始めているようで、ウバールと議論をする彼女を見ながら、モリァスは、護ろうなどと考えた自分を不審に思った。
甲冑を取り去り下衣だけになると風の温度が変わっていることがわかる。湿気だらけで不快だった夜の空気は消え去り、ほんのわずかではあるけど、モリァスの体温を奪っていく乾いた微風が山肌をはい上がっていた。森がほとんど失われたいま、大地は水気を保持する能力を失ってしまったかもしれない、軍略に関する教育を受けてきたモリァスは、攻城についての授業を思い出しながら、平坦で黒く焦げた大地を見てそんなことを考えた。
ウバールとルーシェの後ろを少し離れて歩くノルトは、口をつぐんで不満そうな表情をしている。声をかける義理はなく、法国に抱く悪感情をシェドの人間からまともに受けたモリァスには、ノルトのそばに寄ることさえはばかられるように感じられた。
ただ、ルーシェと思うように意志を通わせられないもどかしさは、卿の考えを追従しきれなかったモリァスの身にも覚えがあるので、ノルトには同情した。
「あたしは魔手にはなれないの」
ルーシェのことばがモリァスの思考を裂いた。
「なれないこともないのだがねえ」
「方法がある?」
ルーシェは真剣だった。
シェドが置かれた現状は、苦しい。今はまだ剣戟が交わされていないが、戦闘が始まれば、シルウィアがシェドを許さないことはルーシェにはわかる。少女は、シェドを活かす道を模索している。
「これを修めれば必ず魔手になれる、というものはないのですよ。魔手には素質がいる。私なぞ、生まれてこの方ずっと魔手だ、特に何かをしたわけじゃない」
「特別なのね」
「そうですとも」
「あなた以外の魔手たちは、どうやって魔手になれた?」
「巷には、あやしげだが確率の高い手法はいくらでも転がっている。魔手の多くは、特に好きこのんで魔手になった連中は、そういった手法をとったようですなあ。もっとも、そのほとんどは、自分のからだをどのように傷つけるかというもの」
モリァスは、そして、ノルトはルーシェを見た。彼らには少女が、すぐにでも目の前の選択肢に足をかけそうにみえた。一度踏み込んだら二度と這いあがれない谷底に落ちてしまう道に、それでも必然があると少しでも思ってしまえば、二人にはルーシェを止める術がなかった。
「どうしてそんなことをするの」
「そうしなければ触れられないものがあるのですよ」
魔手は、観念的なものではなく、といって、基板の存在をルーシェに語った。
「からだを痛めつければ見えるのね」
「そのように、いわれている」
「なぜ」
「わからない、としかこたえようはないですなあ」
「あなたにもわからないことがあるのね」
「そんなものはいくつもある。わからなくても誰かが得をしさえすれば、よいというものも数多くありますな」
「それはそうかも」
「ただひとつだけ、私にわかっていることは、基板というものがこの世界の根源だということです」
ルーシェは、魔手の声色が変わったのを感じ取って、押し黙った。
「根源でありながら、存在が認知されていない。魔手たちは、己のからだを己の意志で傷つけることで、自分という実存を限りなく削り取ろうとしているのかもしれませんなあ。存在が消え去っていく過程で、はじめて基板を見ることが可能になる」
「幻覚かもしれない」
「それでもこの世界はまわっているのです」
ルーシェは、ウバールの顔を凝視したままだった。
ウバールは少女を試すように、ことばを継いだ。
「おじょうさんには向かない」
そうかしら、とルーシェがいえば、ウバールこそ悪魔のような形相で、ルーシェに様々な選択肢を用意できた。が、彼女は、
「時間がかかりそうね」
とつぶやいて、魔手から視線を逸らした。モリァスとノルトはまったく同じように息を吐いて、お互いの顔を見合わせてすぐに目をそらした。
「あなたに頭を下げた方が早い」
「ははあ。それは賢い選択だ。気に入りましたよ、長の娘」
「ルーシェ」
「そうですか。では、ルーシェ殿。悪いが私も商売でしてねえ、あなたに頭を下げられたからといって簡単に、はい、とはいわない」
「あたしが小娘だから」
「そうだ、といわせない気位をすでにあなたはおもちだ」
「ほめたのね」
ウバールのことばに強気で応対するルーシェに、モリァスはたじろいだ。モリァスの中では、突如大量の木をうみだした時点でウバールは神格化されつつあった。とても自分には真似できない行為だ。なるほど、ツァイが女を嫌いだというのは、つまり、女性という存在が多分に劣等感を男に抱かせるからだろう。泣き崩れてしまったルーシェと、いま魔手と対等に話すルーシェの内面に、どのような変化が起こったかはモリァスにはわからない。が、彼と彼女の優位性が論理的な思考の外で入れ替わってしまったことだけは間違いなさそうだった。おそらく、女性と過ごす日常にはいつもこんな話が転がっているというわけだ。とすると。男は自覚している以上に揺さぶりに弱い生き物かもしれない。
状況は、モリァスにそれ以上の考察を許さない。
「トーリを私に引き渡していただきたいのですよ」
「殺すな、ということ」
「そうなりますな」
「約束はできないな」
「ならば、私も期待には添わない」
「何か隠してます?ウバールさん」
「隠していますとも」
「教えて」
「お断りですなあ」
ウバールは両手を拡げて、おどけてみせた。
ルーシェは、さっと腰の短剣に手をかけた。しかし、短剣はすでに魔手の手に握られているのだから、それを端から見ているモリァスは、口を開くしかない。
「まるで奇術ね」
「知らなくてよいことがあります」
「そこまでしゃべっておいて、知らなくていいとは、ずいぶん傲慢なのですね」
「率直に申し上げて、あなたがたには関係がない」
「そう」
ウバールは、少女に短剣を返しながら続ける。
「まあしかし、シェドの力であの将軍をとらえるなど無理か」
今度は、ノルトが黙らなかった。
「ウバール殿、いい過ぎだ」
「ふん。実際に戦えばわかるはずだがねえ」
少年、名はなんだ、魔手はモリァスに話題の切り口を移した。
「モリァス」
「モリァス、トーリの軍容を把握しているな」
状況によらず、もともと嘘がつけない人間であるモリァスだったが、魔手が思考を読むことで、選択肢さえ許されないという違和感を感じながらも、彼はこたえた。
「騎兵三百、歩卒が二百弱」
法王騎士団は、創設時から一貫して五百という数を崩さなかった。トーリの顔を見間違えることのないモリァスは、ほぼ正確な数字を把握している。
「たったそれっぽちか」
「ルーシェ殿はどう思いますかなあ」
少女はさっと魔手を一瞥しただけで、すぐに前を向いた。
「さあ。あたしにわかるのは、シェドの人間もそこそこ戦えるというだけ」
山道が別の小さな道と交錯する。
モリァスを含むすべてが、物音に反応した。
人影が一つある。
「おおう、ルーシェじゃねえか。戻ってきたのか」
といった男にモリァスはすばやく視線を送ると、馬上にいる男の背中に、かつての兄貴分が意識なく寄りかかっていることを察して身構えた。キル殿、とは口をついて出せないことはモリァスにもわかっている。
ノルトもウバール殿も、といって軽口を叩いた男の細い目がさらに薄められて、心象と身上の駆け引きの末、一歩だけで踏みとどまったモリァスをとらえた。
「お前」
戦闘を好む目だ、とモリァスは思った。味方がいない状況にほとんど陥ったことのない若い騎士は、こころが歪んでしまうような緊張感にまたさらされることになった。
「シルビアの」
「あなたもウバールさんを知っているの、イーリェ」
ルーシェにモリァスをまもる気があったかは彼にはわからない。が、助けられたとモリァスが思ったとしても仕方がないほど、若い騎士の脳裏は緊張の連続で疲弊していた。
「なんだよルーシェ、つっかかるんだな」
ぱっと細い目を見開いて、浅黒い肌の男は確実にうろたえた。
「あたしの知らないことばかり」
「ちゃんと、相談しようと思ってたんだ」
ノルトが弁明に入る。もちろん、彼女が耳を貸すようなことはない。
「今日は祝祭の日。あんたたちは祭りの担い手で、それなのにどうしてここにいるの」
「それは」
「こたえられないわけ。いやだなあ。あたしはずっと仲間だと思ってきたのに。あたしにいえないことがあるんだ」
イーリェは抗って声を上げると、後ろで結んだ黒い髪がゆれた。
「でも、そのおかげでこうして侵略者をくいとめることができた」
「侵略者かどうか、わからないじゃない」
ルーシェのことばに、二人のシェド人は耳を疑ったようだった。
「おいルーシェ。いくら長の娘だって、そのことばは聞き捨てならねぇな」
「イーリェやめろ」
好戦的な瞳が今度はルーシェに向いた。
「いいやノルト、この白黒は、はっきりさせとかなきゃならねえ。ルーシェ、俺たちの敵は誰だ」
「シルウィアよ」
彼女は迷わずこたえる。
モリァスは胸が痛んだ。おそらくモリァスよりも若い世代の彼女が、おくびも出さずに反応する憎悪の対象が自分の愛した国なのだ。どこか気心を知ったように感じていた少女の口からあらためてそういわれると、つらい。
「だろう。こいつの甲冑はシルウィア人のそれだ、敵が武装してこちらに向かってる、何かあると思うだろうが、普通ならな」
イーリェは短剣を腰から目にもとまらぬはやさで抜くと、手首を返して放った。剣先がモリァスの足もとにしっかりと突き立った。磨かれた刀身が、夜光の中で淡泊に輝いている。モリァスは、手甲にこだわった己を憎んで、さらに身動きひとつとれなかったことを恐れた。
「こいつはなんだ」
「仲間よ」
ことばに間をいれずにルーシェはこたえた。
「うそつけ。そいつはシルウィアの兵士だ。俺が森に落とした」
「顔をみたの。あんたの得意の飛び道具なら、姿形が見えるほど近づかなくてもいいでしょう」
「戦った相手のことなら覚えてる。もっとも、戦闘にすらなかったがな」
薄ら笑いを浮かべて侮蔑するイーリェは、急に真面目な顔つきになった。彼の馬が、ゆっくりと一団に近づいた。
「だまされるなよ、ルーシェ。そいつは忠実なシルウィア人だ。お前をたらしこんで、シェドを壊そうとしている」
「ちがう」
モリァスは、その否定の中に多少の嘘を感じた。小さな違和感だったが。
「黙ってろ、こいつを殺すぞ」
モリァスが押し黙るのを見て、キルの口元に別の短剣を突きつけたイーリェは、
「同じシルウィアの兵士をまもるために行動を慎むようなやつを、ルーシェ、お前は仲間だっていうのか」
といった。
「そうよ」
どうしてそこまで。
モリァスは、若い長の娘が立場を危ぶんでまでモリァスを救おうとしている理由を探しあぐねていた。
「それが俺たちのシェドを危険にさらしても」
「さらさないわ。あたしはあたしなりにずっとシルウィアを見てきた」
「たかだか数年じゃねえか」
「ほんとにそう思うの。あたしたちを殺すかもしれない、家族を粉々に砕いて、かたちないまで踏みつぶしてしまうかもしれないシルウィア人を、中途半端な気持ちで眺めてきたと思うの」
「情がうつっちまったのか、ルーシェ」
男の馬はさらに一歩距離を縮めると、ルーシェはモリァスと短剣の間に割って入った。
「そんなんじゃない」
「何の関係がある」
「細かく見つめるようになったの、ひとを。宮城の門を出入りする人間の表情に、動き方に、感情が乗ることがよくわかった」
「だからなんだ」
イーリェの顔半分を、月光が照らした。
「モリァスにはあたしたちをどうにかする気なんてない」
「そんなものあてになるか」
彼の瞳にはっきりとした敵意が宿ると、さすがにノルトが口を挟んだ。
「もういい加減にしろイーリェ」
馬にとりすがった同胞を軽く蹴飛ばすイーリェは、暗闇に向かって唾液を飛ばした。
「いいやだめだ。まだ何もわかっちゃいねえこいつに、説教しなきゃ気がすまねえぞ」
モリァスは殺意にさらされ、剣の柄に手を置いた。もうすっかり血は止まっていたが、矢傷が痛んだ。ルーシェはそれを肩越しにたしなめる。
「あなたは何もしないで」
でも、といったがルーシェは目を合わせると、いいから、と首をふるのだった。
「ルーシェ、森の中からどうやって抜け出した」
「なによ」
「あんなに勢いよく燃えた森から、どうやって助かったんだ。ははあ、そうかおまえ、シルウィアとつながってるな」
「わけわかんないこといわないで」
「だから、知っていたんだ。いつ、森が燃えるか。ちがうか」
「ちがうわ」
「いいや、ちがわねえ。じゃなきゃおまえがシルウィア人を連れてきたりするはずねえ」
「だとしたらどうする気」
「おまえを殺す。そのシルウィアの男を殺したあとで」
イーリェの表層に冷たい気色が張りついたのを肌で感じたモリァスは、ルーシェを押しのけて前に出た。
「どうすれば信じる」
「誰がシルウィアの兵士のことなど」
「僕じゃない」
驚いた瞳を向けるルーシェを見遣って、モリァスは大きく叫んだ。
「彼女のことだ」
イーリェは、鳴動した空気に微動だにしない山々のように、少しも変化をみせず、ただ淡々とこたえた。
「おまえが死ねば信じる。そうだろう、こんな簡単なことはねえ」
心の底に。
モリァスは憎悪の火種を灯した。
論理的な整合性がひとつとして感じられないまま、己の死が身近にあることに、モリァスは強い嫌悪を感じはじめた。ひしがれて、歪みそうになる緊張の糸が突如切れてねじれが開放されると、モリァスの意識が外乱を受けたようにぼやけた。
「いいだろう」
ことばはもはや、モリァスのものではなく。
「そのかわり貴様も死ねばいい」
視覚も聴覚も、肌に覚えたすべての違和感も、モリァスの中で急速にどうでもよくなった。
「できるわきゃねえだろ、腰抜けのくせに」
モリァスは剣を抜いて、足もとの短剣を蹴り飛ばした。剣の先が馬にあたっていななくと、イーリェは馬上から飛び降りながら腰の長刀を抜いた。背の上にあったキルのからだも墜落した。
「やめて」
ルーシェの悲鳴に近い叫びも二人を止めきれなかった。
剣戟が光の明滅をいくつか生む。
甲冑を脱ぎ、ウバールの手心を受けたばかりのモリァスは身体が軽い。
そんなことを本人は自覚していなかったが、イーリェはモリァスの意外な動きのよさに、一瞬だけたじろいだ。
ただ、足さばきの華麗さはイーリェの方に歩があった。人気のない場所を独歩してきた夜目も味方につけて、モリァスの剣の軌跡を正確に読み切り、彼の代わりに、風が悲鳴をあげた。
「ノルト、とめて」
うかつに近づけば、巻き添えをくらうことがわかっているノルトは、動けない。
幾度かモリァスの踏み込む距離を算段する目的でわざと剣を受けとめると、呼吸をよみきったのか、イーリェはモリァスのふところに入り込んだ。
からだを後ろに大きくのけぞらせて、それでもモリァスの地肌をイーリェの刃が浅く裂いた。
「こんなことしてる場合じゃないのに」
髪を両手でかきあげて頭を抱えながら、ルーシェは叫んだ。
「ウバールさんもなんとかしてよ」
そこで。
少女は異変に気づく。
魔手はひどくいびつな顔で笑っていた。
くふくふふ、という声とも空気の漏れともいえない呻き声が、魔手の口から聞こえた。両腕を二人にかざしたまま、魔手は恍惚の中で打ち震えているのだった。
突如、眼下に森林があらわれた記憶があたらしいルーシェは、あの燃えて痩せ細った大地の上で起きたなにかおぞましい事実が、いま自分の目の前にあらわれるかもしれないと危惧した。
「なにを、しているの」
魔手の瞳が、ぎろりとルーシェを見つめた。
「狂気はどこからやってくるか、ルーシェ殿は知っているか」
人とは思えない空気を纏い始めた魔手に、ルーシェは戦慄を覚えて、首をふる。
「くらい泉の奥深くからあらわれてくる。誰も知ることのできない遠い、遠い場所だ」
イーリェの悲鳴がルーシェを戦場に戻した。少女は、魔手の顔を思考の端に残しながら、二人を見た。
イーリェがうずくまり、左のももをおさえていた。
戦場に新しい影があった。
「キル殿」
モリァスは暗闇の中に屹立した、シルウィアの戦士の名を叫んだ。キルは、モリァスに、
「傷は」
と、たずねた。
モリァスは、現実の世界にかるいめまいをともなって戻ってきた自分が、痛覚を認識できるようになるまで、キルのいっていることばの意味がわからなかったが、イーリェとの数回の交点のうちに、刀傷は確実に増えていた。
「私は大丈夫です。キル殿こそ、大丈夫ですか」
キルはこくり、と首を縦に振る。右手には、細身の剣が握られていた。シルウィアの兵士に配給される官製の直剣で、切っ先は夜の中でも血で濡れているのがわかる。
「いってえ、くっそいってえ」
激情が直結した瞳は、キルを向いた。
イーリェは足を押さえながらも、キルに対して短い剣を投げ飛ばしたが、剣を押し出す力が乏しいらしく、短剣は回転しながら失速しキルの巨体には届かなかった。
「てめえ、ゆるさねえ、ゆるさねえぞ」
イーリェの声だけが静寂をはげしく切り裂いたとき、モリァスは自分の怒気がどこかに消えてしまっていることに気づいた。
喪失感もなく。
違和感もなく。
自分の感情だと思っていたものは、どこかに忽然ときえてしまっていた。
ウバールの仕業だと思って、モリァスは魔手を見た。
魔手は、モリァスに気づいて、しかしかぶりをふった。
「やめて」
ルーシェが叫ぶ。
はっとモリァスは想像の枠を超えて、からだをイーリェとキルの対峙した方向へ切り返した。
キルは少女のことばを受けとめて剣を振るわなかった。が、巨体からくりだされた重い拳の一撃が、イーリェの懐に突き刺さって、地にくずおれるのを彼は見た。
彼の。
彼の憎悪は引き延ばされただけだろうか。
それとも、どこかへ消えてしまったのだろうか。
モリァスはふとそんなことを思った。
「狂気はどこからかきて、どこかへと消える」
魔手が傍らに立っていた。
「少年、自分のからだが自分のものでなくなる気持ちはどうだ」
とっさには魔手の質問にこたえられないモリァスだったが、こころの中にウバールのことばを咀嚼する余地はあって、ちょっと考えてから、答えを口にする。
「ただ、むなしいだけです」
魔手は、ふむ、といっただけだった。
モリァスはふと、おもいいたって、
「将軍を、どうしたかったのです」
と聞いた。ウバールは質問に真正面からこたえない。
「血縁か」
「祖父です。もっとも、トーリ将軍が僕を知っているかはわかりませんが」
美しくも恐れられる副官イリシアに、見間違えるはずがないと厳と伝えられたのは、モリァスの中に、祖父であると母にいわれて焼き付けたトーリの古い記憶があったからだった。
「狂気と祖父を結びつけるお前のこころに、私は興味があるのだがねえ」
「話を逸らさないでください」
「魔手の力を行使する私をお前は恐れていた。ところが今は、何もかも忘れたかのように、こうして私に問いをおこなう。不思議なことだと思わないか」
「何がいいたいのです」
「お前は何者だ、モリァス」
聞き覚えのあることばに、モリァスはぎょっとした。
かつて卿にいわれ、こころの中で何度も反芻し、いまだに答えを見いだせない問いかけだった。
「誰しもがその答えに窮する。私にしても例外ではない。しかし、おそらく、トーリはその答えを知っているのだよ」
「どうしてそんなことがわかるのです」
「基板を見ればそう思いたくもなる」
無精髭を丁寧になでさすって、ウバールはモリァスを見るともなしにつぶやいた。
「私にいわせれば、トーリは人ではない。基板の見えないお前にいっても仕方がないのだがね」
「何がちがうのですか、将軍と、それ以外と」
「基板の様相がまるで異なる」
魔手は語る。
人の基板のほとんどが、平面であらわすと、いわゆる楕円を基調としている。それは、人間のからだの部分部分がもつちいさな基板が渾然となっていて、だから、ぼんやりと細かな違いがいくつもある。もっとも、それを見分けられる魔手は一握りだ。
もちろん私はわかるのだがねえ、と自慢げにモリァスに視線をよこすウバールに、若い騎士はこのときはじめて、親近感を抱いた。
「ところが、トーリはちがう。あの老人には核になる楕円がない」
魔手がトーリについて話すたびに、モリァスの老将に対する距離感が変わっていく。
「これはとんでもないことだ。魔手にとってみれば、当然のものがあの将軍にはない、トーリに付き従っていた魔手の大半が、そのことに気づいていないはずはないのだが、もしかしたら、彼らはあえて見ていなかったのかもしれんな」
魔手はモリァスをじっと見据えた。
「興味深いことにな、普通の人間にもある」
「何がです」
「核がなくなることさ、さっきのお前のように」
「え?」
「負の感情にそまると、核がうすくなる。そしてそこにまるで液体が流れているようなさざ波がたつのだ」
見つめる世界が異なれば、感じることもちがって、だから魔手の話には簡単にうなずけない、モリァスに予想がつけられるのはどうしてもその段階までだった。
しかし卿は、あの人だけは。
こころを思いめぐらしていたにちがいない、とモリァスは思う。
「どうやら波を起こしている力は、我々の世界のものではない。どこか違う異質なものだ。そんなものに、人間が規範を壊されている」
「壊されている、とはどういうことです」
「負の感情を本人が抱く前に、波がゆっくりと現れてくるのだ。つまり、我々の衝動は、予定されている」
魔手は続ける。
「見えないことがいいときもある。私は目を凝らしたせいで、かえって自分の存在というものがどれだけあやふやで、現実味のないものかわかってしまった」
魔手から目を逸らし、モリァスは足もとを見つめた。指からしたたる血の流れが黒々とした点になっていた。幸い、からだが動かないということもなく、血もおさまっていた。
「私は、トーリの戦いぶりを何度か見たことがある。彼は、沈着冷静で間違いのない良将だが、敵軍には残虐だ。まるで、いたずらに他人の狂気をあおっているようにみえる」
「それは、本当なのですか」
「ああ、本当だよ。トーリの基板にその都度揺らぎはなかった。おそらく、彼はご大層な使命感をもっている。私らにはあずかりしらぬような。だから、私は試みに、トーリの胸裡が打ち震えるようにし向けてみた。彼が負っているものは何なのか、私は知りたい。求める答えがそこにあるかもしれない。だがねえ、結果はご覧のとおり。何もわからないままだ」
モリァスは深く考えねばならなかった。法国の人間にとって、トーリは誇りだった。
それが、ウバールのことばで異質なものに変容していく。
モリァスには、事の真偽を確かめる術がない。
ルーシェはいった。
あたしは魔手にはなれないの。
俺も。
モリァスの脳裏にも過ぎる。
魔手になるべきではないのか。
ウバールは、モリァスの表情に何かを見出したのか、たしなめるように彼をさとした。
「私は、狂気が人の存在を作っていると思ってきた。ところが、狂気にかぎらずおよそ、負の感情のすべてに人が委ねられると、自己は埋没してしまう。そして、その波が過ぎ去った時、我々にはただむなしさだけが残る。とすると、人とはなんなのだろう、そればかりを考えるようになった」
「トーリ将軍はその理由を知っている、と」
「そう思うがね」
魔手は近づいてくるキルを一瞥すると、モリァスから離れていった。ことばにできない問いかけをいくつも魔手の背中に投げたかったが、モリァスはキルと対峙することにした。
巨体の影から、倒れたイーリェに駆け寄るルーシェとノルトの姿が見えた。
キルはそのあたりの岩ほどもありそうな大きな拳で、モリァスの頭を軽くこづいた。
「すまぬ」
モリァスはあらたまって頭を下げる騎士の先輩に、驚いた。
「なぜキル殿があやまるのです」
「俺の力が足りなんだ」
「そんな、それは私の問題です」
「卿に叱られてしまう」
「叱られるのも私一人で十分です。キル殿もツァイもわるくはない。そうだツァイは」
キルは首を振った。
「すまん」
「そうですか、いえ」
自分とツァイがまるで物見遊山のこころづもりで歩いたせいだ、モリァスはいまでもそう思っている。
「とにもかくにも無事でよかった」
キルは、モリァスの返答に渋面を作るだけだったが、若い騎士はふと、そこに、キルの中にいいたくてもいえない何かが、あるように感じた。
「彼女に助けられました」
モリァスはそういってルーシェを見た。キルはその視線を追う。
ルーシェとノルトは、完全にのびてしまったイーリェを彼の馬の背に乗せていた。
「彼らをうらみますか」
キルの視線に不穏さは感じなかったモリァスだったが、普段から感情をあまり表に出さない先輩の騎士が何を考えているのか気になった。
「シルウィアも変わらない」
キルはモリァスを向き直って、いった。
率直なおもいに違いなかった。
ルーシェが二人に近づく。
「嫌な思いをさせてしまったわね」
「いや」
「あなたも、敵ではないのね」
「いまはそうありたい」
キルの素っ気ない対応に、ルーシェは肩をすくめたようだった。
「シェドにご案内します」
ルーシェはキルにそういって、モリァスとも目語を交わした。
あらゆることが不明のまま、彼女は族長の娘という立場に殉じようとしている。
モリァスは、疲弊の色濃い彼女をみて、はじめそう思った。
しかし、自分に向ける眼差しに寄りかかるような安らかさを求めようとする、微かな意志を感じ取ったモリァスは、ルーシェが進路の選択を迷っていることに気づいた。
モリァスは、彼女にかけることばのないことをはじめて悔やんだ。
ルーシェは、首をかしげただけだった。
それでもモリァスは、彼女のもたげた首の角度の分、自分の人生も変わっていくのだろうと、夢想するのだった。
出発はゆるやかだ。
しかし、きっと。
到達する地点は大きく変わる。
変わってしまうのだ。
モリァスの顔に、雫があたった。
見上げると、彼らの頭上には見るだけでそれとわかる重い雲があった。
さっと風が吹くと、空気の動きが鈍くなり雷鳴が轟いた。
大地が突如はげしく揺れた。




