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 異様な気配を察して卿が振り返ると、カンファイは馬を止めて昼間のように赤らんだ空を向いていた。イリシアやツァイは何事かという顔で、卿の視線を追った。

「どうした、カンファイ」 

 もうすっかり卿たちを人質だと思うことも忘れて進むアルゲラも、馬を止めさせた。

「基板が階層ごと動きました」

「トーリ殿の魔手の仕業ではなくかい?」

「はい。先ほどまではおおきな動きはありませんでしたから。特に急に」

 緑から赤へ。

 美しく鮮やかに羽振りを整えていた森の木々は、すべて炎色のもとに吸い込まれて灰に帰ろうとしている。

 ならんでおかれていれば多少違和感のある色彩の変化が、卿らの視線の先、あの夜の下でおこっていることは想像にかたくない。しかしその、手に取るような想像もつかない変化を、若い魔手は鋭敏に感じ取っていた。

「階層ごと、とはどういうことです」

 副官が眉をひそめて卿の側に寄れば、ツァイも首を上げて卿を見た。

「魔手たちが基板の改変をおこなうと、基板と基板のあいだに隙間ができる。おこりにくくむずかしい変化が基板にいたればいたるほど、隙間は広くなるらしい。基板は層をなして存在していることが多いようだから、よほど大きな変化が向こう側の世界であらわれたようだ」

「おそらくですが」

 カンファイが卿たちに顔をむけなおして、口をはさんだ。

「人の基板が改変されたと思われます」

「うちの隊のだれかが」

 気色ばんだイリシアを魔手は冷静になだめた。

「いえ。普通の人間を改変することはほとんど不可能です」

「しかし人といえばそれ以外にいないじゃないか」

「魔手ならありえます」

 イリシアの気勢を削ぐように、話題の中心にいる魔手はゆっくりとこたえた。

「魔手ならか。そのわりにカンファイ、君の顔には余裕があるね」

「卿の麾下ではないのです」

 同じ魔手の身にふりかかった異変に、カンファイたちはいち早く察しをつけられる。

 人間が持つ、ひとりひとりの基板は違う。魔手は、基板の世界に強く依存しているので、無意識のうちに基板に干渉し続けている。こっちの世界、と彼らはいうが、そこに居続ければ魔手自身の基板もはっきりと映像になりやすいようで、カンファイはそのいくつかを容易にさぐりあて、自分の仲間のものでないことを確認していた。

「卿」

「なにがおきたか、その目で確かめたいか」

 卿の声に、カンファイははっきりとうなずいた。

 狭隘な山道から、森は見えなかった。

「私もだ」

 若い魔手の顔に憐憫の色があらわれたのを、卿はけして見逃さなかった。

 カンファイは経緯のほとんどを把握している。それでもなお、近づいて正確に感じたい何かがあるのだ、と卿は解した。

「アルゲラ」

「なんだ」

 彼のこたえには棘があった。

 無理もない、と卿は思った。少しでも急ぎたいと感じるのが人情に違いない。

 だけれども、ふつうの人間である卿にも感じとれる、大気のよどみのようなものが確かにあった。その事実を咀嚼しないまま、先にすすむことは卿もしたくない。

 それに。

 モリァスの安否を、卿は少しでも早く知りたかった。

「一度引き返したい」

「なぜだ」

「トーリ殿の身が心配だ」

「卿」

 イリシアの非難がとんだ。馬にまたがって彼女は、香気をはらんで卿を下からのぞき込んでにらんだ。兜をとって、紫色にそめあげた髪をくくって、町ではたらく娘のような格好でも、イリシアの目線はつよく輝いた。

「将軍はあなたを追っている。命を、奪おうとしているのです」

「わかっているよ。しかし、我々が生きる道には必ずトーリ殿が必要だ」

「盲信では、と進言いたします」

「そうかもしれない」

 卿は不敵に笑った。

「どうか我々の命をあずかっている御身であることをお忘れなきよう」

「私はいつも忘れてなどいないよ。君の存在が私にその事実を忘れさせない」

「冗談ばかり」

「冗談なもんか、私は冗談は嫌いだよ」

「遊興はたしかに嗜まれませんが、冗談がお嫌いだとは考えもしませんでした」

「ずいぶんと誤解されたものだね。隊の皆には内緒にしておこう。私達の仲がよくないと知られれば、余計なおせっかいをやかれてしまう」

 イリシアは、卿に正対していった。

「あなたっていつもそう」

「ええと、何か問題があったかな」

「なんでも」

 見透かされているな、と卿は頭をかいた。

 副官は卿に反省の余地を与えない。

「トーリ将軍は、卿のことをご存知ではないのでしょう」

「知っているはずがないんじゃないかな。私は王宮に仕えてもう十年になるが、トーリ殿とまみえたことは実は一度もない。しかし、トーリ殿が動けば、かならずシルビアの版図は拡がるといわれたし、実際に成し遂げた。おそろしい人だよ」

「卿にも戦歴があります」

「トーリ殿と比較するなど無謀だよ。それに、私はあまり目立ちたくない」

 卿はイリシアとの会話を区切り、話を聞いていたアルゲラに向き直った。

「どうだろう、引き返すことを許してくれないか」

「わがままな男のことだ。どうせなにがあっても聞き入れないつもりだろう」

 卿は笑った。

「引き返さなくていい。もうすぐ、少しだけ視界が開ける場所に着く」

 アルゲラはそういうと、馬首を転じて進路をシェドに向けた。

 卿たちはおたがいに目で語りあい、偉丈夫のひろい背中を追った。

 彼らが、岩と岩の隙間から、広大な森林だった黒い大地を見たとき、どうしようもない違和感に気づく。

「なんだあれは」

 アルゲラ以外に発声はしない。

 卿は思わず目を細めて、街道を見下ろした。

 彼らは見た。

 白煙の中にそびえる幾本の巨木を。

 卿たちは山間の道を選んでいたので、視点はたかく、森のあった場所を俯瞰できた。

 その高さを。

 思わず見失いそうな巨大な木々。

 ひろくゆたかにたずさえた葉さえ、夜の闇と、残り火のきらめきの中で、揺らいでいるのが確認できた。

「カンファイ」

 呼びかけた魔手はきつく瞳を閉じて、両手を木々にむかって突き出していた。

 指先が素早く動く。

 魔手たちが基板に干渉するとき、彼らは一様に同じ姿勢をとった。

「人の痕跡が見えます」

「あんな離れた場所の基板に触れているのか」

 アルゲラがカンファイに問うと、魔手はわずかに目を開けて、

「基板の世界は『むこう』と『こちら』ということが非常に曖昧なのです。私の目前にはいま、あなたが立体的に見ているかもしれない世界が、ほとんど同じ平面にあるように見えています」

 といった。

 見ているかもしれない、とはうまれてからずっと一度も現実の光を捉えたことのないカンファイだから口にできたことばだな、と想到した卿は、ふと、それでは彼に見えている基板の世界を照らす光とはなんだろうと考えた。太陽でも月でもなく、炎のようなあかりでもないとするといったいどういうものか想像もつかない。

「ああ早い」

「まだ改変されつづけているのか」

「ええ。とてつもない使い手です。燃やされて消えそうな森の基板と、人の、魔手の基板をたくみにむすびつけている」

「そんなことが簡単にできるとは思えないなあ」

 卿は思わず苦笑した。

「我々には、とても無理です」

 カンファイは、基板を追うのをやめて手をおろした。

「あれはトーリ殿の隊の魔手たちなんだろうね」

 崖下からはい上がってきた風が、兜をぬいだ卿の、汗で湿った黒髪をなでて過ぎた。

「おそらく」

 カンファイは落ち着いてこたえる。

 ふたりの間にはしった風に、血なまぐさい意志を感じなかったことに卿は、おのれをいぶかしんだ。熱気をふくまず心地よさだけを残した風など、今日はこれまで感じていなかった。この場で起きている戦闘そのものの、風向きが変わっているのかもしれない。

「なにがおきている。あの木はなんだ」

 アルゲラが問うても、卿には私にもわからない、としかいいようがなかった。

 人智を超えたところに魔手の存在はある、そう思ってしまっては魔手たちをどこかちがう世界におしやってしまうことになると卿は常々考えてきたが、やはり住んでいる世界はちがうのだ。

 卿は自分のもっているこころの視点を切り替えなければならないと、自分を戒めたのだった。魔手とはこういうものだ、というこだわりが、カンファイたちを、そしてゆくゆくは己の部下たちを殺してしまう事態を招くような気がしたからだった。

「悲しいことです」

「何がだ」

 イリシアがカンファイの顔をのぞき込む。灰色に沈んだ魔手の瞳の上を、炎の光がよどんで、はぜていく。

「仲間がやられました」

 イリシアは声を荒げた。

「カンファイ、お前までそんなことをいうのか。トーリ殿は敵だ、ただただおそろしい敵なんだ。甘いよ。トーリ殿の魔手が消えた。これで我々はまだ生き延びられるかもしれないというのに」

「それでも」

 魔手はいう。

 か細く消えそうな声で。

「かれらは私とおなじ境遇で生きてきた仲間なのです」

「カンファイ」

 イリシアも声をおとした。

 卿は、ふたりのことばの響きを、何度も胸の底でくりかえした。

 魔手たちはお互いがお互いを助け合いながら生き方を探っている。かばいあいながら、といってもいいかもしれない。トーリや、卿に選ばれた人間はいい方で、祖国を捨てるということに異常なほどの抵抗を示すシルウィアという国は、魔手を虐げながらも戸籍にはしっかりと繋ぎ止め、つまり彼らは見えない檻の中で生きることを選択するしかない。

 魔手も人だが、彼らはすでにひと繋ぎの共同体だった。

 彼らの強さは、望んで力を手に入れた後天的な魔手たちにも寛容であるように、すべてを受け入れてしまうとても大きな器だと卿は感じている。実際、基板の存在を肌に感じることで、魔手たちは非常に直截的な意志のやりとりを実現していた。

 シルウィア人の多くは、その事実を知らない。

 同じ土地に住む人間たちとの価値観の相違が、カンファイに、敵であるはずのトーリの魔手も、自分の身内であるといわせた。

「しかし不思議だ」

 卿が首をひねると、みなは彼を向き直った。

「魔手を魔手が殺したのか」

 カンファイの心理は魔手の、ほとんど通念といっていいかもしれない。魔手たちと行動を共にしてきた卿には、それがわかる。できるなら、お互いを敵視したくないと思い合ってきた彼らが、同じ法国内の魔手同士で力を競いあわせるなどということがあるだろうか。

「アルゲラ。シェドに魔手はいるのかな」

 卿の疑問は当然の帰結で、しかし、

「いや」

 といったアルゲラのことばですぐに霧散した。

「ならばいったい、誰があんなことをやってのけたのだろう」

 カンファイをはじめ、卿の隊にいる魔手は、抜群の基板操作を誇っている。能力に優劣があるのは魔手も同じで、卿は従軍の意志のある魔手の中で、彼らを選ぶとき、三人以上に能力のある魔手には出会っていなかった。トーリ隊にも、名の知れた魔手がいたはずだが、彼らの抵抗を受けず、木々と一体化させるほどの使い手が、自分の知らない範囲にいるとは、卿には少し信じられない。

「おい卿よ。まさか貴公らは、あの木々が人間だったとでもいうつもりなのか」

「そうだよ」

「人間が木になった。そんなことができるのか」

「さっき私もおなじことをいったよ」

 卿はさやかに笑った。

 アルゲラは目を数回、驚いた子どものようにまばたかせると、おそろしいものだな、とまたつぶやいた。

「トーリ殿の元から、魔手たちが消えました」

 イリシアから香気がかよう。

 卿は、いつもより大きく息を吸って彼女をみた。

「将軍はこのままシェドにおすすみでしょうか」

 馬にまたがるイリシアのふたつの瞳に、かたくきらめく武人の色が浮かんで、疑念が声ににじんだ。

「たしかに。モリァスが伝えた軍容は五百だった。同じ価値観を共有しているひとつの集落を攻めるにはすこし物足りないね」

「シェドには戦える人間が二千はいます」

 斥候として宮城の門をくぐるまえに、卿たちにはシェドの近況は伝えられていた。多少の目算の相違があって、伝達の齟齬や、シェド側が隠蔽している兵力があると考えると、もう少し上積みしておきたい。

 アルゲラが、それでは少ないと付け加えると、卿はうなずいた。

「そうだとすると、トーリ殿もくるしい」 

「五百か、それはいいことを聞いたな」

 アルゲラが余裕を笑みに浮かべたので、卿は諫めた。

「まともにぶつかれば、シェドは半数をたやすく失う」

 偉丈夫は驚かない。

「頼みの魔手もいないのだろう。半数が残ればいいほうだ」

「魔手がいないことが、トーリ殿の弱みだと思うのであれば、改めることをすすめる。それにその後、本国にすべて残らず蹂躙されてしまう。一族、郎党すべてだよ。それでもいいのかな」

「何もかもきれいになって消えてしまうのなら、それもいいかもしれんな」

 アルゲラは、濁りのない笑みを夜気にはなった。

 卿は、まさか本気だとは思わなかったので、

「それでは私は主にはなれないね」

 と、とぼけてみせた。

「ねえ卿、トーリって人、もともとシェドにいくつもりだったのかな」

 みなの会話を黙って聞いていた、ツァイがぽつりという。彼は、アルゲラに腕をえぐられた記憶がまだ新しいようで、シェドの偉丈夫に親近感を抱けず、卿の後ろに隠れるように寄り添っていた。

 それは、とイリシアは切り返して、卿と目を合わせた。

「そういえば、そうか。我々を捕捉するだけが目的だったかもしれないね」

「卿、我々はトーリ殿の思惑を推し量っただけで、確かに実状を把握しているわけではありません」

「しかしイリシア、将軍は森に火を放った。シェドを攻略するというよりも、私たちを追ったと考える方が妥当だ。シェドを襲うのならば、森はあった方がずっといい。ずっといいのだけど」

 と、いって卿は頭をかいて、押し黙った。イリシアは小首をかしげて、卿を待つ。卿の隊にいる人間は、卿のことばをすべて待った。

 ほんの数分だったが、馬の息遣いだけが夜にしみ始めたとき、卿の唇が動いて、まなじりが上がった。

「なるほど」

「なにが、なるほどなのです」

「トーリ殿も、もしかしたら貶められようとしているのではないかな」

 卿のことばに、イリシアとカンファイは戦慄をおぼえた。

「どういうことでしょう」

「トーリ殿だけではないな。シェドもそうだ。今回の件を仕組んだ人間は、私とトーリ殿、そして、シェドのどれかを、少なくともひとつは摩滅できるように、動いているように思う。あわよくばすべてを」

「そんな都合良く」

「考えてみてごらん、イリシア。ここで『聖族』が動くとする。トーリ殿を拘束できる理由があるとは思わないか」

「トーリ殿は法国の英雄ではありませんか」

「人はうらやんでしまう。英雄であることもそうであるし、トーリ将軍が凡才ではないことも」

 私だって、そうだ、卿は思う。

 法国のやり方に従って、王位を継承できる身分に受動的になったとしても、不可視の勢力が卿を貶めようとした。

「森に火を放ったことが口実になるとでも」

「そうだ。トーリ殿が私を殺すためにシェドを襲い、シェドを奪いながら私も消すことができれば、あとはシェドとは友好を保つはずだったのだ、とでもいうだろう」

「そんなことをしていったい何だというのです」

「私にはわからないよ」

 シルウィアは強大な国家になった。国の中枢にいる人間が得られる利益は、保守している土地が長大になればなるほど増えた。神経の通わない官吏も増えると、立場だけを保持して享楽を得るようにするほうが、人としては自然で、民衆とのこころのふれあいを労だと感じるようになれば、あとは自己を保全すればいいだけになる。

 己の足もとを堅固にするには、脅かす他人を地に伏させてしまうのが、もっとも効率がよいのかもしれない。

 卿は思う。

 抑制の効かない心情に判断を委ねた時点で、人としての価値は失われている。

 自分を見つめ続けてきた卿は、制御し、己を統率することの重大さを感じていた。

「私は恐ろしい」

「卿」

「追われることも死ぬことも、私にはどうでもいい。しかし、自分のこころの統制がいつか失われてしまったとき、自我の外に立つ自分を夢想しない日はない」

「それは、客観的な立場におられるからです。死を恐れる我々も、死の当事者になる自分を外から見るから恐ろしい。現実ではないことに意識を任せるのは危険です」

「それでは法国の教えも消えてしまいかねない」

「そうではありません。正教の教義は、前世を信じることで余計な思慮を排し、この場を生き抜くことを教えくれているのです」

 卿は、鼻を鳴らして笑うアルゲラをみた。

 ふと、卿はアルゲラの心象に私は寄り添っているのかもしれない、と感じた。

「おかしいか」

「ああ、おかしいとも。どうかしてる」

アルゲラは卿たちを蔑んだ。

「貴様、一度ならず二度まで我々を侮辱したな」

 絹がすれるような音が、イリシアの刃から流れた。

 卿は、咎めなかった。

 シェドの存在に活路を見出したと一度は卿も思ったが、アルゲラとことばを交わすうちに、彼らが感じる、人と対峙するときの温度に差があることに気づいた。

 同時に。

 シルビア正教に純心から帰依したイリシアの言貌に、アルゲラの思考がだぶってみえた。

 二人のことばには相違があるようで、実は同じことをいっているのかもしれない。

 卿にはそこがはっきりしない。

 おそらく、二人にも。

 だから、ことばではなく、刃を交えることが意味を持とうとしている。

 卿は思考を続ける人だったが、流れに進んで身を任せることが、一定の成果を上げることを感覚で知っていた。

 二人の剣の軌跡の上に、私は回答を探しているのか。

 卿の見たところ、ふたりの実力は拮抗しているが、技術の部分でわずかにイリシアが勝っていると感じていた。

 おのれの残虐性を認めるのは苦痛だが、と卿は胸のうちで笑うしかない。

 しかし、アルゲラは剣を構えなかった。

「貴公らは何年生きる」

 目を丸くして、腕の力を抜いたイリシアの髪が、風に揺れた。こころも揺れた。

「な、なにをいっている」

 アルゲラは気の抜けたイリシアを笑った。

「わしは、生きてもあと数年だろう」

「戯れ言を。早く剣をとれ」

「ほんとうだ」

「病なのか」

 年端はカンファイと変わらないとアルゲラはいった。魔手はまだ二十代の半ばで、イリシアは見た目よりもずっと若い偉丈夫が、命を摩滅する淵にいるとは、到底思えなかった。

「寿命だ」

「うそをつけ」

「そういう一族なのだ」

「そんな」

「うまれついての宿命に、身を委ねるしかない。命が短ければ、自分を頼るだけで、だからわしは貴公らを笑ったのだ」

 卿にアルゲラの気風が触れ、シェドの気位の高さを垣間見せた。

 イリシアはことばを失う。

 しおれそうになる花を愛おしくみるように、アルゲラは目を細めると、カンファイを向いて、

「魔手どの、いまならわしにも人の基板とやらがみえるようだ」

 といった。そして卿に笑いかけた。

「卿が彼女をはなさない理由が、いまわかったわ」

 卿は、自分がいまどういう顔をアルゲラに向けているか、わからなかった。アルゲラと差し向かっているのは自分の心象だけで、卿の身体の表面的な部分を感じる能力が消え失せてしまったようだった。

 恐らくイリシアも、同じ感情だろう。

 感情の行き来にイリシアは普通の人間よりもずっと多い熱量をともなう。そのことを知っている卿は、彼女の胸裡をはしる鼓動の方向を断定した。

 程度はもちろんあるが、卿は、人がある可能性を得るまでには、一定の時間が必要だと考えていた。

 彼らが思考の一部を放棄してしまうことを卿は非常に残念だと思っていたが、切り捨てなければ全うできる人生がないのならば、あるいは仕方のないことなのかもしれない。

「魔手どの。気休めに聞くが、人の寿命を制御することはできないのか」

 カンファイはゆるやかに首をふった。

「基板からは、命の尺度を知る情報は得られません。知ることができないことに対して、魔手は無力です」

 お力になれず申し訳ない、カンファイが頭を下げると、アルゲラは吹き出した。

「なに、気休めに過ぎん」

 卿は、自分が馬の背にまたがっていることをようやく皮膚で感じはじめた。

 心象の風景をただよっている間に、アルゲラの脳裏をのぞき込んだ気がした卿は、すべて消え去ってしまえばそれでもいい、と先ほど彼がいったことばに嘘などないのだ、と思いいたった。

 自分の命が短いのなら、生きている間に何かを成すことよりも、最期の時を十二分に飾りたいと感じてもおかしくはない。しかしその考えに基づいて、人生の大半が、ただ戦に費やされることを考えると、卿はあまりに哀しくなった。

「シェドに急ごう。彼らはほんとうに塵になってしまう」

「その気になったか、卿」

 アルゲラは大いにはにかんだ。

 その微笑みに、卿はつよく笑い返した。

「皆よく聞いてくれ」

 こんなことになるなんて郷里を出るときには思いもしなかったな、卿は思った。

 明るい夢想だけが先立って、自分が戦場を踏むなど考えもしなかった。

 まして。

 誰かに担ぎ上げられようなどとは思わなかった。

 お前は、次代の王になるといわれただけで。

 そう考えれば、王になるのが実に自然だと信じていたあの頃の私は、ひたすらに愚かだっただろうか。

「私は皆の命を守りたい」

 王になる。

 もしかしたら、あの占い師の老婆は。

 いまの私の状況を見透かしていたのかもしれない。

「それ以上に、ひとつの生き方が人知れず均されていくのは、見るに堪えない。私は、人が営みを維持するためには、お互いの価値感の間にある程度の傾斜が必要だと思う。傾きがなければ物事は動かないからだ。そう考えると、シェドの生き方、シルウィアの生き方、どちらかが欠けてもならず、それらがもしすべて平らになってただシルウィアのみがこの地上に残ったとしたら、もはや何も生まれないのではないかとさえ思っている。一つの集落が消えることが忍びないのではなく、我々が生きる意味を護るためにも、私はシェドを失いたくない」

 おのれの保身だけを考えるだけの愚かな隊長に。

 卿はことばをつないだ。

「皆はついて来てくれるだろうか」

 若い部下たちは、なにもいわず、ただ背筋を伸ばした。

 卿はその姿をみて、目で笑い、アルゲラに向き直った。

「よろしく、卿」

 アルゲラのことばに、卿は真摯に頷いた。

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