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森の大半が、恐るべき短い時間の中で、消失した。法王騎士団の魔手は総勢で三十五人おり、それぞれが役割を分担し、類焼を程度よくおしすすめた。
あまりのあっけなさに、兵達の間には空虚ささえただよっている。
ベルトレとトーリは馬上にいて、共に並びながら、熱と灰になって散逸していく木々をただ眺めていたのだが、無論意識は広角にひろがっている。
「将軍」
「見られているな」
「ええ」
「どこだ」
「わかりません。ですが、おそらく、我々を眼下に見ることのできる場所でしょう」
「佐将殿ならば、どうする」
「森がわたしの眼前に拡がっているのであれば、追わせます」
「同感だな。だが、敵兵力全体が一カ所にまとまっている可能性はないか」
「さて、どうでしょうか」
「まあよい。どのみち、シェドに向かうしかない街道である。後ろに下がることはなかろう」
シェドは法国に併呑された中でも新しい部類に入る。法国の首都からは距離的にはかなり近かったのだが、合間におおいかぶさるような高い山嶺と深い森があったので侵攻に随分と時間がかかった。ようやく開通したこの小さな街道以外には幹線はない。シェドはまさに陸の孤島と呼ばれてさしつかえない土地で、久しくその存在が知られていなかった場所でもあった。
それがいまや、手をのばせば届くような距離に近づきつつある。ベルトレには、そんな実感があった。
「正直な気持ちを申し上げてもよろしいですか」
トーリはベルトレを見てうなずいた。
「これほど、とは思いませんでした」
「魔手か」
「ええ。わたしは確かに、少し前まで本当に森の前にいたはずなのですが、その記憶でさえもが嘘に思えるほどに」
「おぬしのような生粋の法国人がそのようにいってくれるのは、ありがたい。彼らもむくわれよう」
「そうですか」
ベルトレの声に多少湿り気がある。
己の不明をはじる、というより、人の無力さに対するなげきのようなものが、戦場で数多くの死線をこえてきた彼の自負を打ち砕いた。魔手が作り上げたどうしようもない力の波がベルトレの芯の部分にも干渉して、よぶんなものを削ぎ落としてしまったのだった。
ベルトレは持ち前の大声のせいで随分と大雑把な人間であると思われがちだが、もともとは思慮の深い人間で、ただ、自分ではそれに気づいていない。トーリは、寡黙になった副官の中で、そういった隠れていた部分が表だったベルトレの上面の領域にまで現れようとしているのではないかと推察していた。
「さて、もう馬も通れよう。魔手を退かし、そろそろ出るとしようじゃないか。我々の出番だ」
焦土の上には炭化した木など一切倒れていなかった。魔手は、木々の全てを灰にする努力を怠らずその辺りの性質の変化にまで気をめぐらせていたので、馬が嫌がる環境はどこにもない。つまり行軍に邪魔なものはない。しいていえば、まだ白煙が充満していて、視界を遮っていることがわずかに気がかりとして残っている。だが、それは相手も同じだろう。相手が遠距離にいるかぎり、ベルトレたちの影は隠れる。
魔手たちは、さらに遠方の森林にまで基板の改変の手を伸ばしていた。煙幕の向こうに橙色の陰影として揺らめいている彼らが指揮官らの目にうつる。
「法国は誇りに思わねばなるまい」
「魔手ですか」
「そうだとは思わぬか。これほどの力を有していながら、虫けらのように扱われ、不随のからだのまま、魔手という尊厳だけをまもっている。彼らは法国に牙をけして向けたことがない」
「たしかにそうです」
「おぬしのような人間がふえればよいが」
ベルトレはトーリのわずか後方を進みながら、溶け去った森を眺めた。あの構造物はもう見えなかった。
「我が目をうたがうことをしないなら、理解は深まるでしょうが、逆に迫害されるかもしれません」
「魔手に同情するのか」
「恐ろしいとどこかで何かが警鐘をならしているような気もします」
「人とはむなしいものだな」
ベルトレは何もいわずに、トーリを見た。
「何かのいのちを奪い、生かされることの自覚がなくなれば、同じ生き物を蔑視するようになる。そう考えると、人が生きている理由などないのかもしれぬ」
「それは、お考えが過ぎるのでは」
「そうかな。我々人だけがみとれる名画や音楽にどれだけの価値がある。人でなければわからないものを愛するしか能がない生き物に、なんの未来があろうか」
「将軍は人がお嫌いなのですか」
「数十年この世界にいれば、好きにも嫌いにもなる。ただ、わしのなかでは影の方が色濃いのは確かだ」
「魔手も人です。将軍は魔手を大事にしている」
「変わったな佐将殿。貴公らにとって、魔手は獣も同じだっただろう。法国は獣を飼い慣らしていると思っている。わしは、魔手たちを、だから、憎めないのかもしれぬ」
「将軍」
「なにかね」
「黙っていましたが、我々が追っている人間も魔手から依拠されています」
「魔手が身内にいる時点でそうであると思っていた」
「次代の法王になるはずの男でもあります」
「ほう」
「もっとも、アンリ様に見出されただけですが」
「法国のやり方に準拠している。なにも問題はない。どうした、急に」
「将軍、あなたは魔手を用いて功績をのこし、一方は同じようにふるまいながら、こうして追われている。私はその差を探しあぐねているのです」
「こたえようのない問いだ」
「私がこれから誰かを指導するときに必要になることです。どうかご教授を賜りたい」「わしは中央から離れ続けてきた。ただそれだけであろうよ」
「そうでしょうか」
トーリは問答から避けるように、馬の歩みを早めた。
ベルトレは、森が燃える光の壁の中にまるで吸い込まれていく老将の背中を眺めて一つ小さな息を吐いた。
魔手の圧巻の様は、法国に身を置くものにとってはいまでも認めたくない。だが、彼らに力を出させているのはまぎれもなくトーリの手腕であるのだから、魔手を用いるかどうかはこれまでのこだわりが胸裡にのこるベルトレには、いま、選択することはむずかしかったが、こころを掌握し続けるトーリの手法を研究したいと思うのだった。
おのれで考えろ、といわれたのかもしれない。
ベルトレはそう捉えることにして、馬の腹を蹴った。
が、馬は進まなかった。
「どうした」
ベルトレが何の気なしにかけたことばは、佐将の後ろにつづく、法王騎士団の人間の中にいぶかしさとともに魔法のように伝播していった。トーリの馬もとまった。
顔をあげて遠方を見遣る。
ベルトレはそのときに魔手のからだが直方体の黒い板に飲み込まれてしまう錯覚をみた。
「ああ」
ベルトレが声をあげた。
「なんだ」
離れているトーリの声が鮮明に聞こえた。
「魔手たちが」
「む」
ベルトレたちの視界に一本の木が現れた。
何の前触れもなく。
突然に。
最初それが、木であるかどうかがあやしかったのだが、幹を太くし、枝葉を伸ばそうとしているのは、確かに樹木だった。
悲鳴が上がった。
魔手たちの叫び。
ベルトレの思考はとたんに遠景に去った。
幹は一人の魔手の内側から生えた。
当然にして、人間の皮膚はぼろぼろに引き裂かれて、やがて地に根を張る大樹に呑み込まれた。
周囲が一瞬静かになり、そして騒然となった。
だが、騎士達や兵卒は、いったい何が目の前で起こっているのか理解できない。
その間にも次々に魔手のからだから幹が生まれ、喉を突き破って天に伸び、足を縫いつけるように大地に根ざした。根は異様な速度で、逃げまどう魔手の足を絡め取って、転んだ魔手の背や腹を突き抜き、同じように大樹を育成した。
やがて。
総勢が三十五名を数えた、法王騎士団の魔手たちは、残らず、三十五本の樹木になった。
魔手たちの血が焦土の熱を奪い、燻った炎から力をもらって蒸気を発した。
何もかもがあまりに誰の理解にも及ばなかった。
生まれ出た大樹だけが夏の夜に不気味に立っている。
ベルトレは、これはタチの悪い夢だ、と思った。
「な、なんだ。いったい何が起こった」
自分の叫び声が、まるで遠い。
そう、だからやはり、夢だ。
厭戦気分が隊に拡がってくると、よくベルトレの上官は自軍が壊滅的な打撃を受ける夢や、考えも寄らない事象にでくわす夢を見たといっていた。彼らはそのたびに自分を戒めて、隊に緊張を保った。つまりベルトレはいま、歴戦の良将のように、思っていた以上に敵を侮っていたので夢の中で反省をうながされている、そう思った。
ようやく俺もその領域に足を踏み入れたのだ。
そうでなければ。
ならない。
ベルトレの呼びかけに答えるものは誰一人いない。
兵たちの身に異変がなかったことから、より事態は暗澹とした。
現状を把握できたのは、もしかしたら、魔手たちだけであって。
つまり誰にも、何もわからない。
周囲の闇が、いっそうの濃さになった。木々が、炎の及ぼす光を遮ったからで、それほど恐ろしい高さに屹立している。樹木はこの辺りによくみられる常緑樹で、青黒い葉が夜に蠢いて、背後にある光が、葉の間を通り抜けてわずかに見えた。明暗が色彩を歪ませて、光景は耽美的な印象を匂わせた。
聖者でも出てきそうだ。
ベルトレは思った。
しかし、荘厳ささえある景色の中で、魔手たちの息の根はおそらくとだえた。
将軍、という言葉を、ベルトレは何度も懐にしまった。
その行為に意味を見いだせなかった。
ベルトレは馬の腹を蹴る。
無意識のうちに。
ゆるり、とあたたかい風がベルトレの頬を撫でた。
彼らは今度はとまらなかった。
血の。
鉄の。
匂いがした。
ベルトレの他には誰も前に出ない。彼を止めるものもいなかった。
百戦を錬磨してきたはずのトーリさえも、ベルトレには一声もかけなかった。
危ういかどうかの判別が。
誰にもつけられない。
思うに。
危険と。
そうでない場合の差とはなんだろう。
そんなことをベルトレは考えた。
なぜ、そんなことを考えた、という疑問が同時に胸裡に起こった。
なぜか。
俺は自身にはっきりと、こう答えることができる。
つまり、そのような疑問を持つことが、そもそも夢でないことのあかしなのだ。
自分はいま、普段よりも多くの段階を踏んで、現実を直視しようとしている。
だから、自問することで夢かうつつの境を明確にしようとした。そこから導き出された結論は、いうまでもないことなのかもしれないが、当然にして夢ではないのだった。
夢ではないとすれば、いま俺は何をしている。
深い恐怖がわき起こって、足を痺れさせた。
それでも、馬は進む。
木が頭上に見えた。
枝葉の先に、魔手たちの服がひっかかっていた。ベルトレは幼少の時期に大きな水害に遭った。その時、同じような光景を見たことがある。
幹に目を遣る。
「ああ」
人とは何か、俺は問われているのか。
シルウィアの人間は、完全でないことを嫌う傾向にある。人でいえば、四肢があり、頭部が明確で、流暢に話し、人間関係が円滑であることを好む。心身に障害があり、吃音が混じったり、誰かの手助け無しで生きられない人間を避け、また、異端の思想に難色を示した。だから、ベルトレも心のどこかで、魔手を嫌った。
ベルトレが見たものはなんだろう。
顔が。
幹に浮かび上がっている。
眼窩のくぼみや、鼻梁はとにかく明らかで。
はては髪や髭といった細かい線までが、大木の幹にある。
立ち並んだほかの木々も、みな同じだった。
だが。
表情が違う。
断末魔の表情なのか、ひどく引きつった表情を浮かべたものや、瞑想の最中のような
安らかな表情もある。
それらは全て、人間の表情。
だが、これはいったいなんだ。
ベルトレは思わず、一本の木に手を伸ばした。
その木に浮かんだ顔は、はだあいに年こそ重ねているが、こころの底から誰かのために歌を唄い上げる時のように、強い指向性と愛する人がいるという深い安堵とがないまぜになっていて、一際目を引いた。
顔に。
触れてみたかった。
ベルトレは手を伸ばす。
木だった。
何の疑いもなく。
樹木の膚だった。
ざらざらとした感触が、もしかしたら、というベルトレの希望を無惨に跳ね返した。
けして、人ではない。
「彼とは」
ベルトレが振り向くと、いつの間にかトーリが近づいていた。名将と呼ばれた老人の挙措は、からだから染み出てくるように自然で、おそらく、これまで誰にも感情など感じさせなかったに違いない。
「わしの故郷の貧民窟で出会った。両親はシルウィアの侵攻に抵抗して殺されて、身寄りもなかったが、法国への怒りの中で独学によって魔手の技術を手に入れていた」
「将軍が引き取られたのですか」
ベルトレには怒りも悲しみもない。思いめぐらせてみれば、恐れさえどこかへと消えている。淡々とした口調を維持できる自分という存在に彼は疑問を持ったが、行動には支障がなかった。
「最初の一人なのだ。こいつに出会わなければ、魔手という存在を知らずに、わしはただ敗軍の将として処刑されていたかもしれん」
「そうでしたか」
「佐将殿。こいつは死んだのか」
「さて、どうなのでしょう。少なくとも、もう人ではないのでしょうが」
「人でないことは、死んでいることと同義か」
「私には、そうです」
二人は一度も視線を交わさずに話し合ったが、向けられた視線の先には同じように老いた男の顔があった。ベルトレは今になって思い出したが、あたかも樹木の一部になった彼は、ベルトレの脇を通り過ぎるとき睨み去った男の一人であった。
「不思議なことだが、わしには怒りも、おもだった悲しみもない」
「私もです」
「おぬしはこいつを知らぬ。身近にいない者の死が心を揺るがすような人間など、あまたの中に塵ほどもおるまい」
「では、将軍はなぜ」
「わからぬ。わからぬが」
トーリはベルトレがやったのと同じように、樹皮に手を伸ばした。
「あるいは、そのままでよいのかもしれぬ」
風が吹いた。
先程までの湿気を多く含む嫌な風ではなく、初夏を思わせる豊かな情緒に満ちた風である。みやびに木々を揺らし、新緑の葉振りを整え、香りを運ぶ風気だった。
風は根から幹を伝って、トーリやベルトレの頭上も駆け抜けた。
彼らがもし。
戦いを好んでいなかったとしたら、どうだろう。
こうやって木々として生きることをたやすく受け入れただろうか。
人ではない、ということを望んだだろうか。
この風を受ける喜びを知ることは、二人にはできない。からだを揺らす風が喜色を生んで彼らを慰めるならば、幸か不幸かはすでに単に人であるだけの者が考える尺度からははずれてしまうだろう。
さらばです、という言葉を、トーリは聞いたかもしれない。
「佐将殿」
「はい」
「こんな仕業ができる人間はそう多くはない」
そういってトーリは幽愁さをとりはらって、ぐるりと周囲を見渡した。
「相手の魔手でしょうか」
「何人だ、向こうの魔手は」
「三人と聞いております」
「それは無理だ。いくら手練れであろうともあれだけ短い時間で、複雑な基板の改変は行われない。特に人は変わりにくく、もはやはなれわざに近い」
首を横にふったトーリに、ベルトレはふと先程の光景を思い出した。
「黒い板のようなものを見たのです」
「なに」
「将軍の隊の魔手たちは黒い板に飲み込まれたように見えました。錯覚であると思ったのですが」
「黒い板か」
トーリはあごをなでて、少しの間、押し黙った。
「こころあたりがありますか」
「いや、うむ」
ベルトレが長靴の音を耳にして後ろを振り返ると、トーリの命令を待たず、法王騎士団の兵士たちは隊伍をただし、指揮官たちを取り囲んでいた。
彼らの行動にベルトレは無言の賞賛を送った。事の起こりも出来事も、理解することをせずただ受け入れられる人間は無二の強さを持つと思う。少なくとも兵達に求められる資質のうち、高い割合を占めたいのはこの部分だ。
ベルトレは兵達への賛辞と同時に、トーリという人間の偉大さを感じた。
足もとにもおよばない。
彼は、将軍トーリにはじめて素直な敬意をもった。
隊を任された者は、ただ兵を率いるだけである。失われた命をかえりみることは、なかなかできるものではない。もうきっと、数えることもわすれるほどの戦塵にまみれた将軍の武歴を、ベルトレははだで、主従との呼吸で、感じた。
「まあ、よい。いずれ、でくわすであろうよ」
トーリは笑った。
「我々も樹木にされるかもしれません」
「どうかな。魔手は基板の世界の干渉を受けやすい。自分の施術で己を傷つけたというはなしもある。それよりも佐将殿。シェドはすぐか」
「はい」
「そうか。すくない観測で悩むのは無駄だ。シェドに向かおう」
「は」
ゆるゆるとトーリの馬が動き始めると、全員が従った。
「佐将殿は基板が見えるといったな」
「え。ええ」
「魔手たちがいなくなった。そなたに期待している」
「そんな。期待されても困ります」
ベルトレは萎縮して小声になると、とうとうトーリは哄笑した。
「ははは。持ち前の大声はどうした」
老将はそれから、ベルトレの前に出た。
「わしを冷血だと思うか」
「は。あ、いえ」
「正直なところをいえ」
「私は特になにも」
「こころない獣と同じだと思わなかったか」
「こころはこの世のすべてのものにあるとおっしゃったのは将軍です」
「感情だけが、こころの動きのすべてではないのだ」
ベルトレがトーリの発言の真意を探ろうとして並びかけようとすると、トーリは馬でわずかに進路をさえぎった。
佐将は首をかしげる。
巨木が風にゆさぶられ、葉を鳴らした。
木々とおなじように、からだをわずかな振動にさらされたベルトレは、トーリの背もゆれている気がした。
まさか、と何かに思いいたった。
首をふって否定したベルトレは、しかし、馬の速度は持続させたままにした。
魔手たちだった巨木の間を進むとき、ベルトレがふと幹に目を遣ると、もうそこに人の痕跡はなかった。




