6日目~1
「――……ットー……」
「――…オットー……」
「オットー様……!!」
目を覚ますと、そこには僕の顔を覗き込むヨハンネスがいた。
「ここは……?」
「馬車の中です」
ヨハンネスの言葉どおり、僕はなぜか馬車の座席に横たえられていた。
湖に飛び込んだ記憶はあるのだが、身体はすっかり乾いている。
「でも……どうしてヨハンネスさんが……まだ五日目ですよね?」
僕の質問に、ヨハンネスは目を丸くした。
「違います。本日は六日目――私は、オットー様を迎えに来たのです」
彼の話によると、迎えに来たヨハンネスは僕の姿がどこにも見当たらなかったため、湖まで探しに来てくれたらしい。
つまり僕は、丸一日も眠っていたことになる。
「湖の畔で倒れていたオットー様を見つけ、触れてみたら氷のように冷たくて……もう駄目かと思いました」
おもむろに指先を動かすと、かじかんだように震えた。
身体にはテントにあったはずの毛布が掛けられていて、ヨハンネスが懸命に温めてくれたのだと分かる。
「ご、ごめんなさい」
心配そうな顔をしている彼に、僕は思わず謝った。
「謝る必要はありません。私の方こそ……貴方には多大なご迷惑をお掛けしてしまいました」
「それはどういう意味――」
そう尋ねかけた瞬間、僕はある“重要なこと”を思い出した。
「ヨハンネスさん……今すぐテントに行って、スケッチブックと鉛筆を持って来てくれませんか?」
それは依頼の内容――エーデルヴァイス夫人の笑顔。
脳裏に蘇る、最後に見た彼女の微笑みだった。
……これは夢じゃない。
いや、たとえ夢だったとしても、今思い出せるうちに――この記憶が霞んでしまう前に。
僕は、彼女を描きたい。描き残したい。
「スケッチブック……ですか?」
「はい。急いでお願いします」
ヨハンネスは言われるまま、急いでそれらを持って来てくれた。
僕は震える指に無理やり鉛筆を握ると、まるで憑かれたように、真っ白な紙へ線を走らせ始めた。
――そして僕は、笑顔のエーデルヴァイス夫人を描き上げた。
「……これが、エーデルヴァイス夫人ですか」
終始静観していたヨハンネスは、僕が描き終えたのと同時にスケッチブックを覗き込む。
そこにいたのは、屋敷で見た哀しげにすました女性ではない。
少女のような愛らしい微笑みを浮かべた、あのアネット・エーデルヴァイス夫人だった。
「えっと……信じてもらえるか分かりませんけど、これが僕のたどり着いた夫人の笑顔です」
描き上げた満足から一転、出来栄えへの不安が込み上げ、僕は眉尻を下げたままヨハンネスを見る。
「信じます。本当に……ありがとうございました」
震える声でそう言った直後、ヨハンネスの目から涙がぽろりと零れた。
「え、え? ど、どうしたんですか?」
彼がなぜ泣き出したのか分からず、僕は驚きと困惑で慌てる。
「すみません。念願が……想いが……ようやく叶ったので……」
そう言いながらヨハンネスは眼鏡を外し、目元を拭った。
「念願? エーデルヴァイス夫人の笑顔のことですか?」
「はい……こうして無事帰還されたオットー様には、すべてを知る権利がございます。お話ししましょう――事の真相を」
――なぜ、エーデルヴァイス夫人の笑顔が欲しかったのか。
事の発端にして、謎に包まれていた依頼の事情を、ヨハンネスは語り始めた。
「私の母は、エーデルヴァイス夫人に仕えていた元侍女で、若い頃、あの屋敷で働いていたことがありました」
馬車の外から、ざわざわと木々の揺れる音が聞こえてくる。
あれほど濃かった霧も今日はなく、車窓からは久方ぶりの日差しが射し込んでいた。
「母はもともと霊感体質だったそうで……それがきっかけで、屋敷に住まう少女の幽霊と、夫人との関係を知ったそうです」
訳あってヨハンネスの母は屋敷を出ていくことになったが、その後も幽霊に取り憑かれた夫人のことが、ずっと気掛かりだった。
だが、幽霊の呪いのせいで、彼女は屋敷へ赴くことができなかったのだという。
「……お恥ずかしい話、私は母の霊感を信じておらず、むしろ嘘つきだと嫌悪していました。ですがそんな母が、病死する数日前、突然初めて私にその話を語ったのです」
彼の母は、自分の想いを託すかのように、事細かに事情を語った。
そして――『夫人の笑顔がどうしても見たかった』と切なる願いを最期に告げ、息を引き取ったのだという。
「母の遺言には疑念しかありませんでした。ですが、このままでは寝覚めも悪い。ならばせめて供養になればと、私は単身、夫人の屋敷へ向かいました」
しかし驚いたことに、ヨハンネスは母と同様、屋敷に近付くことすらできなかった。
玄関に立った途端、激しい目眩に襲われ、足は鉛のように重くなり、まったく動かなくなる。
それでも無理に進もうとドアノブを掴んだ瞬間、視界がぐるりと回転し――彼はそのまま意識を失った。
そして気付けば、森の外で倒れていたらしい。
どこからか『クスクス』という笑い声だけが、耳に残っていたのだそうだ。
「そっか。だから『あの扉に近付くことすら許されない』って言ってたんですね」
「はい。その通りです」
一日目の彼の言葉を思い返しながら僕が言うと、ヨハンネスは静かに眼鏡を押し上げた。
「母の話は……想いは本当だった。その後悔によって火が付いたと言いますか。どうにかして、笑顔の夫人を見つけ出したくなったのです」
ヨハンネスは、夫人と屋敷について何か手掛かりはないかと、あらゆる場所を調べ回ったという。
元従者たちのもとを訪ね、わざわざ夫人の話を聞き集めたと聞いて、僕は驚いた。
「ですが、似顔絵どころか、彼女の顔を覚えている者は誰もいなかった……困り果てた私は、思いきって旦那様に相談したのです」
「テレーザのお父さんに?」
テレーザの父は、商人らしい思惑もあってか、ヨハンネスの相談を快く受け入れた。
彼は調査隊や絵描き、更には霊媒師まで屋敷に送り込んだ。
だが残念なことに、大半はアンによって門前払いとなり、運よく侵入できた者もいたが、二度と屋敷から出てくることはなかったという。
「これはさすがに無謀な願いだったのだ――そう失望していたところ、テレーザ様が仰ったのです」
誰よりも温かい絵を描けるオットーなら、きっと笑顔を描いて来られる。
彼女はそう、断言したという。
「それで僕が屋敷に……」
「はい。ですが旦那様から、悪霊のことは決して言うなと堅く命じられておりました。そのためテレーザ様は屋敷の本当の恐ろしさを理解しておらず……結果として、オットー様を騙す形になってしまいました。申し訳ございません」
ヨハンネスは深く腰を折って謝罪した。
「あ、謝らないでくださいよ!」
僕は慌てて手と頭を左右に振る。
「確かに、かなり怖い目には遭いましたけど……でもこうして無事戻って来られたし、夫人の笑顔も描けました。それに――」
そう言って、僕はおもむろにスケッチブックへ視線を落とした。
ーーエーデルヴァイス夫人は笑わない。
そう揶揄された冷血女には、笑えなくなる深い事情があった。
孤独を救ってくれた少女の霊に呪われ、誰にも言えぬまま命を落とし……。
そして、幽霊となって屋敷を彷徨い続けた。
彼女たちを救えたのは、本当にただの偶然だった。
同じことは、二度と起こらないだろう。
……それでも。
僕は彼女たちを救えた。笑顔に出来た。
そんな奇跡が起きただけで、僕は十分満足だ。
「――それに、笑顔が素敵な友だちと出会えたんで」
「友だち、ですか……?」
ヨハンネスは怪訝そうな顔で僕を見つめていたが、構わず僕は満面の笑みで頷いた。
本当に、恐ろしいほど奇妙で不思議な体験だった。
今でも夢だったのではと疑ってしまう。
だが、違う。
僕が描き残した二枚の肖像画が――あれは紛れもなく、素敵な出会いだったのだと教えてくれているのだから。




