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5日目~3




『――アネット……アネット・エーデルヴァイス!!』


 心の中で叫んだ僕の声は、アンに届いたようだった。



おにいちゃん……その、なまえは……わたしのじゃない、よ……?

 


 冷たい水とは別の何か――白い影が、僕の身体を苦しめるかのように締めつけていく。

 手足は硬直し、もがくことが出来なくなる。


 だがそれでも僕は、締めつけるその白い影へ優しく言葉をかけた。


『アネット……僕を呼んでいたのは、ずっと一緒にいてくれたのは、アネットなんだよね……?』

 


ちがうよ。わたしはアネットじゃないよ……


アンなの!


アンナなんだよ!!



 彼女の怒声とともに、白い影は更に強く、僕の腹部を、肺を、喉を、潰す勢いで締めつける。

 アンナの苦しみが、そのまま僕を襲った。


『君のこと、気づかなくて、ごめんね……アネッ、ト……』


 メキメキと、骨の軋む音が体内から響く。

 このままでは、溺れる前に絞殺されてしまう。


 意識が遠のいていく最中、僕はおもむろに唇を震わせた。



哀しいけれど 花は咲く

明日もきっと 花は咲く


大雨だって 花は咲いている

嵐だって 花は咲いている


明日散るとしても 花は哀しまない

花であるために いつも笑顔で咲くんだよ



 僕はあの歌を歌った。

 アンが恥ずかしがりながらも歌ってくれた、あの歌だ。


 歌うと言っても唇はほとんど動いていないし、そもそも水中では歌など聞こえない。

 それでも僕は、彼女に届けと願うように歌った。


 ――すると、その直後。


 僕を拘束していた白い影が、ゆっくりと身体から離れていった。

 それまで感じていた溺れるような苦しみも、不思議と薄れていく。


 輝く泡に包まれた白い影は、やがてアネットの姿へと変わっていった。


 

「――ごめんなさい……わたしがアンナに負けていたせいで、オットーを苦しめてしまったわ……」



 昨日まで見ていた、どこにでもいるような幼い少女の姿が、目の前に現れる。

 青い大きな双眸、新雪のように白い肌。先ほどまでの恐怖は、もうない。


「じゃあやっぱり、僕と屋敷で一緒にいたアンは……アネット、君なんだね?」


 アネットはまるで罪を認める子どものように小さく頷いた。


「ええ……」


 無数のシャボン玉のような気泡に紛れて、アネットの気持ちが、記憶が、僕の中へと流れ込んでくる。


 アネット・エーデルヴァイス夫人と、アンナの出会い。

 そして夫人が命を落とすまでの瞬間が――。




 アネットの死後。

 彼女と離れたくなかったアンナは、その魂を乗っ取った。

 外見もよく似ていた二人は、まるで決して交わらない絵の具のように、ひとつの身体に宿る幽霊となった。

 アネットが表に出ればアンナは話せず、逆にアンナが表に出たときは、アネットは何も出来ない幽体となってしまう。


「こんな状態になってしまったけれど、わたしはアンナを救いたかった……だから魂を鎮めようと、何度も湖へ向かおうとしたの。でも……どうしても近付けなかった」


 アンナと一身になった身体は、どうしても湖を拒んでしまう。

 自分(アネット)の力だけでは、自分(アンナ)を救えない。

 その現実に突き落とされたアネットは、長い年月をアンナと共に彷徨い続けた。


 ――その矢先、偶然にも屋敷へやって来たのが、僕だった。


「これまでも何人か屋敷を訪れた人はいたけれど……わたしを真っ直ぐ見てくれたのは、オットーが初めてだった」


「そ、そうなの……?」


 正直に言うと、そのときのことはあまり覚えていない。

 気付けば何の違和感もなくアネットを受け入れていて、単に僕が魅了されやすい性格なだけのようにも思えた。


「そんなことないわ。それはつまり、貴方が優しいということでもあるのだから」


 アネットの掌が僕の頬に触れる。

 氷のように突き刺さる冷たさだったが、僕は静かに微笑んだ。


「貴方には怖い思いも迷惑もいっぱいかけてしまった……ごめんなさい。でもそのお蔭で、やっとアンは安らかに眠れる。本当にありがとう」


 僕がアンに魅入られた――アンに半分憑りつかれていたことで、彼女たちの魂はこうして湖へ入ることが出来た。

 そして、水底に眠り続けていたアンナと、一心同体となって彷徨い続けていたアネット。

 二人はようやく成仏出来るのだという。


「アン……アンナも、アネットも一緒に……?」

「ええ。アンナは先に眠ってしまったけれど、わたしも一緒に眠るから……独りぼっちにはならないわ」


「じゃあ二人とも、ちゃんと救われるんだね……本当に、良かった……」


 目頭が熱くなったが、水中であるせいか涙が零れることはなかった。

 

 僕の中に、アネットの記憶と共に、アンナの記憶も流れ込んでいた。

 だからアネットと同じくらい、アンナにも安らかな眠りについてほしかった。

 どちらかではなく、二人一緒に救われてほしかった。


 これは憑りつかれた呪いで魅了されていたせいじゃない。

 僕が、本当に心から思ったことだ。


「憑りつかれて怖い思いもしたけどさ、僕はアンと……アンナとアネットと、友だちになれて嬉しかったよ」


 僕がそう言うと、アネットはクスクスと無邪気な顔で笑った。

 自然に零れたその笑みに、恐怖は微塵も感じない。


「……友だちって――わたし、本当はこんなおばあちゃんなのに……?」


 そう言った直後。

 アネットは数多の泡に包まれ、その外見がみるみるうちに変わっていった。


 身長が伸びたかと思えば、顔や手には幾重もの皺が刻まれ、表情は少女から大人を通り越していく。

 白いワンピースは落ち着いた色合いのドレスへと変わり、ブロンズヘアには白髪が混じり始める。


 ――どう見ても、老婆と呼ばれる外見だった。

 僕の目の前には、あの似顔絵にあった六十歳のアネット・エーデルヴァイス夫人、その人が立っていた。


 突然の変貌に思わず息を呑んだが、すぐに首を振り、僕は言った。


「歳が離れていようと、幽霊だろうと……友だちに関係ないよ」


 そう言うと、アネットは嬉しそうに頷いた。


「本当に……オットーには感謝してもしきれないわ。ありがとう」


「いや、僕は特に何も出来てないし、ただ振り回されてただけな気もするけど……」


 照れ臭さからそんな返事をしてしまったが、少し間を置き、僕は笑った。


「——貴方を笑顔に出来たなら、それで満足だよ」


 僕の言葉にアネットは微笑み、それから静かに手を差し出した。


「そろそろ、お別れね」


 寂しそうな笑顔だった。

 よく見ると、アネットは再び白い影へ戻ろうとしている。

 暗い水底の中で、その身体は淡く光を放っていた。


 短い付き合いだった。

 それでも“お別れ”と聞くと、どうしようもない悲しみが込み上げてくる。

 僕も同じ顔で、彼女を見つめ返した。



「アネットの笑顔……絶対に忘れないよ」

「ええ、わたしもオットーのこと忘れないわ」



 僕はアネットと握手を交わす。

 彼女の手から、もう氷のような冷たさは感じられない。

 そこにあるのは、虚ろな白い気泡だけだった。



「さよならは言わないからね」

「それじゃあ……“おやすみなさい”でいいかしら?」


「そうだね。おやすみ、アネット」

「ええ……おやすみ、オットー」



 僕とアネットは、互いに笑顔のまま、静かに目を閉じた。




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