5日目~3
『――アネット……アネット・エーデルヴァイス!!』
心の中で叫んだ僕の声は、アンに届いたようだった。
おにいちゃん……その、なまえは……わたしのじゃない、よ……?
冷たい水とは別の何か――白い影が、僕の身体を苦しめるかのように締めつけていく。
手足は硬直し、もがくことが出来なくなる。
だがそれでも僕は、締めつけるその白い影へ優しく言葉をかけた。
『アネット……僕を呼んでいたのは、ずっと一緒にいてくれたのは、アネットなんだよね……?』
ちがうよ。わたしはアネットじゃないよ……
アンなの!
アンナなんだよ!!
彼女の怒声とともに、白い影は更に強く、僕の腹部を、肺を、喉を、潰す勢いで締めつける。
アンナの苦しみが、そのまま僕を襲った。
『君のこと、気づかなくて、ごめんね……アネッ、ト……』
メキメキと、骨の軋む音が体内から響く。
このままでは、溺れる前に絞殺されてしまう。
意識が遠のいていく最中、僕はおもむろに唇を震わせた。
◆
哀しいけれど 花は咲く
明日もきっと 花は咲く
大雨だって 花は咲いている
嵐だって 花は咲いている
明日散るとしても 花は哀しまない
花であるために いつも笑顔で咲くんだよ
◆
僕はあの歌を歌った。
アンが恥ずかしがりながらも歌ってくれた、あの歌だ。
歌うと言っても唇はほとんど動いていないし、そもそも水中では歌など聞こえない。
それでも僕は、彼女に届けと願うように歌った。
――すると、その直後。
僕を拘束していた白い影が、ゆっくりと身体から離れていった。
それまで感じていた溺れるような苦しみも、不思議と薄れていく。
輝く泡に包まれた白い影は、やがてアネットの姿へと変わっていった。
「――ごめんなさい……わたしがアンナに負けていたせいで、オットーを苦しめてしまったわ……」
昨日まで見ていた、どこにでもいるような幼い少女の姿が、目の前に現れる。
青い大きな双眸、新雪のように白い肌。先ほどまでの恐怖は、もうない。
「じゃあやっぱり、僕と屋敷で一緒にいたアンは……アネット、君なんだね?」
アネットはまるで罪を認める子どものように小さく頷いた。
「ええ……」
無数のシャボン玉のような気泡に紛れて、アネットの気持ちが、記憶が、僕の中へと流れ込んでくる。
アネット・エーデルヴァイス夫人と、アンナの出会い。
そして夫人が命を落とすまでの瞬間が――。
アネットの死後。
彼女と離れたくなかったアンナは、その魂を乗っ取った。
外見もよく似ていた二人は、まるで決して交わらない絵の具のように、ひとつの身体に宿る幽霊となった。
アネットが表に出ればアンナは話せず、逆にアンナが表に出たときは、アネットは何も出来ない幽体となってしまう。
「こんな状態になってしまったけれど、わたしはアンナを救いたかった……だから魂を鎮めようと、何度も湖へ向かおうとしたの。でも……どうしても近付けなかった」
アンナと一身になった身体は、どうしても湖を拒んでしまう。
自分の力だけでは、自分を救えない。
その現実に突き落とされたアネットは、長い年月をアンナと共に彷徨い続けた。
――その矢先、偶然にも屋敷へやって来たのが、僕だった。
「これまでも何人か屋敷を訪れた人はいたけれど……わたしを真っ直ぐ見てくれたのは、オットーが初めてだった」
「そ、そうなの……?」
正直に言うと、そのときのことはあまり覚えていない。
気付けば何の違和感もなくアネットを受け入れていて、単に僕が魅了されやすい性格なだけのようにも思えた。
「そんなことないわ。それはつまり、貴方が優しいということでもあるのだから」
アネットの掌が僕の頬に触れる。
氷のように突き刺さる冷たさだったが、僕は静かに微笑んだ。
「貴方には怖い思いも迷惑もいっぱいかけてしまった……ごめんなさい。でもそのお蔭で、やっとアンは安らかに眠れる。本当にありがとう」
僕がアンに魅入られた――アンに半分憑りつかれていたことで、彼女たちの魂はこうして湖へ入ることが出来た。
そして、水底に眠り続けていたアンナと、一心同体となって彷徨い続けていたアネット。
二人はようやく成仏出来るのだという。
「アン……アンナも、アネットも一緒に……?」
「ええ。アンナは先に眠ってしまったけれど、わたしも一緒に眠るから……独りぼっちにはならないわ」
「じゃあ二人とも、ちゃんと救われるんだね……本当に、良かった……」
目頭が熱くなったが、水中であるせいか涙が零れることはなかった。
僕の中に、アネットの記憶と共に、アンナの記憶も流れ込んでいた。
だからアネットと同じくらい、アンナにも安らかな眠りについてほしかった。
どちらかではなく、二人一緒に救われてほしかった。
これは憑りつかれた呪いで魅了されていたせいじゃない。
僕が、本当に心から思ったことだ。
「憑りつかれて怖い思いもしたけどさ、僕はアンと……アンナとアネットと、友だちになれて嬉しかったよ」
僕がそう言うと、アネットはクスクスと無邪気な顔で笑った。
自然に零れたその笑みに、恐怖は微塵も感じない。
「……友だちって――わたし、本当はこんなおばあちゃんなのに……?」
そう言った直後。
アネットは数多の泡に包まれ、その外見がみるみるうちに変わっていった。
身長が伸びたかと思えば、顔や手には幾重もの皺が刻まれ、表情は少女から大人を通り越していく。
白いワンピースは落ち着いた色合いのドレスへと変わり、ブロンズヘアには白髪が混じり始める。
――どう見ても、老婆と呼ばれる外見だった。
僕の目の前には、あの似顔絵にあった六十歳のアネット・エーデルヴァイス夫人、その人が立っていた。
突然の変貌に思わず息を呑んだが、すぐに首を振り、僕は言った。
「歳が離れていようと、幽霊だろうと……友だちに関係ないよ」
そう言うと、アネットは嬉しそうに頷いた。
「本当に……オットーには感謝してもしきれないわ。ありがとう」
「いや、僕は特に何も出来てないし、ただ振り回されてただけな気もするけど……」
照れ臭さからそんな返事をしてしまったが、少し間を置き、僕は笑った。
「——貴方を笑顔に出来たなら、それで満足だよ」
僕の言葉にアネットは微笑み、それから静かに手を差し出した。
「そろそろ、お別れね」
寂しそうな笑顔だった。
よく見ると、アネットは再び白い影へ戻ろうとしている。
暗い水底の中で、その身体は淡く光を放っていた。
短い付き合いだった。
それでも“お別れ”と聞くと、どうしようもない悲しみが込み上げてくる。
僕も同じ顔で、彼女を見つめ返した。
「アネットの笑顔……絶対に忘れないよ」
「ええ、わたしもオットーのこと忘れないわ」
僕はアネットと握手を交わす。
彼女の手から、もう氷のような冷たさは感じられない。
そこにあるのは、虚ろな白い気泡だけだった。
「さよならは言わないからね」
「それじゃあ……“おやすみなさい”でいいかしら?」
「そうだね。おやすみ、アネット」
「ええ……おやすみ、オットー」
僕とアネットは、互いに笑顔のまま、静かに目を閉じた。




