5日目~2
『――アンナ! 聞いてくれ、アンナ!』
心の中で叫んだ僕の声は、アンナに届いたようだった。
おにいちゃん……そのなまえで、よばないでっていったでしょ……?
冷たい水とは別の何かが――白い影が、僕の身体を苦しめるかのように締めつけていく。
手足は硬直し、もがくことが出来なくなる。
だがそれでも僕は、締めつけるその白い影へ優しく言葉をかけた。
『アンナ、もういいんだ。これ以上、苦しまなくていい……苦しまなくていいんだよ』
硬直がゆっくり解けていく。
僕は白い影をそっと撫でた。
影は氷のように冷たく、触れるだけで痛い。
『怖かったよね。辛かったよね……ごめんね。誰もアンナに気づいてあげられなくて、ごめんね』
すると白い影は、徐々にアンナの姿へと変わっていった。
「――わたしは……オットーおにいちゃんに、あやまってもらうようなこと、されてないよ?」
昨日まで見ていた、どこにでもいる幼い少女の姿が目の前に現れる。
青い大きな双眸、新雪のように白い肌に、先ほどまでの恐怖はもうない。
「いいんだ。僕が謝りたいだけだから……」
「わたしはね、オットーおにいちゃんとあそびたかっただけなの」
「うん、そうだね」
「でもちがうの……ほんとうはね、かまってほしかっただけなの……ほめてもらいたかっただけなの……パパとママと、あそびたかったの」
「うん……そうだよね」
「なのにいつも、じゃまだっておこられて、うるさいっていわれて、おしおきされてた……」
「痛かったよね。ごめんね」
「ううん、わたしがわるかったから、しかたないの……」
アンナの啜り泣く声が聞こえる。
僕は更に、彼女を優しく抱きしめた。
「だから、しんじゃったのも……わたしがわるいからだって、おもってた。でも……ずっとさびしかった」
「ひとりぼっちは嫌だったよね。ごめんね」
無数のシャボン玉のような気泡に紛れて、アンナの気持ちが、記憶が、僕の中へ流れ込んでくる。
両親に虐待され続けた、凄惨な日々。
言葉にすることすら躊躇われるほどの、苦しい毎日。
暴力による高熱に震えながらも、必死に辿り着いた厨房。
そこで見つけた、たった一つの焼き菓子。
それを摘んだだけなのに――。
父に殴られた身体は宙を跳ね、母は害虫を見るような目で踏みつけた。
焼かれるような全身の苦しみに耐えながら。
小さな首を締めつけられながら。
彼女は最期まで、心の中で謝り続けて――息絶えた。
この湖よりも遥かに冷たく突き刺さる痛みが、悲しくなるほど伝わってくる。
「だからわたしね……オットーおにいちゃんには、どうしてもいなくなってほしくなかったの……」
……ああ、僕は完全に魅入られてしまった。
彼女の悲しい顔を見てしまえば。
縋るような声を聞いてしまえば。
助けずにはいられない。
もう、すべてがどうでもよくなっていた。
「わかったよ……僕が一緒に、いてあげるよ」
「……ほんとう?」
「うん」
「ずっとずっと?」
「ずっとずっと」
アンナと一緒にいてあげる――つまり、アンナの眠る湖に僕を捧げることが、おそらく彼女を救う方法なのだろう。
仮にこの方法が間違いだったとしても、僕に後悔はない。
……なにせ僕は、もう。
アンナのためなら、どうなっても構わないのだから。
僕は静かに目を閉じた。
突き刺さるような冷たさが、やがて心地よさへと変わり、優しい眠りへ誘っていく。
アンナも目を閉じ、僕にしがみついた。
おにいちゃん、おやすみ。
うん、おやすみ。
――そうして僕の意識は、ゆっくりと暗闇の底へ沈んでいった。
◆
――翌日。
私はオットー様を迎えに行きましたが、そこに彼の姿はありませんでした。
後日、屋敷の中を警官たちがくまなく捜索しました。
……ですが結局、オットー様は行方不明のままでした。
それから暫くして、屋敷は取り壊されることが決まりました。
新たなホテルを建設し、湖を観光名所とする動きがあったのです。
湖を恐れ、建設を渋っていた反対派も、湖が至って普通の――美しい湖だと知るやいなや、良い噂ばかり広まっていきました。
今では、かの湖はすっかり人々の憩いの場です。
こうして湖に人が集まってくるようになったのも、全てはオットー様のお蔭なのでしょう。
湖と屋敷に憑りついていた哀れな少女の幽霊を、その身をもって救ってくれたことに、私は感謝してもしきれません。
……ですがオットー様、貴方は間違っています。
肝心なことを忘れています。
それは“誰も笑っていない”ということです。
依頼したエーデルヴァイス夫人の笑顔もない。
少女の幽霊も、そして貴方自身も――笑顔で最期を迎えられたのでしょうか?
テレーザ様は……草陰に捨てられていた貴方のデッサンを、今でも大事にしたまま、泣いています。
この結末では、いつまでも、誰も笑えないままなのです。
~ End5 水の底に眠る笑顔 ~




