5日目~1
ずっとずっと、僕は霧深い森の中を彷徨っていた。
木々の隙間からは肌寒い風が吹き続け、鬱蒼と茂る草叢が体力を削る。
それはまるで、底深い水の中を歩いているような感覚にも似ていた。
……一体どれだけ歩いたのだろうか。
一時間も掛からない距離にあったはずの湖に、なかなか辿り着くことが出来なかった。
時計は針が止まって役に立たず、目印もなければランプも落としてきた。
そんな状態のまま、ただ闇雲に歩き続けているのだから、当然と言えば当然の迷子ではあるが。
しかし、絶望的だった迷走に突然、光明が差した。
周囲が明るくなり始め、いつの間にか朝が来たことに気付く。
「湖だ……」
霧が徐々に晴れていくのとほぼ同時に、僕の目の前に、あの湖が姿を現した。
湖面は鏡のように森林を映し、その水上では淡く白い霧が悠々と舞う。
――二日目に見た、あの湖だった。
エーデルヴァイス夫人の日記によると、アンを助ける方法はこの湖にあると書かれていた。
この湖の底で眠るアンを供養してあげれば、アンは独りぼっちで屋敷を彷徨うこともなくなる。
だが困ったことに、僕は神官でも霊媒師でもない。
どう供養すればいいのか、その方法が分からなかった。
一般的には花や、その人が好きだったものを手向けるのだろうが……。
生憎、僕はアンが好きそうな物を持っていないし、周囲には都合よく花も咲いていない。
「どうしよう……」
彼女の物なら屋敷にある。
だが戻るにも、アンが待っていることを考えると足が竦む。
どうすればいいのか分からず、僕はしばらく立ち尽くすしかなかった。
すると、そのときだった。
湖が突如さざめき、僕を呼ぶかのように水面が渦巻いていく。
もっと、もっと、ちかづいて――
どこからともなく、アンの優しい声が聞こえた。
それは近くで囁かれているというよりも、僕の頭の中で響いているようだった。
「ア、アン……?」
いつの間にか追いかけてきたのか。
そんな驚きと不安に辺りを見回していた、次の瞬間。
――ドボンッ!!!
僕の身体は勝手に、自ら湖へと飛び込んでいた。
水上から見たときとは違う、冷たく暗い湖中に、僕はただ恐怖を抱いた。
想像以上に湖は深く、もがけばもがくほど服が水を含んで重くなり、水面が遠ざかっていく。
どちらが上か下かも分からなくなる。
(うぅ……いき、が……!!)
耐え切れず、塞いでいた口が開いてしまう。
僅かな泡が吐き出され、代わりに水が口や鼻へ入り込んでくる。
(苦し、い――……)
抗うことも虚しく、僕の身体が湖の底へと沈んでいく。
すると、またしてもアンの声が聞こえてきた。
オニイチャン……
ワタシノナマエヲ、ヨンデ……?
水中を乱れ舞う泡に紛れて、僕の指先に何かが触れた気がした。
辛うじて見えた水底――暗闇の向こうに、白い影が見えた。
……オネガイ、ハヤク
アンが僕を呼んでいる。
湖の深い、深い底で、助けを求めている。
どうして名前を呼べと言っているのかは分からない。
だが、それがアンを救うことに繋がるのかもしれないと願い、僕は彼女の――アンの本当の名を、心の中で叫んだ。
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・『アンナ!』―――5日目~2へと続きます。
・『アネット!』―――5日目~3へと続きます。
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