4日目〜6
悪霊となったアンを祓う――そんな強者めいた言葉は、僕には恐れ多くて口に出来ない。
だが、奇妙な出会いとはいえ“友だち”になれたアンを……あの笑顔を、救いたい。
こんな状況だというのに、僕はそんなことを思っていた。
僕は旦那様の部屋を探し始めた。
一見すると何もない、埃と塵にまみれた部屋だ。
それでも、隅々まで目を凝らして見る。
すると、壁に不自然な切れ目と窪みを見つけた。
どうやら隠し扉らしい。はめ込まれていた木板を外してみる。
現れた小さな収納の奥。
そこには、ぽつんとトランクケースが置かれていた。
夫人の部屋で見つけたものと同じ、頑丈そうな革製のものだ。
「手紙と……玩具?」
躊躇う暇もなく勢いよく開くと、中にはぬいぐるみや細工飾りの小物、そして紙切れが数枚入っていた。
真っ先に目に入った手紙を広げる。
誰かに宛てたものらしく、そこにはこう書かれていた。
◆
『このトランクケースを見つけた方へ
貴方がこれを開け、今この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのでしょう。
おそらくは、あの子……アンナの手によって。
私の最期は自業自得。後悔はありません。
ですが、アンナのことだけが心残りです。
あの子が悪霊と化してしまったのは、すべて弱い私のせい。
あの子の無邪気さを、底知れない孤独を――見誤ってしまったのです。
謝っても謝りきれません。
許して、アンナ。
アンナを救う方法は、たった一つ。
――この近くにある湖へ行くこと。
あの子はかつて、両親からの酷い虐待によって命を落としました。
両親はその事実を隠すため、人知れず湖にアンナを沈めたのです。
この話を、アンナは一度だけ私にしてくれました。
いまも冷たい湖の底で眠り続けているあの子を、どうか供養してあげてください。
そうすれば、魂はきっと救われます。
この事実を知りながら、私は実行出来ませんでした。
あの子とずっと一緒にいたい――そう願ってしまったからです。
そのせいで私は、あの子を苦しめ続けてしまった。
見つけてくれた貴方に頼むなど筋違いだと分かっています。
それでも、どうか。
どうか、あの子を救ってあげてください。
そうしてくれれば、私もきっと報われる。
彼女の呪いから解放されるのです。
――アネット・エーデルヴァイス』
◆
夫人の、アンナへの後悔が痛いほど伝わってくる手紙だった。
「夫人……冷血女なんかじゃ、なかったんだね……」
彼女の本心を詰め込んだまま隠されていたトランクケース。
中の品々はきっと、誰にも見せられなかった宝物なのだろう。
「……え……これって……」
その中に一つ、色鉛筆で描かれた絵があった。
まるで子どもが描いたような拙い似顔絵。
その絵は何度も握りしめられたように皺だらけで、夫人へ宛てたタイトルが記されていた。
『アネット 六十歳の誕生日おめでとう!』
そこには、お淑やかそうなおばあさんの絵が描かれていた。
先ほどの手紙の名前から察するに、晩年の夫人なのだろう。
僕は、ふと違和感を覚えた。
「そういえば……アネット・エーデルヴァイス――アネットの愛称も、“アン”だよな……」
思い返せば、夫人の肖像を見つけたときから、ずっと感じていた。
結い上げられたブロンズヘア。大きな青い瞳。整った顔立ち。
夫人は年老いてから亡くなったというが、その容姿には、なぜかアンの面影があった。
「まさか、そんな……」
アンの姿は、どう見ても十歳前後の少女だ。
ならば、あれはアンナという少女以外に考えられない。
……だが、本当にそうだろうか。
可能性がないとは言い切れない。
「アンはアンナなのか? それともアネットなのか……?」
彼女は一体、どちらなんだ。
「オットーおにいちゃーん……どこにかくれてるの……?」
突如聞こえた声に、僕は身体が跳ね上がるほど驚いた。
ここで考え込んでいる場合じゃない。
一刻も早く屋敷の外へ出なければ。
声の方向からすると、アンは一階の奥にいるらしい。
今なら――逃げられるかもしれない。
僕は静かに旦那様の部屋を出た。
やはり声は一階の奥から聞こえる。
さっきまで何も感じなかったはずのその声が、今は怖くてたまらない。
僕は足音を殺しながら通路を進み、螺旋階段を降りていく。
ギシギシと軋む音が、まるで死を呼ぶ声のように響く。
――そのときだった。
バキバキッ
踏み込んだ板が、突然音を立てて割れた。
「うわああっ!」
バランスを崩し、身体が階段を転げ落ちる。
気づけば僕は一階まで落ちていた。
弾みでランプを手放し、それは床を転がっていった。
全身が痛い。足が痛い。
だが、そんなことを言っている暇はない。
早くしないと――彼女が来る。
ランプを拾うことも忘れ、僕は無我夢中で玄関の扉に手をかけた。
「オットーおにいちゃん、みつけた」
どこからともなく、声がした。
「う、わぁっ!!」
驚きのあまり、悲鳴が漏れる。
「なんでにげるの……?」
声色が、急に寂しげなものへ変わった。
振り返ると、アンは悲しそうな顔で俯いていた。
思わず手を差し伸べたくなるような表情。
……だが、掴んではいけない。
そう誰かに囁かれた気がして、僕は手を止めた。
「アン……!!」
名前を呼んだ瞬間。
彼女は顔を上げ、嬉しそうに口元を吊り上げた。
「なあに……オットーおにいちゃん……?」
まだ僕の言葉を聞こうとしているのか、アンはぴたりと足を止める。
「お願い! ちょっとだけ待ってて!」
その隙に、僕は扉を開いた。
外はすでに夕闇が迫り、森を抜ける風がざわざわと不気味な音を立てている。
「絶対……絶対に君を助けるから。だからここで待ってて」
屋敷の奥に立つアンは、深雪のように青白い肌をしていた。
暗闇のように黒く窪んだ双眸が、じっと僕を見つめている。
「なんで? ……いかないでよ。さびしいよ」
小枝のように細い指先が、かすかにこちらへ伸びた。
「ごめんね……」
そう言って、僕は扉を閉めた。
オットーおにいちゃん……
扉を叩く音とともに、声が届く。
オットーおにいちゃん……まってたらいいの?
じゃあわたし、まってるからね……?
ずっと、ずっとずっと、まってるから……
クスクス、クスクス
やがて音も声も消え、あたりは静寂に包まれた。
「信じて……くれたのかな……?」
だが、これまでのアンの様子を思えば、外へ出ることなど容易なはず。
安心はできない。
濃霧に包まれた森は、いつも以上に木々がざわめいている。
僕はテントを捨て、そのまま湖を目指して歩き出した。




