4日目~4
僕は無我夢中で調理場まで逃げてきた。
通路の突き当たり。そこから覗ける調理場は、想像していた通り、僕の家よりも格段に広かった。
大きな竈に大きな調理台。鍋やフライパンといった道具も、そのまま残されている。
ただ、雨漏りでもしているのか、どこからともなくピチョン、ピチョンと水の落ちる音が聞こえてくる。
「外で雨でも降り出したのか……?」
だが、外から雨音は聞こえない。
というより、鳥の鳴き声も、草木の揺れる音も――外の気配そのものが、ずっと聞こえていなかった。
ずっとずっと、無音の世界。
――の、はずだった。
「オットーおにいちゃん」
僕の目の前にいたのは、間違いなくアン――アンナだった。
恐ろしさに悲鳴も上げられず、僕はその場に崩れ落ちる。
「なん、で……?」
調理場は嫌いな場所だから来ないはず。
そう言おうとしたが、呼吸が荒くなるせいで、うまく言葉にならない。
「どうしておにいちゃん、ここにきたのかな……」
「わたし、ここきらいなのに……」
アンナがゆっくりと僕に近付いてくる。
深雪のように青白い肌。大きくて碧かったはずの瞳は、今は窪んで、真っ黒に塗りつぶされたようだった。
……これが昨日まで、さっきまで一緒にいた子なのか?
手だって普通に繋げた。
友だちみたいに話もしていた。
なのに。
今目の前にいるのは、不気味な幽霊そのものだった。
「わたしね……このばしょでしんだんだよ」
「……だからここ、だいきらいなの」
突然、アンナはぽつりと語り出した。
恐怖で頭が真っ白になりそうだったが、彼女の独白に、僕は僅かな冷静さを取り戻す。
「死んじゃったって……なんで?」
逃げる機会をうかがうための時間稼ぎ。
そのための質問だった。
だが、純粋な好奇心がなかったと言えば嘘になる。
話してくれる可能性は低かった。
しかし彼女は俯いたまま、貼り付けた笑顔を解いて語り出した。
「わたしね、いつもパパとママに、なんにもできないわるいこだって……おこられてたの」
「まいにち、へやにとじこめられて、ごはんもおかしももらえなかった」
どう見ても不気味な悪霊のはずなのに。
さっきまで僕を襲おうとしていたはずなのに。
彼女はぐすぐすと、か弱い少女のように泣き始めた。
「でもおなかがすいてすいて、それでここにおいてあったおかしを、こっそりたべたんだよ」
「そうしたら、パパにみつかっちゃったの」
虐待する父親に、つまみ食いがばれた。
その先の未来は――彼女の姿を見れば、一目瞭然だった。
僕は無意識に眉を顰め、彼女を見つめる。
「パパすごくおこったの。それでなんどもなんどもたたいてきたの。イタイイタイっていってるのに、おしおきされたの」
「そうしたら……わたし、きゅうにいたくなくなったの」
――そのとき、アンは息を引き取ったのだろう。
「だからパパとママね、わたしをみずうみにつれてって落としたの」
「みずうみはつめたくて、くらくて、さびしいの。だからみずうみもだいきらい……」
「アン、もう、わかった。だからもう、何も言わないでくれ……」
折檻で亡くなった娘を隠すため、両親は“不慮の事故”に見せかけて湖に沈めた。
そしてホテルの倒産とともに姿を消した。
彼女の話を要約すれば――そういうことなのだろう。
だとしたら、そんな結末。
アンが悪霊になるのも、無理はない。
可哀想だと、僕は思ってしまった。
思わず心がぐらつく。
嵐の船上にいるような、吐き気を伴う目眩が僕を襲った。
「……わたしね、すごくさびしかった」
「でも、ここにきてくれるひとって、わたしがきらいなひとばっかりだったから……オットーおにいちゃんみたいなひとがきてくれて、とてもうれしかった」
アンが話す度、どこからともなく凍えるような空気が、ひゅうひゅうと音を立てる。
「だから……いっしょにくらそう?」
「それならもう、わたしたちはさびしくないから」
まとわりつく冷気に震えながら、僕は大きく首を横に振った。
「ごめん……それは、できないよ」
ぐらつく気持ちを押さえ込むように、深呼吸を繰り返す。
同情はする。
手を差し伸べたくもなる。
だが、本能が告げていた。
今の“アン”は、さっきまで一緒にいた“アン”と同じでいて、まったく違う存在にしか見えない。
絶対に、気を許してはいけないと思った。
「ひどい……どうしてそんなこというの?」
「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
感情的になったアンは、ゆっくりと髪を逆立てていく。
凍りつくような痛みが全身を走る。
それなのに汗だけが噴き出して、止まらない。
僕は思い出したようにポケットのナイフを取り出し、アンナへ向けた。
「じゃあもう……オットーおにいちゃんじゃなくなっても、いいもん……」
その直後、僕の身体が動かなくなった。
足先も指先も、瞬きさえ出来ない。
次の瞬間。
握っていたはずのナイフが茶色く濁り、どろりと溶け落ちた。
両手からは、まるでチョコレートのような甘い匂いが漂ってくる。
――なんで。どうして。
そう叫びたかった。
だが声すら出せない。
バイバイ、おにいちゃん。
身体が冷たい風と、真っ黒な何かに包み込まれていく。
口も鼻も布切れのようなもので塞がれ、苦しいとも叫べない。
抵抗も出来ない。
逃げることも出来ない。
僕の意識は――闇の中へ沈んでいった。
――ここはどこだろう?
気がつくと、僕はどこかの部屋にいた。
おそらく……二階にあった、子供部屋のような客室だろう。
「おはよう、オットー」
僕は、何倍にも巨大化したアンナに抱きしめられていた。
ぎょろりとした真っ黒な瞳が、僕を好奇の目で覗き込む。
「きょうはなにしてあそびましょう?」
……いや、違う。
アンナが大きくなったんじゃない。
僕が小さくなったのだ。
周囲のベッドも、椅子も、景色も――すべてが途方もなく巨大だった。
……僕は今、どうなっているんだ?
動こうとしても、手も足もぴくりとも動かない。
「おままごとがいいのね?」
「じゃあオットーがパパだよ?」
そう言うとアンは、どこからか取り出した焼き菓子を僕の口に押し込んだ。
だがそれは口に入ることなく潰れ、ぽろぽろと崩れ落ちる。
「……つまんない」
「あたらしいおかし、とってこようっと」
玩具みたいに放り投げられた僕は、乱雑に置かれたぬいぐるみの山へ捨てられた。
そこで初めて、理解する。
――僕は、ぬいぐるみになっていた。
動くことも、しゃべることもできない。
ただのぬいぐるみだ。
いやだ。こんなところに置いていかないで。
必死に叫んでも、アンは止まらない。
笑みを浮かべたまま、扉の向こうへ消えていく。
たすけて。
だれか。
だれか、だれか。
――そのとき。
ほんの一瞬だけ、昨日のアンの声がした。
「……ごめんね」
だが、扉が閉まる寸前に覗いたアンは、深い悲しみと笑顔に歪んだ顔をしていた。
その言葉を最後に、扉は無惨にも閉ざされる。
光のない密室。
ダレカ、タスケテ……。
僕の声が誰かに届くことは、もう永遠にないだろう。
ぬいぐるみの山に埋もれ、僕は泣くことも出来ず、怒り狂う気力さえ失っていく。
そうして、僕に残った最後の感情は……笑うこと、だった。
クスクス、クスクス
◆
残念です、オットー様。
貴方は逃げる場所を間違えたのでしょうね。
おそらくもう、貴方を見つけることは、私には出来ません。
本当に残念です。
さようなら、オットー様。
~ End3 ぬいぐるみは灰をかぶる ~




