表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/28

1日目〜1




 レイハウゼンの町から外れて、六時間ほど歩いた先。

 そこには、美しい湖があった。


 一枚の絵になるほどの美しい湖らしいが、昔から人を寄せつけない。

 それは――


 『その湖には、人を誘い沈めようとする怪物がいる』

 『魔女が毒を流しているから、決して飲んではいけない』


 ――などという、不吉な噂が絶えないからだ。


 そんな湖の畔をしばらく進んだ先に、大きな屋敷があった。

 まるで湖を臨むために建てられた、貴賓館のような豪奢な建物だ。


 ――僕は、その屋敷の前に立っていた。

 手には数日分の野営道具と、画材一式。


 なぜ画材を持ってきているのかというと、僕が絵描きだからだ。

 僕は絵描きとして、この誰もいなくなった屋敷にやって来ていた。


 ◆


 ――さかのぼること数日前。

 僕はレイハウゼンの町で、いつものように絵描きの仕事に勤しんでいた。


 絵描きの仕事……と言っても、路上で依頼された人物や風景を描き、駄賃ほどの報酬をもらうだけ。生計を立てるには少々心許ない。

 それでも僕は絵描きを生業と呼び、細々と暮らしている。


「……けれど、それってつまり()()()()絵描きってことでしょ? 絵描きっていうのはね、絵が売れてようやく成り立つものなんだから」


 そう言って僕の前で眉を顰めるのはテレーザ。幼馴染で、商家の一人娘だ。

 今は彼女に頼まれて、似顔絵を描いている。


 もっとも、テレーザの場合は依頼というより、デッサン中の会話が目的だ。

 報酬はきちんと貰っているが、彼女にとっては単なる暇つぶしなのだろう。


 僕はそんな彼女へ、苦笑混じりに返す。


「僕はこうして絵を描けて、楽しく暮らせているから、それで充分なんだよ」

「あのね、オットー……楽しくったって、稼ぎがないんじゃ、いつか無一文になっちゃうわよ?」


 そう言うと彼女は、半ば強引に絵を覗き込んできた。


「あっ、まだ途中……」


 慌てて隠そうとしたが、その前にスケッチブックを奪われた。


「売れないなんてもったいないわ。私ね、オットーの似顔絵が……特に笑顔の絵が好きなの。どんな人でも、どんな気分でも、絶対に温かくて優しい笑顔を描いてくれるから」


 僕の絵を見て、瞳をきらきらと輝かせるテレーザ。

 そんな横顔を見せられては、返せとは言えず、僕は苦笑するしかなかった。


「ねえ、もっと大きな街へ行ってみたら? そうしたら、あなたの絵ももっと売れるかもしれないわ」


 確かに、大都市へ行けば売れる可能性は高い。

 けれど僕は絵を描いた相手が満足して――笑顔になってくれれば、それだけで画家冥利に尽きる。


 それに、僕の絵が都会に向かない根本的な理由もある。


「……でもね、キャンバスで描いてない絵描きなんて、大都市に行ったって門前払いだよ」


 実を言うと僕は絵筆を持っていないどころか、握ったことすらない。

 いつもスケッチブックにデッサンだけ。描き方も独学だ。


 そんな素人同然の人間が都会へ出たところで、早々に夢破れて帰るのがオチだろう。


「――じゃあさ。もし私が、画材一式を買い揃えてあげるって言ったら?」


「え……?」


 予想外の言葉に、僕は目を丸くした。


 彼女はこれまでもスケッチブックや鉛筆をくれていたが、それは依頼の報酬としてだ。

 無償で受け取ったことは一度もない。


 彼女の方も『同情で施していると思われたくないから』と、依頼の規模に応じた画材をくれていた。


 ……それが一式となれば、よほどの依頼に違いない。

 僕は自然と興味が湧いた。


「かなり変わった頼みごとなんだけど、それを聞いてくれるなら、絵の具も絵筆もキャンバスも――しかも前払いで、全部揃えてあげるわよ」


 得意げに胸を張るテレーザ。


 正直、画材一式は喉から手が出るほど欲しい。

 白黒しかない僕の絵に色彩が加わったら、どんな世界になるのか――何度も想像したことがある。

 だが、僕の稼ぎで一式を揃えるなんて、到底無理な話だ。

 だから仕方がないと諦めていた。


 それが依頼ひとつで手に入るなら、断る理由はない。


「……それは、僕にでも出来ることなのかい?」

「大丈夫。依頼内容は、あなたが一番得意としている絵だから」


「それなら安心だ。それで、何を描いてほしいの?」


 テレーザは、にこりと笑って言った。


「――“エーデルヴァイス夫人の笑顔が欲しい”の」


「え?」


 笑顔が欲しい――つまり、その夫人の笑顔を描け、ということだろうか。


「笑顔を描くのは難しくないと思うけど……その夫人はどこに住んでるの?」


 すると彼女は首を傾げながら語った。


「それがちょっと難しい話でね。なんでも、この町の外れの森に、大きな屋敷があるらしくって。そこにエーデルヴァイス夫人が住んでいたのよ」


 町外れに屋敷?

 僕は生まれてから十八年ずっとこの町にいるが、そんな話は初耳だった。


「私もこの依頼を聞いて初めて知ったわ。父様とか大人たちは何となく知ってたみたいだけど……なぜか、あまりいい顔はしなかったのよね」


 徐々にテレーザの顔が曇っていく。

 それが屋敷の奇妙さと言うか、不気味さを強調しているようで、僕は思わず息を呑む。


「しかも、その夫人は私たちが生まれるずっと昔に亡くなっているらしいの。でも、オットーにはその人の肖像画を描いてほしいのよ。それも……誰が見ても納得するような笑顔で」


 ……昔の故人を描く?


 確かに肖像画が存在しているなら、故人を描くのは不可能ではない。

 だが、なぜ今になって――それも“笑顔”という注文付きなのか。


 不可解な依頼に、僕は自然と眉を顰めた。


「それでね、その屋敷ってずっと誰も住んでいないんだけど、今でも私物が残ったまま放置されているって聞いたわ。だからそこにある肖像画とかを参考にして、描いてきてほしいの――」

「ちょっと待って。それって……僕がその屋敷に行って描いて来るってこと?」


 テレーザは迷いなく頷いた。


「そうよ」

「待って待って。ずっと誰も住んでない屋敷なんだよね? そんな場所、無理だよ!」


 長年放置されたままの屋敷なんて、絶対に不気味な廃墟と化しているに決まっている。

 不意に屋敷のおどろおどろしい様相を想像してしまい、僕の背筋が冷えた。


 するとテレーザは、意地悪そうに笑う。


「でもオットー、幽霊とか信じないじゃない」

「そうだけど……」

「それに――画材一式、欲しいんでしょ? ね? お願い!」


 テレーザは両手を合わせ、じっとこちらを見つめてくる。

 画材一式と奇妙な依頼。

 その二つを天秤に掛けられては、僕は何も言い返せなくなる。


「じゃあ決まり! 詳しいことは後日、うちの執事が迎えに行くときに説明するわ」

「迎え? 今からじゃないの?」


「それはそうでしょ? だって最高級の画材を取り寄せるんだもの。だから迎えの日を楽しみにしててね!」


 そう言い残し、テレーザは人波の向こうへ消えていった。

 残された僕の胸には、ひとしおの喜びと――それ以上の不安が広がる。


「廃屋敷に行って、“エーデルヴァイス夫人の笑顔を描け”だなんて……本当、どういう依頼なんだよ」


 そう呟き、僕は暫く呆然と立ち尽くしていた。




 ――だがこのときの僕は、その奇妙な依頼が、まさかあんなにも()()()()体験へ繋がるとは、夢にも思っていなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ