3日目~4
「なんて……書いてあったの……?」
アンがそう尋ねてきた。
どうやら彼女の位置からでは、手紙の内容がよく読めなかったらしい。
僕は彼女の問いかけに、何とか笑みを作ってから答えた。
「……夫人が、本当は優しい人なんだって……書いてたよ」
半分不正解で、半分正解の言葉を返す。
するとアンは静かに呟いた。
「そうなんだ」
凍えるような冷気が、僕とアンの合間を漂う。
ランプに照らされた彼女の横顔には、感情がなかった。
僕は平静を装い、呼吸を整える。
乱れそうになる感情を、動揺を、必死に押し殺す。
……何故なら、手紙にはこう書かれていたからだ。
4.絶対に名前で呼ばない。“アンナ”ではなく、“アン”と呼ぶこと。
――アン。
それは偶然にも、僕の隣にいる少女と同じ名前だった。
彼女は今も、こうして僕と手を繋いでいる。
その手の冷たさが、急に意識へ浮かび上がる。
もしかして……などという疑問は、考えたくなかった。
どう考えても彼女は、至って普通の女の子なんだ。
……本当に、そうなのか?
こんな古い廃屋敷に、なぜか独りでいたというのに?
彼女の手はいつまで経っても、まるで真冬の湖中のように冷たいままなのに?
「ねえ、どうしたの……?」
可愛らしい高い声が、僕の耳に届く。
アンが小首を傾げ、僕を覗き込んでいた。
だが今は、素直に彼女の顔を見ることが出来なかった。
……動揺を悟られただろうか。
不安のせいか、肌寒さとは真逆に汗が止めどなく流れ落ちる。
僕は何とか笑顔を取り繕いながら、ひっそりと息を飲む。
……そうだ。
“彼女”の正体が何なのか、確かめる方法がある。
本当の名前だという“アンナ”の名で呼んでみることだ。
それで彼女がただの女の子なら、『誰の名前なの?』と笑って返して、それで終わりだ。
だがもし、本当に彼女が少女の霊だったとしたら……?
手紙には“絶対に呼んではいけない”と書かれていた。
もし“アンナ”と呼んでしまったら、どうなるのか。
僕は無事でいられるのか……。
しかし、他に確かめる方法はない。
彼女の名前を、呼ぶしかない――
「――アン……」
……情けないことに、僕はその名前で呼ぶことが出来なかった。
「なあに?」
突然名前を呼ばれたアンは、きょとんとした顔をしている。
こうして見る限り、至って普通の少女にしか見えない。
僕は早まる心臓を落ち着かせるように、ゆっくり息を吐いてから言った。
「……屋敷の外に出ようか」
僕の言葉に、アンは素直に頷いた。
僕と彼女は再び、ギシギシと軋む螺旋階段を慎重に下りていった。
もちろん彼女の手は、しっかりと繋いだまま。
……やはり、信じたくはなかった。
何を信じたくないのかも、もう僕にはよく分からなくなっていた。
アンが人間ではないかもしれないこと?
アンが悪霊かもしれないこと?
アンが僕に危害を加えるかもしれないこと?
考えれば考えるほど、頭が重く、痛くなっていく。
僕の頭の中に、白く深い靄がかかっていく。
仕方がないじゃないか。
なにせ僕は賢い人間じゃない。
ただの絵描きなんだから。
不意に心のどこかで、そんな声が聞こえた気がした。
気付くと僕とアンは、屋敷の外に出ていた。
外はもう夕暮れ近くで、周囲は薄暗くなり始めている。
冷たい風に揺れる木々のざわめきが、やけに大きく聞こえた。
「今日もテントの外で寝るの?」
夕食の準備を始めようとする僕に、アンがそう尋ねてきた。
まるで雪のように繊細で儚い微笑み。
彼女の青白い素肌は、この森の風景から浮いたように異質だ。
だがその反面、たき火に当たる頬は、生気を感じるほど赤らんでいた。
この子が、もしかすると幽霊かもしれない。
……そんなこと、確かめるのも僕には恐ろしくて出来ない。
悩めば悩むほど、目眩がして気持ち悪くなる。
「あ、うん……そうなるかな」
やんわりとそう返す僕に、アンは笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ、今日はわたしもオットーと一緒に外で寝たいな」
「え――」
思わず漏れた声を、慌てて噤む。
そんな僕の動揺をよそに、アンは隣に並ぶと、ちょこんと座り込んだ。
どうして、急に。
いよいよ僕を襲うのか?
僕をどうする気なんだ?
いや、そもそも幽霊じゃないかもしれないだろ。
様々な憶測と不安が僕を襲う。
するとアンは、おもむろに歌を口ずさみ始めた。
先ほど屋敷で聞いた、あの歌だ。
「――寂しいときはね、楽しいことを考えると良いのよ?」
それは、先ほど僕が言った言葉だった。
どうやらアンは、僕が落ち込んでいると思ったらしい。
先刻のお返しとばかりに、彼女なりに励まそうとしてくれているのだろう。
「ふ……ふはは……!」
僕は思わず笑みを零した。
「ええ? わたし、変なこと言った?」
突然笑い出した僕に、アンは頬を膨らませて睨む。
僕は慌てて頭を振った。
「いや、何にも言ってない。可笑しいことなんて何もないよ」
こんなにも気遣ってくれる優しい子に、僕は何を怯えていたのだろう。
そう思った瞬間、先ほどまでの恐怖や憶測が急にバカらしくなった。
「アンといることが楽しくて、つい笑っちゃった。一緒にいてくれて、ありがとう」
「ど、どうしたの急に……お礼言うほどのことじゃないわよ?」
礼を言われ、照れ隠しに眉を顰める顔も、やはり普通の子にしか見えない。
僕は、手紙にあったエーデルヴァイス夫人の気持ちが、少しだけ分かるような気がした。
もし相手が幽霊だとしても、分かり合えるのなら、友だちになることは出来るのではないか――そう思ってしまう。願ってしまう。
……だって、大事なことは、怖がらずに満面の笑顔を見せ合えることなのだから。
「1つだけ、アンに頼みがあるんだ」
「何……?」
「アンを描いても、いい?」
僕がそう言うと、アンは真っ赤になった顔を激しく左右に振った。
「だめ、恥ずかしい……!」
拒否するあまり俯く彼女へ、僕は頭を下げる。
「恥ずかしいかもしれないけど……でも、どうしても君を描きたいんだ」
こうして出会えた友だちを、ちゃんと描き残しておきたかった。
彼女との思い出を、胸の中だけじゃなく、大好きな絵にも残したかった。
「お願い。お願いします!」
僕の説得にしばらく悩んだあと、アンは小さく頷いた。
「……わかったわ。でも、ちゃんとそっくりに描いてね……?」
「こう見えても絵描きだから、そこは安心してよ」
いつの間にか日は沈み、濃霧と相まった森は暗黒に飲み込まれていく。
そんな屋敷の傍らで、僕はたき火の灯りが消えないよう気をつけながら、アンを描いた。
時おり思い出話や世間話を交わす時間は、とても楽しい“ひととき”だったと思う。
そうして時間はあっという間に過ぎ去り、夜空が白んできた頃、アンの似顔絵が完成した。
肖像画とはほど遠い、簡素なデッサン。
それも依頼とはまったく関係のない絵だ。
だが――ようやく描けた“笑顔の肖像画”だった。
僕は素直な喜びと、少しばかりの安堵を、彼女の傍らで抱いてしまっていた。




