3日目~2
日記の内容をきちんとメモに取った僕は、他にも何かないか探してみた。
だが手前左の通路では、それ以上手掛かりになりそうなものは見つからなかった。
念のため懐中時計を確認する。
体感ではそれほど時間は経っていないはずなのに、時刻は既に昼を過ぎていた。
この異様なほど早い時間の流れには、何度経験しても驚かされる。
「日が暮れないうちに、さっさと右側も調べちゃおうか」
アンの顔を覗き込むと、彼女は小さく頷いた。
平気そうに微笑んではいるが、よく見ると顔色が妙に青白い。
「もしかして……疲れちゃった?」
そう尋ねると、アンは静かに首を横に振った。
だがランプの淡い光に照らされた表情は、明らかに辛そうだった。
彼女が黙り込んだことで、辺りは無音に包まれていく。
……もしかすると、さっきの日記のせいだろうか。
確かに、あの文章には口にするのも憚られる誹謗が並んでいた。
子どもにはきつい内容だったのかもしれない。
僕は小さく息を吐き、笑みを作った。
「そうだ。何か元気になる話でもしようか」
その提案に、アンはゆっくり顔を上げる。
「元気になる、話……?」
彼女とようやく目が合い、僕はしっかり頷いた。
「気分が暗くなるときってさ、楽しいこと考えると少し楽になるだろ?」
「そう、なの……?」
「そうそう。じゃあ質問。アンにとって楽しいことって何?」
突然の問いに、アンはまた俯く。
「わ、わたしの楽しいこと……」
眉を寄せて考え込んでいるが、さっきまでの辛そうな色は薄れていた。
真剣に答えを探してくれているらしい。
僕はヒントになればと思い、先に答えた。
「僕はね、やっぱり絵を描いてるときが一番楽しいんだ」
「……そうなの?」
絵という言葉に反応したのか、アンの瞳が静かに輝きを取り戻す。
ただ、まるで巨匠でも見るみたいな眼差しで見つめられるのは、僕には少し眩しくて申し訳ない。
「描いてるとさ、楽しくて夢中になっちゃうんだ。特に僕は、人の笑顔を描くのが好きでね」
「人の……笑顔……」
「顔って感情がすごく出るだろ? だから僕がつまらなそうに描けばモデルもつまんなそうな顔するし、逆に相手が悲しそうだと、僕までついつい泣きそうになるんだよね」
だから笑顔を描くと、こっちまで嬉しくなる。
僕はそう言って笑ってみせる。
だがアンの顔には、まだ笑みは戻らない。
少し難しい話だったかもしれない。
アンは暫く沈黙した後、静かに口を開いた。
「わたしはね……絵も好きだけど、歌を歌ってるときが、楽しい……かな」
言った直後、「誰にも言わないでね」と唇に指を当てる。
「ひとりで寂しかったり辛かったりするときはね、こっそり歌うの。そうすると嫌な気持ちも忘れられるから」
「じゃあ今、歌ってみる?」
「えっ……?」
目を丸くするアンに、僕は慌てて付け足した。
「ああいや……今のアン、すごく辛そうな顔してたからさ。あ、もしかして僕の前じゃ歌うのは嫌かな?」
「そ、そんなことないわ」
アンは強く首を振る。
しかし彼女の顔は急激に耳まで赤くなっていく。
相当恥ずかしいようで、僕は思わず苦笑してしまった。
「少しずつ、鼻歌でもいいよ。僕に聞かせて」
「う、うん……」
僕の言葉から少し間を置いて、アンは小さな声で歌い始めた。
◆
哀しいけれど 花は咲く
明日もきっと 花は咲く
大雨だって 花は咲いている
嵐だって 花は咲いている
明日散るとしても 花は哀しまない
花であるために いつも笑顔で咲くんだよ
◆
それはこの地方では誰もが知る、古い民謡のような歌だった。
僕も昔、テレーザと遊んだ帰り道によく歌っていた。
「その歌、いい歌だよね」
「うん。歌詞の意味はよく分からないけど、好きな歌なの」
そう言って微笑むアンを見て、僕はようやく胸を撫で下ろした。
明るい表情を取り戻した彼女と一緒に、今度は手前右の通路を探索することにした。
「――ねえ、これはどうかな?」
似たような部屋の一つで、アンが声を上げた。
ランプを向けた先にあったのは、一枚の紙。
だが残念ながら肖像画ではなく、落書きらしい似顔絵だった。
「うーん……男女の絵? 従者かな。でも夫人が描いた感じじゃないし……」
ふと、昨日暖炉で見つけたペンダントを思い出す。
また男女の絵だ。これは偶然なのか、それとも意味があるものなのか。
他にも各部屋には、ぬいぐるみや人形、花瓶などが置かれていた。
いや、置かれているというよりは――乱雑に積まれ、放置されていたようにも見える。
だがこれまでの簡素な部屋と違い、手掛かりが増えたことに、僕は不気味さより喜びを感じていた。
「こっちの部屋、本当に色んな絵があるね」
更に驚いたのは、この通路の客室には絵画が何枚も飾られていたことだ。
食堂にもあったことを考えると、夫人は絵が好きだったのかもしれない。
ただし描かれているのは動物や風景ばかりで、夫人の肖像画は見当たらない。
このままでは夫人の人物像は想像出来ても、外見がまるで分からずじまいになってしまう。
焦りのせいか、一筋の汗が僕の頬を伝う。
それを腕で拭いながら、僕はふとした疑問を口にした。
「ちょっと思ったんだけどさ……夫人って子どもいたのかな?」
アンの双眸がゆっくりこちらへ向く。
「どうして?」
どこからともなく漂う冷気。
僕は無意識に彼女から視線を逸らし、言った。
「高価そうな絵画や置物もあるけど……どっちかっていうと、子どもが好きそうな人形とかぬいぐるみの方が多いから」
それに、さっきの似顔絵。
あれはまるで――子どもが両親を描いたみたいな絵だった。
もしかしてあのペンダントは、エーデルヴァイス夫妻が我が子に贈ったものなのか?
いや、別の誰かの両親かもしれない……。
ひとり考え込む僕から顔を背け、アンは答えた。
「……わたしにはわからないよ」
妙に素っ気ない声だった。感情の温度が消えている。
……いや、彼女に聞くべき質問ではなかったな。
夫人のことを知るために、僕たちは探索しているのだから。
僕はもう一度冷たい汗を拭い、静かに探索を再開した。




