case2狐憑き
狐憑き
妖狐が憑りつくことで、その人の性格や言動が変わってしまう。
突然奇声を上げたり、暴れだすなど温厚な人間が粗暴になったりする。食べ物の好みが変わり油揚げを好むようになるという報告もある。
西洋では悪霊憑きなど似たような症例がある。
ピピピピ ピピピピ ピピピピ
「んぁあ、朝?まだだろ?」
寝ぼけ眼をこすり耳元でけたたましく鳴り響く時計を止める。
一人暮らしが長いせいか独り言が多い。
赤木 大地 独身。一人気ままに生きてきた。
趣味はアイドルの追っかけ。アニメやゲーム娯楽三昧。いわゆるオタクだ。
世間から見れば嫁も取らず好きなことだけをやっているちょっと危ないやつ。いい年した男が所帯も持たず好き勝手に生きているという偏見や奇異の目は免れない。
だが、俺はそれでいいんだ。俺は俺が幸せならそれでいい。
それに、仕事もちゃんとしているし他人に迷惑をかけるようなことはしていない。
「んんー…あぁぁ…」
かたい布団で寝ているせいか全身が固い。伸びをしコリをほぐす。
このまま二度寝したらどんなに気持ち良いことだろう。しかし今日は平日。世間様に迷惑をかけないためにも俺はしっかりとした社会人でなければならない。いや俺が無職であろうと世間に何の迷惑がかかるかは知らないが、世間のオタクに対する評価を下げないためにもやることはやらなきゃならない。
地元を出て東京の会社に就職した。独身の理由は簡単だ。俺は俺のために生きる。結婚をして家庭を持ち、子供が生まれ、次の世代へとバトンを渡す。普通と言われる人生を俺は拒んだ。同僚と飲みに行ったりするだけで十分楽しい。
自分の稼いだ金は自分のために使いたい。みんな言うだろ?人生は一度きりなんだって。
それをなぜ他人のために使わなければいけないのか俺には到底理解できない。
会社の昼休み、疲れた目をこすっていると
「どうした?顔色悪いぞ?」
先輩の青木 大空が話しかけてきた。先輩とはいえ中途採用の俺と年齢は変わらない。
「いや、何でもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
「そうか?調子悪くなっても面倒見てくれるカミさんもいないんだから、体調くずすなよ?」
「やかましい。毎日野菜ジュース飲んでるわ」
「野菜ジュースってお前…あれ糖質の塊だぞ」
「マジで?裏切られた気分だわ」
軽口を交わしあう気の置けない間柄。青木は数年前に異動で同じ職場にきた。もともと本社勤務だったが昇進のため現場を見て来いということで数年間俺と同じ職場にいることになったらしい。
「それはそうと、お前本当に結婚とか考えてないのか?」
「何度言われても一緒だよ。俺は俺のために生きるんだ」
「うらやましいね、独身貴族ってか?実際あんな狭いボロアパートなんか住んでたら随分貯金もできてるだろ?」
「貯金なんていらないよ。もちろんいざというときのため多少はしてあるけども。基本的に使いたいように使っているさ」
「まったくもってうらやましい限りだ。俺なんか月に2万円の小遣いだぞ?何倍の給料家に入れてるんだって…」
「おいおい、本社のエリート様がこんな現場の窓際族うらやましがってたら世も末だぞ?」
「隣の芝生は青く見えるもんでな。俺にもそんな生き方ができたのかもしれないなって考えるとな」
「青くみえる?青木だけにか?」
「…聞かなかったことにしておく」
数瞬の沈黙の後二人して吹き出す。こんなバカみたいなやりとりできる仲間が一人でもいれば俺は幸せだ。
休日前はスーパーによって閉店間際、半額になった総菜を買う。晩飯はご飯の代わりにお酒を飲むのが習慣だ。
昨今の総菜はどれをとってもおいしい。そして種類が豊富になった。少し前は基本的に揚げ物ばかり買っていたが、最近は豆腐や漬物など油物を避けている。翌朝の歯磨きがしんどいからだ。
「ありあっしたー」
いつも閉店前に割引の総菜と酒類を買って帰る男だ。そんなことを思われているのだろう、背後に憐みの視線を感じる。おそらくバイト内であだ名がつけられているだろう。
俺だったら多分つける。半額野郎とか本人に聞かれたら絶対怒られるような名前を。
「ただいまーって言ったって、だーれもいないっか?」
と半ば習慣になった独り言をつぶやきながら自室に入る。6畳一間、キッチンありのシャワーとトイレはある。
着ていた衣類を洗濯機に放り込みスイッチを入れる。私服で通勤できるのは良いことだ。
おしゃれに気を遣う人間だとコーディネートにやローテーションに困るらしいが俺はそんなもの気にしない。無地のシャツとチノパン。寒い時期でも上着を羽織れば十分だ。職場で恋愛する気もないしそれでいい。かの有名なCEOだってだいたいそんな恰好をしていた。PC使っての内勤仕事なんてそんなもんでいいと思っている。
接客するわけでもなく、会話をするとしたら上司からの指示に答えたり、同僚と馬鹿話をするくらいのものだ。女性からどう映ろうと関係ない。
「さてと、今日は何にしようかな」
テレビにはサブスク動画アプリが映っている。レンタルの時代とは違い月額で見放題。返しに行く手間もない。便利な世の中になったものだ。
買ったばかりの缶ビールを開け、グラスに注ぐ。今日のつまみは枝豆だ。ビールとこいつはゴールデンコンビ!まさに相性ピッタリだ。ちびりと一口ビールを含み何をみるかと思案する。
【平安妖怪大決戦】と書かれた映画が目に留まる。いかにもB級そうな俺好みの映画のようだ。他人に理解はされないが俺はこういった映画が大好きだ。もちろん興行収入ランキング上位に入るような名作映画も好きだが、その監督が若いころに撮ったような映画なども好んで見ている。
枝豆をほおばり、ビールを流し込みながら映画を見る。最高の夜だ。面白い作品であってくれよ?
「くっ…強い!」
「妾にかなう思ったか?いち人間風情が妖の長たる妾を封印するなど笑わせてくれる」
「勝ち目がないか」
「うむ。貴様の陰陽道も悪くないがの。妾を相手取るには力不足じゃ」
「一つだけ頼みがある」
「なんじゃ?」
「今の世に悪さをしないよう一度眠ってはくれないだろうか?」
「何を申すかと思えば」
「聞いてくれ!人の世は続く!今よりももっと面白い時代が来るだろう。その時になったら自由に目覚めて良い!」
「先の世に妾を丸投げするつもりか?」
「いくら長寿の妖とていつまでも起きていては暇もあろう!少し休んでも良いと我は思うのだ」
「片腹痛いわ!命乞いならばもっとうまくいたせ!」
「我の命など惜しくはない!妖と対峙すると決めた時からとうに捨てた命だ!だがお前は違う。人の世がある限り潰えぬ命だ!」
「その通りじゃ。分かってあるなら余計に聞けぬ願いじゃ、それに貴様の魂はとても美味そうじゃ。見逃すにはちと惜しいからの」
「ならば!我の魂は貴様にくれてやる!それでしばし眠りについてはもらえぬか?」
「ほう…自らの命を差し出し、泰平の世を願うか。よかろう。それであれば考えてやらぬでもない」
「約束だ、我を食らい、永き眠りにつけ」
「約束じゃ、妾が目覚めるときは妾自身が決めるぞ」
多分クライマックスのシーンなのだが…古い映画なのだろう。稚拙なCGで描かれた九尾の狐はお世辞にも怖いと思えず、かといってかっこよく映っているわけでもない、陰陽師が放つ式神などはどうみても一昔前の特撮レベルだ。俳優陣の演技はよく、緊迫感や臨場感は伝わってくる。いい作品だ。
その後スタッフロールが流れ監督の名前を探すのだ。
え?あの作品作った監督ってこんなのも作ってたの?となるのが好きのだ。
あいにく今回のスタッフロールは全てカットされていた。サブスク系の映画にはまれにあることだ。
少々残念だが、この何とも言えぬB級感。大満足だ。
ちょうどお酒も飲み干しつまみもカラになった。ペース配分は完璧だ。小さな達成感。
明日は休みだしこのまま寝てしまおう。
敷きっぱなしの布団に潜り込む。3月に入ったとはいえ朝晩はまだまだ冷える。酒で火照った体を冷えた布団が冷やしてくれる。心地よい。そのまますーっと眠りについた。
「目を覚ませ、赤木大地」
呼ぶ声が聞こえる。誰だよせっかく気持ちよく寝ているのに…声が頭に響く。そんなに深酒をした覚えはないが二日酔いのようだ。目を開けると目の前に男が立っている。
映画で見たそのまま、陰陽師だ。白色の裃、烏帽子をかぶり九字の書かれた護符を手に持っている。これまた典型的な…非常に見覚えのある姿だ。
「おお、我の声が通じたか?」
「なんです一体。気持ちよく寝ていたのに」
「それはすまなんだ。殺生石がわれた。その警告に参ったのじゃ」
「はぁ…そうですか」
「しっかりと伝えたぞ?」
それだけ残すと謎の陰陽師は光とともに消えた。あたり一面は闇に染まり再び眠りについた。
目を覚ますと昼をとっくに回っていた。休みとはいえ惰眠をむさぼりすぎたようだ。
眠る前に見た映画が印象に残ったのか変な夢まで見る始末
とりあえずTVをつける。昼のニュースの時間だ。一週間のニュースがまとめて紹介される。
芸能人の不倫だとか、有名人の結婚だとか心底どうでもいい。しかし、読み上げるに女子アナがかわいいのだ。それだけで見る価値がある。
飲みすぎたのか寝ぼけているのかぼーっとTV画面を見ていると
「続いてのニュースです、栃木県那須郡那須町にあります殺生石が割れているのが確認されました。現場は観光の名所となっており…」
ん?妙に引っかかる。どっかで聞いた話だ。どこだったか…思い出せない
ともあれ休日の今日俺は楽しみにしているイベントが控えている。悠長に考えている時間はない!
遅めの朝食兼昼食をとり出かける支度をする。
しまった…昨日洗濯機に放り込んでそのままにした衣類を見て干し忘れていたことに気がつく。急いで外に洗濯物を干し、身支度を整える。
今日は推しの地下アイドルのライブがあるのだ。時間は17時からだがグッズを買ったりなんやかんやすると事前の時間が欲しい。早めに家を出るに越したことはない。
会場は都内にある地下ライブ会場
観客は50人も入らないような小さなハコだ。
お目当てのグッズを買い早速装備、タオルを巻き熱狂に備える。未だ寒い時期とはいえライブが始まると毎回汗をかいて応援している。
開演時間が近づきパラパラと観客が入ってくる、中には何度か会場で会ったことのあるファンがいる。お互いの名前も素性も知らないただ推しを推すという一点において合致しているだけの関係。戦友と呼ぶのもやぶさかではない。
会場の照明が落ち男たちの野太い声、数は少ないが女性の黄色い歓声が場内に響く。いよいよ開演だ。
バンっという音と共にステージがライトアップされる。それぞれのコンセプトカラーを纏った少女たちが映し出される。全員が仮面をつけている。決して素顔を晒さず歌声とダンスパフォーマンスだけで観客を魅了する彼女たち。美しい。
全力で歌い上げる歌唱力、一糸乱れぬパフォーマンス、会場との一体感。この空間は俺にとって最高の場所だ。
パフォーマンスが終わるとこの後はお待ちかねの握手会が始まる。
「あ!また来てくれたんですね!いつもありがとうございます!!」
メンバーから顔を覚えられている古参ファン、ちょっと鼻が高い。
小さな手の温もりは俺にここにいて良いのだと教えてくれる。力強く握ると壊れてしまいそうだが、彼女たちは全力で握手してくれる。俺もそれに応えて握り返す。
「ははは!やっぱり力強いですね!」
「次のライブもお願いします!」
メンバーそれぞれから言葉をもらい外へ出る。
少し路面が濡れている。春が近づき天候も不安定なようだ。会場に入る前は晴れていたんだが…まぁ今は上がっているし何ならお月様まで出てる。問題ない。
良いライブだったと余韻に浸りながら家へ歩いて帰る。このボロアパートの利点はこういったイベント会場へのアクセスの良さだ。
人を招くことがないからワンルームで十分だし、風呂に入りたいと思えば近くに銭湯もある。これ以上求めたらバチが当たるってものだ。
家に着くなり買い込んでおいた酒を飲みながら余韻に浸り、ライブの内容をSNSに投稿する。セットリストやMCの内容など彼女たちがお披露目されてから欠かしたことはない。
いつか彼女たちが売れて素顔を曝け出したら俺は心から応援できるだろうか?それこそ普通のアイドルと変わらなくなってしまう気もするし、もっと化けるかもしれない。小さな頃から見ている姪っ子を見る気持ち。可愛くなった、大きくなった。親心とは違うが成長を喜ぶ気持ちと、いつか遠くへ行ってしまうという不安が入り乱れる。
将来に対して不安を持ったことは少なくないが、彼女たちを失うことは俺にとって最も大きな損失だ。自由気ままな独り身なのに自分勝手に彼女たちを愛してしまい、不安な気持ちが形成されていく。こんなに気持ちになるのが嫌で俺は最愛の人を作らなかった。いや、作れなかった。
人間が一番最初に愛を感じる人間、それはほぼ間違いなく両親であろう。俺の両親は俺が生まれてすぐ亡くなってしまった。母親は俺を産んですぐ体調が回復しないまま病院で、父親は業務上の事故だったと聞いている。物心ついたころから両親がいなかった俺は親類に預けられ、小学校に入学するころには施設に入れられていた。
そんな俺が誰かを愛し、愛すべき子供を授かったとして、残して逝ってしまったらどうしよう。その考えが頭から抜けない。両親からの愛を受け取れなかった俺が、子供を愛せるのだろうか。親が子にかける言葉、子供の抱きかた、俺は何も知らない。端的に言うと逃げ続けた人生だ。責任から、恐怖から、愛から逃げた。
「いかん、悪い酔い方をしてる」
せっかくの楽しい気分に自ら水を差し辟易する。俺は俺でいい。そう決めたのだ。胸がきゅうっと締め付けられるのを感じる。こんな気分になっては一日が台無しだ。酔いが回ったとはいえこのまま布団に入っても嫌なことが堂々巡りし寝付けないだろう。そんな時は何か楽しいことをするに限る。あれこれ思案していると表に出した洗濯物を思い出す。
「雨…降ったっぽいんだよなぁ」
路面がぬれていたことを思い出し取り込むのを断念する。もう一晩乾かしておけばまず問題ないだろう。ずぼらな考えだ。我ながら。
いつも通り動画アプリを起動し今日は日常系のアニメを見る。当たり障りのない平凡な日常を幸せそうに描いている、そんな作品。平穏な日常を見ながらいつしか眠りについていた。
トントントントントントントントン
窓ガラスをたたく音で目を覚ます。せっかく気持ちよく眠りについたというのに何事だ。
枕元の時計を見ると午前2時過ぎ、嫌な時間に目が覚めた。
答えは簡単だ。干していた洗濯物が窓をたたいているのだ。ずぼらな性格が裏目に出た。
「くっそ…先にしまっておけば起こされずに済んだのに」
文句を言っても返ってくるのは自分だ。責任は全て自分にある。隣人を起こさぬよう静かに窓を開け洗濯物を取り込む。洗濯物が揺れるほどの風は感じないが…
時間が経ってから干してしまったので不安になり匂いを嗅ぐと、どこか懐かしい安心感を覚える匂いがした。胸の奥が温まるような…なぜか涙が出そうになる。
柔軟剤変えたっけ?まぁいいや。
床に洗濯物を乱雑に置くとそのまま布団に入った。布団の優しく包み込むような暖かさが心地よくてすぐに眠りにつけた。
数年が過ぎ、その間も変わらぬ日常を送っていた。変わったことといえば推していた地下アイドルが地上に出てきたことだ。変わらず仮面をつけてはいる。顔のかわいさだけでなく、パフォーマンスでのし上がったのだ。
今やテレビに引っ張りだこ。やっと彼女たちの魅力に世間が気付いたかと胸を張る一方でやはり一抹の寂しさが胸に残る。あの時危惧していた不安が現実のものになってしまった。本来推しの成功は喜ぶべきものだが喪失感が大きい。
であれば新たな推しを探すことに注力できたが、歳をとったせいかその気力も湧いてこない。そうなってくると必然酒も不味く感じる。
こんな時に家族がいれば…孤独に苛まれることもなく気晴らしが出来たのだろうか。胸の痛みがいつにも増して強い。
昼休みを告げるチャイムが鳴る。今日は外に出てランチしよう。何を食べるか思案していると
「よ!今日も辛気臭い顔してんな!」
青木がいつものように声をかけてくる。余計なお世話だ。
「どうしたんだよ?最近。元気がないのもそうだが、なんかおかしいぞ?」
「なんでもねぇよ。それよりお前、そろそろ本社に戻るんだろ?」
「ああ。数年程度の付き合いだったが、お前のおかげでいろいろ学べたよ」
「俺から学ぶことなんて何にもないだろ」
「いや、現場の生の状況ってのをよく教えてくれたよ」
「そんなもんか?ま、お前が偉くなったら俺の処遇改善も頼むわ」
「あ?窓際族移動させたって今度は追い出し部屋に入るだけだぞ?」
「俺ってそんなにか?」
「冗談だよ、しかし最近調子が悪そうなのも気にはなるから。なんかあったら相談しろよ?」
「へいへい、ありがとよ」
「俺たちだってもう50だぜ?健康とか本気で考えるようになっちまったよ」
「はっ!不健康自慢始めたらそれこそ爺の始まりだよ」
「だな。んじゃ、またな」
短い昼休みに青木はほぼ毎日のように俺に声をかけてくれる。本当にいいやつだ。昇進するのもうなずける。
そこが気に食わない。
この数年あいつと一緒に仕事をしてきた。
俺が望んできた人生とはいえ、青木は俺にないものをすべて持っている。
うらやましい、妬ましい。なぜかここ最近そんなことを考えるようになってしまった。
我ながらおかしいと思うが、イライラや焦燥感が収まらない。まるで自分が自分でないような感覚
些細なことに腹を立てるようになり、楽しむ気力がわかない。これが更年期か。
俺を育ててくれた親類は常に俺にきつく当たっていた。踊りのような、舞のようなものを習わされたりもして、うまくできない俺はよく怒鳴られていた。
手遊びを教わった時もうまくできずにぐずっていると異様なほど叱られた。
幼少期の嫌な記憶ってのはこんな年になっても消えないものなんだな。あの親戚に育てられた期間なんてないに等しいのに
このイライラ、行き場のない感情を子供にぶつけていたんだろう。今なら少し気持ちがわかる気がする。
青木と話をしていたせいで外に出てランチ時の飲食店に並ぶ時間はもうなさそうだ。
仕方ない今は残っている仕事を続行して昼休みを少しずらそう。14時くらいにここを出れば近隣の飲食店はまだランチサービスをやっているはずだ。
きりの良いところまで仕事を続け時計を見る。14時ちょうど。計画通り。
オフィスを出てエレベータに向かう。このオフィスは3階にあるので階段でも十分なのだが面倒くさい。
青木に見られたら「健康のために歩け」とか言われそうだな。
エレベータが到着し乗り込もうとしたその時またあの不愉快な感情が出てきた。胸の奥が締め付けられる。
いや違う、これは感情じゃない、背中を刺すような痛みが襲ってくる。ただ事ではない。
「うっぐ…は!」
胸を押さえその場に倒れこんだ。
「こちらも計画通りといったところかの」
耳に届く声は俺が推していたあのアイドルの声だ。やけに古風なしゃべり方をする。
「声を出すのも苦しいじゃろ?そのまま聞くがよい」
何だ?何が起きている
「礼を言うぞ、存在を知られぬというのも存外楽なものじゃの」
倒れた俺を発見してあたりに野次馬が集まってきた。すぐに救急車を要請してくれているようだ。
誰だ、誰が話しかけてきている?視界がかすむ、痛みのせいか意識が遠のく。それと比例するように声はどんどん大きくなっていく。
「しかし、時の流れは残酷よな。かつて妾と渡り合っていた陰陽師の末裔もこの体たらくか」
「じゃがお主、それなりに美味であったぞ」
得体の知れない存在がいる!
みんな、逃げてくれ!
何かがくる
目の前がチカチカする。
「なぜこんな簡単な印も結べない!遊びじゃないんだ!まじめにやれ!」
なぜ今、あの親戚の顔が浮かぶんだ。
「大事な儀式だ!お前が継がなければいけないんだ!」
なにをそんなに怒鳴っているんだ。
「もう嫌だ!こんなことしたくない!こんな家いたくない!」
「あなた、まだ子供なのよ。それに、もうそんな時代じゃないわ。無理強いしては可哀そうよ」
「うるさい!兄貴が死んで、血を引き継ぐこいつが受け継ぐべきことなんだ!!このままでは兄貴の二の舞だ」
印…確かこんな感じだったか。手を動かそうとするが、固い握手を交わした手はもう動かない
「もういいんじゃよ。お主はよう頑張った。妾の傍にいればよい」
耳元でささやく甘い声、頭に響く叔父の怒声 もうぐちゃぐちゃになる
「これでお主も自由じゃ。やりたいように、自由に生きてよいのじゃ。これでもう、一人ではなくなる」
布団で抱きしめられるような温かさ。あの安心する懐かしいにおい。
胸の痛みは次第に引いていく。
「よしよし、いい子じゃ。もう眠ってよいのじゃよ」
我が子を諭すように声が優しく包み込む。
胸の痛みはもう感じない。薄れゆく意識の中で最後に聞いた声は聞き覚えのない男の声だった。
「なんで三階でずっと止まってんだよ。こっちは急いでるってのに…急病人でもでたか?」
ククククク 狐は嗤う
「もうこれで妾を妨げる存在は現代にはおらぬ。さて、あの男は約束を破らず退屈しのぎにいつまで付き合ってくれるかの」
第一話より以前のお話。
宿敵とも言える陰陽師は時代の変化により衰退。
玉藻の一人勝ちとなりました。
陰陽師の力を喰らい、妖力を取り戻した玉藻はこの後第一話主人公のもとへ実態を伴って現れます。彼女が声だけだった期間、実態を伴えるようになったきっかけのお話。




