CASE1 玉藻御前
玉藻御前
かつて中国で「妲己」と呼ばれ、その美貌により国を傾けた伝説の妖狐。 悪女として大陸を追われ、日本へと逃げ延びた彼女は、帝を篭絡せんとしたが、時の陰陽師によって見破られ、殺生石へと封印された。
時に2022年、封印されて900年余りが経過した現代殺生石が割れた。
日本では九尾の狐、玉藻御前として知られる。 彼女は気に入った男に憑りつき、家事の一切を取り仕切り、その慈愛によって男を骨抜きにし、堕落させると言われている。
現代に蘇った彼女が、孤独な男に差し出したのは「救い」か、それとも。
「俺って何のために生きているんだろう。」
ふとそんなことを考えてしまう
またひとり現代に疲れ、生きる気力をなくした人間がいる。
会社に行けば上司に詰められ、営業先に行けば無理難題を押し付けられる。
惚れて結婚したはずがいつしか相手の嫌なところばかり目についてしまう。
家庭にも、会社にも居場所がない、彼は心底嫌になっていた。
一人営業先からの帰り道だった。
気分転換に立ち寄った公園のベンチで抜けるような青く晴れた空を見上げつい声が出てしまった。気持ちの良い空だ。惜しむらくはここ最近の猛暑だ。暑さでへばって夏の風物詩のセミの声すら聞こえない。
「はぁ…」
大きなため息をひとつつく。
俺はこの公園が好きだ。幹線道路から少し離れていて都会の喧騒からほんの僅かにだが離れられる。木々の緑が美しく深呼吸するだけでもリフレッシュできる気がして嫌なことがあるとよく立ち寄る。人通りもまばらで散歩の老人や同じように疲れたスーツ姿の男をよくみる。
「会社帰りたくねぇなぁ」
ほんの少しだけ休憩したいそう思い自動販売機で甘い缶コーヒーを買いぼんやりとしていた。
空腹にコーヒーが沁みる。昼前から始めて、昼食も抜いて進めた商談もうまくまとまらなかった。あと一押しだったとは思う、しかし決定材料に欠けてしまった。
「契約を取ってくるまで帰ってこなくていいよ?ってか帰ってこれないでしょ?見てみなよこの営業成績!なんで何年も雇って、高い給料を持っていく君が入ったばかりの新人に負けるの?やる気ある?」
目の前にあの上司の顔がちらつく…
そんなことは自分でもわかっている。先輩としてしっかりしなければいけない、分かってるんだ!大体新人も新人だ、大先輩が退職したから回ってきた仕事をただ仕上げただけじゃないか。それを全部あいつの成績にして…あいつの実力でもないだろ!ムカつく…新人も、上司も全てが憎らしい
「ボクの若い頃はね!仕事をしない人間なんてすぐにクビだったんだよ?いいよね、今の若い奴らは!終身雇用か何かしないけどさ…」クドクド
このまま帰ればまた嫌味と過去の自慢のオンパレードだろう。
今と昔じゃ時代が違う、取引先だってコストを下げたいし、リスクを極力回避したい。昔みたいに金にものをいわせるような時代じゃないんだ。俺は昔のほうが良かったと思う。
とはいえそんな時代俺は働いたことはない。ガキの頃が良かったなんて思うのは誰しも経験があるだろう。
「おーい!先にいかないでくれよー」
「早く来いよ!俺んちでゲームやるんだろ?」
子供時代を懐かしんでいると不意に元気な声が聞こえてくる。
営業という仕事柄相手を観察する癖がついている俺は何の気なしにランドセルをガチャガチャとならしながら目の前を走っていく小学生を眺めていた。中学年程度、走り回る感じから健康そうで遊びたい盛り、これからゲームで遊ぶ。ボール遊びや外で遊ぶほうがよっぽど健康的に感じるが…
公園で遊ぶ子供も減ってしまった。もちろん家でゲームをすることが悪いとは言わないが子供は風の子なんて言われていたのは今は昔なんだな。それもそうだ公園でのボール遊び禁止大声禁止など遊ぶことなんでできないような禁止事項がおおすぎる。なんなら犬の散歩まで禁止している公園もあるほどだ。散歩のできない公園になんの意義があるのだろう。しかしまぁ俺が子供のころは日が暮れるまで外で遊んだものだ。
子供…か、いつか俺たち二人の子供もできるのかな。
今度は妻の顔が浮かんでくる。
「ちょっと…何この給料…また減ってない?」
営業という業種である以上売り上げが立たなければインセンティブは期待できない。給料が下がったのも事実、情けない。
「結婚してゆっくりできると思ったのにこれじゃ全然パートの時間減らせないじゃない!このままじゃ子供だって作れないわよ。あーあ、結婚ってもっと簡単なものだと思ってたのに」
妻は幼馴染、隣近所に住んでおり親同士も仲が良く同級生。どこの学園物の主人公だと言われてしまうかもしれないが仕方ない。事実なのだから。妻の両親も俺の両親も共働きでお互いの家庭を支えあって小さなころから言葉の通り家族同然の関係であった。気心知れた二人が結婚するまでそう長くはかからなかった。
日々の暮らしは決して裕福とは言えないが、妻のやりくりのおかげで将来の子供のための貯蓄はできているらしい。倹約好きで家庭的、そんな彼女に惚れたんだ。それなのに最近の妻ときたら口を開けば給料が少ない、恥ずかしくて周りのご家庭とも交流できないと愚痴をこぼすことがほとんどだ。このままでは家庭を築くことすら難しいのだ。無理もないお互い貧しい幼少期を過ごしてきたのだ。妻の不満ももっともかもしれない。それでも妻は毎日のように晩御飯を用意してくれ、家事の全般をこなしてくれている。俺には出来すぎているくらいだ。
気分転換のはずだったのに嫌なことばかり思い浮かぶ。
「はぁ…全然休まらないな」
誰に言うでもなくただ独り言としてぽつりとつぶやいた。
「現代人は働きすぎじゃ!そりゃ、働くことは大事なことじゃ?でものう、日が落ちたら生き物は休んでいいんじゃよ」
「そうですね、そんな生活を送りたいものです」
ん?誰だ?俺の周りには誰もいなかったはず…生返事を返したはいいが俺は誰と話しているんだ?
あたりを見渡してみるが誰もいない。いかんいかん…嫌になりすぎて脳内に相槌を打ってくれる存在を作り出してしまったか…それにしてははっきりと聞こえたような
まるで頭の中に直接聞こえるテレパシー?妖艶で優しい包み込むような女性のだった。
「疲れてんのかな?まぁ疲れちゃいるか…覚悟決めて会社帰らないとそれはそれで怒られるだろうし…仕方ない、行くか」
手に持った青い缶コーヒーの空き缶が空の青さとは対照的に憎々しく見えて思わず握りつぶす。俺は会社に向かって歩き出した。
道路沿いの歩道を歩くと猛暑が余計に堪える。車の吐き出す排気ガス、照り返しのアスファルト、容赦ない日差し。なるほどヒートアイランドか…これが南国なら幾分かは心持も変わるかもしれないがいかんせん待っているのは上司のパワハラだ。
気分など上がるはずもない。さて、どう切り抜けるか。
最近仕事というよりこんな言い訳じみたことばかりしている。心底自分が嫌になる。
「ダメだ…暑すぎて言い訳すら考えられん」
逃げるようにビルの隙間の日陰に駆け込んだ。エアコンの室外機が轟々と音を立てて熱風を送ってくる。日陰とはいえこれではたまらない。しかし直射日光がない分こちらのがマシか、そう思いビルの間を進んでいく。日差しから逃げたことで多少頭が働いてくる。ガタガタと音を立てる室外機を遮るようにイヤホンをつけた。ノイズキャンセリング。素晴らしい発明だ。一気に静かになり自分の世界に入っていける。
考えろ。ブツブツと一人言い訳を考える。足元を通り過ぎたネズミが居たようだ。野生の動物ってのはこんなところでも生きていけるのか…しぶとく、根気よく、こんな暑さにも負けないでコイツらは生きることに精一杯だ。俺も生きることだけに精一杯になりたい。仕事とか家庭とか…考えることが多すぎるんだ。
ガツンと足に何か重いものが当たった感触でふと我にかえる
しまった。考え込みすぎて周りを全然意識していなかった。
慌ててイヤホンを外しを足元を見る。
「石?岩?」
目の前にあるのは苔むした石、かなり年季が入っていそうだ。
風化しているのだろう所々虫食いのように小さな穴が見られる。石が積み上がっていたのだろうか?
こんなビルの間に…ペットか何かのお墓だったのか?
石を積む上げるものに良いイメージが湧かない。お墓に賽の河原…死のイメージが拭いきれない。
途端背筋に寒気を感じる。あれほど暑かったはずが汗はすっかりと引いて服が冷たく感じる。
おかしい…イヤホンを外したはずなのにあたりの喧騒が全く感じられない。
静寂
人の声、車の音、あれほど煩わしかった室外機の音でさえ今は聞こえない。
「ここは…?俺会社に向かってたはずなのに…あれ?」
状況を理解できない。考え事をしながら歩いていたとはいえ営業周りでよく歩いているはずの道だ。こんなよくわからないところ俺は知らない。墓を崩したからか?
困惑は思考の破綻を生む。呪いだの祟りだのそんなもの全く信じていないが、気味が悪いことには変わりない。帰らなきゃいけない、ここにいてはいけない。思考よりも本能がそう告げている。あれほど行きたくなかった会社に早く帰りたい。足元に広がる石をほっぽり出して俺は走りだした。
あたりを見回しても何も見えない。360度見渡す限りの暗闇。走ったはいいが俺はどこに向かえばいいんだ?来た道を戻る?どうやって?方向すらわからない…
焦り、困惑、絶望、えもいわれぬ感情が襲ってくる。
目を凝らして闇を見つめる、ほんのりと明かりが見える青白く輝く何かがある。藁にもすがる思いで明かりへと駆けてゆく。
「これは…」
さっきの石だ。この石だけがうっすらと明かりを灯している。
形がさっきと違う?灯篭?いや、石自体が光っているようだ。
「なんなんだよ!」
恐怖を振り払うように声を荒らげ膝をつく。その声は虚しく暗闇に飲まれた。
「なんだとはなんじゃ?妾を蹴飛ばしておきながら随分な物言いじゃのう」
あの声だ。公園で聞こえた優しいしかし今回は非難を込めた声が確かに聞こえる。
「は?誰かいるのか?誰でもいい、ここから帰してくれ!」
「そんなに大声を出さずとも聞こえておるわ。しばし待て、今招き入れる」
招き入れる?なんの話だ?俺の妄想の声ではなかったのか?会話が成立している。非現実的なことが起こりすぎて理解が追いつかない。俺はただ会社に帰って言い訳しようとしていただけなのに。
「見えるかえ?光があろう?そちらに向かって来るが良い」
「光?どこもかしこも真っ暗で光なんて…」
あたりを改めて見回してみる。キョロキョロと首を振り謎の声に従う様は側から見れば滑稽極まりないだろう。
あった、あれだ。何も周りが見えないから距離の計りようはないけど…確かに光がある。
「何をしておる。早う来い」
言われるがまま足を進める。徐々に光が強くなる、そんなに遠くないか?いや光の方からこちらに寄ってきている?逆光が強くて光の先が全く見えない。なんにせよこんなところにいてもどうにもならない。怖い…周りの闇が何よりも、いても立ってもいられず光の中に身を投じた。
「チョウチンアンコウって利口な狩りをしてるんだな…」
光のせいか安堵した俺はただただ感心した。
目が慣れるまで幾ばくかの時間を要したが、すぐに視力が戻って来る。安堵したのもつかの間目に飛び込んできたのは大きな鳥居、所々ひび割れた石畳、今にも崩れそうな神社だった。鳥居のそばにはお稲荷様の石像がが鎮座している。
うっそうと茂る木々の力強さを感じるが、反面神社には頼りなさがある。
なんだ?ここは、ビルの隙間にこんな空間があるわけないだろう…
視覚からの情報が増えた分混乱も増える。
「おい!誰かいるのか?俺をどうするつもりだ!?」
先ほどの暗闇よりは木々のざわめきや虫の声などが聞こえる分多少は活気が感じられるがそれでも都会に慣れた俺には静かに感じ、つい大きな声で問いかけた。
「そのような大声を出さずとも聞こえておるわ」
返答があった。やはり誰かがいる。
おもむろに神社の扉が開く、こんなに崩れそうなほど老朽化しているのに不思議と音がしない。静かにゆっくりと扉が開かれる。出てきたのはいわゆる巫女装束の女性だった。
歳の頃は28前後だろうか、いやもう少し上か?白く澄んだ肌、切れ長で少し吊り目がかった目元、細い目から覗ける目は金色を帯びている、鼻筋が通っているところまでは見えるが、口元は豪奢な扇子で隠していた。全体のシルエットは華奢な印象を受ける。腰まで届くかと思うほど長い黒髪にはかんざしのような装飾が施されいかにも美人とはこういうものだと見せつけられているようだ。
しかし、なんだこの違和感は…作り物を見ているような、美しさを体現した作品を無理やり動かしているように感じる
その異様な光景に言葉が出ない。
「なんじゃ、怒鳴ったかと思えば黙りこくりよって…挨拶の一つでもしたらどうかえ?」
口元を隠しながら美女が言う。喋った…作り物ではないのか…
「あ…えっと…」
「ふむ、その反応を見るにまだ人の姿になりきれない異形なのかのう」
「いえ!とても美人でなんと声をかけて良いか!」
咄嗟に出た言葉がこれか、我ながら情けない。下手なナンパの方がまだセンスのある返しができるってものだ。
細い目を丸くした美人は
「美人?妾がか?ククク…そうかそうか、そなたにはそう見えるのじゃな」
口元を隠したまま静かに笑った。肩を小刻みに振るわせ、堪えられない笑いを必死に堪えているようだ。笑う目元は一層細くなり目尻には涙が浮かんでいる。そんなに笑うことだろうか
「妾の姿はそなたの望む姿となる。美の感覚は人それぞれじゃからな、しかしそなたは…このような女子が好みなのか!いわゆるてんぷれーとというやつじゃな!」
扇子を下ろして自らの姿を足元まで見ては時折ふんふんと納得するように頷く。わずかに見えた口元は薄めの唇に小さな顎、小顔だ。そう、完全に俺の思い描く美人がそこにいる。しかしテンプレートというには少し違うような…
「えっと、その、俺はなんでこんなところへ?と言うかここはどこであなたはどちら様なんですか?ってか望む姿ってなんです?」
先ほどまでの忌々しさから反転目の前に現れた美人に心を奪われながらも浮かんでいた疑問を矢継ぎ早にぶつける。
「当然の疑問じゃな、妾は玉藻、ここは妾の領域、そなたを見ていて哀れに思い招いた」
一通り確認し終わったのだろう、また口元を隠し玉藻と名乗る女性は答える。
「えっと玉藻さん?ですか?全部答えていただいたのですが、何一つ理解できません」
「なんじゃ…察しが悪いのう…では何から話せば良いのじゃ?今の妾は機嫌が良いゆえ、対話には応じてやるぞ」
言葉の端々から傲慢さ、そして俺に足りない絶対の自信を感じられる。しかし威圧感は感じない、不思議と安心感すら覚えるくらいだ。しかし何から確認したものか…
「またダンマリかえ?初心な女子のようじゃのう」
玉藻を名乗る美女はケラケラと笑う
「あ、いえ、そういうわけでは…その…ここは一体なんなんです?俺は会社に帰ろうとしていただけなのですが…」
「ふむ。ここは妾の領域じゃ。妾の力が作り出した空間、現世でもあの世でもなく妾が招き入れたもののみが入ることができる非常に便利な空間じゃ」
ありえないことをさも自慢げに答える。フフンと鼻を鳴らす様が見て取れる。
「あなたの力?どういうことです?俺は死んだんですか?」
「あの世ではないと申したであろう?死んではおらぬ。ただちょっと現実世界から離れただけじゃ」
理解しようとするがこれは無理だ。世の中には独自の世界観を持っていて話が通じない人間が一定数いる。そういった手合いを相手取るにはこちらの意見など意味をなさないのだ。クレーマーなどがこういったタイプだ。営業という仕事柄そういった相手も少なからずいた。今回は少々勝手が違うが似たようなものか。そう思うと自然と肩の力が抜けて考える必要がないと思えた。今は上司の怒りを少しでも減らすためにも会社に帰る方法を探した方がよさそうだ。
「妾の力についてはそうじゃの…殺生石を知っておるか?」
「確か中国から流れ着いた妖怪、九尾の狐が封印されたというアレですよね、観光名所でした。先日割れたとかニュースになってましたが」
「そう、それじゃ。割れたのではない妾が割ったのじゃ。観光名所と言われるのは癪じゃが…」
「割った?器物損壊じゃないですか!」
「いやいや、石にされて何百年とその場に放置する方がよっぽど罪ではないかえ?」
「え?もしかして、あなたが」
「やっと繋がったか?妾は九尾の狐、日本では玉藻御前と呼ばれておる」
「いやいやいやいや、急にそんなこと言われて信じろという方が無理ですよ」
「そなたが信じずとも、他の人間は多数信じておるぞ。我ら妖の力の源は人の信じる力じゃ」
「いきなりすぎますよ。大体俺は霊感とかそういうの全くないんですから…」
「そんなものいらんわ。妾がそなたに姿を見せる。そう決めたら見える、見えぬものは何をしても見えぬわ」
ぐうの音も出ない。理解できない存在が理解できないことを宣っている。
「妾が封印されたのがおおよそ900年前。石を割り、現世に出てこられたのがほんの数年前じゃ。しばらくこの世を見ておったが…今の人間は皆働き者じゃの」
「え…おばあちゃんもおばあちゃんじゃないですか」
「人の枠に当てはめるでない。900年ほとんど眠っておったし、こーるどすりーぷというやつじゃ!」
「いや…どこまでが冗談なのか…」
俺はなんでこんな普通に会話してるんだろう…思考を放棄するとこんなにも楽なのか…普段のクレーマーと違い会話は成立するのでなんとも不思議な感覚だ。
「それで、伝説の妖狐さんがなんで俺を招いてくれたんですか?」
「おお、それじゃ。先にも言ったが現代に慣れればならなくてな。人を観察しておったのじゃが、色々な人間がいる一方で妖の存在が随分と減ってしまってな。ひとまず手頃な人間と接触してみようと思ったのじゃ」
「はぁ…」
「そなたはよくあの公園に行くじゃろ?あの場所は妾にとっても思い出の場所でな、形こそ変わってしまったが逢瀬によく使っていた場所なのじゃ。妾の想いの強い場所に負の感情の強い人間がいて目障りだったものでな、ちと力を貸してやろうと思ったのじゃ」
「目障りって…なんで俺なんです?疲れた社会人ならあの公園にたくさんいたと思うんですが」
「確かに疲れただけのものならたくさんおる。じゃが、皆何かしらの希望を持ち自分で打開しようと奮起しておる。そしてそれは将来的に実る。救いが待っているのじゃ」
「なぜそんなことがわかるんです?」
「妾をみくびっておるのか?未来視などお茶の子さいさいじゃ」
「じゃあその未来視で俺の将来は…」
「ふむ。破滅じゃの。毎日のように会社で神経をすり減らし、家庭で癒されることもなく途方に暮れ、絶望し、自死する」
「そんなバカな…俺だって自分にできることはちゃんとやってきた!この先も続けていくんだ!」
「そう、愚直に真面目にそなたは生きていく。じゃが報われない。妾にはわかる」
人智を超えた存在に生き方を完全否定されてしまった。未来が見えるだと?バカな。
「未来が見えるというならば!なぜあなたは殺生石などという石に封印されたのですか?」
「妾が望んだのじゃ。妾という存在は人が生まれる以前からあり、伝聞や噂話で実体となった。多少眠りについても良い時期だったのじゃ、あの陰陽座と約束しての、起きたくなったら起きて良いという約束の元眠りについた」
「ではなぜ…今なんです?目を覚ますのが」
「眠ることに飽きた。それだけじゃ、気まぐれじゃよ。そしてたまたま思い出の地に行ってみれば辛気臭い人間がおるではないか。しかも毎日のように」
確かにここしばらくは何か嫌なことがあるとあの公園に向かっていた。
「なるほど?他にも聞きたいことは色々あるけど、まずはどうやったらここから返してもらえるんです?もしかして俺殺されます?」
「そんなこと誰がするんじゃ、なんの得にもならん。そなたが生き方を変えて未来を変えられるならそれで良い。辛気臭いやつがいなくなるならの」
「そんな、やり方変えろっていわれても俺にはこのやり方しか…」
うつむき、言葉をなくしてしまった。
「現代人はせっかちじゃのう、結論を急ぐでない。そなたが不器用なのは承知してあるからこそここに呼んだのじゃ。妾の力を貸してやろうと思っての」
「力を借りる?」
妖の?伝説の九尾の狐の?
「そなたがここに来て妾と話している時、もうどうでも良い、と考えることを放棄したろう?」
確かに放棄した。理解するには超常的なことが起こりすぎている。それならば受け入れて話を進めた方がはやい。理にかなっているはずだ。
「そして今や妾の存在を認識し、多少なりとも信じている」
確かに、こんな非現実的なことが起こせるのは人間業じゃない。ならば妖の存在があっても良いのかもしれない。少しはそう思っている。
「人を信じさせる力じゃ」
「それって…」
「妾たち妖の力は人に信じられてこそじゃ。妖は皆誰もこの力を持っておる。それをほんの少しだけそなたに貸してやろうと言っておる」
にわかには信じられないがそんな力があるなら商談だろうがなんだろうが思いのままだ。とはいえうまい話には裏があるのが常識、まして相手は妖を名乗るような得体の知れない存在だ。逡巡しているとさらに得体の知れない存在が話しかける
「訝しんでおるのう。わかるぞ、妾が力を授けたとして何か代償があるのではないかと思っているのであろう?」
お見通しか…正直に聞いてみよう
「その通りです。代償もなくそんな力を与えてくれるとは到底思えない。目的を聞きたい」
「簡単なことじゃ、妾の暇つぶしじゃよ。ここ数年人間を観察してあったがほんに幸せそうな人間がついぞ見当たらなくてな、嘆かわしい」
「俺が幸せになることでなぜあなたの暇つぶしになるんです?」
「玉藻御前をよう知らぬようじゃな。そういう妖なんじゃよ。気に入った男を幸せにするのが性なのじゃ」
「人間の常識で考えてわかるわけないか」
「良き心がけじゃ、してどうする?受け取るか?」
「もし断ったら?」
「そのままそなたは会社に向かうこととなる。この場所の記憶も何も残さぬ。ただ日常に戻るだけじゃ、ここで過ごした時間分会社に遅れるから大目玉じゃろうがな」
クスクスとイタズラを企んでいる子供のように小さく笑う。
「もし、力を授けて帰ればうまく言い訳すれば信じてもらえるぞ?上司に怒られるのはもう懲り懲りじゃろ?」
確かにそうだけど…
「代償は本当にないんですか?」
「疑り深いの、代償というほどではないが…嘘をついてはいけないという約束はしてもらう。嘘を信じ込ませては人間界がおかしくなってしまうのでな。それでは妾の楽しみも半減してしまうからの」
「もし嘘をついたら?」
「嘘にならないようにしなければならぬな。現実的な範囲でれば事実になる」
「ってことはとんでもない非現実的な、たとえば1999年7の月空から恐怖の大王が降りてきて…的なものは無理と」
「なんじゃそれは…まず無理じゃのう。恐怖の対象など人それぞれであるし、なぜ空から降ってくるのじゃ」
「それはそう思います。嘘とは違いますが人に命令することはできるんですか?」
「そなた次第じゃ。内容にもよるが、簡単なことなら可能じゃ。相手の意思、現実的な範囲、そなたの力への適応能力次第じゃがな、過去に起きたことは何をしても変わらぬ。だからこそそこに嘘があると現実が歪んでしまうのでな、約束を反故にしたと判断させてもらう」
「つまり未来はある程度どうにかできるかもしれない力…過去のことについて嘘は絶対にダメ」
「未来のこともあまり無茶を言ってはいかんからの」
「もしも非現実的な未来を言ったり、過去を捻じ曲げるような嘘をついたら?」
「約束を破ったらか?そなたのそこまでの力の使い方を見て決める。多く使えばその分利子をつけて返してもらう」
「利子?」
「最低限力は返してもらう。そこは決まりじゃからな。その後は今はなんとも言えぬ」
これ以上詳しく聞くことは難しそうだ。というか想像がつかない。
嘘をついてはいけない。真っ当に正直に生きるってだけの話だ。そしてそれをみんなが信じる。そこまで難しい話ではないだろう。なんにせよこのまま帰って大目玉を喰らうことが確定しているなら多少なりとも対抗策が欲しい。
しかし考えろ、ここまで多くの情報を玉藻と名乗る存在は話している。
俺は営業だ、手の内を全て晒すのは二流のやり方だ。裏があると考えるのが妥当だ。
機嫌がいいからとここまで聞き出せた。あまり質問をしすぎても気分を害するか…
様々な考えが頭を駆け巡る。どれほど考えても答えを出すには情報が足りない。
大前提として相手は人ではなく妖だと名乗っている。この時点で尋常ではない。冷静に考えようとするほど矛盾が生じてしまう。ならば、常識をすべて捨てて、通常の思考を捨てて身を預けるのが最善の策。
「わかりました、その力貸してください。」
「おお、よいぞ」
二つ返事で了承されると口元の扇子をパチンと音を立てて閉じた。
「見えるかえ?」
そう言うと玉藻は扇子の先端に視線を向ける。
扇子の先には青い炎のような玉のようなものが浮かんでいる。
「これを飲み込むのじゃ。さすれば妾の力の一部がそなたにも使えるようになる」
飲み込む?駄菓子であったアワダマくらいのサイズはありそうだぞ?喉に詰まらせて死ぬんじゃないか?
「心配するな。害はない」
不安を見透かしたように目をさらに細めて微笑みかける。
じわりじわりと玉藻が近づいてくる。
「よいか?ゆめゆめ忘れるでないぞ?仕事でも、家庭でも、一切の嘘を禁ずる。真実のみを語るのじゃ」
口元に青い玉が当てられる。意を決して口に含むとほのかに甘く温かい。先ほど見たサイズよりも小さく感じ、思いのほかすんなりと喉元を通って行った。
「よしよし、ようやった」
玉藻の顔が近い。頬に手を添えられ見つめ合うような形になる。先ほどまでの細い目は開かれ扇子を外した口元もあらわになる。
瞳孔は縦に長くまさに獣の目、ニヤリと笑う口元には犬歯が鋭く見えた。これを隠していたのか…そういえば狐って捕食者側だもんな…
一人合点がいくと意識は遠のき体から力が抜けていく…
「頼んだぞ?妾を退屈させるでないぞ?」
薄れゆく意識の中で玉藻の声だけがいやにはっきりと聞こえた。
「……つっ!」
気がつくとそこは会社の前だった。
車のクラクション、行き交う人の波、忘れていた真夏の強烈な暑さ。先ほどまでのいた空間とは何もかもが違う生きてる、現実の世界。人の行き交う歩道に突っ立っているものだから訝しげな目で見られる。立つ瀬が無い
あれは夢だったのだろうか?やけにリアルでまだ喉を通った飴玉のような感触が残っている。
あれからどれくらい時間が経ったのだろう。
時計を見ると既に15時近くになっていた。
商談を終えて帰社する連絡をしたのが確か14時前くらいだったはずだ、1時間少々経過していることになる。
「まずい…」
徒歩で20分程度の商談先で1時間も帰ってこないとなるとさぞかし上司はご立腹だろう。
暑さのせいだけではなく一気に汗が吹き出してくる。焦燥と居心地の悪さから急いでビルに入り、事務所のある六階へ向かうためエレベーターを待つ。全然降りてこない。
「なんで三階でずっと止まってんだよ。こっちは急いでるってのに…急病人でもでたか?」
思わずぼやくと同時に救急車のサイレンが聞こえる。
救急隊がビルに向かって駆け込んでくる。無線だろうか?時折聞こえてくる断片的な音声でどうやら本当に三階で急病人が出ているようだ。
仕方がない。階段を使うしかない。六階まで駆け上がるとなると骨が折れるが…重い足取りはさらに重くなる。怒られるのは確定しているのにその道を自らの足で…しかも六階、なんの罰だと言うんだ。
三階に差し掛かると慌ただしい空気が見える。どうやら心臓発作のようだ。意識はあるようだが呂律の回らない言葉で何かを訴えている
「がっ…くら…ううぅぅ…」
苦悶の表情を浮かべながら救急隊にしがみつく様は鬼気迫るものを感じる。命のやり取りの現場の緊張感に比べれば俺の仕事なんて気楽なもんかも知れない。
おっといけない。野次馬をかき分け登り階段を進んでゆく。
踊り場で突然あの声が聞こえる。
「そなた…約束を忘れておらぬか?」
「え?」
振り返りあたりを見回すが何も見当たらない。階段を登ってきて熱くなった体が一気に冷えていくのを感じる。
「急病人が出たなどと嘘をつきおって…まさかこんなに早く約束を破られると思わなかったわ」
「嘘?ちょっとした冗談というか悪態というか…その程度のものじゃないですか」
「しかしあの時点では急病人などおらぬかったたぞ?流石に退屈凌ぎにもならなくなりそうで急遽病人を用意して事実にはしたが、不用意な発言は慎むのじゃ」
「急病人を…用意した?」
「あの場にいた人間に発作を起こすよう施しただけじゃ。さすれば嘘にはならんからな。全く…そなたは正直ものでなければならぬ」
「俺の一言のせいであの人は倒れたっていうのか?」
そんな馬鹿な。ありえない!もしそうだとしたら言葉は力なんかじゃない、呪いの類だ
「何億といるうちのひとりじゃろ?妾は一人しかおらん。せっかく楽しくなると思ったのにこれではご破産じゃからな」
「意味がわからない…」
自分が楽しむために他人を犠牲にする?いや、心臓発作を起こさせる力がある?俺を助けた?
疑問符しか浮かんでこない。しかし確かな怒り、恐怖を感じる。とはいえ相手は常識が通じないタイプの存在だ。もし俺の言葉で病人を出す結果を生んだのだとしたら軽はずみなことはもう言えない。
「すみません。以後気をつけます」
「うむ。素直な良い子じゃ、妾はいつでも見守っておるからの?」
もう声は聞こえない。視線を感じることもないがこれは警告と捉える方が自然だろう。いつ何時でもお前を見張っている。約束を違うな。破れば同じような目に遭う…死。
まだ力を借りて1時間も経ってないはずなんだが…彼女の言う利子とは闇金など尻尾を巻いて逃げるほどの暴利なのかも知れない。いや、そもそもあの感じだと人間の命などはなから価値がないと思っているだろう。最安の利子でも命は覚悟するべきか…気を引き締めなければいけないな。
考えを巡らせながら階段を登り俺の働いているオフィスの入り口に辿り着く。入り口にセキュリティ用のゲートがあり社員証をかざすことで中に入れる。
ふう…怒られる覚悟はもうできている。ただなんと話をしたものか。遅れた理由。嘘はつけないし、まさか妖狐にあって力を借りたなんてことも言えない。質問には慎重に答えなければならないな。
ピッ「お疲れ様です。どうぞお入りください」
ゲートはいつもと変わらず俺を中へ案内してくれる。
何はともあれ会社には戻ることができた。
何ともあれ上司に謝りに行かねばならない。最優先事項だ。このままではオフィスの空気が最悪のままだ。
すれ違う同僚が目を合わせてすらくれない。ああもう、これはもうかなりのご立腹なのだろう。あの上司は不機嫌を周りに撒き散らして空気を悪くする。そのせいで不機嫌になった発端の人間に関わるまいと無関係な人間は無視を決め込む。褒められたものではないが俺もその一人だ。ほかの誰かが発端となったとき、関わったり助け舟を出そうなどとは到底思えない。つまり俺にそれを咎めることなんてできない。
仕方ない。とりあえず自分のデスクに荷物を置こう。
デスクの上には花瓶。一輪挿しの菊の花。
なんだこれ?考えるまでもない、あの上司の嫌がらせだろう。まったく子供じみた真似をしてくれる。どう考えてもパワハラだし何よりイジメだろこれ。むしろこのご時世でよくやるよ。出るとか出たら絶対勝てるぞこれ。なんかもう笑えてきたわ。怒りと呆れでプルプルと肩を震わせていると背後からわざとらしい声が聞こえる。
「おやぁ?これはこれは、全然お戻りにならないからお亡くなりになったのかと思いましたよ」
出たな…振り返らずともわかる嫌味ったらしい声、喋り方。上司だ。
「こんな時間まで帰ってこないものだから、事故にでもあったのかなぁって思ってなぁ」
「はい。遅くなって申し訳ありません」
振り返りとりあえず謝罪をする。ニヤニヤとねちっこく笑いながら見下してくる。
「いったいぜったい何をしていたんだね。取引先までそんなに距離があるわけじゃないだろ、説明しろ」
「はい。では説明させていただきます。まず、この度の商談は先方のご意向にうまく沿うことができず成立とはなりませんでした」
「そんなことだろうと思ったよ。先方から連絡があったからな。別の営業マンを寄越してくれってな。質問をしてものらりくらりとかわされて要領を得ないし、なんか信用できないとさ」
「そんなことを…おっしゃってましたか」
「そんなことよりも!こんな時間までなにをしていたんだ!?」
怒声、キーボードを叩く音が響いていた事務所が一瞬にして静まり返る。みんなが俺の言い訳を待っているようにすら感じる。下手なこと言うなよ?火に油だぞ?と言いたげな目で皆が見ている。しかしこれはチャンスだ。俺のことを信用させてみせる。その力が本当にあるかどうか、お前は実験台なんだ。
「申し訳ありません。先方より交渉決裂の結果を伺った際少々疲れが出てしまいまして、帰社途中にある公園で少々休憩をしていました」
なんだ?話をしているだけなのにお腹が熱い感じがする。ヘソの下あたりか?ほんのり暖かく感じる。
「それで?」
「次の商談の際にはどうしたら良いか、今後の仕事をどう進めていくか、そういったことに思いを巡らせていました、自問自答が長くなってしまい気がつけばこのような時間になってしまいました、遅くなってしまったことはお詫びします」
「つまり、今回の商談の反省をしていたと言うことか?」
「はい」
「次はちゃんと相談しろ。仕事は報連相だ」
言葉を残し上司は自分のデスクへ戻っていった。フロアにキーボードの音が響き渡る。みんな通常業務に戻ったのだろう。
え?全然怒られない?普段なら何サボってるとか、やる気あるのか?とか油売ってないで自社製品を売れとか小一時間は説教が止まらないはずなのだが…これが信じさせる力か!なんて便利な力なんだ!何はともあれ一難去ったのだ。あっぱれ!小躍りしたくなる気分で席に着く。さてこの力、どうやって使ったものか。
課長のデスクに贔屓にしている新人が呼び出されている。デスクまで距離があるので何を話しているかは聞こえないがおそらく俺の後釜を任せるつもりだろう…ちくしょう
退社時間。オフィスにチャイムが鳴り響く。商談を成立させた人間はまだまだやることがあるのだろうが…残念ながら俺は机の上の花瓶を片付けるだけで残業してまで片付ける仕事がない。さっさと帰るとしよう。
「おつかれっしたー」
同じように残業のない社員が次々と退社していく。
「先輩、課長がお呼びですよ」
え?呼び止められるとそこには新人くんがいた。先ほどまで課長のデスクの横にいた新人くんは課長のお気に入りだ。それもそうだ。入社するなり成績を上げているのだ。俺が上司でも贔屓目に見てしまうだろう。
「さっきは随分すんなりおわりましたからね、内心はらわた煮えくりかえってるかもしれないですよ?」
冗談でも恐ろしいことを涼しい顔で言うやつだ。今俺がそんなこと言ったらえらいことになるとも知らないで暢気なものだ
「分かった。すぐにいくよ」
先ほどの件の続きだろうか、せっかく何事もなく済むかと思ったがそうは問屋が卸さないらしい。
「課長、お呼びでしょうか?」
「おお、来たか。実はな今日の商談の件なんだが」
「はい」
やはりお説教か、それとも後輩に話を回すのだろうか
「次の商談もお前に任せようと思ってな、今日のことはしっかりと反省して次に生かしてほしい」
「え?」
「先方にはもう一度お前にチャンスをくれてやってくれと私から頼んでおく」
「ありがとうございます!」
「今日はもう帰れ、明日からよろしく頼むぞ」
「はい!お先に失礼します」
すごい!まさかまたチャンスが来るとは正直思っていなかった。妖の力ってのはこんなにもすごいものなのか?俺のことを信じてくれる。それだけでこんなにも自信がわいてくるものなのか。いわれた通り今日はもう帰ろう。
「課長?本気ですか?」
「なんだ?不満でもあるのかね新人の分際で私に意見するとはずいぶんじゃないか」
「気分を害してしまったなら申し訳ありません。ですが…その、先輩は少々頼りない部分があります。先方の言うことも最もだと思うんですが」
「あいつの目みなかったのか?」
「目ですか?」
「俺の目をまっすぐに見て、言い訳せず、本気で話した。あんなに怒られているのに、だ」
「課長…自覚あったんですか?」
「当たり前だろ。最初は時代に迎合して甘やかしてみたが…話にならねぇ。ならやり方は古いが実績のあるやり方で鍛えてやらねぇと俺がいなくなったら大変になっちまう。別のやつが管理職にでもなってみろ?あいつすぐ左遷か解雇だぞ?」
「やりすぎたら課長が危ないですよ?」
「んなもん、老害が騒いでるだけだってどうにでもなるさ。でもまぁ、今回の件であいつが変われるなら俺も変わる。対人関係ってのは鏡みたいなもんでな、自分がダメなときは相手も嫌な奴にみえてしまうものさ」
「いい人なんだかなんだかわかりませんね」
「馬鹿野郎、古いだけで、俺は部下思いのいい上司だよ」
「いい上司は自分で言いませんよ」
「ちげぇねえな。ただ、先方の社長も古いタイプの人間だ、今回みたいな対応ができれば多分うまくいく、そこにかけてみる。お前のような小綺麗なタイプよりあいつみたいなほうがあってる場合もあるんだよ」
「さようですか、課長がいいっていうなら、それでいいですよ」
「おう、じゃあお前も早く帰れ、幻と消えてしまったプレミアムフライデーの復活を俺は待ち望んでんだ」
「課長、まだ火曜日です」
「こまけぇやつだな。とにかく、今回はあいつに任せるからよ」
「はい、お先に失礼します」
「帰る前にあいつをここに呼んでおいてくれ、お疲れさん」
面白くない、あの商談は最初から僕が行けばもっとすんなり終わっていたはずだ。ほかの先輩たちにかわいがられて営業のノウハウは一通り押させている。
うまくいきっこない、そしたら横から僕が出て行って成績をかっさらえばいい。いつものことだ。
そうと決まれば先輩の商談のおこぼれを待つだけだし、しばらく余裕ができそうだ。同期の女の子でも誘って飲みに行くか。
家への道すがら俺はケーキを買った。家に帰って妻と食べるんだ。こんなにも晴れやかな気分で帰るのはどれくらいぶりだろう。明日からの仕事の成功がほぼ確約されているんだ。前祝をしてもいいじゃないか。そんな気分だった。
二人で必死に働いて建てたマイホームに帰ってきた。決して広くないが庭もある。駅から多少遠くて不便がないといえばうそになるが、郊外でも一国一城の主になるというのは気分の良いものだ。ローンが残ってはいるが、この力があればすぐに返済できるだろう。会社を出て1時間程度電車に揺られ、駅から家までは20分ほど歩くことになる。しかしその20分の間にスーパーもあるし、今回のようにケーキを買うことだってできる。少しの不便は楽しむことも重要なのだ。
意気揚々と家に着いたが明かりがついていない。おかしいな。今日はパートの日だったか?
「ただいまー。いないのか?」
玄関を開け家の中に呼びかけるが返事がない。いつもなら多少喧嘩していようと必ず返事くらいはしてくれるのに。
住み慣れた家のはずだが真っ暗な我が家は異質に感じる。なんだ、この違和感は。
「おーい。帰ってきたぞー」
やはり返事がない。胸の内にざわめきを感じる。そしてわずかにだが気配を感じる。トントンと規則正しく何かをたたくような音が聞こえる。音の出所を探るため恐る恐る暗い我が家を進んでゆく。
キッチンにたどり着く、音の正体は包丁とまな板。妻はそこにいた。明かりもつけず、暗闇の中何かを切っている。トントンと一定のリズムで。何度も何度も。絶えることなく音が続く。こちらに顔もむけず、背中越しに声をかける。
「お…おい。どうした?こんな暗い中で、手元も見えないだろ?危ないぞ?」
トントントントントントントントントントントントン
音が途切れない。振り向く気配もない。背中に一筋の汗が流れているのを感じる。
「ただいまー。あれ?もう帰ってるの?電気もつけないで何してるの?」
背後から聞き馴染みのある声がする。急いで振り返るとちょうど廊下が明るさを取り戻していた。明かりの下で見る声の主は妻だった。再度キッチンに目を向けるがもう影は見えない。動揺を隠すように精一杯声を捻り出す。
「おお、ただいま」
「どしたの?そんな不思議な、キツネにつままれたような顔して…」
「いや、なんでもない。それよりケーキを買ってきたんだ。よかったら一緒にどうだ?」
「ほんとにどうしたの?何か記念日だったっけ?」
「いや、でもこれから今日という日を記念日にしていこうと思ってね」
「なにそれ変なの。でもせっかくだからいただくわ。ということは今日のお仕事がうまくいったってことかしら?」
「いや、今日の仕事自体はいつも通りうまくはいっていない。でも明日から、必ずうまくやってみせる」
「いやに自信がたっぷりじゃない。最近あんなにしょぼくれていたのに、でもいいことだと思うわ。そうね、たまには何もなくったって自分にご褒美があっていいわよね、いつもお疲れ様」
ねぎらいの言葉、そんな言葉を聞いたのはいつぶりだろうか。よかった。こんな荒唐無稽な話でも信じてもらえる。そして何一つ嘘は言っていない。約束を守りつつ事態を好転させていけばいいんだ。
「まだスーツのままじゃない。早く着替えていらっしゃい。ケーキの準備はしておくから」
「ありがとう。お言葉に甘えるよ」
クローゼットに向かい部屋着へと着替える。このスーツもだいぶくたびれてきてしまった。贅沢三昧しているわけではないから体形は維持できているのでずーっと同じスーツを着古している。考えてもみろ、みすぼらしい営業マンの商品なんて誰が買いたいと思う。明日以降の仕事をうまくやりきってまずはスーツを買い替えよう。人は見た目が九割だ。第一印象なんて見た目以外の何物でもない。それが仕事相手ならなおさらだ。入社した時のようなモチベーションが戻ってくるようだ。
「ちょっとー。まな板つかった?何切ってたのよこれ」
キッチンのほうから妻の声が聞こえる。そうだ、暗闇で確かにまな板で何かを切っている存在がいた。
「ケーキを切ろうと思ったのになによこれ」
「俺じゃないぞ?何か作ろうとしていたんじゃないのか?」
着替えを終え、部屋着になった俺はキッチンに顔を出す。
「先に帰ってきたのはあなたでしょ?晩御飯の準備をしようとしてくれいたんじゃないの?」
「いや今日はまだ…」
「じゃあなんでこんなにまな板がよごれているのよ?」
「片づけないででかけてしまったんじゃないのか?」
「そうだったかしら…ま、いいわ。せっかくのケーキなんだし早くいただきましょう」
「そうだな、晩御飯はどうする?なにか準備するか?」
「もう遅いし何か出前でもとってしまいましょう。たまには何もしないで食べるだけっていうのもいいでしょ?」
「ああ。もちろん構わないよ。じゃ何をとるかな」
「さすがに出前だけだと悪いからお味噌汁くらいは作るわよ。確か昨日買ったお豆腐とか油揚げが冷蔵庫にあったはずだから」
「そしたら、サラダと何かメインのおかず、ご飯くらいでいいか」
「あれ?油揚げがない?おかしいな。買ったと思ったんだけど、取り合えずお豆腐だけでいいかしら」
「ないものは仕方ないよ。いつもありがとう」
「何よ気色悪い」
「いや、いつも思っているんだよ、結婚してくれてありがとう」
「そんなこと言ってもケーキ以上のものはでてこないわよ?」
冗談を返す妻の顔は少々赤くなっている。日ごろから感謝はしているが言葉として伝えるのは初めてだったかもしれない。正直に話すってのも意外と悪くないものだ。
適当に近所のファミレスから出前を取り夕食、そして買ってきたケーキを二人で楽しむ。
久しぶりの安らぐ家庭。妻の手料理が味噌汁だけで残念ではあるが、二人そろっての食卓自体が久しぶりなのだ。ほのかにではあるが幸せを感じずにはいられない。このまま俺の仕事がうまくいけば妻に働いてもらわずとも家庭を築いていける。とにもかくにも明日からの仕事を頑張ろう。そう誓った。こんなささやかな幸せが続けばいい。それでいいんだ。
カーテンの隙間から朝日が差し込み太陽光が否が応でも覚醒させる。まぶしい。
昨夜は妻と久しぶりにゆっくり過ごすことができた。今日から俺は変わるのだ。
隣で寝ている妻を起こさぬようゆっくりと身を起こす。妻に太陽光が差さないようにカーテンを閉めなおす。寝ぼけ眼をこすり洗面台へと向かう。鏡に向かい自分に言い聞かせる。
「大丈夫。お前はできる」
言葉にすることで一層自信がわいてくる。腹の中をあの温かさが包んでいく。ひげをそり歯を磨き髪をセットし一日を始める。いつものルーティーン。何も変わらない日常。だがしかし、今日は違う。
新たな一歩の始まりなのだ。スーツに着替えて玄関に向かうと少し遅れて妻が起きてくる。
「いってらっさい…」
まだ寝ぼけているのだろう呂律が少し怪しい。なんだかかわいく感じて愛おしい。
「ああ、行ってきます」
玄関を出るとまだ7時だというのに強烈な日差しが襲い掛かる。今日も暑くなりそうだ。
普段ならうっとうしく感じる暑さも今日は楽しんでやると思えるほどだ。さぁやってやるぞ!
いつもの満員電車に揺られ会社に向かう。冷房を全開にしているはずだがここまで人がすし詰め状態だとあまり意味をなさない。どんな気持ちの持ちようでもこれは堪える。
あたりを見渡せば疲れた顔をしているサラリーマン、仕事終わりであろう水商売風の女性、通学の学生いろんな人の人生がこの中に詰まっている。そんな中二、三人分車両の奥にベビーカーを傍に携えた若い女性が乗っているのが目に留まった。
満員電車でベビーカーとなるとどうしてもスペースを圧迫してしまう。あまり歓迎されるものではないが大変なのであろう。時間をずらすこともできなかったのであろう。申し訳なさそうに身を縮こませ立っている。
「チッ…邪魔くせえ。わざわざこんな混む時間帯にそんなもん乗せんじゃねぇよ」
すぐ横で悪態をつくサラリーマンがいる。気持ちはわかるがわざわざ聞こえるようにいう必要もないだろうに…歳の頃は自分よりだいぶ年上そうだ。50前後だろうか、会社である程度の地位を確立していてもおかしくなさそうだ。
「ただでさえ混んでるのに何様のつもりだよ」
徐々にヒートアップしてきた。虫の居所が悪いのか些細な日常に苛立たしさを感じているらしい
「仕方ないではないですか、事情があるのでしょう」
つい口先から庇う言葉が溢れてしまった。普段なら絶対に相手にしない面倒くさそうな相手なのに…自ら絡みにいってしまった。
「あ?なに?俺にいってんの?」
「あなたにですよ。そんなにイライラしてもいい事ありませんから、あの方にもこの電車に乗らなきゃいけない何かがあるのかもしれないのです、大人になりましょう」
苛立つ男に苛立つ俺がいる、腹の底が熱くなるようだ。
「なに説教垂れてんだよ。めんどくせぇ」
そう吐き捨ててちょうど到着したホームに男は逃げるように降りていった。いいことをした。そう思う。人間はお互いに思いやりを持って生きるべきだ。少しでもあの男が思いを改めたのならそれでよしとしよう。
しかしすごいな。少し話をしただけで相手をたしなめることができるとは。便利な力だ。出社前の予行演習としては良かったかもしれない。
一人悦にいっているともう俺も降りる駅に到着する。
車内をかき分けホームに降りる。どっと汗が吹き出してくる。輩のような男に声をかけるなんて慣れないことをしたものだから緊張もあったのだろう。
「あの、ありがとうございました」
「え?」
振り返るとそこにはベビーカーを押した先ほどの母親が立っている。
「いえいえ、ただ私がしたくてしたことなのでお気になさらないでください」
「それでもお礼は言わせてください。最近心無い言葉を掛けてくる方が多くいるなか本当に嬉しかったんです」
「そうでしたか、大変なことも多いと思いますが子育て頑張ってください」
「はい。それでは失礼します」
ベビーカーを押した女性は俺の横をすり抜けていく。
「善き行いじゃ、励めよ。それと昨晩は油揚げ馳走になった」
耳元で囁かれすぐに振り返ったがそこにあの女性はもう見当たらない。
玉藻…?こんなに近くにいるのか…昨日のキッチンの影もあいつか…
最初は声、次はシルエットのみ、今回は堂々と俺の前に現れたってことか…
胸騒ぎ
徐々に玉藻が生活圏に入ってくるそんな予感
俺の生活は平穏に済むだろうか…朝方の希望は不安に変わりつつある
出社して開口一番課長に告げられた。
「今すぐ昨日の取引先に行ってこい。話は通してある。もう一度お前にチャンスを与えて欲しいと」
出勤して早々俺は事務所を後にした。
取引先から温情を頂いた形になる。菓子折りの一つでも持って行ったほうがいいのだろうか。たがしかし、媚びへつらっていると取られるのもよろしくない。ここは着の身着のまま体当たりで行こう。俺には言葉の力がある。
取引先には難なく到着した、昨日のように変な空間に導かれることもなかった。いつも通りの道を歩きいつも通りの時間で到着。変わるのはここからだ!
「失礼します。昨日商談をさせていただきまして、本日またお話を聞いていただけるということで参ったのですが」
受付に簡単に自己紹介を済ませると早々に応接室へと案内される。受付の女性に案内されて中へ入ると…昨日とは別の人間が応接室にいる。
「は、初めまして、私営業で参りました…」
「君のことは知っているよ、昨日対応した社員から名刺も預かっている。自己紹介などは抜きにしてさっさとビジネスの話をしよう。それとも私の自己紹介をしたほうが良かったかな?」
そんな必要は全くない。取引先の社長の顔なんて知らないほうがどうかしてる。
「存じ上げております。社長自らとは…正直緊張してしまいます」
「はっはっは!なにそう硬くなるな。手の空いているものがいなかったので1番暇な私におはちが回ってきただけの話だ」
豪快に笑うと肩をバシバシと叩き椅子へと座らされる。
「さて、君のところの製品の話だが…こちらとしても良いものだというのは分かっているんだ。しかし見ての通り会社自体も大きくないし、昨今の物価高で予算に余裕があるわけでもない」
「はい」
「単刀直入に言おう。15%引いてくれれば購入する」
話が早い。社長にもなる人間は即決即断が基本なのだろう。自社製品の値引率は基本的に営業に任せられている。もちろん上限はあるが…15%はいけない数字ではない。
「社長、私も今日は本音でお話に参りました。15%であれば販売することは可能です」
「ほう、ではそれで決まりだな」
「お聞きください。私の希望は定価の10%引きまでです」
「いやいや、15できるのだろう?」
「可能ではありますが、私の会社での立場が、メンツがあまりよくありません」
「がっはっはっは!メンツときたか!随分と素直な物言いじゃないか!うむ。良い目をしているな。後に引けない、真摯な男の目だ。分かった。良いだろう。10だ」
「ありがとうございます!」
「私は社員を守る立場の人間だ。そんな目をして会社のために働く社員がいる会社が羨ましいよ。そしてそんな男を無碍にできるほど甲斐性なしでもないつもりだ」
まさかこんなに簡単に決まるとは…これで大手を振って課長に報告できる。
返事の後は早かった。必要な書類にサインをもらい契約成立。拍子抜けするほどだ。
「今後とも是非よろしくお願いします」
「ああ、久しぶりに気持ちの良い商談だった。今後もうちには君が来てくれよ」
「是非」
取引先から出ると外は祝うような快晴だ。雲ひとつない。夏の日差しは容赦しないがその日差しすら心地よく感じる充足感。久しぶりの感覚だった。少し公園へ寄るか。
昨日とは違う。今日は達成感に包まれてこの公園に来た。生い茂る木々も俺を祝うかのように風に揺れている。元気よく走っている子供は昨日と同じだろうか。自動販売機で缶コーヒーを買い一人祝杯をあげる。
「ふぅ…」
一息つき気分を落ち着かせる。甘いコーヒーが染み渡る。さっさと報告して書類を片付けよう。朝一から営業に出ているから残業もなく今日も帰れるだろう。仕事が楽しい、そう感じるのは久しぶりだ。生きるためには食わねばならない、そのためには働いてお金を稼ぐ必要がある。いつからか働くことはお金を稼ぐだけのものになっていた、やりがいを感じることもなく、理不尽なクレームやパワハラに耐えるだけになっていた。成果を上げるよりも解雇されないことを最重視していた。一つの成功体験だけで人はここまで変われる。
今日の出来事を反芻しているとポツリポツリと雨が降り始めた。空では太陽がこれでもかと日差しを浴びせているのに、いわゆる天気雨だ。
せっかくの気分に水を刺された気がして足早に公園を離れる。事務所まで走り抜けるとちょうど雨が上がった。
「今日は気分転換の必要もないし、このまま仕事に戻るか」
エレベーターに乗り込み事務所を目指す。
ピッ「お疲れ様です。どうぞお入りください」
ゲートを抜け自分のデスクに荷物を置きに向かう、ふと良い報告は早いほうがいいかと思い課長のデスクへ向かった。
「課長、お疲れ様です。ただいま戻りました」
「お、ご苦労。して、どうだった?うまくいったか?」
「はい。定価からの10%引きにはなりましたが先方との商談成立となりました」
「10%か、15-20%くらいは覚悟していたから上出来だ。書類の方も引き続き頼むぞ。早めに上げてくれ」
「かしこまりました。それでは失礼します」
新人のフォローで書類仕事をすることが多かった自分が、久しぶりに自分のとってきた仕事で書類を作っている。自然と作成するスピードも早くなり難なく定時までに作り終えた。
「お先に失礼します」
いつも通りの定時退社。やり終えた。ちゃんと仕事をした上で定時で帰っているのだ。
今日は後輩だけが残業か。あいつは多くの仕事を抱えてるからな。
「先輩!お疲れ様です。もうあがりですか?」
「あぁいつもお前の書類を手伝ってるから自分の書類くらいはさっさと終わらせられたよ」
「今後は先輩に手伝ってもらえなくなっちゃうな」
「ははは!面倒な仕事もちゃんと覚えるんだぞ?」
「はーい。お疲れ様でした!」
「おう。お疲れ様」
軽口を叩きながらも先輩として敬う後輩は実に可愛らしいものだ。俺も上司に可愛がられる部下であったのだろうか、苦労ばかり掛けさせてしまったのかもしれない。今後俺の仕事を振ることもあるかもしれない、後輩との関係は良好に保っておいたほうがいいだろう。
以前後輩に恥ずかしながら商談がうまくいく秘訣を聞いたことがある。先輩の仕事を引き継いだだけでは説明できないほどの成果を彼は上げている。嫉妬もするが実力は本物だ。
「仕事は仕事、趣味は趣味でONとOFFを切り替えています。あまり大声では言えないのですが、秘密の趣味がありまして、ストレスはそこですべて発散できるんですよ」
大声では言えない趣味か。おそらくオタク趣味なのだろう。昨今ではそこまで咎められるようなものではないが、一時期は報道の関係でオタクという言葉自体がやり玉に挙げられていた。さわやかそうに見える彼にもそんな一面があるのか。アイドル?アニメ?そこまで踏み込むのは野暮だと思い深くは追及しなかった。しかしストレスの発散というのは今になって身に染みる。職場も家庭もストレスに感じていては心が苦しくなる。俺のストレス発散は妻を愛することだ。最愛の人間にそばにいてもらえる。それだけで癒される。なるほど、いい切り替えだ。
今日は寄り道もしない、愛する妻が待つ家へと一目散に駆けてゆく。今日こそ本当の記念日になりそうだが前祝でケーキを楽しんでしまったし、今日は妻の手料理が待ち遠しい。
玄関を開けるとしっかりと効いた冷房が汗を急速に冷やしてくれる。
「お帰りなさい。今日は随分と晴れやかな顔をしているわね」
玄関まで出迎えたくれる妻はお気に入りのエプロンをつけている。社会人になって初めての給料でプレゼントしたものだった。もう何年も使っていてもちろん落ちない汚れなどもあるのだが思い出の品だからと頑なに買い替えを拒まれていた。
晩御飯を準備してくれていたのだろう。
仕事を充実して終え、家に帰れば愛する家族が待っている。幸せだ。それだけでよかったんだ。俺が望んだ世界っていうのは。思わず顔に笑みが浮かぶ
「そう見えるかい?久しぶりに大口の商談が決まってね。つい綻んでしまったみたいだよ」
そんなことを考えていると悟られるのが恥ずかしい気がして、言い訳をしてしまう。
「あら、昨日のケーキのおかげかしら」
「かもしれないな」
溢れていた笑顔はさらに緩み今ここにある幸せをただただ噛み締めていた。
そんな幸せをいつまでも感じていたくて無意識に妻を抱き寄せる。
「ちょ…なによ。急に」
「今まで世話かけてすまなかった」
「別に…そんな…まぁよく頑張ったんじゃない?」
そう言いながら妻は俺の後頭部を優しく撫でる。心地よい、ゾワリと鳥肌が立つような感覚。他人に認められ、労われるなんて何年ぶりだろう。ありがとう。ここに居てくれて。妻も力強く抱きしめ返す
「俺は君と一緒になれてよかった」
「私もよ。いつもお疲れ様」
お互い照れて普通なら面と向かっては言えない感謝の言葉。そこには嘘も偽りも何もない。
「さ、ご飯にしちゃいましょう!ほら、離れて離れて!」
急に恥ずかしくなったのか妻がぐいぐいと振りほどいてくる。もう少しぬくもりを感じていたかったが、仕方ない。まだまだ時間は十分にあるのだ。日ごろの感謝を伝える機会は今だけじゃない。この先一生添い遂げるんだ。
「あぁ、悪い。俺も着替えてくるよ。ちなみに今日の晩御飯の献立は?」
「あなたの大好きなうなぎ、土用の丑の日も近いしね。それと昨日作れなかった油揚げのお味噌汁。肝吸いじゃなくて悪いけど」
笑いながら妻が言う。ウナギか!大好物だ。土用の丑、暑さも盛りの今だからこそ精をつけるためにおいしくいただくとしよう。
急いで着替えると食卓にはウナギのかば焼き、白焼きとお味噌汁。贅沢すぎる晩飯が用意されていた。
「「いただきます」」
蒲焼はいつも通り美味しい。食べなれた味だ。
白焼きはわさび醤油でいただく。こちらも絶品だ。しかし白焼きとは珍しい。近所のスーパーに売っていただろうか?まさか鰻を捌いたわけでもあるまい。
蒲焼と違って本来の味を際立たせてくれる。
程よく口に残る脂、こんなにも濃厚な旨味だったのか。かば焼きと違い骨が気になるが避ければ問題ない。うなぎって食べ方次第でこんなにも違うのか
「たんとお食べくださいな」
妻が目を細めながらこちらを見つめている。子供を見るような慈愛に満ちた表情。この調子で仕事がうまくいけば子供も近い将来考えていいだろう。いい母親になりそうだ。
明日からも頑張ろう。うなぎのおかげかはわからないが確かなやる気を感じた。
それからの俺はそれはもうまさに人が違ったかのように働き、うなぎ登りに成績を上げていった。当然だ。相手の目を見て話せば大体なんとかなってしまうのだ。イージーモードにも程がある。大口契約だろうと小口だろうと…難しいと言われる案件も全て俺に当てがわれた。社内の評判は上々、スーパーセールスマンと崇められるほどになった。パワハラの化身のような上司も今ではすっかりいい親父になってしまった。俺を手放すわけにはいかないと手のひらを返した形だ。しかしあの時、課長が先方にもう一度俺にチャンスを与えてやってほしいと言ってくれなかったらここまで順調ではなかったかもしれない。課長にも感謝しないとな。
しかし、快く思わない人たちももちろんいる。俺に成績を抜かれた他の営業たちだ。とはいえ、秘訣はなんだとかそういったことを飲みの場で聞かれるくらいで正直に目を見て話すだけだとあしらっている。課長のお気に入りだった新人も今では俺の話を真面目に聞く有望株だ。なるほど、あれほど嫉妬していたのにこう見ればかわいいやつじゃないか。
家庭はといえば、成績が上がったこともあり給料も満足いくものとなっていた。そのおかげで妻のパートの時間も大幅に減り、ほぼ専業主婦のような形だ。今まであまり言ってこなかった感謝や愛情表現を惜しみなく伝え順風満帆に過ごしていた。
そんなある日のこと、いつものように満員電車に揺られていると
「やめてください!この人痴漢です!」
大きな声が車内へ響き渡る。見ると制服姿の女子高生だろうか一人の男を指差して声を上げている
「てめぇ…次の駅で降りろ!駅員に突き出してやる!」
「痛い痛い!やめてください!僕は何もしていません!」
聞き覚えのある声の方へと視線を向けると腕をねじ上げられ必死に懇願する後輩の姿があった。あいつ…厄介なことに巻き込まれたみたいだな。
「本当です!信じてください!僕は何もやって…痛い痛い!!!」
弁明を続ける彼に複数人の男が詰め寄っていく。これはまずい。考えるより先に体が反応していた。複数人の男に声をかける。
「やめましょう。この車内だ逃げ道はないのですしこのままでは傷害罪になってしまいます」
「そうだな。だが、次の駅ではちゃんと降りてもらうぞ」
男たちは後輩から離れ逃げられないように囲んでいる。被害女性は俯き顔を見ることは叶わない。
「お辛いとは思いますが、本当のことを話してください。あなたは痴漢被害に遭ったのですか?」
肩を掴み目線をこちらに向けさせる。目を合わせてしまえばこっちのものだ。本当のことを話すように念を押した、この女子高生は嘘をつかない。女子高生にしては少し化粧っけが濃い気がする…違和感。昨今痴漢冤罪をでっち上げ美人局まがいのことをしているグループ的な犯罪があると聞いたことがある。もしや…
「はい。本当にこの人が触ったと思います」
嘘はつけないはずだ。つまり、この女性は確かに誰かに触られていた。そして後輩が触っていると思っている。なるほど。美人局と思ったが被害自体は本当らしい。
しかし後輩がそんなことをするとは到底思えない。本人に直接聞いてみるか。
「おい、お前本当にやってないんだな?」
「もちろんですよ!先輩信じてください!」
そんなこと言われなくても俺はお前を信じているさ。仕事でも飲みの場でもお前は本当にかわいい後輩だ。俺を信じて仕事を回してくれた課長のように俺は部下を信じる。妖の力で人に信じさせている俺が言えた義理ではないが、人を信じるってのは日ごろの絆やお互いの信頼なのだ。
「お嬢さん、何かの間違いだ。彼はそんなことをする人間じゃない」
被害女性の目を見ながら諭すようにやさしく声をかけた。
「嘘はいけないと言ったであろう?」
突如として脳内に響く玉藻の声
「!?」
足元が揺らぐ。前後不覚。落ちるような感覚に包まれる。眩暈?そんな生易しいものではない。永遠に落ち続ける感覚。脳内のスイッチを切られるかのように視界が闇に染まる。息が詰まる。意識が遠のくのを感じる。
ピッ「お疲れ様です。お入りください」
「ここは事務所?」
「約束を違ったな、こちらの約束通り力を返してもらいにまいったぞ」
閑散とした事務所、窓の外に見えるはずのほかのビルはなく夕日のようなほのかな明かりだけが事務社内を照らしている。
「しかし、最後の場所に事務所を選ぶとは…現代人はつくづく働きすぎじゃな」
ビルの外を眩しそうに目を細めながら見つめる玉藻がいた。デスクに腰を掛け、退屈そうに足をぶらぶらとさせている。すこしすねたように口をとがらせていた。
「何のことです?約束を破った?」
「ほんに幸せに暮らしておったのにのう。残念なことじゃ」
視線をこちらに向けた玉藻はスーツ姿で以前の巫女服とは印象がまるで違う。
「いったい何のことです?話が見えません」
「あの後輩の男、痴漢じゃよ」
「そんな馬鹿な!俺の問いかけに違うと答えたじゃないか!」
「そなた、その時あの男の目をちゃんと見たか?」
「え?」
「誠心誠意、真のことを語るとき他人はそなたのことをしっかりと信じておったろ?妾がそなたに貸した力はその程度のものじゃ、そなたを信じた他人が自然と将来起こることを起こすべくして起こったことが真実になった。それだけじゃ」
どういうことだ?起こるべくして起こった?疑問は浮かぶが今はそれどころではない
「俺はあいつを信じていた!あいつは俺に嘘をついたっていうのか!」
「そなたがどう思おうと勝手じゃが。事実は事実じゃ、あの日あの場所であやつは痴漢行為をはたらいた。それは事実。そしてそなたは被害女性にあやつが犯人ではないと嘘をついた、目を見ながら真のことにしようとしてな」
「そんな…」
「しかし惜しいことをしたものじゃ。せっかくそなたの傍に毎日居れたというのに…」
パチンと玉藻が指を鳴らすと見慣れた風景、我が家に来ていた。いつも妻が用意してくれいているキッチン
「は?どういうことです?」
「よい家庭であったろ?おぬしのために毎日家事をこなし、食事の用意をし、疲れが見えれば癒し、夜の相手も手を抜かなかった、良き妻であったろう?」
目を細め玉藻は恍惚の表情を浮かべる。頬は赤く染まりまさに恋をしている乙女、もしくは悦に入っているといった様だ。
「妻はいま関係ないだろ」
「何を申すか。ここしばらく毎日妾と過ごして、あれほど愛の言葉を交わしあった仲ではないか。つれぬことを申すな」
「俺が過ごしていたのは最愛の妻だけだ。玉藻、お前ではない」
「だからその妻が妾だと言っておるのじゃ。本来の妖力であればそなたが働かず堕落できるほどの生活をさせてやれたのだが、人の形を保ちながらそこまでの力を使うまでには復活しておらんかったようじゃ」
そういうとスーツ姿の玉藻が光に包まれた。光を遮るように手のひらを玉藻に向ける。すぐに光は収まり目に映ったのは愛する妻の姿、お気に入りのエプロンをつけている。
「見覚えがあろう?いつもそばにおったのじゃ」
「どういうことだ!いつからだ!そして妻をどうした!?」
つい声を荒らげてしまう。俺が愛していた妻がいない?どういうことなのか全然理解ができない
「きちんと作法に則って狐の嫁入りを行ったはずじゃが?その時からそなたの妻は妾となった。玉藻御前は男につく妖じゃ、男の良妻として尽くし、一生を添い遂げる。もっともその一生が天寿を全うできるとは限らんがの」
あの商談の日、公園で過ごしていた時に降った天気雨、確かに狐の嫁入りという言葉は聞いたことがある。そんなもの迷信だとばかり思っていた。
「妻は…お前が成り代わった妻はどこにいったんだ」
「食った」
「は?」
「美を保つには若い女子の生き血に限る。飲んでよし浴びてよし、久しぶりの女子は大層美味であったな」
「お前…ふざけるな!」
「何をそんなに怒っておるのじゃ?人類の歴史を見ても国を傾けるほどの美女はみな同じようなことをしておろう」
「この女狐が…!!」
体が震えるほどの怒りを覚えたのは今回が初めてだ。必死に絞り出した言葉も情けなく震える、目の前に妻の形をした何かがいる。頭がおかしくなりそうだ。怒りなのか悲しみなのか受け入れられない。
「妖狐に対し女狐とはまた面妖な…しかしそなた、せっかく力を与えたのにそれほど多く使わなかったのう。それもまたもったいないことをしたものじゃ」
妻のことなどどこ吹く風というように話題を切り替えられる。力を使ってこなかった?あんなにたくさん使ってきたのに?何言ってんだこいつ
「力を使った分そなたの腹の中に飲ませた我が分身を育てられたのが…そんなに育っていないかもしれないのう」
腹の底が一気に熱くなる。そうだ、あの力を使っているときはいつもこの感覚だった。
「試しに上司を説き伏せたとき、鏡に向かって己に言い聞かせたとき、それから妾がベビーカーを押しながら様子を見に行ったとき、その時くらいではないか?その後の仕事でも何度かは使っておったが…私利私欲というよりも根っからの仕事人間じゃのう?」
「そんなばかな、ほぼ毎日のように使っていたはずだ。でなきゃあんなに人に信じられるようなことになっていないはずだ」
「腹の底が熱くなった時しか力は発揮されておらぬ。それに使われれば妾が気づかぬはずがなかろう」
ということはなんだ?俺は自分の力でここまでこれたのか?仕事、人望、望むものは手に入っていたのか。ただ正直に、まじめに話すだけで
「人が人を信じることにそこまでに力は必要なかったようじゃの。よき学びができたわ、なんにせよ力は返してもらうぞ。それと約束通り利子もつけてもらおう」
利子、正直なにを取られるのか予想もつかない。膝が笑う。恐怖と不安で押しつぶされそうだ。
「そなたには、真実のみを口にする存在となってもらおう」
「え?それは今までと変わらないということでは?」
「本当に現代人はせっかちじゃのう。それに自分に都合のいいように解釈しよる。そんなわけなかろう」
ダメもとで言ってみたがやっぱり違うらしい。
「そなたにはこの先【くだん】として生き、死んでもらう」
「くだん?棋士?雀士?九段?」
「うつけが。そなたの頭でそのような生業ができると思ってか。くだんはな、人の頭をした牛の妖じゃ」
「俺が妖に?」
「もう似たようなものじゃったろ?その点だけ見ればさして変わらんの」
フフフといたずらに狐が笑う。笑いながらも冷酷に、そして事務的に告げる
「くだんは牛から生まれる。生まれてすぐに凶事を予言するのじゃ。天災、飢饉、はやり病。そしてその予言はすべて的中する。そなたが何をするでもなく真実となるのじゃ。ま、予言をすると数日で息絶えるがの」
「おい、冗談だろ」
こちらの言葉などどこ吹く風とばかりに玉藻は続ける
「そして、くだんはまた別の凶事がおこるときに生まれるのじゃ。何度も生まれ、何度も死ぬ。そなたに貸し出した我が力、戻してもらうときにそなたの人間部分も一緒にこちらに戻ってきてしまうからの」
ククククク…玉藻は笑う。うまくいったというように
「そんなもの…人間じゃない」
「そう、妖じゃ。しかし、人語を解する人の頭はついておる。思考することができるかは知らんがの」
「なんでこんなことに…お前の力なんて借りなければよかった…なにが便利な力だ」
確かに便利な力ではあった。あいつが、あの後輩が俺を裏切るまでは
震えは収まっていた。途端に悲しみが押し寄せる。俺が玉藻の力を借りたばっかりに、愛する妻すらなくしてしまった。そして、見る目がなかったのだろう自分を恥じる。
いい後輩だと思っていた。仕事ができるし、周りにも気を配れる。まさかそんな奴だったとは
「さて、返してもらうぞ」
愛する妻の姿が近づいてくる。
「よせ…くるな」
妻を拒絶することは初めてかもしれない。いや、目の前にいるのは妻ではない
「ほら、こっちへ来て。いつもお疲れ様。あなたはよく頑張っているわ。もう休んでもいいの」
妻の声で、妻の口調で、労い労わられる。
ドクンと腹の底が熱くなり鼓動する。嫌だ…従っちゃいけない。信じちゃいけない。
「もう…いじわるしないで。また二人で楽しく暮らしましょう」
やさしく包み込むような言葉、温かさ…優しく笑った妻の顔、幸せそうにこちらを見つめる
「そんなに見つめるだけじゃなくて、いつものように抱きしめて」
だめだ、腹の底から広がった熱は頭の中まで浸透していく、頭が温かい。幸せな気持ち。
抱擁 お互いの存在を確かめるかのように抱きしめる。ぬくもり、質感、柔らかさ、重さ。
そこにあるのは俺の良く知る妻そのものだった。
「さぁ、目を閉じて」
口づけを交わす。もうこれでいいのかもしれない。俺は最愛の人に抱かれて死ねるのだ。
全身に回った熱が再度腹に戻る、喉元を過ぎ、口へと戻る。瞬間妻を突き飛ばしていた。
肩で息をして呼吸を整える。体中のすべての熱が奪われたように寒い。凍えるようだ。
「ほう、思いのほかよい育ち具合じゃ。大儀であった」
以前の巫女服姿に戻った妖狐玉藻は口元を大きく裂かせ笑う。
寒い…これが死か。眠りにつくように遠のいていく意識。もう寒さも感じない。光も、音も。
「よーしいいぞ!頑張れ!もう少しで生まれるぞ!足が出てきた!引き抜け!」
温かい湯の中で目を覚ました。湯というよりは少し粘り気がある。誰かに引っ張られている。
全身を包み込むような暖かさはずるりという音と共に消え去った。
「うわぁぁあ!なんだこいつは!人の顔がついてるぞ!」
何を驚いたいるんだ?
「近い将来お前たちは思い知る。世を統べるは人にあらず。恐怖するがいい!」
なんだ?勝手に口が動く。
「気持ち悪りぃ!ふざけたこと抜かしやがって!叩け叩け!こんな奴いちゃいけねぇ!」
痛い、やめて、叩かないで
複数による暴力、体にうまく力が入らず立ち上がることすら叶わない。
「これだけ痛めつければいいだろ。その辺に捨ててこい!」
視界が赤く染まっている。かなり出血しているようだ。重点的に頭を叩かれたようだ。傷を確かめようと手を伸ばす。
ゴリっ!
指先の感覚ではない、傷口に触れたものは硬い感触。慌てて手を見るがぼやけてしまい焦点が合わない。黒い塊?爪のような…
台車のようなものに乗せられ、木々の間に置いてけぼりにされた。
「けったくそわるい…恨むなら自分のことを恨めよ」
捨て台詞を吐き男が去っていった。
体の力が血と共に抜けていく。この感覚なんか知ってる。
「此度の予言も全うしたようじゃな。ようやったぞ」
うれしい ほめてくれる
「ふむ。人としてこの程度は残ったか。よいか?今後も妾は多くの仲間を作る。今は人間がこの世の中の大半を占めているが、以前のように妖がおるということを認識させてやらねばならぬのでな、同志が多く集まったら百鬼夜行としゃれこもうではないか!くだんよ、その時はまた妾の傍にくるがよい」
ともだち ふえる みんな あつまる たのしい いっぱい
「そうじゃ。それまでくだんとしてしっかり仕事をこなすんじゃ。よいな?かわいい我が子よ」
子を見つめる母親の目、慈悲に満ち真に愛するものを慈しむ愛情の目
「では達者での。近いうちにまた会おうぞ」
たまもさま いっちゃう まぶしい
でも、暗い
最後までお読みいただきありがとうございます。
笑うせぇるすまんのような救いのない、人として正しいことは何なのかというテーマをもとに執筆させていただきました。少しでも皆様の心に闇を残せたならば幸いです。
玉藻の目指す百鬼夜行。さらに妖怪を増やすべく現代に妖怪を復活させていこうと思います。




