心に刺さった棘③
川の流れは早くなったり、遅くなったりする。スーツケースを見失わないように、川沿いの道を歩いたり走ったりした。川沿いの道がなくなると、川が見える場所を求めて懸命に走った。
一時間近くスーツケースを追い続けた。その間、誘拐犯はスーツケースを引き取りに現れなかった。犯人は一体、どうやってスーツケースを引き上げるつもりなのだろう。
やがてスーツケースは川がゆるやかに婉曲する場所で岸にぶつかって止まり、くるくると回転した後、ぶくぶくと川底に沈んで言った。流れている内に、スーツケースの中に浸水してしまったのだろう。
大祐は誘拐犯に見つからないように、川沿いの桜の木陰で、遠巻きにスーツケースが沈んだ場所を監視した。その内、誘拐犯がスーツケースを引き上げに来るだろうと思った。
結局、朝まで大祐は桜の木陰に立ち尽くした。
誘拐犯は現れなかった。この時点で、大祐はやっと警察に通報している。正直、どうして良いのか分からなくなったからだ。
「通報を受けて現場にかけつけました」と敷島が言う。
まだ誘拐犯が現れる可能性があった。一旦、大祐を帰宅させると、夕暮れまでスーツケースの見張りを続けた。だが、誘拐犯は現れなかった。これ以上待っても無駄と判断し、スーツケースを引き上げることにした。
「川底に沈んでいたスーツケースを引き上げてみると、スーツケースの中には現金の代わりに漫画雑誌が半分ほど詰められていました」
「えっ⁉」と服部が声を上げる。
何時の間にかスーツケースより現金が抜き取られ、漫画雑誌にすりかえられていたのだ。
「当然、誰かが中味をすり替えた。そう考えました。最初に疑ったのは藤田大祐でした。夫婦仲が良くなかったことは直ぐに分かりました。誘拐は狂言、一億円を着服する為に誘拐事件を仕組んだという見立てのもと、捜査を行いました」
「それで、どうなったのです?」服部は我を忘れて、敷島の話に聞き入っていた。
「何も出ませんでした。金に困っていた形跡はなかったし、誘拐に関与した形跡は伺われず、息子を誘拐しなければならない動機もありませんでした」
大祐が現金を詰めてから、車のトランクに積み込むまで、スーツケースは自宅の応接間にあった。中味をすりかえることが出来たのは、妻の真理しかいない。
次に疑いの目を向けられたのは真理だった。
容疑者扱いされた真理は「何故、私がわが子を誘拐しなければならないのよ! 旦那が用意した身代金だって、もとはと言えば私のお金なのよ。お金に不自由なんてしていません!」と激怒した。
「すり替えのチャンスはあったかもしれませんが、こちらも動機がない。彼女がすりかえたのではないなら、藤岡大祐がスーツケースを川に投げ込んでから、水没するまでの僅かな間に中味をすりかえたことになります」
大祐がスーツケースを投げ込んだ地点から、川底に沈んだ地点まで徹底的に捜索されたが、不審な点は見られなかった。
「そこで今度は藤田大祐がスーツケースを投げ込んだ地点から、上流方向に向かって川岸を捜査して回りました」
発想の転換だ。スーツケースを投げ込んだ地点から下流は綿密に捜索するだろうが、上流は探さない。スーツケースが上流に流れて行くことはないからだ。
スーツケースを投げ込んだ橋から目黒川の上流に向かって二十メートルほど行った場所に、河辺を階段状に切ってある箇所があった。水質検査や農具などの洗い場として設けられたものだ。
「そこに何かをひきずった跡がありました。その時、ピンときました」
橋の上から投げ込んでから、橋の下を潜る間、スーツケースは視界から消えていた。
「橋の下でスーツケースごとすりかえたのではないか!? そう思いついたのです」
誘拐犯は橋の下で大祐がスーツケースを川に投げ込むのを待っていた。大祐に現金を詰めるスーツケースの色や形まで細かく指定したのは、スーツケースごとすりかえるためだ。誘拐犯は大祐が持っていたのと同じスーツケースに漫画雑誌を詰めて、橋の下で待機していたのだ。
当時、季節は夏の旱魃季で、水深はひざ下程度だった。誘拐犯は携帯電話で指示を出しながら、巧みに大祐を橋の上へと導いた。
そして、そこからスーツケースを上流に向かって、川に投げ捨てさせた。
後は、流れてくるスーツケースを回収し、代わりに持って来たスーツケースを川に流しておくだけだ。これで無事に身代金を回収することができた。
「身代金の謎は分かりましたが、犯人を特定するまでには至りませんでした」敷島が眉をひそめた。
大祐から、「刑事さん、息子は、祐樹は無事に戻ってくるのでしょうか!?」とすがるような目で尋ねられたが、敷島には答えることができなかった。
誘拐犯が祐樹に顔を見られていなければ、無事に戻ってくる可能性はあるはずだ。だが、もし、顔を見られていた場合・・・
身代金を奪った後、誘拐犯からの連絡は途絶えた。
「お金はちゃんと払ったのに、祐樹は帰ってこないじゃないの! みんな、みんなあなたは責任よ。祐樹を返して頂戴!」真理は半狂乱となった。
そして、悲劇的な結末が訪れる。
身代金の受け渡しから三日後、京浜運河で子供の遺体が発見されたのだ。京浜運河の横を一号線が走っている。走行中に運河に不審物が浮かんでいるのに気がついたドライバーから、「運河に人のようなものが浮かんでいる」と言う通報が寄せられた。
子供の遺体だった。年恰好が祐樹と一致していた。
遺体が収容された品川署に大祐が出向き、確認が行われた。
「ゆ、祐樹です・・・」霊安室で大祐は搾り出すように言うと、口を横一文字に結び、天井を見上げて、「う~う~」とうめいて状態をゆすり始めた。
「藤田さん、大丈夫ですか? お気を、お気をしっかり持ってください」
敷島の慰めが耳に入らないようで、大祐は異様な動作でうめき声を上げ続けた。