心に刺さった棘②
十年前の四月、イタリア中部でマグニチュード6.3の地震が発生した日、目黒区で藤田祐樹ちゃん、当時八歳が姿を消した。学校を終え、小学校を出て家路についたが、そのまま行方が分からなくなった。
この時点では、マスメディアに取り上げられるような騒ぎになっていない。祐樹ちゃんがいなくなったことは、固く伏せられ、警察への通報が遅れたからだ。
当日、夜遅く自宅に戻った父親の大祐は、自宅に祐樹ちゃんがいないことに気がついた。妻の真理に尋ねると、「あら、あの子、いないの? 道理で静かだと思った」となんとも無責な返事が帰って来た。
温厚な大祐も真理の無責任さに腹が立ったが、入り婿で藤田家の家業である不動産会社を継がせてもらった立場だ。真理の傍若無人振りは今に始まったことではない。それに祐樹のことが心配だった。夫婦喧嘩をしている場合ではなかった。
探しに出ようとしたところ、まるで大祐の帰りを何処かで見張っていたかのように、自宅の電話が鳴った。
「藤田さん。どうも今晩は――」声を変えているのだろう、妙に低くこもった声だった。声に聞き覚えはなかった。
「どなたですか? 今、ちょっと忙しいものですから、また後で掛けなおしてもらえませんか」
「お宅の坊ちゃんを預かっています」
「えっ!? 祐樹を・・・ゆ、誘拐したのか!」
「まあ、そう興奮しなさんな。落ち着いて俺の話を聞きな。いいか、警察には絶対に知らせるな。警察に知らせると、息子の命はないぞ。あんたたちが俺の言うことちゃんと聞いてくれさえしていれば、それで良い」
「わ、分かった。警察には知らせない。それで、どうすれば良いんだ? どうしたら、祐樹を無事に帰してくれるんだ」
「金だ。金を準備しろ! 現金で、ご、いや、一億だ。お前のところなら、それくらい、直ぐに用意できるだろう。現金で一億円を用意しろ!」
「待ってくれ。急に一億円と言われても直ぐには無理だ。時間を、時間をくれ」
「いいだろう。三日、待ってやる。でも、それ以上は待てないぞ。それから、モルト社製の黒のスーツケースを買って、その中に現金を詰めておけ。いいか? モルト社製の黒のスーツケースで、大きさは100リットル・サイズだ。間違えるな」
「祐樹は、祐樹は無事なのか? せめて、声を聞かせてくれ。祐樹の声を聞かせてくれ!」
「また、こちらから連絡する」男は一方的に電話を切った。
「事件発生後、直ぐに警察に届けていてくれれば、少なくとも犯人確保には繋がったかもしれません」敷島が残念そうに言う。
大祐は誘拐犯の指示通り、警察には届けずに、身代金を工面する為に奔走した。藤田家は資産家であったが、不動産資産が多く、現金化に時間がかかった。家屋敷を抵当に入れて銀行より金を借りるしかなかった。
こうして三日の内に、誘拐犯の指示通り、何とか一億円をかき集めた。モルト社製の黒のスーツケースは人気商品で量販されていたので、簡単に手に入った。中に現金を詰めると、半分程度しか埋まらなかった。
準備を整え、誘拐犯からの連絡を待った。
受話器を前に、まんじりともしない大祐を、傍らで真理は、まなじりを吊り上げながら、「ねえ、祐樹は無事に帰って来るんでしょうね? 祐樹は藤田の血を引く、跡取り息子なんだから。お金だけ払って、祐樹が戻らないなんてことは、絶対に許さないから。もし、もし、そんなことになったら、全部、あなたのせいですからね!?」となじり続けた。
大祐は真理の言葉を無視して、電話を待ち続けた。やがて夜になり、待ちわびていた電話が鳴った。心臓が口から飛び出しそうだった。
「もしもし、藤田だ!」大祐が受話器に向かって怒鳴る。「ああ、藤田さん。金は用意できたかい?」と例の男からだった。
「金は用意できた。どうすれば良い? 祐樹を、早く祐樹を返してくれ!」
「まあ、そう焦るな。俺の言うことを、よく聞け。そうすれば、お前の息子は無事に帰してやる。分かったな?」
「分かった・・・」
「モルト社製の黒のスーツケースに金を詰めたか?」
「ああ、言う通りにした」
「よし、じゃあ、スーツケースを車に積んで家を出ろ。目黒川に向かえ。お前の携帯電話番号は知っている。次は携帯に電話をする」
「待て、祐樹の、祐樹の声を聞かせてくれ! そうでないと、金は払わないぞ」
「ちつ! ちょっと待て・・・」
やがて受話器の向こうから「お父さん」と言う弱弱しい声が聞えてきた。
「祐樹! 大丈夫か? 怪我はないか?」大祐が矢継ぎ早に質問する。
「うん、お父さん。僕、怖い。ここ――」会話が途中で途切れた。そして、例の男の声が、「早くしろ。三十分後に携帯に電話をする。それまでに目黒川についていないと、息子の命はないものと思え」と続いて電話は切れた。
「あなた、祐樹は無事なの!」大祐がスーツケースを引いて家を出ようとすると、真理がしがみついてきた。大祐はそれを蹴倒すようにして家を出た。
目黒通りを通り、車が目黒新橋に到着する頃、大祐の携帯に連絡があった。
「目黒新橋を越えて、次の信号を左折しろ」と短く指示をしただけで電話は切れた。目黒川沿いを走る。誘拐犯は小刻みに電話をかけてきて、その度に右左折を繰り返した。その内に、自分がどこに走っているのか分からなくなってしまった。
気がつくと橋の上に車を停めていた。
後に記憶を頼りに場所を探して見ると、駒沢通りから一本はずれた裏道にある目黒川に掛かった橋の上だった。
「橋の上から目黒川にスーツケースを投げ込め。いいか間違えるな。車を停めた場所から、上流の東急東横線の目黒駅方面、川の上流に向かって投げ込め!」
「待ってくれ、金はくれてやる。くれてやるから、祐樹を返してくれ!」大祐が叫んだ時には、電話は切れていた。
大祐はトランクからスーツケースを引っ張り出すと、天を仰いで顔をしかめた。息子の無事を天に祈ったのだ。そして、スーツケースを、“えいやっ!”と目黒川に向けて放り投げた。
スーツケースは半分程度、現金を詰めただけだ。川に投げ込むと水面に浮いた。川面をすべるように流れて行く。直ぐに橋の下に消えた。
大祐は迷った。誘拐犯が金を受け取るに来るはずだ。身代金の受け渡しが誘拐犯との唯一の接点だ。このチャンスを逃すと、息子と会うことができなくなるかもしれない。
幸い、誘拐犯はスーツケースを川に投げ込んだ後のことは、何も指示していない。スーツケースの後を追うなとは言っていない。
気がつくと、橋をくぐったスーツケースが下流に流れて行くのが見えた。川面を流れて行くスーツケースを、大祐は追うことにした。