心に刺さった棘①
翌朝、一課に顔を出すと、祓川が来て服部を待っていた。
「事情聴取の内容を教えてくれ」と言う。
大丈夫。しっかりメモを取っておいた。服部は一語一句まで、なるべく正確に取り調べの様子を伝えた。
「ふむ、ふむ」と祓川は聞いていたが、服部の説明が終わると、無言ですっくと立ち上がった。
服部一人で、単独捜査ができるほど、経験を持っていない。今日も祓川に置いて行かれると、また高島たちに迷惑をかけてしまう。服部は必死だった。「ど、何処に行かれるのですか? 僕も連れて行ってください」
祓川は珍獣でも見るような目つきで服部を見ると、「北城大祐という名前に聞き覚えがある」と答えた。
「名前に?」
祓川が歩き始めたので、慌てて後を追った。
祓川が警察車両に乗り込む。特に拒絶されている訳ではなさそうなので、服部は助手席に乗り込んだ。ハンドルを握る祓川が話始めた。「十年前に起きた藤田祐樹ちゃん誘拐殺人事件を覚えているか?」
十年前と言えば、まだ中学生だ。覚えているはずがない。「いいえ」と素直に答えた。
「世田谷区で不動産会社を経営していた藤田大祐さんの子供、祐樹ちゃんが誘拐され、殺害された事件だ」
「藤田大祐?」
「藤田大祐さんは入り婿だ。藤田不動産を経営する藤田家の長女と結婚し、藤田大祐となった」
藤田不動産と言えば藤田建設など子会社を幾つも傘下に持つ大手の不動産会社だ。
「その藤田大祐さんが・・・」
「北城大祐だ。北城は旧姓だ。それで直ぐに思い出せなかった」
逆に旧姓まで覚えていたと言うのか。凄まじい記憶力だ。
「事件の後、夫婦は離婚し、旧姓の北城に戻ったと聞いた。藤田姓だった大祐さんと会っている」
「なるほど。それで、記憶にあったのですね」
「藤田祐樹ちゃん誘拐殺人事件は未解決のままだ。藤田祐樹ちゃん誘拐殺人事件を調べなおす必要があるな」
「田川敦也が事件に関与しているのでしょうか?」と服部が聞くと、祓川はびっくりした表情で、まじまじと服部の顔を見て言った。「それは調べてみないと分からない」
「いずれにしろ、大事になりそうですね」という服部の言葉に、祓川は何も答えなかった。「それで、どちらに向かっているのでしょう?」と尋ねると、「日比谷公園だ」と短く答えた。
何故、日比谷公園に向かっているのか、説明してくれるほど、祓川は親切ではない。話題が尽きると、話すのも面倒だと思っているのか、押し黙ったままだった。
日比谷公園に着いた。
公園を歩いて行くと、テニスコート脇にいた小柄な男が手を上げるのが見えた。遠目でも色黒だと分かる。小柄だが無駄肉のない引き締まった体をしている。どんぐりのように尖った頭をしていた。離れ目だが精悍な顔立ちだ。
「祓川さん!」
「元気そうだな」
知り合いだろうか? 警察関係者のようだ。
「彼は?」と男が聞いてくれたので、「調布署の服部です」と名乗ることができた。
男は「機捜の敷島です」と名乗った。
敷島豪俊だ。敷島は警視庁内で、ちょっとした有名人で、アマチュア・ラグビー界で名の知られた人物でもある。高校時代に楽南工業のキャプテンとして全国制覇を成し遂げている。ラガーマンとしては小柄だ。がっしりとした体格だが、身長は百七十センチ程度しかない。現代スポーツは体格に勝る者が有利になることが多い。敷島は背が低くても出来るスポーツはないかと探し回り、ラグビーではハーフと言うポジションに小柄な選手が多いことを知った。そこで、抜群の運動神経を生かし、高校日本代表に選ばれ、将来のラグビー界を背負って立つ逸材として期待されたが、ラグビーは接触プレーの多い激しいスポーツだ。大男たちの激しいタックルを受け、体がぼろぼろになってしまった。大学時代に負った怪我が原因で、選手生命を絶たれてしまった。選手生命は短かった。
大学卒業後、警察官の道を選んだ。現在は機動捜査隊に所属している。初動捜査を担当している部署で、日頃は覆面パトカーで担当地域を警邏している。事件発生の一報を受けると、真っ先に現場に駆け捜査に当たるのだ。
祓川とどういう関係があるのか興味があったが、当然のように祓川は何も教えてはくれない。祓川は元々、警視庁の捜査一課にいたと聞いた。敷島も一課にいた時期があったはずだ。その時の同僚なのかもしれない。
挨拶をすませると敷島が言った。「人目につきたくないので、歩きながら話しましょう。藤田祐樹ちゃん誘拐殺人事件のことを聞きたいんですよね?」
祓川と敷島が並んで歩き、後から服部が続く。
「あの当時、一課で事件を担当していたのは、君だった」
「祓川さんにも手伝って頂いたことがありましたね。藤田祐樹ちゃんの父親がマンションから転落死したと聞きました。そちらの事件について、聞かせてもらえますか?」
ギブ・アンド・テイクだ。敷島の言葉に、「うむ」と祓川が頷いた。そして、「まだ、分かっていることは、そう多くない。頼む」と祓川が服部の顔を見た。
突然のご指名だ。心の準備が出来ていなかった。服部は「えっ! あの・・・」と戸惑った後で、「昨日未明に、調布にあるパークフォレスト調布前の路上に――」と北城大祐の転落死について説明を始めた。
たどたどしい服部の説明が終わると、開口一番、敷島が「北城さん、立ち直ろうとしていたみたいですね。こんなことになって、本当に残念です」と言った。
「立ち直ろうとしていた?」服部が尋ねる。
「北城さん・・・当時は、藤田さんでしたが、お子さんを亡くして、生きる気力を失ってしまった上に、藤田家からは放り出されて、一時期、浮浪者のような生活をしていました。端から見ていて、気の毒なほどでした」
「そうなのですか・・・」
「あの事件から、もう十年です。やっと立ち直って、昔のように、商売をする気になったのでしょう。そんな矢先に転落事故とは・・・さぞ、無念だったことでしょう」
「未解決事件で犯人がまだ捕まっていないと聞きました」
「捕まっていません。あの事件は、私にとって心に刺さった棘のようなものです。思い出しては、ちくちくと痛む・・・」敷島が顔をしかめた。
そこで、「通報があった時には、全てが終わっていた。あの事件のことについて話してくれ。おさらいをしておきたい」と祓川が口を挟んだ。